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京 都 府 と の“ご 縁”

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天寧寺

天寧寺

 天正17(1589)年、伊達政宗の侵攻により会津の天寧寺の堂宇すべてが焼かれ灰燼に帰したため、住職/祥山曇吉が京都に逃れて天正年間(〜1592) に新たに開山。
 天明8(1788)年、天明の大火により堂宇を焼失。
 文化9(1812)年、本堂が再建。
 天保14(1842)年、書院が再建。
天寧寺  「岩代天寧寺十世 京都遷座開山
             祥山曇吉大和尚
  二世 勅賜 佛心圓融禅師
             元室光吉大和尚

 ▲(京都市北区寺町鞍馬口下ル天寧寺門前町301
         Tel. 075-231-5627)

妙満寺

妙満寺

 妙塔山。 顕本法華宗の総本山。 本尊は釈迦多宝佛。
 什門ノ三本山の1つ (「転法輪ノ寺」、妙法寺「涅槃ノ寺」、静岡/玄妙寺「得道ノ寺」)。
 永徳3/弘和3(1383)年、日什大正師が室町六条坊門 (京都市下京区) に法華堂を建立し草創。
 康応元/元中6(1389)年、法華堂が整備され、妙満寺として開山。
 応永2(1395)年、火災で綾小路東洞院(下京区)に移転。
 応仁元(1467)年、応仁の乱で全焼したため四条堀川 (下京区) に復興移転。
 天文5(1536)年、天文法華の法難で焼き払われ、堺の照光寺に避難する。
 天文11(1542)年、豊臣秀吉の命により、寺町二条(上京区榎木町) に移転。
 昭和43(1968)年、幾度の大火による焼失を乗り越え、現在地に移転。
妙満寺の説明文
 広い境内は掃き清められていて心地良い。
 ツツジの花の寺としても知られる。
妙満寺の配置図
 ▲(京都市左京区岩倉幡枝町91
      Tel. 075-791-7171)

寂光寺

 日什大正師開祖の顕本法華宗。
 妙国寺妙法寺と同じ日什門流八別格本山の1つ。
 天正6(1578)年、日淵が室町近衛に久遠院として創建。
 天正18(1590)年、豊臣秀吉の命により京極二条へ移転。
 天正19(1591)年、妙泉寺の寺内に移転し合併して、空中山寂光寺と改称。
 宝永5(1708)年、宝永の大火で焼失したため、現在地に移転。
 囲碁本因坊の寺として知られ、信長や秀吉・家康の指南役も務めたという。
 ▲(京都市左京区仁王門通東大路西入北門前町469 Tel. 075-771-6962)

妙光寺

妙光寺

 弘安8(1285)年、内大臣/花山院師継が創建し、招聘された心地覚心が開山。
 正覚山(しょうかくざん)、臨済宗建仁寺派。
 本尊は、釈迦如来。
 貞和年間(1345〜1350)の初め、孤峰覚明が住持に就く。
 就任するや都の僧俗は争って拝謁し、足利尊氏・直義の兄弟も参禅している。
 ▲非公開 (京都市右京区宇多野上ノ谷町20)

京都大学

新城新蔵の銅像

 本部構内に新城新蔵の銅像がある。
 第8代/京都帝国大学総長。
 昭和4(1929)年に就任し、昭和10(1935)年に退官。
 宇宙物理学者、退官後は中国古代暦術など中国科学史研究の先駆的存在となり、暦による迷信や因習からの改善に尽力した。
 ▲(京都市左京区吉田本町)

二条城

 天海大僧正は、徳川家康の招きで、訪れ逗留。
 家康に天台宗の奥義・秘伝を口授し、山王一実神道を授けたり、宮中に赴き論議をしている。
 大坂夏の陣では、徳川家康の陣幕に入った。
 松平容保も、孝明天皇より朝議メンバーに指名され、参預会議のため度々訪れている。
 鶴ヶ城と同じく日本100名城 (53番) の1つ。
 ▲入場有料 (京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 Tel. 075-841-0096)

北野天満宮

 日本三大天神 (小平潟天満宮・太宰府天満宮) の1つ。
 通称「天神さん」「北野さん」と呼ばている。
 天暦元(947)年、創建。
 天暦元(947)年、現在の北野の地に社殿が造営。
 学問の神様である菅原道真を祀る。
 禁門の変ごろには、京都の治安を守る見廻組の屯所の1つになった。


 ▲(京都市上京区御前通今小路上ル馬喰町 Tel. 075-461-0005)

八坂神社 (祇園社)

 三大祇園祭の1つが執り行われる。
  ◇ 会津田島祇園祭 (田出宇賀神社)
  ◇ 博多祇園山笠 (櫛田神社)
 斉明天皇2(656)年、高麗使節/伊利之が素戔嗚尊を奉斎し創建。
 貞観18(876)年に南都の僧/円如が創建とも。
 慶応4(1868)年、祇園社から八坂神社に改称。
 ▲(京都市東山区祇園町北側625 Tel. 075-561-6155)

仁和寺

仁和寺

 勝常寺と同じく国宝の薬師如来を所有。
 (醍醐寺神護寺元興寺新薬師寺唐招提寺
  法隆寺薬師寺奈良国立博物館獅子窟寺)
 木造薬師如来坐像 (平安時代)、霊明殿の本尊。
 康和5(1103)年、仏師/円勢と長円の造像。
 仁和2(886)年に光孝天皇の勅願で建築開始。
 仁和4(888)年、落成し宇多天皇が開基。
 真言宗御室派総本山。
 桜の名所としても有名。
 ▲(京都市右京区御室大内33 Tel. 075-461-1155)

醍醐寺

 勝常寺と同じく国宝の薬師如来を所有。
 (仁和寺神護寺元興寺新薬師寺唐招提寺
  法隆寺薬師寺奈良国立博物館獅子窟寺)
 木造薬師如坐像 (平安時代前期)。
 貞観16(874)年、聖宝が開基。
 真言宗醍醐派総本山。
 ▲入場有料 (京都市伏見区醍醐東大路町22 Tel. 075-571-0002)

神護寺

神護寺

 勝常寺と同じく国宝の薬師如来を所有。
  (醍醐寺仁和寺元興寺新薬師寺唐招提寺
  法隆寺薬師寺奈良国立博物館獅子窟寺)
 木造薬師如来立像 (平安時代初期)。
 天長元(824)年、和気清麻呂が創建。
 高野山真言宗遺迹本山。
 ▲入場有料 (京都市右京区梅ケ畑高雄町5 Tel. 075-861-1769)

保科正之公の殊遇を得た山崎闇斎とのご縁≫
 墓は、金戒光明寺

闇斎塾 (山崎闇斎邸跡)

闇斎塾(山崎闇斎邸跡) 闇斎塾(山崎闇斎邸跡)

 明暦元(1655)年、儒学を説く私塾「闇斎塾」を開講。
 今では、石標があるのみ。
 ▲(京都市上京区葭屋町通下立売上ル)

猿田彦社 (垂加社、下御霊神社の境内)

猿田彦社(垂加社) 猿田彦社の神輿 猿田彦社の神輿


 山崎闇斎を生祀の垂加社と猿田彦社とを合祀。
 先生は夙に敬神の念篤く、儒家にして神道の説を立て、大義を明にし名分を正しくし、門下及びその末流に多くの英傑及び志士を出し、幕末の勤王思想、国民自覚精神鼓舞の大なる先覚者であります。
 この垂加社の起源は、当時の神主 出雲路信直(通称 板垣民部)が先生の門弟であったこともあり、先生在世中に猿田彦社相殿として祭祀せられたのであります。
 毎年2月22日には社家 出雲路家に相伝されている関係資料を社務所にて展覧致しております。
神垂祈祷 (じんすいきとう)  冥加正直 (みょうがしょうじき)
 『倭姫命世記 (やまとひめのみこと せいき)』の「神垂以祈祷為先 (かはたるるにねぎごとをもってさきとなし) 冥加以正直以本 (くらきはくきふるきふるにしょうじきをもってもととなせり)」の語句に由来します。
 その意味は「神の恵みをうける(垂る)ためには人として祈祷が第一で、神慮が加わる(冥加)ためには人として正直をもってするのが根本である」ということで、祈祷と正直によって神の恵みをうける事ができるとするものです。これが垂加神道の修業の境地といえるでしょう。
 当社の御札には鎮疫の御札と共にこの言葉を記した御札が入っております。
 ▲(京都市中京区寺町通丸太町下る Tel. 075-231-3530)

佐久間象山

佐久間象山寓居址 佐久間象山寓居址

佐久間象山寓居址

 元治元(1864)年3月、幕命により上京し、この地に仮住まいして,開国論・公武合体論を披瀝。
 4か月後に、帰宅の途中、近くの高瀬川沿いで暗殺される。
 碑は広告看板に覆われていて、見つけるのに苦労した。
 ▲(京都市中京区木屋町御池下ル東側)

佐久間象山遭難之碑 佐久間象山遭難之碑

佐久間象山遭難之碑

 元治元(1864)年7月11日夕方、山階宮邸から馬に乗って自宅へ向かう途中、2人の刺客に襲撃され斬殺された。
 碑が高瀬川を挟んだ対岸にあるので近づけず、碑文は読むことが出来ない。
 近くの高瀬川には当時の船が再現されている。
 ▲(京都市中京区三条木屋町下る一之船入町)

建勲神社

 明治3(1870)年、信長の子孫の私邸内 (東京) に分祀。
 同時に子孫の旧領地/天童にも分祀
 明治13(1880)年、京都/船岡山に遷座。
 明治14(1881)年、嫡子/織田信忠を配祀。
 明治43(1910)年、山麓から現在地の山頂に社殿を移建。
建勲神社 建勲神社


 ▲(京都市北区紫野北舟岡町49
    Tel. 075-451-0170)

織田稲荷社 (今宮神社)

 本能寺の変で討たれた織田信長・信忠の遺骨を埋葬したとされる阿弥陀寺の住職/玉誉清玉は、境内に信長を祀る祠を建立した。
 豊臣秀吉の命により阿弥陀寺は移転させられたが、祠を移築することは許されず残された。
 昭和62(1987)年、今宮神社の末社として現在地に移転。


 ▲今宮神社 (京都市北区紫野今宮町21 Tel. 075-491-0082)

豊国神社

 慶長4(1599)年、豊臣秀吉を祭神「豊国大明神」とする壮麗な神社が、東山三十六峰のひとつ阿弥陀ヶ峯に創建された。
 大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した後は、徳川幕府の命により廃祀となり、草むらに埋もれ、忘れ去られる。
 明治13(1880)年、再建・再興される。>br>

 ▲(京都市東山区正面本町東入茶屋530 Tel. 075-561-3802)

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