会  津  の  著  名  人

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《 す 》 幕 末 よ り 前

 須田 新九郎  すだ しんくろう、安永7(1778)年〜嘉永3(1850)年8月13日
 名:義保。
 遠祖/須田九朗太夫義実の孫/満親相模守が上杉家に仕官し上杉景勝公の会津移封に従ったが、再び米沢へ移封の際は若松で商人となる。
 新九郎は、末裔である呉服商の嫡男として鶴ヶ城下にて誕生。
 寛政10(1798)年、家老/田中玄宰の進言により東講所と西講所を統合し新たな藩校創立が検討されるも、資金の調達難で頓挫していた。
須田新九郎頌徳碑  寛政11(1799)年4月13日、計画を知るや「藩校は国の礎であり、今までの御恩に報いる」として、造営の費用全額の拠出を申し出た。
 享和 3(1803)年、東西約120間・南北約60間の敷地に水練場や天文台まで備えた校舎が、鶴ヶ城の西隣に全国有数の藩校/日新館が完成した。
 建設費は3千両に達するも、躊躇することなく全額を負担した。 この功績により学校普請方勤の肩書が与えられて士分に取り立てられた。
 頌徳碑は日新館跡
 墓は本覚寺

 長命寺の墓碑「会津藩士戦死者之墓」建立者75人の中に名を連ねる同姓同名の者は天保9(1838)年12月生まれの別人だが、子孫であろう。

《 す 》 江  戸  幕  末

 杉浦 成忠  すぎうら しげただ、
 天保11(1840)年〜明治29(1896)年5月17日 (57歳)
 通称:佐伯。
 藩士/杉浦藤八郎の分家に誕生。
 鳥羽伏見の戦いでは、白井大砲隊として奮戦、
 その後、青龍士中三番隊/小隊頭として北越戦線など各地で参戦し、2度も負傷。
 開城後は、塩川での拘束を経て、高田/別院に幽閉(謹慎)。
 後に、斗南藩に移住し、試補官庶務掛に就く。
 明治10(1877)年、西南戦争に第二少警部として出征し、積年の恨みを晴らすべく奮戦し、戦功により陸軍憲兵中尉に昇進。
 著書「戊辰戦記結草録」。
 墓は乗誓寺。 「速證院釋一乗大居士」。
 杉原 凱  すぎはら がい、文化3(1806)年〜明治4(1871)年2月14日 (享年66歳)
 通称:外之助。
 幼い頃から文学を好み、儒学者の藩士/安部井帽山に師事する。
 天保11(1840)年、藩校/日新館素読所北学館の学館預かりとなる。
 天保14(1843)年、北学館長に就任。
 医学寮師範補助を経て、本草科および薬学一般の教授を歴任。
 日新館を退いた後は自宅で経史などを教える。
 明治3(1870)年、斗南藩/三戸に移住し、学塾を開き子弟教育を開始、
 明治4(1872)年、志半ばで、死去。
 三戸大神宮に埋葬された。
 明治19(1886)年、門下の沖津醇・渡部乕次郎など10余名が、埋葬地である三戸大神宮の境内に「杉原凱先生之墓」を建立。
 墓碑は「三戸三碑 (会津三碑)」の1つ。
 鈴木 利助  すずき りすけ、文化14(1817)年〜明治21(1888)年
 豪農/作左衛門の長男として本郷村 (会津美里町) にて誕生。
 家業を姉に譲り、本郷焼の磁祖/佐藤伊兵衛の門人となって、白磁の研究に没頭する。
 藩御用絵師/斎藤伊織から陶画を学び、後に御用物師に就く。
 文久2(1862)年、加藤平八らと尾張や長崎などを視察し、顔料/呉須を手に入れて帰国、染付白磁製法の改良に尽力する。
 成形の名工/加藤平八と共同制作に励み、数多くの名品を残す。
 墓は本郷墓地。
 鈴木 利兵衛  すずき りへえ、天保5(1834)年〜明治37(1904)年
 初名:幸蔵。 隠居名:利輔。
 初代/鈴木屋利兵衛の子、2代目/利兵衛を襲名。
 藩内/塗店株仲間の組頭。
 戊辰の役では、長賊の屯所となったため焼失を免れており、今でも店舗として現役であり、歴史的景観指定建造物として貴重な建物。
 明治3(1870)年、塗店組合の結成に尽力し、離散した職人たちを呼び戻し保護し、漆器業界の復興に多大な功績を残す。
鈴木屋利兵衛  明治15(1882)年、漆器引換場を設立。

 安永年間(1772〜1780年)、初代/鈴木屋利兵衛が現在地/札の辻脇で漆問屋を開業。 同時に会津漆器の製造も始める。
 以来、現在まで老舗の漆器/鈴木屋利兵衛として継続している。
 諏訪 伊助  すわ いすけ、天保4(1833)年〜明治32(1899)年 (享年67歳)
 名は頼信。
 藩士/諏訪大四郎頼徳の嫡男として下本二ノ丁にて誕生。
 慶応2(1866)年、若年寄に就任。
 慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦い直前に家老に抜擢。
 日光口、土湯方面で奮戦。
諏訪伊助の墓  開城後は、松平喜徳公に付き添い、東京/有馬藩邸で幽閉(謹慎)。
 斗南藩/五戸へ移住。
 明治 4(1871)年、妻が死去、間もなく会津へ帰り、旧藩士たちの生活救済に尽力。
 明治15(1882)年、町野主水・辰野宗治たちと会津帝政党を立党。
 明治17(1884)年、北会津郡長に就任。
 明治21(1888)年、北会津郡長を退任。
 墓は恵倫寺
 諏訪 大四郎  すわ だいしろう、生年不詳〜明治2(1869)年
 名は頼徳
 諏訪伊助頼故の4男。 諏訪伊助頼信の父。
 奉行、若年寄を歴任。
 安政6(1859)年、家老に就任。
 財政再建に手腕を発揮。
 文久2(1862)年、家老職を退き、隠居。
 慶応4(1868)年8月23日、 鶴ヶ城下に迫ると、隠居の身ながら家老格で入城し、籠城戦を戦い抜く。
 開城後は、妻/喜智子と塩川村大沢に移り住む。
 恵倫寺に埋葬されたが墓は不明。
 諏訪 常吉  すわ つねきち、天保4(1833)年〜 明治2(1869)年5月16日(享年37歳)
 藩主の護衛の「御供番」、公用方、会津遊撃隊/隊長。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い上洛し、公用人として外交折衝に尽力。
 鳥羽伏見の戦いに参戦。
 江戸総引揚げ後、奥羽列藩同盟のため仙台藩へ赴く。
鶴ヶ城下に来襲したとの報を受け。救援依頼をするも すでに仙台藩は降伏へと傾いており交渉は難航、開城の知らせが入ったため会津遊撃隊を結成して、旧幕臣/榎本武揚軍と合流し蝦夷に渡る。
 戦地で無頼を働く兵士を処分するなど、正義の士であった。
 明治2(1869)年4月22日、当別(北斗市)に出陣した際、宛に
 「遠路の御出馬 御苦労に存じ奉り候 然るは小子儀 素より戦を好まずに候間 早々に引き揚げ申す 已むを得ざる際に立ち至り候はば 御用捨を蒙り候儀も御座有るべく候 以上
の置手紙を残す。 これが函館戦争終結のきっかけとなる。
 同4月29日、松前/矢不来の戦いで被弾し瀕死の重傷を負い、敵味方の区別なく傷病兵を収容していた箱館病院に入院。
 5月12日、置手紙により旧知の薩摩藩士/池田次郎兵衛・黒田清隆らが見舞いと称し見舞金25両を持参し、和平交渉の斡旋を依頼される。
 瀕死の重傷であったため榎本宛の勧告状を口述にて書し、5月15日に函館病院の掛頭取(事務長)をしていた藩士/小野権之丞へ託す。
 翌日、天命を成し遂げたかのように死去。
 「我病院ノ医高松凌雲執事小野権之丞竊ニ西軍ノ意ヲ受ケ、薩摩池田次郎兵衛、諏訪常吉 会津傷シテ病院ニ居ル二語ル所ヲ書シテ、病院ニ在ル者ヲ携炮台ニ来ラシテ且西軍ノ意ヲ伝云フ
 墓は実行寺。 円通寺/死節之墓にも記載。

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