[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]    [蘆名氏]  [伊達家]  [蒲生家]  [上杉家]  [加藤家]  [保科家]

陸 奥 国 / 斗 南 藩

 は、明治2(1869)年の正月から藩士たちを捕虜 (戦犯の罪) として東京高田藩の2組に分断し、押送を開始した。
 追って、幕藩体制崩壊により無防備となってしまった北海道防備に困り、幽閉していた会津士族を日常は未開の地を開墾させ有事の際には兵士にしようと謀り、罪を許すとの条件で北海道開拓への移住を勧奨したが、応じた者はいなかった。
 藩主と運命を共にする決意が固いと気付き、北国への挙藩流刑をもくろんだ。
 実際に斗南藩成立前 (9月) に、会津藩士200戸を小樽に流罪として送り込み現地で罪が赦された形をとったが、現地での生活は幽閉時よりも悲惨な状況であった。
 同年11月、は謀略を急ぎ推し進め、同年11月3日に容保の嫡男/慶三郎 改め容大公に家名存続をさせる。
 翌/明治3(1870)年1月5日、会津藩士4千7余名の幽閉 (謹慎) が解かれ、会津藩の家名再興との名目のもと、流刑の地に「斗南藩」が成立することとなる。
 2千8百戸、家族を含め総勢1万7千余人が移住となる。

 「下北と猪苗代を選ばせた」とはが歪曲した説を流布したのであって、当時のどの政府資料にも「猪苗代」の記載はない
 逆に、明治2(1869)年6月、容保の嗣子として生まれた慶三郎 (容大公) をもって、梶原平馬山川大蔵が猪苗代に帰農したいと願い出ているが、は若松近郊など とんでもないと議題にすらのせていない。
 大藩による反撃の恐怖から何としても藩士たちを分割し藩の存在を消滅させたかったからであり、後に孝明天皇からの御宸翰の存在が世間に知られるなど、数々の歴史改ざん・欺瞞が発覚するのを恐れ、“長賊の私怨による見せしめであった”ことが明々白々になるのを抑えるための捏造である。
 ◇ 移住すれば、藩主及び家族の死罪を免除する。
   ただし、脱走する者があれば処刑し、藩主の命も保証しない。
 ◇ 移住しない者は、武士の身分を剥奪する。
   移住する者は、武士の身分を保証する。
 ◇ この通達が公になれば、通達は反故とする。
との通達 (概略) は秘匿され、未だに公になっていない。
 なお、東海道先鋒総督参謀/板垣退助が戦いの最中、会津に入るや、
  「会津は天下屈指の雄藩にして、善政にして民富む、上下心一つは変えられず、
   我が軍を以てしても民心の掌握は成し難し

と予想を覆す実情を悟り、後の猪苗代での再興陳情を聞くや大いに恐れ、長賊の謀略/斗南への挙藩流刑に賛同している。
 梶原平馬や山川大蔵が猪苗代での再興を願い出た理由は、藩祖/保科正之公がおられる地であるからであって、自らが猪苗代を離れる選択などはありえないのである。
 北方警備(樺太出兵)による極寒地での経験から、下北への流刑転封に賛同する文官は一人もいなかった。
 また、会津藩23万石と語られるが、当時は実質66万石 (実高49万石・雑租17万石) あったことも隠されている。

 《斗南藩》
  ・統治  1年半 = 明治3(1870)年〜明治4(1871)年
  ・石高  3万石
        実高7千石


 元南部藩領の北郡・三戸郡・二戸郡内の3万石とされたが、肥沃な平地 (三本木原) は七戸藩領へ、漁港のある八戸は八戸藩領へと意図的に分割・除外され、両藩に分断された藩領は不毛の飛び地のみで実高は7千石にも満たなかった。  [藩領]
 最初の藩庁は、比較的暖かいであろう藩領の南側にあたる旧盛岡藩/五戸代官所に設置したが、将来の国際貿易を見据えて港の構築が可能な田名部/円通寺 (むつ市) に移す。
 待っていたのは、飢えと病に冒され、多くの老人や子供が犠牲となる歴史であった。
 初めての冬を迎え、飢えと寒さで一家揃って死去した例は、珍しくなかった。
 斗南の地をあきらめ、故郷の会津へ帰郷しようとした方も多くいたが、路銀など持ち合わせているはずもなく、ほとんどが途中で消息不明となり、悲惨な噂と共に消え去った。
 意外と語られないが、会津人の反乱を恐れたは、田名部、三戸、五戸、野辺地など至るところに密偵を送り込み、諜報のみならず贋金の冤罪を着せたり糧米の購入代金を騙し取るなどテロ(妨害)行為は数え切れない。

 明治4(1871)年の廃藩置県により、会津に帰郷した人も多かったが、旧藩領のあった大阪などの関西に移住した人も多い。
 残った藩士の多くは、町村長、吏員、巡査、教職に就いた。
 子孫として、北村正哉(青森県知事)、神田重雄(八戸市長)、菊池渙治(むつ市長)、杉山粛(むつ市長)、林静(初代/三沢市長)・鈴木重令(4代/三沢市長)など郡長・戸長・県会議員・町村長、郵便局長、小中高の歴代校長などで活躍している。
 明治6(1873)年、公立小学校発足時の下北半島の例では、田名部小学校(沖津醇)・大畑小学校(飯田重義)・大間小学校(山内元八)・川内小学校(伊沢信)の校長はすべて会津人で、多くの訓導 (教師) も斗南藩士が務めた。
 想像を絶する辛酸をなめ、子弟たちの教育どころではなかったのも事実である。
 斗南で生まれ育った者は、無学がゆえに、その後、どん底の生活から抜け出し、日本の中央で活躍できた例は皆無に等しい。
 世に名を残した旧藩士の多くは、東京に残留した者たちである。
 ある時期まで、元藩士の間で斗南藩を語ることは、タブーであった。
 昭和16(1941)年、会津若松市が刊行した「若松市史」にも、斗南藩については1行も記述されていない。
 繰り返すが、長賊らが行った斗南藩への挙藩流刑は、許し難い犯罪行為である。

藩主  松平 容大 (かたはる)公

 明治2(1869)年6月、御薬園 (大龍寺とも) にて誕生。 [肖像]
 公式には御薬園とされるが、実際は大龍寺で生れ、この地の名/慶山から幼名/慶三郎と名付けられた。
 同年11月3日、会津松平家の再興のため、新たな陸奥国/斗南藩が立藩。
 明治3(1870)年5月15日、廃藩置県により斗南藩は斗南県となり、藩知事に就任。
 明治17(1884)年7月、子爵となる。
 明治39(1906)年3月、貴族院議員に選ばれて、終世務める。

  ・明治2(1869)年6月3日〜 明治43(1910)年6月11日 (41歳)
  ・別称 慶三郎 (幼名)
  ・父  松平容保
  ・母  佐久(瑞光院、田代孫兵衛の娘)
  ・側室 鞆子(越智/松平武聰の娘、1873〜1941)
  ・兄弟 健雄(次男)、英夫(5男)、保男(7男)
  ・墓地 院内御陵に改葬
  ・神号 存誠(もちさね)霊神


≪立藩時≫
 陸奥国 ◇ 二戸郡 12村
     ◇ 三戸郡 50村
     ◇ 北郡  46村
 後志国 ◇ 太櫓郡
     ◇ 瀬棚郡
     ◇ 歌棄郡
 胆振国 ◇ 山越郡

≪廃藩時≫
 陸奥国 ◇ 二戸郡 16村
     ◇ 三戸郡 67村 + 1町
     ◇ 北郡  48村
 後志国 ◇ 太櫓郡 せたな町北檜山区太櫓
     ◇ 瀬棚郡 せたな町
     ◇ 歌棄郡 寿都町歌棄町
 胆振国 ◇ 山越郡 長万部町

 防備を兼ねた蝦夷/分領は、不毛の地/陸奥国よりも農業としては絶望的な土地だった。
 漁業や林業には適していたが、山国育ちの藩士たちには その技術がなく、林業も当時の輸送手段では生活の糧となるものではなかった。
 藩は、斗南の地を開拓するだけでも困窮を極め、人的・経済的に分領の支援をする余力はなく、藩士52世帯・220余人を入植させるのみだった。
 苦しい財政下で開拓を推し進める最中、斗南藩か消滅し開拓使の保護下に置かれることとなり、移住者の心には動揺が渦巻いた。
 3年間は引き続き家屋・農具料や米・塩が支給されたが、支援年限が過ぎると開拓地から去る者が相次ぎ、開拓は失敗に帰した。
 この地に残り艱難辛苦の限りを尽くした一部の旧/藩士たちの尽力により、現在の地域繁栄の基礎が築かれた。


≪三戸郡  1町+67村≫
三戸町 五戸村 兎内村 切谷内村 上市川村 下市川村 石沢村 中市村
又重村戸来村西越村手倉橋村浅水村扇田村豊間内村志戸岸村
七崎村八幡村相内村玉掛村沖田面村大向村赤石村小向村
蛇沼村袴田村貝守村川守田村泉山村梅内村目時村豊川村
斗内村田子村相米村種子村日沢村白板村原村飯豊村
佐羽内村道地村石亀村杉本村茂市村遠瀬村山口村関村
夏坂村河原木村石堂村大仏村根市村花崎村境沢村長苗代村
上野村根岸村売市村沢里村根城村田面木村坂牛村櫛引村
尻内村浜通村大森村野沢村
≪下北郡  34村≫
田名部村大湊村 (安渡村、大平村)田屋村砂子又村奥内村中野沢村
大利村目名村蒲野沢村野牛村岩屋村尻屋村猿ヶ森村尻労村
小田野沢村白糠村関根村正津川村大畑村下風呂村易国間村
蛇浦村大間村奥戸村佐井村長後村城ヶ沢村川内村檜川村
宿野部村蠣崎村小沢村脇野沢村
≪上北郡  15村≫
野辺地村有戸村馬門村法量村奥瀬村大不動村滝沢村米田村
藤島村伝法寺村横浜村天間館村野崎村中岫村沢田村

 斗南藩へ移住した人数は資料によって異なりハッキリしないが、
  ◇ 移住者総数 17,320人
 ◇ 戸数2,800戸
が妥当であろうとされている。
 従者や夢を託した町民・村民も含まれるので、会津藩士・家族に限定した概数は、
  ◇ 斗南移住者 14,800人
 ◇ 若松で帰農2,000人
 ◇ 東京で就職1,200人
 ◇ 越後高田残留若干名  
 ◇ 不明者2,000人
 ◇ 総人数20,000人
とされる。
 なお、斗南藩に移住しなかった者は藩籍がなくなり、平民となっている。

明治2(1869)年
9月      容保の実子/幼い容大公が家督相続を許される。
11月 3日  容大公に家名再興が許されて、下北地方・三戸郡と二戸郡の一部へ流刑。
 旧盛岡藩領の一部であるが、肥沃な土地は意図的に除外されている。
 当初は「三戸藩」と称していたが、まもなく「斗南藩」と改める。
 中国の詩文「北斗以南皆帝州」から採ったと流布されているが、中国の詩文には そのようなものは存在しない。
 「いつの日か“南/墳墓の地/会津”に帰る」の説は、そうもありなん。
 北斗七星に対する「南斗六星」を語源とし、「南()と斗(戦う)」を意味する。
 射手 (会津) の放とうとする矢じりの先には、宿敵/サソリがいる。
 何十年、いや何百年かかろうとも、いずれはへ恨みを果たす決意で名付けたのである。

明治3(1870)年
1月 5日  藩士の謹慎 (幽閉) が解かれる (流刑に代わるだけとは知る由もない)。
4月18日  接収した旧南部藩領の三戸一帯を取締っていた黒羽藩から、旧盛岡藩三戸代官所において領地引継ぎの手続きを完了する。
 斗南藩では最初、藩庁を五戸代官所跡(現/五戸町)に置いた。
 旧会津藩士および家族たちが、会津・東京・新潟などからの移住を公式に開始したのは、この手続きが完了した翌日からである。
 実際は、4月17日にも東京謹慎組/約300名が海路/品川を出港している。
 移住方法は、船での海路と、陸路に分かれた。
 海路は、アメリカの外輪蒸気船7隻によって移送された。
  ◇ 品川 (東京謹慎) から乗船し、鮫港 (八戸) に上陸
  ◇ 新潟 (高田藩謹慎および若松/残留家族) から乗船し、野辺地に上陸
 多くが海を見るのが初めてという人々であり、船酔いに苦しんだものの、数日で着くことができた。
 4月19日、南部への移住者の第一陣/倉澤平治右衛門率いる300名が八戸に上陸し、翌日の20日には三戸に着いた。 [上陸図]
 5月 2日、先発が田名部に入る。
 6月10日、大平浦(田名部)第1陣/1,500余名が蒸気船ヤンシー号で入港。
 6月19日に新潟港を出港した一行が、21日に野辺地に入港。
 6月、東京/汐留を出港の柴太一郎・五郎など200余名が野辺地に入港。

 陸路の人々は、悲惨な旅路であった。 [陸路図]
 三戸まででも、約16泊17日かかったという。
 未整備の仙台道・松前道を通るの健康な者でも難儀なのに老人や、病人 (119人) を伴っての無謀な道中であった。
 薩長らの「分捕り」で財産は全て略奪されてしまい、家系図と位牌の他は日々使う飯炊き釜と什器類だけの着の身着のまま・無一文である。
 老人や病人だけでも駕籠代の支給を懇願したが、に聞く耳など持ってはいなかった。
  「賊軍・朝敵ノ駕籠使用ナド言語道断、許スベカラズ
 後に斗南藩が一括して支払うとの宿札「旅籠代 (食費込み)」を渡していたが、を はばかり泊めてくれる旅籠は ほとんど無く、役に立たなかったという。 食料の調達すら困難でカツオ節をかじって空腹に耐えるほど過酷を極めた。
 最も悲惨だったのは、初秋から出立した人々であった。
 北の国は冬を迎えており、冷たいみぞれに打たれ、黙々と悪路を北上する途中で多くの方々が命を失い、路傍の露と消えた。
 移住後も、悲惨な環境のもと餓死する方や、厳冬で凍死するなど多くの方が亡くなった。 極貧がゆえに寺に入れなかった方も多かった。
 古文書には、死ぬ人が多過ぎて埋葬する場所にも困ったとの記録がある。
 決して忘れてならないのは、埋葬料の支給を拒否するという鬼畜にも劣る大罪を為したのは、守銭奴・極悪人/井上馨であることである。。
9月 2日  藩主/容大公は、藩士/冨田重光の懐に抱かれて駕籠に乗り駕籠に乗って若松を出立し、五戸へ向かう。
 当初、藩庁 (旧五戸代官所) が置かれた五戸に仮住まいする。
 容大公は幼令であったため、山川浩が権大参事となり、5つの局を組織し、新藩の全責任を負って新領地を治めはじめた。
 旧藩時代の家禄や身分制を廃止し、全国に先駆けた廃刀令や戸籍の作成など国際的にも通用する施政を行なっている。
 子弟の教育も重視し、藩庁が置かれた円通寺に斗南藩校日新館を開校し、領内各地に分校 (郷学校) を開設した。 [日新館絵図]
 国際化に対応するため、東北の長崎を目指す壮大な構想も視野に入れ、港のある田名部へ藩庁を移す。 すぐに安渡村と大平村を合併し大湊村を発足、松ヶ丘に30棟の長屋を建て、湾岸整備を着手している。
10月      藩庁 (円通寺) の田名部の町と田名部川を挟んだ妙見平と呼ばれる丘陵地帯に、未来の藩の拠点とすべく一戸建て約30棟・二戸建て約80棟の小屋を建てて18ヶ所の堀井戸を造り、乗り打ち禁止の1番町から6番町の市街地を造成し「第一新建」と名付け、200戸の移住者を入植させた。 [開墾絵図]
10月19日  最後の移住者63名が若松を出発し、日に3〜4回ワラジを取り替え、空腹に耐えつつ黙々と17日間をかけて三戸に辿り着く。
 同行できた幼児は、7歳以下が5人 (3歳1人) だけで、ほとんどの幼子は、養子として残留者や地元民に将来を託された。
10月22日  青木病院などに収容されている戦傷者・病人で、重症者であっても少しでも動ける藩士109人が、歩けぬ者を大八車に乗せ陸路出発させられた。
 新暦では11月半ば、みぞれに叩かれ、ずぶ濡れになっても着替えすらなく、仙台まで至る前に6割強ほどの方々が命を落とされ、斗南まで辿り着いた方は一人もいなかった。
 よって、最終組との記録からは外されている。
 強圧的に排除した長賊らは、強奪した酒を浴び酩酊しながら「会津払い、会津払い」と狂喜乱舞した。

明治4(1871)年
2月18日  寒さが緩む頃を待って、藩主/容大公が田名部の地に入る。
 旧盛岡藩/五戸代官所を充てていた藩庁を田名部の円通寺に移す。
 円通寺で藩庁の業務を行い、住居の徳玄寺を食事や遊興の場とした。
 幼君のため実際の政務は山川権大参事などの家臣が執行ししていたが、春を迎えてからは家臣の差配により、移住者の激励・士気高揚のため、下北半島内の領内巡行に出向いている。
この月  貿易港とすべく安渡村と太平村を合併し、大湊と統合する。
3月14日  容保喜徳公の禁固 (幽閉) が解かれ、斗南藩へ預替えとなる。
 東京から蒸気船で函館、佐井を経由し、円通寺に到着した。
 容保と容大公の親子初対面であり、やっと水入らずの日々を過ごす。
   ◇ 権大参事 山川与七郎浩
   ◇ 小参事  山内頤庵知通    (明治3年8月18日任)
   ◇  〃   倉澤平治右衛門重為 (明治3年9月 3日任)
   ◇  〃   永岡敬次郎久茂   (明治4年3月21日任)
   ◇  〃   広澤富次郎安任   (明治4年3月22日任)
春      雪解けを持って本格的な農業対策が次々と実施される。
 陸稲・粟・稗・蕎麦・鈴薯・甘藷イモ・大豆・小麦・小豆・煙草・茶・藍などに加え、蜜柑の類まで栽培し、田圃造りまで挑戦した。
 産業への取り組みも怠らず、養蚕のため桑を植栽し、杉苗・雑木なども植え林業にも着手した。
 会津の名産であった漆器細工に加え、鋳物の鋳造、瓦・煉瓦の製造、製紙、機織、畳造りなどの手工業も推進した。  富岡製糸場 (群馬県) から要請を受けて、翌年、操業開始にあわせて五戸/中ノ沢に設けられた救貧所で機織や糸引きなどを学んだ斗南藩士の婦女子15名が派遣されている。
 しかし、先住の農民ですら見捨てていた痩せて過酷な土地にヤマセも加わり、茶や甘藷などを除き、その他の収穫は皆無に近かった。
 栄養失調のため病に伏す者が続出、死者数も数え切れなかった。
7月14日  廃藩置県が行われ、わずか1年数ヶ月で斗南藩は消滅した、
8月25日  領地と藩主を切り離す策により、石高の1割に相当する禄高を与えられた容大公は東京へ召還される。
 藩の再興を夢見て、艱難辛苦に耐えてきた藩士たちは、東京へ去る幼君を哀哭して見送ったが、今後の身の振り方を考えねばならぬ現実に直面する。
 「此の度 余ら東京へ召され 永々汝等と難苦を共にすることを得ざるは、情に於いて堪え難く候へども 公儀の思召在所止むを得ざる所に候
 これまで戝齢をもって重き職を奉じ 遂にお咎めもこうむらざるは畢竟汝等艱苦に堪えて奮励せしが故と歓喜この事に候
 此末益々御趣旨に従い奉り 各身を労し 心を苦しめ 天地罔極の恩沢に報じ奉り候儀余が望むところ也
 (容保)」
9月 4日  二戸郡の一部は岩手県に編入され、残りの斗南県と弘前県・黒石県・七戸県・八戸県・館県が合併し弘前県となった。
 同月の23日には弘前県が青森県と改称される。

 夢を託した斗南藩は、この地の風土に馴染む間もなく、1年半ほどで消え去った。
 やがて、扶持米も打ち切られ生活は破綻、度重なる故なき長賊らからの苦難に翻弄され続けた藩士たちの多くが、斗南を去った。
  ◇ 故郷/会津へ戻る者
  ◇ 旧領地であった京都・大坂へ向かう者
  ◇ 新たな世の中に生きようとする者 (山川浩など)。
  ◇ 留まり活路を見い出そうとする者 (広澤安任など)
  ◇ 長賊らに一矢を報いる者     (永岡久茂など)

 肥沃な土地を意図的に外した不毛な地への流刑といえども、広大な荒れ地の中には、生きるための最低の食料を生み出す耕作可能な土地もあり、少人数で散在しているものの村人が7万人ほどて住んでいた。
 そこへ、4分の1にも当たる1万7千人強の人が送り込まれたのである。
 古来より日本海側は津軽や秋田地方など米どころであったが、太平洋側はオホーツク海気団より吹く冷たく湿った北東風「やませ (山背)」のため米作には向いておらず、とても増加した彼らを賄える土地ではなかった。
 現在でも、冷夏になると大きな被害が出る地である。
 江戸湾防備に就くこと17余年、米国船への定期的な飲料水や食料の引き渡しで船員とも仲良くなり、国際事情も知らされていた。
 当初、少しでも南側にと五戸に藩庁を設けたが、外国との交易時代の到来を予測し、すぐに港のあるに田名部に藩庁を移している。
 周りには海が広がり漁獲も可能だったと思われるが、なにせ山国育ちの身、短期間に漁業を生業には着手すらできなかった。
 そして、1年半ほどで廃藩置県となり、命を細々とつないでいた禄も廃止され、異国の地に置き去りにされたのである。

斗南/日新館と.その後については、こちら

斗南藩の遺構については、こちら

ツールチップあり .
[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]    [蘆名氏]  [伊達家]  [蒲生家]  [上杉家]  [加藤家]  [保科家]