戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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長 命 寺 (ネットで墓参)

▲(会津若松市日新町5-51 Tel. 0242-27-7003)
長命寺については、こちら。

戦死墓 (長命寺)

 阿弥陀寺へ入り切れなかった藩士145名の墓がある。
 その姓名は、今なお分かっていない。
 春の4月23日と、秋の9月23日の年2回、墓前祭が行われる。

 それ以前にも、住職が無残な遺骸を見かね、密かに30数体を集め埋葬したとも伝えられている。 長賊らの知るところとなり、掘り起こして元の場所に放置するよう命じられたが、住職は頑として応じなかったという。

 明治11(1878)年、旧会津藩士たちによって墓碑が建立された。
 10余年過ぎても、墓碑名には「戦死者」の3文字以外 許されなかった。

鈴木三郎、五郎の墓

鈴木三郎、五郎の墓

≪鈴木三郎 (重利)≫  朱雀寄合一番隊/一柳隊。
  慶応4(1868)年8月23日、戸ノ口原で戦死。
  29歳、「忠孝道儀居士」。
  戸ノ口原/戊辰戦争戦死者の墓群にも、墓がある。
≪鈴木五郎 (重季)≫  白虎寄合一番隊/原隊。
  戊辰(1868)年9月15日、一ノ堰で負傷し10月8日に雨屋で死去。
  16歳、「眞慶勇儀居士」。
  飯盛山常金寺多磨霊園にも、墓がある。

長命寺戊辰戦懐古

長命寺戊辰戦懐古の碑

 平成9(1997)年、建立。

         天 鶴
 撃つもよし 撃るるもよし 瓦毛の 砕けてのちは 唯の土くれ
      百年の弾痕 今だ尚 消えず
      秋風何をか語る長命寺の畔
      無名の万骨苔石に鎮まり
      香煙 新に迫る忠魂の前

          長 命 寺 の 戦 い

戊辰戦没 會津藩士戦死者の墓

 埋葬地とは別に、壮烈な戦闘が展開された激戦地の1つでもある。
 慶応4(1868)年8月29日、家老/佐川官兵衛率いる藩士は郭外に出て白兵戦に及んだ。
 西軍が立て籠もる長命寺が、主戦場となった。
 屍を乗り越え果敢に突入し一時は奪回したのも束の間、西軍の増兵により再び長命寺は奪われる。  「姓名」と「八月二十九日討死」と書いた紙を懐中に入れての出陣だった。
 佐川官兵衛の父/幸右衛門も、息子の忠告を聞き入れず出陣、負傷し戦死した。
 真っ赤な血に染まった下着には、墨文字で黒々と、
   「慶応四年八月二十九日討死 佐川幸右衛門直道 生年六十三歳
ど書かれていた。
 出陣した約1千余名の内、1百名を超える者が散った。
 戦死者については、こちら。

 奪回できなかった佐川官兵衛は、城には戻らず城外にて戦い続けた。
 結果として、城内への物資運搬ルートを、開城するまで確保し続けることになる。

弾痕の残る土塀

弾痕の残る土塀 弾痕の残る土塀
弾痕の残る土塀

 慶応4(1868)年8月29日、"長命寺の戦い"があり、城下最大の激戦地の1つである。
 当時の弾痕の残る塀は、昭和39(1964)年の新潟地震により崩壊が激しくなり、平成4(1992)年に修復された。 新しい壁にレプリカの弾痕を埋め込むなどして、忠実に再現しているとのこと。

 白線の五條は最高の寺格を表すそうで、東北では3ヶ所しか許されていないとのこと。

以上の緑色の文は、現地の「説明板」から  .
画像クリックで現地の説明板の写真表示も一部あり  .
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