会  津  の  著  名  人

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 簗田氏  やなだし、
 文治5(1189)年、初代とする簗田内匠頭俊信 (大町義種) は佐原義連公に従い会津へ赴くが、義連公と同様に居は移していない。
 康暦元(1379)年、簗田左京亮盛胤が蘆名直盛公が鎌倉から会津に土着するのに従い、移り住む。
 至徳元(1384)年、上洛して将軍足利義満に謁見し願い出て、「会津四郡並びに隣国までの商人の司たるべし」と許可を得て、黒川 (会津若松市 に居を移し、名字帯刀を許された商人となる。
 天正 4(1576)年、簗田藤左衛門が蘆名盛隆公から領内に出入り商人から課役を徴収する権利を与えられ、御用商人司となる。
 権限は領内だけでなく、日光・宇都宮・仙台・米沢まで及んだ。
 文禄元(1592)年、蒲生氏郷公が城下町を再配置の際に全面協力の功により、大町札之辻に2千坪を超える屋敷地を賜る。
 天正17(1589)年、伊達政宗公から関所通行手形の発行権が授与。
 上杉景勝公加藤嘉明公も商人司職を与えるほど、領内の商人の取りまとめ主税は強大なものになっていた。
 寛永20(1643)年、保科正之公が入府すると、商人司から大町検断として職権は縮小されたが、町検断職の筆頭として商人を統括し、藩の行政の一端を担った。
 戊辰の役で開城後も、統率力を無視できなかったは、数々の布令を簗田家を通して発している。
 矢部禅尼  やべぜんに(やべ の ぜんに)、
 文治3(1187)年〜康元元(1256)年4月10日 (70歳)
 鎌倉幕府の有力御家人/三浦義村の娘。
 建仁 2(1202)年、3代執権/北条泰時の正室として嫁ぐ。
 建仁 3(1203)年、長男/時氏を出産。
 後に、泰時と離縁。
 その後、佐原盛連公に再嫁して蘆名光盛公、盛時、時連を産む。
 夫/盛連公が死去すると実家に帰り出家し、矢部禅尼と名乗る。
 嘉禎 3(1237)年、幕府から和泉国吉井郷を拝領する。
 宝治元(1247)年、三浦一族が北条氏と戦い滅亡したが、北条氏側で戦った子/盛時によって、後に三浦家を再興することができた。
 康元元(1256)年、食欲不振により死去。
 山内 玄齢  やまうち げんれい、天明8(1788)年〜安政元(1854)年
 天文・気象の観測学を究め、地理学にも精通していた。
 文化5(1808)年、藩校/日新館の講師に就く。
 講師を退き御用所に就き、会津藩領 (管理地) である蝦夷や浦賀の調査に携わり、藩命により江戸/渋川家で天文学を深める。
 交友を深め、海外事情や陰暦・陽暦までも会得する。
 山内 香雪  やまうち こうせつ、寛政11(1799)年〜万延元(1860)年 (62歳)
 名:晋。 通称:熊之助。 字:希逸。 号:香雪、一枝堂。
 <書画家、詩人>
山内香雪の墓  23歳にして上京し、書家・儒学者・文人/亀田鵬斎、漢詩人/大窪詩佛、書家・漢詩人/市河米庵などに師事し学ぶ。
 文政3(1820)年、京や長崎など諸国を歴遊し、清の文人/江芸閣などに学ぶ (23歳)。
 江戸/鋸匠町で書塾を開き、数多くの門下生を育てる。 松平容敬公三忠碑を建立に際し、碑文の文字を顔真卿の書から集めるのに携わる。
 著書「梅花集/十五巻」「名家手簡/十二巻」。
 墓は薬王寺

 明治37(1904)年、明治の三筆の一人/中林梧竹は、恩師を崇拝するあまり、香雪の墓のそばに自分の寿塔を建て「天外一閑人」と刻み、盛大な生前葬を行った。

 山鹿素行については、こちら

 山川 重英  やまかわ しげひで、天明3(1783)年〜明治2(1869)年 (享年86歳)
 幼名:千代吉。 通称:兵衛。
 家老/山川治太夫重行と母 (笹原伝蔵忠恒の娘) との嫡男。
 寛政12(1800)年、父/重行の番代に就く。
 目付、普請奉行、町奉行、御蔵入奉行などを歴任。
 文政 3(1820)年、勘定奉行に就任し、ウナギ・ナマズ・シジミの養殖を奨励するなど、藩財政の再建に尽力。
 天保 3(1832)年、若年寄に就任。
 天保10(1839)年、家老に抜擢され、山川家が家老の家筋となる。
 弘化 3(1846)年、松平容敬公の養子に、高須藩から松平容保が入ると、守役として養育にあたる。
 安政 3(1856)年、隠居し、嫡男/尚江に家督を譲る。
 安政 4(1857)年、嫡男/尚江が死去したため、嫡孫/大蔵(浩) に家督を継がせ、後見する。
 安政 5(1858)年、藩内に天然痘の予防法/種痘を推進。
 病弱な容保の正室/敏姫にも施そうとするが侍医らに反対され、3年後に敏姫が天然痘に罹患し19歳で死去、生涯 悔いていたという。
 元治元(1864)年、禁門の変勃発後、洋式銃への切り替えを強く主張。
 戊辰の役では、隠居勤として籠城戦を戦い抜く。
 明治 2(1869)年、容大公が誕生したため補導役を命じられるが、ほどなく水谷地村 (湯川村) にて死去。
 墓は大窪山墓地とのこと。
 山川二葉山川健次郎大山捨松の祖父 (父親代わり)。
 山崎 闇斎  やまざき あんさい、
 元和4(1618)年12月9日〜天和2(1682)年9月16日 (6歳)
 <儒者、神道家、思想家、朱子学者、垂加神道の創始者>
 名:嘉。 通称:嘉右衛門。 字:敬義。 霊社号:垂加霊社。
 浪人/山崎浄因清兵衛の子として京にて誕生。
 僧侶として延暦寺・妙心寺・吸江寺などで修業するが、25歳で還俗して儒者となる。
 〜〜〜
 明暦元(1655年、私塾/闇斎塾を開設、多くの門弟が集まる。
 門弟は、6千人に及んだと云う。
山崎闇斎の墓  寛文 5(1665)年、保科正之公に賓師として迎られ江戸に出て、藩政へ助言・補佐する任に就く。
 吉川惟足と併せて、会津藩が神道となった理由の1つとされる。
 寛文13(1673)年、会津に赴き、吉川惟足と共に正之公の葬儀に携わる。
 藩教育の根幹となる会津三部書「玉山講義附録」「二程治教録」「伊洛三子伝心録」の編纂に助力し、「会津風土記」「会津神社志」の編纂にも関わる。
 墓は金戒光明寺。 生祀の垂加社は下御霊神社の境内/猿田彦社に合祀。
 山崎 忠央  やまざき ただなか、
 万治3(1660)年1月〜享保19(1734)年10月24日 (75歳)
 初名:定規。 通称:泉、勝蔵、子列、松心。 <旗奉行>
 蜂須賀氏の家臣/山崎勝太尊秀の子として阿波 (徳島県) にて誕生。
 江戸に出て、会津藩侍講の検校/後藤松軒に師事し、儒学を学ぶ。
 貞享元(1684)年、師/後藤の推挙で松平正容公の侍講に就任。
 山奉行などを歴任。
山崎忠央(higasi-中)  元禄15(1702)年、大目付に就任。
 宝永 6(1709)年、退官を願い出るが許されず。
 正徳 2(1712)年、奉行にに就任。
 幕命により、藩が利根川堤防の修理をする監督において功績を残す。
 享保 2(1717)年、猪苗代城代に次ぐ旗奉行。
 享保16(1731)年、正容公が死去し松平容貞公が藩士に就任を幕府に報じる大役を行なう。
 著書「大学辨断」「通宣政鑑」など多数。
 墓は大窪山 (現地図に記載あり)。
山崎松心忠央之墓 享保十九甲寅歳十月二十四日卒
 山内氏  やまのうちし、  <金山谷・伊北郷を支配した豪族>
 会津への土着については諸説がある。
  ◇ 源頼朝の奥州藤原氏征討戦で戦功をあげ拝領
  ◇ 奥州入りの管領/足利満貞 (満直) に従って会津に入りし土着
 鷹巣山に中丸城を築いて居城とし、地名を「横田」と改める。
 「山内七騎党」と呼ばれる一族を所領に配し、野尻・川尻・沼沢・布沢・滝谷・桧原・西方に居館を築く。
 所領の大半が山間部のため侵略されず、越後/長尾氏 (上杉氏)・甲斐/武田氏から同盟を求められるほど、勢力も1目置かれていた。
 会津4郡を拝領した蘆名氏とも対等な勢力を保っていたが、会津統一を成し遂げた蘆名盛氏公の時代に隷属。
 隷属は、永禄元(1558)年に横田山内俊清の次男/俊政と3男/俊範が蘆名氏の老臣/松本図書の岩谷城を略奪した事件からといわれる。
 盛氏公が死去すると、再び独自性を強く示すようになる。
 天正17(1589)年、伊達政宗公の会津に侵攻の際、当主/山内氏勝は蘆名義広公の出陣命令を無視し、摺上原の戦いには参加していない。
 義広公敗走後、政宗公からの降伏勧告も拒否し抗戦、一族の布沢・川口・野尻らは伊達氏に隷属し居城/中丸城も陥落するが、水久保城に籠り対峙を続けた。
山内氏勝の墓  小田原参陣に応じず、蘆名氏配下の武将と判定され、豊臣秀吉による奥州仕置で領地が没収され、会津支配の歴史は終焉した。
 石田三成から氏勝へ約束された「本領を安堵するから秀吉が会津へ進攻するまで政宗と戦い続けよ」との書状は、反故にされた。
 氏勝は、弟/宗氏・次男/九郎三郎と共に上杉景勝公に仕え、越後国/魚沼郡上田庄浦佐郷大浦に領地が与えらるが、程なく隠居した。
 山内氏と旧臣の子孫の大半は、旧領の金山・只見などで帰農する。
 土佐藩主の祖/山内一豊は、氏勝の実弟/大学助豊政 (山内舜通の次男) が後に一豊と改めたとの説もある。
 山内 俊温  やまのうち としあつ、安永7(1778)年〜弘化元(1844)年
 幼名:藤九郎。 通称:藤大夫。
 中丸城主/山内氏勝の子孫。  <会津藩学校奉行>
 藩の兵制改革など重職を歴任し、松平容敬公の藩政に携わる。
 後に学校奉行に就任、長年に亘り務める。

 当時、南下政策のロシアと緊張が高まり、幕命により文化5(1808)年に会津藩は蝦夷地への北方警備 (樺太出兵) で出兵した。
 同年5月17日、藩の密命により越後・佐渡両国の海岸警備を視察するため、わずか2名のお供だけを連れて、叶津番所を出立。
 八十里越を通って越後国に入り、新潟・寺泊・出雲崎などの海岸部の要衝を漏れなく視察。
 視察中に地震の体験談を聞き及び、佐渡へ渡ることを決意する。
 出雲崎から舟に乗り小木の湊 (佐渡市小木町) に着き、島倉屋芳兵衛宅に宿泊し、五尺 (約1.5m) ほど地面が隆起したことや、ほとんどの家屋が倒壊し、火事も発生して大惨事となった様子を聞き取る。
 6月6日、使命を果たし、六十里越を越えて田子倉村を経て叶津番所に帰着し、詳細な「越佐行程記」に著す。
 寛政10(1798)年に先祖の墓参のため越後国/大浦延命寺へ赴いた記録「越国大浦御墓道中日記」も現存とのことだが、詳細は知らない。

《 や 》 江  戸  幕  末

 山川 艶  やまかわ えん、文化14(1817)年〜明治22(1889)年4月22日 (73歳)
 歌号:唐衣 (とうい、からごろも)。 剃髪後:勝昭院。
 歌を能くし、歌号の唐衣で呼ばれることも多い。
 藩士/西郷近登之の嫡女として鶴ヶ城下にて誕生。
 天保 7(1836)年、家老/山川重固尚江に嫁ぐ。
 12人を出産し、5人は夭折するも2男5女を立派に育て上げる。
 天保14(1843)年、二葉を出産、後に梶原平馬景雄に嫁ぐ。
 弘化 2(1845)年、嫡男/大蔵(浩) を出産。
 弘化 4(1847)年、美和を出産、後に桜井政衞に嫁ぐ。
 嘉永 5(1852)年、操を出産、後に小出光照に嫁ぐ。
 安政元(1854)年、健次郎を出産。
 安政 4(1857)年、常盤を出産、後に山川徳治に嫁ぐ。
 万延元(1860)年、咲子(捨松) を出産、後に大山巌に嫁ぐ。
 同年、夫/重固が死去し、剃髪して勝昭院と称す。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い、嫡男/大蔵が上洛する際に歌を詠んで見送っている。
 「天が下 轟く名をばあげずとも おくれなとりそ もののふの道
 慶応4(1868)年8月23日、 鶴ヶ城下に迫ると入城し、照姫を護り、傷兵を看護し、撃ち込まれた砲弾を処理し、炊出などに奔走し、籠城戦を戦い抜く。
山川艶の墓  籠城中に、嫁/トセが砲弾し戦死した。
 開城後は、斗南藩に移住し極貧生活を経て、東京に居を移す。
 明治22(1889)年、一門の繁栄に安堵したかのように、波乱の生涯を閉じた。
 「我ながら なにに名残を惜しむらむ
    思ひおくべき こともなきよに

 墓は青山霊園
 飯盛山で自刃した白虎隊の生き残り/飯沼貞吉は、妹/文子の子。

 山川捨松 (大山捨松) については、こちら

 山川 浩  やまかわ ひろし、
 弘化2(1845)年11月6日〜明治31(1898)年2月4日 (満52歳)
 初名:大蔵、与七郎、常盤。 諱:重栄。 字:士亮。
 号:屠竜子、去二堂主人。 浩:明治に入り改名。
 <家老、陸軍少将、貴族院議員>
 国家老/山川尚江重固と母/ (えん、藩士/西郷近登之の娘) との長子として本二之丁にて誕生、
 二葉は姉で、健次郎は弟、大山捨松は妹。
 万延元(1860)年、父/重固が死去し、家督を継ぐ (16歳)。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い物頭として上洛、常に奏者番として側近にあった 。
 慶応2(1866)年、樺太境界協議で幕府が派遣したロシア訪問団一員としてロシアへ渡航、ヨーロッパ諸国を見聞して世界の情勢を知る。
 「猛将・佐川」に対して「知将・山川」と称される所以である。
 鳥羽伏見の戦いの後、砲兵隊/隊長として日光口を守備し藤原では追撃してくる敵兵を敗走させるなど奮戦し、幕府伝習隊と連携して日光口からの侵入を断念させた。 如来寺本堂の屋根に飛び乗ったり飛び降りたりして奮戦し、多数の敵兵を斃した逸話が残っている。
鶴ヶ城下に来襲したとの報を受け帰城に向けて出立、伝統芸能/彼岸獅子を先頭で踊らせる機略を用いて包囲網をかいくぐり、1兵も失うことなく入城した。
 籠城戦では、家老に就任し防衛総督として指揮・奮戦するも、妻/トセが被弾死している。
 開城後は、東京で幽閉 (謹慎)される。
 斗南藩に移住し大参事に就任、元々 の策略による流刑であり、藩財政が立ち行くはずもなく、妹/咲子 (捨松) を口減らしのため函館へ里子に出すほど生活は困窮した。
 明治 6(1873)年、上京して陸軍裁判所勤務を経て、少佐として熊本鎮台に転勤となる。
 明治 7(1874)年、佐賀の乱で左腕に重傷を負う奮戦、中佐に昇進。
 明治 9(1876)年、藤田五郎(斉藤一)と時尾の婚儀で下仲人をする。
 明治10(1877)年、西南戦争に別働第二旅団の参謀として出征。
 戊辰の役の恨みを晴らすべく、包囲していた薩摩軍を蹴散らし、孤立していた熊本鎮台司令長官/谷干城が54日も籠城する熊本城へ救出の一番乗りをやってのける。 この恩を谷千城は一生忘れなかった。
 「薩摩人 みよや東の丈夫(ますらお)が 提げ佩く太刀の ()きか鈍きか
 明治13(1880)年、陸軍大佐に昇進し、陸軍省の人事課長に就任。
 明治18(1885)年、熱望されて軍籍のまま東京高等師範学校 (筑波大学) 校長に就き、同附属学校 (筑波大学附属小学校・筑波大学附属中学校・高等学校)、女子高等師範学校 (お茶の水女子大学) 校長も兼務。
 校長を兼務したまま、少将に昇進。
山川浩の墓  陸軍省総務局制規課長を経て予備役に編入。
 明治23(1890)年、第1回衆議院議員総選挙 (福島4区) から候補するも落選、しかし貴族院議員に推挙され、筋の通らない政策には敢然と反対する清廉潔白さに「貴族院三将軍」の一人と称され、政府高官たちを大いに畏れさせた。
 明治31(1898)年、呼吸器系を患い死去。
 「忠烈院殿靖誉桜山大居士」
 墓は青山霊園
 著書「桜山集」「京都守護職始末」。
 「京都守護職始末」には、孝明天皇からの御辰韓 (会津藩を称賛した記述) が記載されていたため、世間に知られることを恐れたによって明治44(1911)年まで刊行できなかった。
 山田 陽次郎  やまだ ようじろう、天保12(1841)年〜明治4(1871)年1月16日(31歳)
 名:直節。 通称:源次郎、竹次郎。
 家老/西郷近思と母/律子 (小森悌蔵の次女) との次男。
 家老/西郷頼母近悳の実弟。
 嘉永5(1852)年、小姓頭/山田内蔵直方の養嗣子となる。
 戊辰の役では、朱雀寄合二番隊として北越戦線の各地で奮戦。
 籠城戦になると、援軍依頼のため仙台藩へ赴く。
 その後、仙台で結成された 会津遊撃隊差図役下役に就き、榎本武揚艦隊に同行して蝦夷に渡り、江刺方面で奮戦。
 五稜郭が開城後は、古河藩での幽閉を経て、東京で幽閉 (謹慎)。
 明治3(1870)年、「雲井龍雄の政府転覆計画に共謀」との嫌疑で日光/今市にて逮捕され、「准流徒罪/懲役10年」の判決を受ける。
 明治4(1871)年、判決わずか半年後に箱館の獄中で変死、死因は明らかにされず、拷問による虐殺とされる。
 正覚寺に埋葬され、墓は三内霊園に改葬とのことだが不明。
 山浦 鉄四郎  やまうら てつしろう、天保14(1843)年〜明治12(1879)年 (36歳)
 変名:蒲生誠一郎。  鶴ヶ城下にて誕生。
 江戸に上り、幕臣/西周の塾生となり優秀な成績を修める。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い上洛。
 元治元(1864)年、池田屋事件の後、独断専行を監視するために柴司たちと共に新撰組に派遣される。
 戊辰の役では会津藩に復帰し、各地で奮戦するも負傷する。
が鶴ヶ城下に侵入時は治療のため城中におり、手薄な天神橋口に迫る敵兵を撃退した藩兵の中に加わっている。
 開城後に蒲生誠一郎と改名。
 幽閉(謹慎)を経て、冬期の陸行で斗南藩/三戸郡小中野村へ移住。
 明治 4(1871)年、中野優子と結婚し、小中野村 (八戸市小中野) で海産商や駄菓子屋を営む。
 明治10(1877)年、函館へ移り住む。
 墓は御前神社/神葬祭墓地
 山本 覚馬

 やまもと かくま、
 文政11(1828)年1月11日〜明治25(1892)年12月28日 (満64歳)
 幼名:義衛。 諱:良晴。 号:相応斎。
 砲術師範/山本権八 (後に戦死) と母/佐久との長男として郭内 (米代二丁目) にて誕生。
 山本家遠祖は、武田信玄に仕えた軍学者/山本勘助と云われる。
 4歳にして唐詩選の五言絶句を暗唱したという。
 嘉永3(1850)年、江戸に上り、佐久間象山に師事し兵学や朱子学を学ぶ。 特に、蘭書や洋式砲術の研究を深める。
 象山の同じ門弟であった長岡藩/小林虎三郎・河井継之助、吉田松陰、坂本竜馬、武田斐三郎らと知己となり、啓蒙家の西周などとも親交し、幅広い人脈を持った。
 嘉永6(1853)年、ペリーが浦賀に来航したため江戸出府を命じられた砲術隊長/林権助に随行し、江戸藩邸の勤番となる。
 3年前に江戸で、幅広い人脈を築いており、西洋の兵制や砲術にも通じていたからである。 江戸詰の間、勤番のかたわら蘭書を読み漁り、洋式砲術の研究に没頭。
 安政3(1856)年、藩の近代化を痛感し会津に戻り、藩校/日新館に蘭学所を設立し教授に就く。
 急激な改革論は、守旧派重臣の批判を受け、禁足処分になる。
 その後も軍制改革を訴え続け、1年後には林権助たちに意見が取り入れられ、軍事取調役兼大砲頭取に抜擢され、兵制改革に尽力する。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い上洛する。
 かつての師/佐久間象山と再会し、孝明天皇の遷座計画を広沢安任に打ち明けて極秘に進めるが、象山の暗殺で計画は頓挫してしまう。
 恐れていた長賊による天皇暗殺を企てたクーデター/禁門の変が勃発、大砲隊を率いて撃退する。 共に戦った薩摩藩は、覚馬の人格に触れ、一目も二目も置いたという。
 慶応元(1865)年、公用人に就くも眼病を患い (禁門の変での負傷が原因とされる)、翌年に失明してしまう。
 慶応2(1866)年、藩制の近代化のため、藩士/中沢帯刀を随行させ長崎へへ行き、ドゲベール銃などの調達に奔走。
 慶応 4(1868)年、鳥羽伏見で弟/三郎が戦死するも盲目のため戦えず、蹴上から大津への途上で薩摩藩兵に捕われて幽閉されてしまう。
 優秀さは薩摩藩も知っており、粗略には扱われなかった。
 日本の将来を按じ、政治・経済・教育など22項目に亘り将来の日本のあるべき姿を論じた論文「管見 (山本覚馬建白)」を口述筆記して提言、西郷隆盛ら薩摩藩の首脳部は益々敬服し、後の新政府政策の骨格として活用される。
 後に、薩摩藩邸跡地が譲り渡される。
 明治3(1860)年、兵部省の京都府顧問に招聘され、東京遷都で衰退が著しい中、日本初の博覧会「京都博覧会」を開催するなど、先進的な都市へと変革させる。
 明治4(1871)年、母/さく、妹/八重、姪/みねが上洛し同居する。
 明治8(1875)年、英語を学ぶため宣教師/ゴルドンに接近、贈られた「天道遡源」でキリスト教に目覚める。
 同年、勝海舟からの紹介で訪問した新島襄の計画に賛同し協力を約束、同居させながら準備を始め、同志社英学校が設立される。
 教員2人・生徒8人でのスタートだった。 校名「志を同じくする者が集まって創る結社」は、兄/覚馬が命名した。
 明治9(1876)年、新島襄と連名で「私学開業願」に署名し文部省に提出、6千坪の土地 (旧薩摩藩邸敷地) を学校用地として提供し、翌年に同志社英学校を移転 (今出川校地)。
 この年、妹/八重が新島襄と結婚。
 明治12(1979)年、第1回京都府会選挙で当選し、初代議長に選出。
 明治18(1885)年、京都商工会議所会頭に就任。
 明治23(1890)年、新島襄が死去したため、同志社臨時社長に就任し、以後の同志社の発展に尽力する。
 明治25(1892)年、京都市の自宅にて死去。
 墓は若王子墓地 (同志社共葬墓)

 山本八重 (新島八重) については、こちら

矢島七之助  柳田勝太郎  簗瀬[某]  山浦岩三郎  山際久太夫安達  山口新次郎  山口友記  山田作治  山田重三  山田貢  山村多膳  山本市之丞  山本慶助  山本季太郎  山本権八  山本三郎  山本定平  山本常治

《 や 》 幕 末 よ り 後

 柳澤 健  やなぎさわ たけし、
 明治22(1889)年11月3日〜昭和28(1953)年5月29日 (65歳)
 <詩人、外交官>
 女学校校長の藩士/柳澤良三の長男として若松市 (会津若松市) 栄町にて誕生。
 会津中学校 (県立会津高等学校) から第一高等高校を経て、東京帝国大学仏法科に進む。
 大正4(1915)年、東京帝国大学を卒業し、逓信省に入る。
 同年に文官高等試験に合格。
 大正8(1919)年、横浜郵便局長心得を辞職、大阪朝日新聞社に入社。
 その後、外務省に入省し、フランス、スウェーデン・メキシコ・イタリア、ポルトガル大使館などに駐在し国際性を養う。
 昭和10(1935)年、国際ペンクラブからの要請を受け、外務省文化事業部の課長として文壇に呼びかけて国際ペンクラブ/日本センター (日本ペンクラブ) を創立。
 ポルトガル公使館一等書記官を最後に辞任 (52歳)。
 日泰文化会館館長を務める傍ら、詩人として活躍。
 母校の県立会津高等学校をはじめ、会津の校歌を24歌も作詩。
 昭和28(1953)年、帰省途中の会津若松市にて心臓麻痺で死去。
柳澤家之靈塔  著書「果樹園」「柳澤健詩集」など。
 墓は大塚山墓地、歌碑もある。

 簗瀬 真琴  やなせ まこと (やなせ まさこと)、
 明治25(1892)年5月2日〜昭和53(1978)年10月23日 (満86歳)
 <陸軍少将>
 会津三家 (北原家、内藤家) 称された簗瀬家の出身。
 会津中学校(県立会津高等学校)を経て陸軍士官学校を卒業(26期)。
 大正 3(1914)年、歩兵少尉に就く。
 少佐に昇進して、近衛歩兵第一連隊附/麻布中学配属将校に就く。
簗瀬真琴の墓  中佐に昇進して、近衛歩兵第三連隊附、支那派遣軍高級副官を歴任。
 昭和12(1937)年、歩兵第三十四連隊 (橘連隊) の連隊長として日中戦争に出征し、江南作戦・常徳作戦で軍功をあげる。
 昭和19(1944)年、少将に昇進して、帰国。
 大津少年飛行学校校長、独立混成第144旅団長に就き、本土決戦に備えていたが、横須賀で守備中に終戦を迎える。
 墓は多摩霊園
 梁取 三義  やなとり みつよし、大正元(1912)年〜平成5(1993)年
 只見町にて誕生。  <新聞・雑誌記者、作家>
 昭和16(1941)年、大衆文藝社の編集長に就任。
 昭和17(1942)年、「村のあけぼの 農村小説」で作家デビュー。
 昭和21(1946)年、彩光社に入社し、雑誌「彩光」・中里介山「大菩薩峠」などを刊行。
 著書「二等兵物語」シリーズ、「うかれ蚤」シリーズ、「七転び人生」シリーズなど。
 酒をこよなく愛し、雑誌「旅と酒」主宰、日本酒の会会長。
 著書「地酒の効用」「日本酒・これでいいのか」「日本酒入門 酒を美味く飲む」「日本酒大事典」など。
 歌碑が故郷の「只見いこいの森」にある。
 ▲(只見町只見向山2832)
簗取三義の歌碑  「ああ あの山は
  むかしばなしの山である
  その名は浅草山
  夏が来るのに
  残雪の見える山
  高山植物が咲き乱れ
  神々が遊んだ山である

 山口 昌隆  やまぐち まさたか、文政3(1820)年〜明治16(1883)年2月6日 (64歳)
 号:磐山。 変名:勇三。
 戊辰の役では、鳥羽伏見の戦いから開城まで各地で奮闘。
 開城後は、開拓使会/育英校で漢学の教師に就く。
 明治10(1877)年、同校が廃校となり函南小学校に移り訓導として教鞭をとっていたが、招聘され岩科学校の初代校長に就任。
 甲府/睦沢学校、松本/開智学校に次ぐ全国でも3番目。
 明治13(1880)年、校舎の竣工に伴ない、同じ旧/会津藩士の林繁樹・墨田直水を教員として呼び寄せる。
 伊豆/天然寺で、慎独塾も開いている。
 明治16(1883)年、病没。
 明治25(1892)年、教え子たちが師を追慕して碑「磐山山口先生之墓」を建立。 撰文は旧/仙台藩士の岡千仞。
 墓は天然寺
 山内 香渓  やまのうち こうけい、
 天保12(1841)年〜大正12(1923)年10月28日 (84歳)
 幼名:数馬。 名:昇。 字:子竜。 号:香渓、破研斎。
 <藩士、書家>。  藩士/鳥居栄五郎の3男。
 上京し、書家/山内香雪に師事し書を学ぶと、その才を認められ香雪の養嗣子となる。
 四書・五経など経書にも長けていたという。
山内香渓の墓  戊辰の役では、江戸に残留し諸藩の間を奔走、その後に蝦夷/箱館に向かうべく品川を出航するが、銚子沖で船が沈没してしまう。
 旧知の老中/間部詮勝に匿われるも、見つかってしまい投獄される。
 この時の獄中で詠まれた歌詩をまとめて「思い出の碑」として、大正6(1917)年に飯盛山へ建立。
 出獄後は、和歌山藩の藩参事に就き、廃藩後は東京に移り、三輪田高等女学校の教授に就く。
 墓は薬王寺 (合葬)。「雙松院香渓日昇居士」
 著書「真書行書草書千字文」「三体蘭亭帖」「合体千字文」「真行草千字文」「女子筆のたしなみ」など。
 山川 二葉  やまかわ ふたば、
 弘化元(1844)年8月19日〜明治42(1909)年11月14日 (66歳)
 国家老/山川尚江重固と母/ (えん、藩士/西郷近登之の娘) との長女として本二之丁にて誕生、
 大蔵(浩)健次郎は弟で、大山捨松は妹。  <女子教育者>
 戊辰の役では、 鶴ヶ城下に迫ることを知らせる早鐘を聞くや、母から「生きて還ることを期すべからず」と諭され、白無垢に着替え、薙刀だけを抱えて入城した。
 家老の娘として城内の婦女子たちの模範になろうして、昼夜を問わず率先して負傷兵の救護や炊事にあたり、籠城線を戦い抜く。
 開城時には、白無垢が鼠色になっていたという。
 籠城戦の最中、兄/大蔵の妻/トセが被弾し爆死している。
 頬、右の肩、脇腹、脛から腿へと全身4ヶ所に被弾し、脇腹からは湧き出るように血が流れ、肩への一発は着物の真綿を肉の中へ捩じ込んでいた。 息も絶え絶えに介錯を願うも、夫の死で仏門に入った"えん"は嫁を殺すなどできず、悶絶しながら息絶えるのを目にしている。
 家老/梶原平馬へ嫁ぐも離縁し、一子/景清を引き取り養育する。
 明治 6(1873)年、家族と共に上京。
 明治10(1877)年、同郷の高嶺秀夫の紹介で、女子高等師範学校 (お茶の水女子大学) の舎監に就く。
山川家之墓  その後、28年もの長きに亘り、舎監や教師として女子教育に尽す。
 生徒への指導が極めて適切で、生徒たちから深く敬慕されていた。
 明治37(1904)年、喘息を患い、子/景清の心配もあり、校長/高嶺秀夫に慰留されたが、辞職する。
 明治40(1907)年、子/景清が海軍の軍医で赴任の佐世保に移り住む。
 明治42(1909)年、喘息悪化により東京で死去。
 墓は青山霊園
 山川 健次郎  やまかわ けんじろう、安政元(1854)年〜昭和6(1931)年 ()
 国家老/山川尚江重固と母/ (えん、藩士/西郷近登之の娘) との次男として本二之丁にて誕生、
 <教育者、東京帝国大学・京都帝国大学・九州帝国大学の総長など>
 大蔵(浩) は兄で、二葉は姉、大山捨松は妹。
 15歳で白虎隊に入隊したが、その後に15歳は戦闘に戦闘不向きとの理由で除隊となる。
 籠城戦に入り、一番隊と二番隊合併後の白虎士中隊に編入され、白虎隊士として開城を迎え、猪苗代に幽閉 (謹慎) される。
 明治3(1870)年、会津藩士の幽閉地の1つ/増上寺に開校した藩校に入校するも、まもなく閉校となり、旧幕臣/沼間守一の塾に入る。
 同年の年末、アメリカに留学し、エール大学附属理学校で学ぶ。
 明治8(1875)年、同校で物理学の学位を取得して帰国、東京開成学校 (東京大学)の教授補に就く。
 明治12(1879)年、日本人初の物理学教授に就任。
 明治21(1888)年、日本初の理学博士号を授与される。
 明治34(1901)年、東京帝国大学/総長に就任。
 明治38(1905)年、東京帝国大学/総長を辞任。
 明治42(1909)年 明治専門学校(九州工業大学)を創設し総裁就任。
 明治44(1911)年、九州帝国大学の初代総長に就任。
山川家之墓  大正 2(1913)年、九州帝国大学/総長を辞任し、東京帝国大学/総長に再任。
 大正 3(1914)年、京都帝国大学総長を兼任。
 大正 4(1915)年、京都帝国大学総長を辞任し、東京帝国大学総長に専念。
 大正10(1921)年、東京帝国大学/総長を辞任。
 大正11(1922)年、編集責任者として「会津戊辰戦史」が発刊。 これ以降、幕府や会津藩を含む誠を貫いた東北列藩を「東軍」、長賊らを西軍と呼ぶようになる。
 墓は青山霊園
 山口 一男  やまぐち かずお、明治44(1911)年3月18日〜昭和52(1977)年4月21日
 山口峻一の次男として熱塩加納村赤崎 (喜多方市) にて誕生。
 喜多方中学校 (県立喜多方高校) を卒業し、北海道の巡査に就く。
 帰郷し、農業協同組合に就く。
 熱塩村農業会及び農業協同組合/組合長、県信連代表幹事並び会長、県教育委員長などを歴任。
 民間では、東北電力/監査役、ラジオ福島/取締役、福島テレビ/取締役及び顧問などを歴任。
、政界では、県会議員、県議会議長、自民党県支部連合会/副会長及び顧問などを歴任。
 伊東正義の秘書を務め、参謀として支えた。
 銅像が示現寺にある。
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