殉   難   者   伝

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松 平 容 保 公 の 概 歴

 大藩へ養子に入り、穏やかな未来が待っているはずだった。
 背徳的な輩の暗躍する時代が到来、20歳台の若き藩主には荷が重すぎた。
 保身を謀る松平春嶽の脅迫にも似た執拗な論理のすり替えに、心が乱れる。
 加えて、養子という立場が故に、藩を想うあまり無理を強いた。
 有事には彦根藩主/井伊家が京都守護職に就任する定めなのだが、
藩主/井伊直弼が桜田門外の変で暗殺される不運も加わった。
 藩祖の家訓に追い込まれ、敢えて火中の栗を拾う道しかなかった。
 「遇直なまでに至誠な人」は、責任逃避に汲々とした宗家にも裏切られる。
 孝明天皇だけは、「遇直なまでに至誠な人」を見抜いておられた。

≪ 寡 黙 に 准 ず る 時 代 ≫
明治元(1868)年
9月24日  山川大蔵小森一貫斎・海老名郡治が立ち会い、鶴ヶ城を引き渡す。
 容保の親書が、戦闘を続けている田島在陣/佐川官兵衛に届く。
 (補) 奥羽越列藩同盟で最後まで善戦していた庄内藩も26日降伏。
9月29日  佐川官兵衛が武装解除し、鶴ヶ城へ引き揚げる。
 会津での戊辰の役が終った。
10月17日  容保喜徳公/父子の上京が命じられる。
10月19日  容保と喜徳公/父子は妙国寺を出て東京へ向う。
 追従の臣は7名 (山川大蔵・倉澤右衛門重為・井深宅右衛門重義・丸山主水胤栄・浦川東吾篤・山田季盛・馬島瑞園) に制限されての護送であった。
11月 3日  東京に到着し、梶原平馬手代木直右衛門・丸山主水胤栄・山田貞介・馬島瑞園とともに、鳥取藩/池田慶徳邸に幽閉 (御預監視) される。
 喜徳公は萱野権兵衛内藤介右衛門・倉澤右衛門重為・井深宅右衛門重義・浦川東吾篤とともに、久留米藩/有馬慶ョ邸に幽閉 (御預監視)。
 まもなく、容保と喜徳公/父子の死一等を減ずる条件として戦争責任者の差し出しを求めてきたため、調べを命じられた飯野藩は既に切腹している家老/田中土佐神保内蔵助の2名を戦争責任者として返答した。
 死者の選出は認められず次席である家老/西郷頼母は行方不明のため、萱野権兵衛が戦争責任を一身に負うことになる。
12月 7日  萱野権兵衛の斬首と引き換えに、死一等減じられ永預り処分 (永禁固) が決定される。
  
明治2(1869)年    35歳
2月      側室/名賀が、長女/美弥を出産。
4月12日  幽閉場所が鳥取藩/数寄屋橋邸 (本所横川邸とも) へ変更になり移る。
5月18日  責任を一身に背負い、萱野権兵衛は飯野藩/保科家下屋敷で自刃した。
 会津藩とは親戚である飯野藩の計らいで、武士の作法/座敷での切腹で行われ、新政府には斬首したと届けている。
 介錯をした飯野藩士/沢田武治は箱根で旅館業に転ずるが、仏壇に権兵衛の位牌を祀り、死に臨む際の潔さを語る時には常に流涙していたという。
6月 3日  側室/佐久が、長男/の容大公 (幼名/慶三郎) を出産。
9月28日  罪を許す沙汰を受けたが、幽閉は継続された。
9月28日  容大公が家督相続を許される。
9月29日  実子/容大公をもってお家再興を願い出るよう内示を受ける。
 この時点では、藩の流罪を謀っているなど知る由もなかった。
11月 3日  容大公に、下北地方・三戸郡と二戸郡の一部の地/3万石で家名再興が許される。 旧盛岡藩領の一部であるが、肥沃な土地は意図的に除外されているのを後に知る。
12月 7日  和歌山藩 (旧紀州藩) への預替えが決まる。
12月21日  和歌山藩赤坂屋敷に移され、幽閉 (永禁固) される。
  
明治3(1870)年    36歳
1月 5日  藩士たちの幽閉 (謹慎) が解かれる。 容保は解かれず。
4月18日
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 流刑ともいえる斗南藩への1年近くに亘る移動が、順次、東京謹慎地・越後/高田謹慎地会津から命がけで開始された。
 薩長ら雑兵どもの「分捕り」で財産は奪われ、生活に最低限必要な衣類や什器類などを持つだけでの出立であった。
 老人や病人・負傷者を抱えての無謀な移動は、斗南の地に辿り着けず、飢えや寒さで行き倒れになって路傍に絶命する人々も少なくなかった
9月 2日  知藩事/容大公は、藩士/冨田重光の懐に抱かれて駕籠に乗って若松を出立し、五戸藩庁へ向かう。
  
明治4(1871)年   37 歳
2月18日  寒さが緩む頃を待って、知藩事/容大公が田名部の地に入る。
3月14日  喜徳公とともに斗南藩へ預替えとなり、16日に引き渡される。
7月14日  廃藩置県が行われ斗南県となったものの、同年9月4日に弘前県・黒石県・七戸県・八戸県・館県との合併、同年9月23日に青森県に編入、二戸郡の一部は岩手県に編入され、斗南の名は実質1年半ほどの短命で消滅した。
8月25日  7月に斗南藩入りしていた容保と、領地と藩主を切り離す策により容大公も東京へ召還される。
  
明治5(1872)年    38歳
1月 6日  養子の嫡男/喜徳公・実弟の桑名藩主/松平定敬とともに幽閉 (永禁固) が解かれる。
7月20日  斗南藩消滅で、困窮を極めた藩士たちは「これまでの苦労は何だったのか」と不満が爆発した。
 不測の事態を危惧した山川浩 (大蔵) たち幹部の要請により、田名部の藩庁/円通寺に入る。
8月25日  約1ヶ月滞在し、東京へ向う
 「この度 余ら東京に召され 永々汝らと艱苦を共にするを得ざるは情において堪え難き候えども、公儀の思召在所 やむを得ざる所に候
 これまで賎齢をもって重き職を奉じ 遂にお咎めも蒙らざるは 畢竟汝ら艱苦に絶えて奮励せしが故と歓喜このことに候
 この末ますます御趣意に尊び奉り 各身を労し 心を苦しめ天地罔極の恩沢に報い奉り候儀 余が望む所なり

 元/藩士たちは、この地を去り全国に散り散りになった
  
明治6(1873)年    39歳
8月22日  喜徳公との養子縁組を解消する。
 先の8月11日に松川藩知事/松平頼之 (実父/斉昭の22男で喜徳公の実弟) が急死したため、頼之の養子になり松川藩の家督を継いだ。
この年    側室/名賀が次女/泡玉院を出産するも、2日後に夭折。
  
明治8(1875)年    41歳
この年    3男 (側室/名賀の子) が夭折。
この年    4男 (側室/名賀の子) が夭折。
この年    あまりにも非道な仕打ちを受け続ける実弟に対して気の毒に思った実兄の尾張藩主/徳川慶勝は、家督を譲ろうとしたが固辞した。
 「藩主のために命を落とした藩士や家族の数は 3千人にも及んでしまった  すべて藩主であった私の不徳の致すところであり 大変な状態の会津を捨てて他家を相続し栄華を受けることなどできない (口伝)」
  
明治9(1876)年    42歳
この年    藤田五郎(斉藤一)と大目付/高木小十郎の娘/時尾の婚儀の上仲人をする。
 下仲人として山川浩佐川官兵衛が取り仕切る。
11月 1日  従五位に叙される。
  
明治13(1880)年   46歳
2月 2日  日光東照宮宮司に就任する。
3月13日  上野東照宮祠官に就任し兼務する。
5月18日  正四位に叙される。
6月      土津神社祠官に就任し兼務する。
  
明治16(1883)年   49歳
この年    会津に転居する。
  
明治17(1884)年   50歳
この年    日光東照宮宮司と上野東照宮祠官を辞任する。
 2月28日  実家でお預りの義姉/照姫が東京/飯野藩邸で死去。
  
明治20(1887)年   53歳
9月      日光東照宮宮司に復職し、二荒山神社宮司も兼務する。
12月26日  従三位に叙される。
  
明治21(1888)年   54歳
この年    東京府皇典講究所監督に就任し兼務する。
この年    実子/容大公同志社英学校に入学。
 1才にも満たないうちに斗南藩主になり、自由奔放に育てられたため問題児に育ってしまう。 困って山川浩に相談したところ山本八重の兄/覚馬から「教育の厳しいキリスト教の学校で学ばせるしかない」の提言を受ける。
 補育役の兼子重光 (会津出身) の指示には従うが性格は改善されず、翌年の明治22(1889)年に退学し学習院に転校、陸軍への道を進むことになる。
  
明治22(1889)年   55歳
この年    栃木県皇典講究所監督に就任し兼務する。
  
明治23(1890)年   56歳
この年    東京 (小石川区小日向第六天町8番地) に転居する。
  
明治26(1893)年   59歳
9月22日  二荒山神社宮司を辞任する。
この年    孝明天皇の九条夙子妃から、当時、滋養に良いとされた牛乳を見舞いに賜った。 先帝が亡くなられて20年以上も経つのに、5年に渡る京都守護職としての功績と、反して西軍の欺瞞に満ちた悪行の事実とを皇后がお持ち続けておられたからといわれる。
 ちなみに、牛乳が苦手だったためコーヒーを加えて服用したとのこと。
12月 4日  特旨により正三位に叙せられる。
12月 5日  東京/小石川区小日向第六天町8番地 (荒木坂を上った辺り、現/文京区小日向1丁目) の自邸で死去 (肺炎)。
 遺体を清める際、首から提げてられていた筒を開けて見ようということになった。 常に身から離さず付けていたことは知っていたが、生前に一言も話さなかったので、中身については誰も知らなかった。
 筒の中の錦で包まれものを開くと、京都守護職時代に孝明天皇から下された御宸翰と御製2首が現れ、家族たちは驚いたという。

御宸翰  [御宸翰(写)]
 堂上以下陳暴論不正之所置 増長付痛心難堪下内命之処速ニ
 領掌憂患掃攘朕存念貫徹  之段仝其方忠誠深感悦之餘右
 壱箱遣之者也       文久三年十月九日

 「堂上以下が 暴論をを連ねて 不正の処置 増長に付き 痛心堪え難く 内命を下したところ 速やかに了承し、憂患を払ってくれ 朕の存を貫いてくれた段 全く その方の忠誠に深く感悦のあまり 右一箱を遣わすものなり」 (補) 堂上とは清涼殿に昇るることを許された公家など。

御 製  [御製(写)]
 たやすからさる世に 武士の忠誠のこゝろを よろこひてよめる
 和らくも 猛き心も 相生の 松の落葉の あらす栄へむ
 武士と こゝろあはして いはほをも つらぬきてまし 世々の思ひて

 「困難な世に 武士の忠誠の心を 喜んで詠んだ
  平穏を望む心(天皇)も 勇猛な武士の心(容保)も、一つの根の相生の松のように共に栄えてほしいと願う   武士と心を合わせれば どんな困難にも打ち勝ち 代々伝えられるだろう

 同一の勅語に「忠誠」の文字が2回も記載されるのは、空前絶後の極めて珍しいとのこと。
12月 9日  葬儀は神式で行われ、内藤新宿の正受院に埋葬された。
 神号は、至誠の人に相応しい「忠誠(まさね)霊神」である。

 孝明天皇から賜った御宸翰と御製を知らしめれば、汚名など受けずにすんだ。
 しかし、終生 明かすことはなかった。
 そして、誰にも知らせることもなく肌身離さず持ち続けた。
 存在を知って恐れ戦いた新政府は、高額での買い取りを申し出たが、
決して応じようとはしなかった。
 非公式に賜った私信を公開し、保身に使う卑怯な振る舞いは出来なかったのだ。
 「義に死すとも不義に生きず」が口癖だったから、間違いはあるまい。
 遇直なまでの至誠を理解していただいた方への恩義を貫いたのだ。

明治30(1897)年
11月19日  死後4年目に何故か松平邸の100メートルほど近くの新坂上に、慶喜が引っ越してきたのだが、家族通しの付き合いがあったとは聞いていない。
 鳥羽伏見の戦い後、保身を謀った慶喜から江戸城の登城禁止をされて以来、日光東照宮の宮司をしていた時代、参拝にやって来た時の1度だけ会う機会はあったが会話すら交わしていない。
  
大正6(1917)年
6月9日  正受院から会津松平家墓所/院内御陵に改葬される。
  
昭和3(1928)年
1月18日  4男/恒雄の長女/節子姫と、秩父宮雍仁親王の婚儀が発表。
9月28日  孫/勢津子姫 (節子姫) と、秩父宮雍仁親王の婚儀が催行。
 謂われ無き汚名は、晴れた。
2千首以上の和歌を残している。

松平容保公弔歌の碑

白虎隊士墓域の歌碑 (飯盛山)

 明治17(1884)年、墓前祭で。

  幾人の 涙は石に そそぐとも
    その名は世々に 朽じとぞ思う


白虎隊殉難詩碑

白虎隊殉難詩碑 (飯盛山)

 紀州藩邸に幽閉中、白虎隊士自刃の絵を見て。

  千代までと そだてし親のこころさへ
      推しはかられて ぬるる袖かな


松平容保の歌(花塚)

花塚の歌碑 (飯盛山)

 花塚の建立の際。

  花といふ 花をあつめて此の塚の
     いしもさこそは 世にかほるらめ


三百年祭記念歌碑

三百年祭記念歌碑 (興徳寺)

 明治24(1891)年の、蒲生氏郷公「若松開市三百年祭」への祝歌。
 碑は、大正13(1924)年に建立。

  百年(ももとせ)を 三たび かさねし若松乃
     さとはいくちよ 栄え行らん


伊佐須美神社の歌碑

薄墨桜の歌碑 (伊佐須美神社)

 薄墨桜を詠んだ歌。

  世の人の 心や深く染めぬらん
    うす墨桜 あかぬ色香に


攬勝亭の歌碑

攬勝亭

 非公開。
 かつては会津三庭の1つ (御薬園、可月亭) だった。

  風をのみ いとひし庭のもみぢばを
    けふは雨にも 散らしぬる哉


黒谷会津墓地の入口

黒谷会津墓地 (金戒光明寺黒谷会津墓地)

 さす月よ うつるのみかは友ずりの
    こゑさへ きよし 窓の呉竹


戊辰戦争戦死者招魂碑

戊辰戦争戦死者招魂碑 (澄月寺)

 戊辰の役/殉難者の二十三回忌/供養の際。

  今もなほ したう心は かわらねど
     はたとせあまり 世は過ぎにけり



<当家の伝承による>  .

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