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加藤嘉明、明成の墓 (東大谷墓地/東本願寺)

大谷祖廟

 東大谷墓地の武家墓地に、藩主/加藤嘉明や、明成と子/明友など一族の墓がある。
 大谷祖廟の裏の奥に隣接しているが、非公開。 門扉は固く閉じられ、裏山にあるので覗き見ることもできない。
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 ▲(京都市東山区円山町477 Tel. 075-561-0777)
≪加藤明友≫  藩主/加藤明成の長男(庶子)。 近江水口藩/初代藩主。
 元和7(1621)年9月〜天和3(1684)年12月7日
 幼名:義之助。 通称:孫三郎。 号:勿斎、芝山、教義斎。 「皆足院」

山鹿素行堀部安兵衛忠臣蔵などとのご縁≫
 本墓は、泉岳寺

赤穂義士遺髪墓 (妙蓮寺)

赤穂義士遺髪墓(妙蓮寺) 赤穂義士遺髪墓の全戒名





赤穂義士遺髪墓の説明文


 討ち入り後に現場から去り唯一切腹を逃れた寺坂信行 (吉右衛門) が、赤穂城下へ帰る途中に伏見に住む片岡高房 (源五右衛門) の姉宅に立ち寄り、四十六士の遺髪を託した。
 元禄17(1704)年、浅野内匠頭長矩の三回忌に際し、その姉が建立した。
 平成14(2002)年2月4日、老朽化のために再建。
 赤穂義士の全戒名が刻まれている。
 ▲(京都市上京区妙蓮寺前町875 Tel. 075-451-3527)

赤穂義士四十六士遺髪塔跡 (瑞光院跡地)

 赤穂城主/浅野内匠頭長矩の妻/瑤泉院が当時の住職と族縁であったことから浅野家の檀家の1つとなる。
 切腹した供養塔が建てられ、浪士討入の後にも四十六士の遺髪を埋葬した各人の塔がを立てられた。
 昭和37(1962)年、堀川通り拡張工事のため瑞光院が山科区に移転し、遺髪塔も遷された。
 平成17(2005)年、元あった地に遺髪塔跡を示す碑が建立された。
 ▲(京都市上京区瑞光院前町  大日本スクリーンの敷地)

赤穂義士四十六士遺髪塔跡 (瑞光院)

 赤穂浅野家の祈願寺で、浅野内匠頭長矩の衣冠と短刀を埋めた「浅野内匠頭長矩公墓」と、穂浪士46人の髷を納めた「遺髪塔」があるとのこと。
瑞光院  昭和37(1962)年、山科から現在地に移転する際、瓶の中に遺髪があることを確認したとのこと。
 門の前に説明版を設置しているのに、門は閉ざされていた??
 ▲(京都市山科区安朱堂ノ後町19-2)


大石神社

大石神社

 昭和10(1935)年、大石内蔵助良雄を祀って創建。
 毎年12月24日、義士祭が催されている。
 大石を含め四十七士などを祀った同名の「大石神社」が赤穂にもある
 ▲(京都市山科区西野山桜ノ馬場町116
        Tel. 075-581-5645)

 近くに、大石良雄が参篭して大願成就を祈願した「山科神社」、 大願成就の後に邸宅・田畑などを寄進し遺髪塚がある「岩屋寺」、移り住み策を練った「山科閉居祉」がある。

   山科神社

 

  岩屋寺や遺髪塚

 

  山科閉居祉

≪織田信長とのご縁≫

冬姫の墓 (百萬遍知恩寺)

冬姫の墓

 蒲生氏郷の正室/冬姫 (相応院) は、織田信長の次女。
 永禄4(1561)年〜 寛永18(1641)年5月9日 (81歳)
 伊勢の戦いで軍功のあった氏郷は、信長のから娘婿に迎えられた。
 人質として信長に預けられていた氏郷と顔見知りだったようで仲むつまじく、各地を歴戦する夫/氏郷の帰りを待ちわびていたという。
 息子の蒲生秀行と娘(前田利政室)をもうけている。

 大変美人だったようで、氏郷の死後に秀吉から側室へ言い寄られ、断るために出家する。
 夫だけでなく、息子や孫までも先立たれる悲しい人生であった。
 「相応院月凉心英」  
 ▲(京都市左京区田中門前町103 Tel. 075-781-9171)

織田信長公本廟 (阿弥陀寺)

 織田家に養育された縁のある住職/清玉上人が、本能寺の変の報を聞き駆けつけると、火葬している家来衆と出会う。
 信長の遺灰を預かり、寺に戻って密葬した。
 二条城で討死した信忠の遺骨も拾い集め、森蘭丸兄弟など家臣の遺骸110余名も収容し皆に法名を授け、信長の傍らに埋葬した。
 「天徳院殿龍厳雲公大居士
   (天徳院殿一品前右相府泰岩浄安大禅定門)」

 後に秀吉から葬儀を執り行いたいと打診があったものの、時の権力者に迎合することを嫌い供養料すら固辞したため、清玉上人が亡くなるや寺領を大幅に減らされ、現在地に移転を命じられた。
 移転の際、家来衆の墓は1ヶ所にまとめられた。
 断られた秀吉は、大徳寺に総見院を建立し法要を行い、新たな法名「総見院殿贈大相国一品泰巌大居士」に変えてしまう。
 ▲(京都市上京区寺町今出川上ル鶴山町14
    Tel. 075-231-3538)  

本能寺

信長公廟

信長公廟   

 信長の3男/信孝の命により建立。
 入母屋造の廟屋と石造宝篋印塔。
 天正10(1582)年、明智光秀の謀反により自刃した起こった当山は、南西1..5キロメートル離れた四条西洞院辺りにあった。
 戦国時代における最後の下剋上の地でもある。
 文禄元(1592)年、豊臣秀吉の命により現在地に移転。

浦上春琴廟所

浦上春琴廟所   

 藩士/塩田牛渚の師 (花鳥画) の1人で、藩絵師/浦上秋琴の実兄。
 安永8(1779)年〜弘化3(1846)年5月23日 (68歳)
 通称:紀一郎 (喜一郎とも)。 本名:選。
 岡山藩/浦上玉堂の長男。
 寛政6(1794)年、父/玉堂・弟/秋琴と共に岡山藩を出奔。
 その後、京都で文人画家として名を成す。
 右は、父/浦上玉堂の墓。
本能寺  銘「大本山本能寺」の「能」は、5度も火災に遭遇したことから「ヒ = 火」を嫌い、縦の「ヒヒ」ではなく「去」の字が充てられている。

 ▲(京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522
     Tel. 075-231-5335)  

織田信長父子の供養塔 (大雲院)

織田信長父子の供養塔

 天正15(1587)年、信長・嫡男/信忠の菩提を弔うために、信忠が戦死した二条御所/烏丸御池に創建した寺院で、阿弥陀寺/清玉上人が命名した「大雲院三品羽林仙巖大禅定門」による。  
 同年中に秀吉の命で、四条河原町に移転させられた。
大雲院
 非公開と聞いていたのだが、早朝だったためか開放されており、墓参できた。

 ▲(京都市東山区祇園町南側594-1
    Tel. 075-531-5018)

織田信長の供養塔 (建仁寺)

 方丈前の庭園の右奥の角にある石塔。

 元和4(618)年、織田信長の弟/織田有楽斎が、荒廃していた建仁寺を再建。
 信長のが討死後の有楽斎は、剃髪して茶道の道に進むが、関わりが深い当寺に供養塔 (五重塔) を建立した。

 
 ▲有料 (京都市東山区大和大路四条下る4丁目小松町584 Tel. 075-561-6363)

穴山梅雪の墓 (飯岡共同墓地)

穴山信君の墓


穴山信君の墓  木津川傍らに放置されていた武将/穴山を、哀れに思った村人が遺骸を旧墓地に埋葬したと伝えられている。
 墓は、満福寺霊泉寺にもある。

 ▲(京田辺市飯岡南原 飯岡車塚古墳の前/南側)


長楽寺

松平昭訓の墓

松平昭訓の墓   

 藩主/松平喜徳の兄。
 嘉永元(1849)年12月29日〜文久3(1864)年11月23日 (16歳)
 幼名:余四麿。 字:子乂。 号:環山。
 水戸藩主/徳川斉昭の14男。
長楽寺  水戸藩主名代。
 「故従四位下権侍従左衛門
       佐源孝顕子墓

 下段に水戸藩士 (原市之進・大場一真斎など) の墓がある。

頼山陽の墓

頼山陽の墓

 添川廉斎の師 (漢学) の1人。
 安永9(1781)年12月27日〜天保3(1832)年9月23日 (53歳)
 幼名:久太郎。 本名:襄。 字:子成。山陽。
 朱子学者/頼春水の子として江戸堀北 (大阪市西区) で誕生。
 歴史家、思想家、漢詩人、文人として活躍。

▲(京都市東山区八坂鳥居前東入円山町626
   Tel. 075-561-0589)  

香川景樹の墓 (聞名寺)

香川景樹の墓

 安部井寿太郎たちの和歌の師の1人。
 明和5(1768)年4月10日〜天保14(1843)年3月27日 (76歳)
 <江戸後期の歌人>
 幼名:銀之助。 初名:純徳 → 景徳。
 通称:銀之助、真十郎。
 号:桂園、東塢亭、梅月堂、観鶩亭、臨淵社、万水楼、一月楼。
 父/荒井小三次 (鳥取藩藩士)の3男。
聞名寺  「実参院悟阿在焉居士」



 ▲(京都市左京区東大路仁王門上北門前485
    Tel. 075-771-8703)

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