戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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金     山     町

(情報提供) 山内不二彦 氏    .

山内大学家臣の墓 . (横田地内)

山内大学家臣の墓

 3名とも、山内大学の家来。
 長賊ら来襲の報を受け、自刃。
≪小沼安任≫  通称/源蔵。山内大学の家来。26歳。
 戊辰(1868)年9月、一ノ堰で負傷、10月3日に玉梨で死去。
≪横田普通≫  通称/大佐。山内大学の弟。35歳。
 戊辰(1868)年9月15日、一ノ堰で負傷、10月2日に玉梨で自刃。
≪中丸俊成≫  通称/三郎右衛門。長柄者。37歳。
 戊辰(1868)年9月22日、南山で負傷、10月2日に玉梨で自刃。


山内大学
 名は知通。
山内氏の墓域 山内大学の墓  中世から戦国期の豪族/山内氏の子孫。
 戊辰の役では旧家臣たちを集めて山内大学隊を結成し、越後小出島へ出陣、開城まで各地を転戦。
 戦後は斗南藩へ移住し少参事として活躍、後に会津に戻る。
 「明徳院殿大學知通居士」

山ノ内屋敷跡
町指定(平成十七年)重要文化財 史跡
山 ノ 内 屋 敷 跡
 中世の約四百年間にわたってこの地を支配し、「会津四家」と呼ばれた山ノ内氏の居館の一つです。 「新編会津風土記」によれば、東西五十二間 (約九四メートル)、南北四十三間 (約七七メートル) という広い面積で、三方の土塁と屋敷後方の深田堀で囲まれていたといいます。
 国道沿いに東西に延びる土塁と、西の一角に残る一門屋敷神として祀られている稲荷社が昔の面影を伝えています。 なお、山ノ内家には、当時の武具、古文書類が保存されています。
山ノ内屋敷跡の説明文  横田中丸城最後の城主「山ノ内氏勝(うじかつ)」の九代目に当たる直孫で、会津藩執政・斗南藩(となみはん)少参事「大学知通(だいがくともみち)終焉(しゅうえん)の地でもあります。
    平成十八年十月    金山町教育委員会
 [逸話]

善蔵の墓

善蔵 .

 山内大学の家来。
 明治元(1868)年10月3日、野尻で長賊らの余興により斬首される。
 墓碑には、「横田俊憲之墓」とある。

 ▲(金山町横田)

小沼雄八 . (大塩墓地)

小沼雄八の墓

 山内大学の家来。
 慶応4(1868)年閏4月18日、小出島で負傷、5月14日に宮下で死去。
 (若松で死去とも)。
 27歳。
 小出島の戦死者碑にも名前が刻まれている。

 大塩地内には墓域が3ヶ所あるが、集落裏の墓域にある。

 ▲(金山町大塩)

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