殉   難   者   伝

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松 平 容 保 の 概 歴

 大藩へ養子に入り、穏やかな未来が待っているはずだった。
 背徳的な輩の暗躍する時代が到来、20歳台の若き藩主には荷が重すぎた。
 保身を謀る松平春嶽の脅迫にも似た執拗な論理のすり替えに、心が乱れる。
 加えて、養子という立場が故に、藩を想うあまり無理を強いた。
 有事には彦根藩主/井伊家が京都守護職に就任する定めなのだが、
藩主/井伊直弼が桜田門外の変で暗殺される不運も加わった。
 藩祖の家訓に追い込まれ、敢えて火中の栗を拾う道しかなかった。
 「遇直なまでに至誠な人」は、責任逃避に汲々とした宗家にも裏切られる。
 孝明天皇だけは、「遇直なまでに至誠な人」を見抜いておられた。

≪  謂  れ  無  き  受  難  ≫
慶応4(1868)年    34歳
1月 3日  戊辰の役が鳥羽伏見で勃発。
1月 6日  戦闘の最中、敵前逃亡する旧将軍/慶喜に従い、激戦中の藩士たちを置き去りにし、開陽丸で大坂を脱出する。
 旧将軍と藩主のいなくなった幕軍・藩兵は、撤退を余儀なくされる。
1月10日  旧将軍/慶喜とともに藩主/容保の官位を剥奪する偽勅と、偽りの錦の御旗をが持ち出す。
  
2月 4日  藩主を喜徳公に譲り、隠居・謹慎し恭順の意を表明する。
2月 8日  旧将軍/慶喜から、桑名藩主/松平定敬とともに登城を禁止される。
2月15日  江戸藩邸に藩士を集め、戦闘中に置き去りにしての東帰を詫びる。
2月16日  江戸を出て帰国の途に就く。
 京都上洛の際とは打って変わって、わずか16騎を従えての帰国であった。
2月18日  婦女子たちの帰国を開始する。
2月20日  異例の速さで会津に到着し藩主/喜徳公や義姉/照姫、家老などは鶴ヶ城に入るが、容保は恭順の意を示すため御薬園で謹慎する。
2月27日  恭順の謹慎を続ける一方、最悪に備えて軍制改革に着手させる。
  
3月 1日  鳥羽伏見での負傷兵 (江戸藩邸で療養中) の帰国を開始させる。
 3日からは江戸詰の藩士も 残留者30名ほどを残し帰国を開始させる。
3月10日  フランス式に軍制改革し、朱雀隊青龍隊白虎隊玄武隊を創設。
3月12日  藩主/喜徳公とともに父子臨席の上、新たに編成された正規軍の発足式が三の丸において執り行われた。
3月14日  最初の国境防衛として、砲兵隊に日光口へ出陣を命じる。
3月20日  津川方面の国境防衛として、青龍士中三番隊に出陣を命じる。
3月21日  朱雀寄合一番隊に石筵口、朱雀足軽一番隊に大平口へ出陣を命じる。
3月22日  鹿沼で部隊を再編制した幕臣/古屋佐久左衛門隊が藤原口から会津へ入り、容保に拝謁し、日新館に宿陣する。  24日に部隊名を「衝鋒隊」に改名し、25日に会津を発ち矢板・高田を経て飯山城を目指す。
3月23日  会津藩商人/鈴木多門を新潟に遣わし、エドワード・スネルからヤーゲル銃780挺を購入する。
3月28日  鶴ヶ城で米沢藩の使者に会い、恭順の意向の斡旋を依頼する。
  
4月 1日  家老/田中土佐たち重臣が連名で、太政官へ嘆願書を提出する。
4月 8日  前日に滝沢峠を越えて城下に入り宿陣していた唐津藩主/小笠原長行へ、手代木直右衛門と大野英馬を遣わす。
 長行は函館戦争まで戦い抜き、明治24(1891)年まで生き抜く。
 辞世の句「夢よ夢 夢てふ夢は夢の夢 浮世は夢の 夢ならぬ夢」。
4月 9日  庄内藩との密約同盟の締結を命じ、南摩八之丞と佐久間平介を遣わす。
4月10日  藩命により南摩八之丞と佐久間平介は、庄内藩/石原平右衛門邸にて両藩の同盟を締結する。
4月11日  (補) 旧将軍/慶喜は江戸城を引き渡し水戸へ退去する。
4月20日  西郷頼母を白河口方面総督に任命し、猪苗代に布陣させる。
4月22日  梶原平馬たちを米沢藩に遣わし、謝罪嘆願書を届ける。
4月29日  梶原平馬を遣わし、関宿で仙台藩/坂英力・但木土佐と会談させる。
 翌日の閏4月1日、「開城、削封、藩主の首級」の謝罪条件を受ける。
4月 末  新撰組/近藤勇処刑の報を受け、天寧寺墓を建立し法名をつける。
  
閏4月 1日  唐津藩世嗣/小笠原長行を、鶴ヶ城に招く。
閏4月 5日  新選組/斉藤一らが拝謁し、軍資金を賜る。
 その後、新選組の130余名がに白河口へ出陣する。
 幕軍/大鳥圭介が田島で部隊を再編成する。 恭順謹慎中のため藩領への入国を認めていなかったが、開戦必死の状況下で前々日の3日に許可。
閏4月 8日  使者/伊東左太夫・佐々木斎宮を遣わし、湯原宿にて米沢藩・仙台藩の使者に対して謝罪恭順の条件案 「首謀者3名の首級、藩主の蟄居、領地削減」 を表明する。
閏4月17日  使者/片桐八重次郎・小川栄・川村又五郎・石山音吉を遣わし、下守谷村/太田惣右衛門宅にて、二本松藩・仙台藩と協議させる。
閏4月20日  会津藩兵が攻撃を開始し、白河城を奪取する。
 しかし、5月1日には再び奪われる。
閏4月29日  仙台藩にて開かれた奥羽越列藩同盟の会議に、手代木直右衛門・小林平角たちを列席させる。
  
5月 3日  使者/有泉寿彦・井深守之助・諏訪常吉南摩八之丞・井上金庫を米沢へ遣わし、援軍の出兵を要請する。
 (補) 奥羽25藩による奥羽越列藩同盟が正式に成立。
5月 4日  佐川官兵衛を遣わし、摂田屋村にて長岡藩総督/河井継之助と軍事同盟を結ぶ。
5月27日  藩主/喜徳公が、砲兵隊白虎士中一番二番隊を率いて原宿に宿陣。
 翌々日の29日に福良本陣へ転陣し、6月10日まで滞陣する。
5月30日  (補) 卑劣極まりない三春藩が奥羽越列藩同盟に留まる姿勢を見せながら、陰では卑怯にも裏切っていた (後に判明)。
  
6月 2日  上野戦争で落ち延びてきた寛永寺執当職 (総括責任者)/覚王院義観を鶴ヶ城に招く。
6月 5日  (補) 輪王寺宮公現法親王の一行が、会津領/猪苗代に入る。
6月 6日  輪王寺宮公現法親王を鶴ヶ城に迎え謁見、金の間を御座所とする。
6月12日  藩主/喜徳公が、勢至堂近辺の守備を巡視し三代村に入る。
6月16日  (補) 輪王寺宮が、奥羽越列藩同盟の盟主を承諾、翌々日の18日に米沢へ向けて出立する。
6月23日  鶴ヶ城/三ノ丸で伝習第一大隊の訓練を上覧し、終了後に酒宴を設ける。
6月24日  (補) 棚倉城が陥落。
6月25日  (補) 守山藩が降伏。
6月29日  白河城攻撃の最中、卑劣な三春藩が裏切る (関が原での小早川のように)。
 背後を衝かれた仙台藩・二本松藩の両藩は撤退を余儀なくされ、白河攻撃は会津藩単独で行う状況になってしまう。
 (補) 湯長谷藩が降伏。
  
7月      弟の桑名藩主/松平定敬が、津川を経て興徳寺に入る。
7月 1日  佐川官兵衛を、軍事奉行・若年寄に任ずる。
7月 2日  白河口での戦績不振により西郷頼母の総督を罷免し、後任に内藤介右衛門を任ずる。
 見附に布陣の朱雀足軽四番隊を、栃尾へ援軍として派遣する。
7月 8日  藩主/喜徳公福良本陣に宿陣し、白虎士中一番二番隊の演習を謁見。
7月15日  (補) 平藩が降伏。
7月14日  白石城内に軍議所/公議府が開設されたたため、南摩綱紀たちを白石に遣わし、輪王寺宮公現法親王に拝謁する。
7月15日  家老/一ノ瀬要人が寺泊方面の同盟軍/軍議所総督に就任を承諾する。
7月19日  幕軍の遊撃隊に使者を送る。
7月20日  遊撃隊士/人見勝太郎が鶴ヶ城で拝謁し、配下に入ることを願い出る。
7月23日  藩士70名を引き連れ遊撃隊に参加していた上総請西藩主/林昌之助が、鶴ヶ城で拝謁。
7月24日  藩主/喜徳公福良本陣に宿陣し、藩兵の演習を謁見する。
7月26日  大鳥圭介率いる旧幕軍/伝習第二大隊が、本郷村に布陣する。
 本隊を残し大鳥圭介は、鶴ヶ城に赴き拝謁する。
7月28日  白虎士中一番隊に護衛させ、津川方面へ出馬し高久村の本陣に入り、藩兵を励ます。
7月29日  高久村から巡視しつつ、坂下の本陣に入る。
 (補) 長岡城がに奪還され、長岡藩総督/河井継之助は重傷を負う。
7月31日  藩主/喜徳公が、福良本陣より勢至堂の守備を巡視して三代に至る。
  
8月 1日  坂下の本陣を出て、野沢村の本陣に入る。
 この地で隠居していた田中土佐神保内蔵助・山崎小助を見舞い、家老職扱いの任を申し渡す。
 佐川官兵衛を、軍事奉行頭取・若年寄格に任ずる。
 会津藩の意向を受け、伝習第二大隊が勝軍山へ向かう。
 (補) 三根山藩が降伏。
8月 3日  野沢村に逗留中の容保に、米沢藩の使者が北越での戦況を説明する。
8月 4日  (補) 村松藩が降伏。
8月 6日  (補) 長岡藩、中村藩が降伏。
8月 9日  野沢村で村松藩主/堀直賀と面談し、米沢へ向う直賀を見送る。
8月11日  (補) 村上藩が降伏。
8月12日  野沢村の本陣において、佐川官兵衛を家老に任じ1千石を加増する。
 官兵衛の代わりに町野源之助朱雀士中四番隊の中隊頭に任ずる。
 会津で再起を計る河井継之助が、塩沢村の矢沢宗益宅に投宿する。
8月13日  野沢村の本陣から坂下の本陣に移る。
8月14日  佐川官兵衛を従えて、坂下の本陣から鶴ヶ城に戻る。
8月16日  (補) 会津で再起を願った河井継之助は、傷が癒えず死去
    荼毘に伏され、遺骨は建福寺仮埋葬される。
8月19日  軍事奉行/小森一貫斎を遣わし、勝軍山への布陣を伝習第一大隊と新選組に要請する。
8月21日  母成口が破られが初めて会津領地に侵入する。
8月22日  早馬にて登城してきた猪苗代に布陣の永岡権之助から、母成口が破られ猪苗代に敵兵侵入との報を受ける。
 田中土佐神保内蔵助萱野権兵衛梶原平馬佐川官兵衛たちを急ぎ登城させ緊急軍議を発令するが、主力部隊は日光口・越後口の国境に展開しており戦える正規軍は不在だった。
 まずの進軍を食い止めるべく、敢死隊游軍隊奇勝隊十六橋の破壊を命ずる。
 城下の15歳から60歳までの藩士と、白虎士中一番隊二番隊に登城命令を発令し、萱野権兵衛には桑名兵を率いて大寺方面へ、西郷頼母には水戸兵を率いて背あぶり峠へ向かわせ、午後1時頃に藩主/喜徳公鶴ヶ城に残し、護衛隊/白虎隊士中二番隊を従え自ら滝沢本陣へ出陣する。
 到着後すぐに前線から援軍要請があり、止む無く白虎隊士中二番隊を出動させる。 台風による暴風雨の中での初陣だった。
8月23日  十六橋が破られ敵兵が迫るとの報で、帰城を決め滝沢本陣を出る。
 帰城すると城門は閉じられ、この日より籠城戦となる。
 容保の正室/敏姫は夭折しており、義姉/照姫が家中で最も身分の高い女となり、籠城戦で城内の婦女子の総指揮をとる。
 山本八重も男装し、スペンサー銃を持参して入城。
 弟の桑名藩主/松平定敬は、兄/容保の命を受け米沢城に向う。
 城下に侵入したによる殺戮、婦女子の自刃神保内蔵助田中土佐の両家老が戦場にて敵兵侵入の責を取り自刃、火焔に包まれた鶴ヶ城を落城と誤認した白虎隊の自刃など修羅場と化した。
8月24日  国境防備の全軍に帰城命令が届く。
8月25日  正規部隊が続々と帰城する。
 山川大蔵率いる1千名の先頭に伝統芸能/彼岸獅子を立て、堂々と行進して西出丸から入城を果たした逸話は あまりにも有名。
 家老/西郷頼母が長男/吉十郎を連れて城下から去る。
 26日〜  奇襲、夜襲をかけ、を郭外に追い出す。
8月29日  総大将/佐川官兵衛率いる9部隊1千名が城外に討って出て激闘が繰り広げられる (長命寺の戦い)。
 多くの指揮官・藩士たちを失い、佐川官兵衛は帰城せず、城内への物質補給などを含め、終戦まで城外にて戦う。
8月30日  南摩綱紀諏訪伊助・柏崎才一を寒風沢に遣わし、唐津藩世嗣/小笠原長行も加わり榎本武揚に援軍を要請するが、武器などの提供にとどまる。
  
9月 2日  朱雀士中二番隊の中隊頭 (隊長)/田中蔵人が戦死したため、長谷川勝太郎を中隊頭に任ずる。
9月 3日  堀粂之助を米沢藩に遣わすが、援軍の要請を拒否され自刃する
9月 4日  凌霜隊鶴ヶ城への入城を果たし、籠城戦に参加する。
9月 5日  手代木直右衛門秋月悌次郎を米沢藩に遣わし援軍を要請するが、拒絶され逆に降伏を勧められる。 米沢藩が降伏を決意したと感じる。
  
戊辰(1868)年
9月10日  前々日に山本帯刀率いる長岡藩兵隊が濃霧のため敵を味方と誤認し捕縛され、昨朝に全員が斬首されたとの報が入る。
 熊倉の会津本陣に、米沢藩から降伏勧告の使者が来る。
 (補) 二本松藩、米沢藩が降伏。
9月14日  鶴ヶ城に向けて、の一斉砲撃が始まる。
9月15日  陣将/萱野長修の密命により登城した軍事奉行/樋口源助と町野源之助から降伏を進言を受ける。
9月16日  米沢藩陣営から帰城した手代木直右衛門秋月悌次郎から、米沢藩主/上杉斉憲の降伏の進言する書簡を受け、すで米沢藩が降伏したことを知る。
9月17日  降伏・開城を決意する。
 町野源之助・樋口源助・水島弁治小出鉄之助に、降伏の使者を密かに命じる。 4名は直ちに行動に移り、町野源之助・樋口源助は農夫に変装し米沢藩陣営へ、翌日に手代木直右衛門・秋月悌次郎・桃沢彦次郎は薩摩藩陣営へ、翌々日に鈴木為輔・川村三助は土佐藩陣営へ赴く。
 (補) 上山藩が降伏。
9月18日  (補) 棚倉藩、天童藩、村松藩が降伏。
9月19日  手代木直右衛門・秋月悌次郎ととの間で「21日停戦」が確認される。
9月20日  城中の藩士たちに開城の決意を伝える。
薩奸長賊となら まだ十分に戦えるが、天皇へ弓を引くことはできない
 重臣たちの議論が沸騰し、悲憤激怒した儒者教授/秋山左衛門 (57歳)・隠居組/庄田久右衛門 (64歳)・玄武足軽二番隊中隊頭/遠山豊三郎の3名が自刃する。 「腹切りかねて咽喉を突きけり
9月21日  城外在陣の家老・重臣に親書を発する、
9月22日  正午に内藤邸と西郷邸の間で降伏文書に調印 (泣血氈の誓い)。
 鶴ヶ城に戻り家臣に別れを告げ、籠城戦での戦死者を葬った梨子園跡空井戸に香華を供え、藩主/喜徳公とともに謹慎先の妙国寺に入った。
 遅れて義姉/照姫も妙国寺に入り幽閉される。
 妙国寺は日什大正師の生誕・入滅の霊場として創建された寺である。
 家老/萱野権兵衛など重臣たちが自分たちの処罰と引き換えに、藩主への寛大な処分を求める嘆願書を提出する。
9月23日  武装解除した籠城者は、婦女子と14歳以下・60歳以上の男子は塩川へ、傷病者は青木村へ搬送され、藩兵は猪苗代に護送され幽閉 (謹慎) となる。
<当家の伝承による> .
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