偉     人     伝

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瓜 生 岩 子 の 略 歴

 本名は、「瓜生 岩 (うりゅう いわ)」。
 通称の「岩子 (いわこ)」は、尊称として「子」が付与されたもの。
 会津は「日本のナイチンゲール」と呼ばれる3人を輩出しており、その内の1人。
 地元では 「菩薩の化身」 と称えられた。
 戊辰の役では、敵味方の区別なく負傷者の救護を摺る。
 明治前期の混乱期には、貧民の救済や貧民児童の教育、授産指導、堕胎の防止などの広範囲な社会福祉運動の先駆けとして、生涯を捧げた。
 仏教思想に基づく「明治のナイチンゲール」とも賞賛され、女性で初めての藍綬褒章を受賞している
 銅像については、こちら。
 [肖像]  [史料]

文政12(1829)年

温泉旅館 山形屋

 2月15日
 父/渡辺利左衛門と母/りえの長女として、母の実家である熱塩村の温泉宿/山形屋にて誕生。
 “岩”と名付けられ、裕福な家庭の娘として不自由なく育っていった。
 利左衛門は、屋号を若狭屋という油商を、小田付村 (喜多方市) で営んでいた。

文政15(1832)年    4歳

 弟/半治が誕生。
 店も繁盛して、幸せな生活が続いていた。

天保8(1837)年     9歳

 7月
 父/利左衛門が急死する。
 追い打ちをかけるように、四十九日法要の翌日に若狭屋が火災で全焼してしまう。
 母/りえの実家/山形屋は、跡継ぎがいなかった。
 弟/半治が跡継ぎとなり、母と共に引き取られ、姓を渡部から瓜生に替える。

天保13(1842)年   14歳

山内よねの家

 若松の会津藩医/山内春瓏に嫁いだ叔母に預けられ、手伝いをしながら礼儀作法などの見習いをする。
 伯父/山内は会津藩御番医をしており、4日目毎に登城し勤番の侍を診察するため、時折、付き従って鶴ヶ城内に入ることもあったという。
 それ以外の日は一般人を診察しており、産婦人科学に傑出しており、漢学にも秀でていた。
 多感な時期の岩子が見たものは、間引きと称する堕胎など貧しいための悪習であった。 春瓏は多いことを嘆き、防止に尽力していた。
 この時の体験が、後の著名な社会事業家への基礎となった。
 山内春瓏の孫が、野口英世の初恋の娘/山内ヨネ。

弘化2(1845)年    17歳

 秋
 会津/高田村出身の佐瀬茂助を婿養子に迎え結婚。
 結婚後は、若松 (横三日町) で呉服店「松葉屋」を開業する。

嘉永元(1848)年   20歳

 長女/つね、誕生。
 戊辰の役では、照姫の奉公人。

嘉永3(1850)年    22歳

 待望の長男/祐三、誕生。
 若年寄/西郷近潔の小姓、戊辰の役では正奇隊

嘉永5(1852)年    24歳

 次女/とよ子、誕生。

嘉永6(1853)年    25歳

 3女/とめ (後に留女とも)、誕生。

安政3(1856)年    28歳

 商売は順調に進むが、突然、夫/茂助が喀血、肺病と知られるや客足は途絶える。
 店の金を番頭が持ち逃げするなど、家業の呉服屋は傾き始める。
 女で一人ではままならず、夫を看護し1男3女を養育しながらの生活は苦しく、行商や手内職まで行って家族を養った。
 加えて、頼りにしていた叔父の藩医/山内春瓏が死去してしまう。

文久2(1862)年    34歳

 夫/茂助が、長い闘病の末、40歳で死去。
 夫の死後も再婚することもなく必死に働く姿に、周りの人々は褒め称えた。
 噂が藩主にも届き、城中に招かれ、お誉めの言葉とともに木杯と金一封が贈られた。
 藩主が自ら町人の寡婦を表彰するなど、異例中の異例であった。

文久3(1863)年    35歳

 夫の一周忌も迎えないうちに、母/りえが死去。

元治元(1864)年   36歳

 若松の呉服店「松葉屋」を閉じる。
 1男3女を連れ、弟/半治が継いだ山形屋へ出戻る。
 母の葬儀も済ませたある日、菩提寺/示現寺の住職/隆覚禅師に「尼になりたい」と弱音を吐くと、禅師からは「お前より、もっと不幸な人が大勢いる」と一喝され、「五体満足の身なれば、不幸に人に情けを尽くす菩薩行の道を歩みなされ」と諭される。
 岩子の潜在能力を見抜いていたのかもしれない。
 以後の岩子は、貧しい人々や苦しんでいる人や、孤児などを救い続けることに人生をかける。

慶応4(1868)年    40歳

 8月23日
 台風が抜けぬ早朝、が城下に迫る。
 前日には、十六橋破れるの報を聞いており覚悟はしていたものの、時の流れの速さに戸惑っている間に、敵の一部侵入し始めていた。
 若松が修羅場と化し、負傷者で溢れていると聞き、若松に駆け付け手当てを始める。
 叔父の藩医/山内に預けられた3年間に、覚えた術であった。
  [逸話]
 敵味方を区別せず、傷ついた者は平等に救助し、看護に努めた。
 殺戮・略奪を繰り返す長賊らの所業と対照的な行動は、他の西軍兵の心を捉え、崇拝の態度に変わったという。
 このことから、戦乱の後、様々な方面から援助されることになる。

明治2(1869)年    41歳

 開城後の藩士は、越後/高田藩東京へ護送され謹慎 (幽閉) の身となった。
 残された藩士の家族は禄が無くなった上、住む家すら失い野に放たれ、悲惨な生活をせざるを得なかった。 町民や農民の苦難も同様で、惨憺たる有り様であった。
 正奇隊の弟/半治は高田藩に幽閉、ただ一人の息子/祐三も東京に護送され、神田橋御門外騎兵屋敷へ幽閉されてしまうが、想像を超える地獄絵図の中、悲嘆する暇もなく私財を投げ打って、食を与え、宿の世話などを開始する。

 4月19日
 教育も受けられない子供たちのため、私費を投じて「小田付幼学校」を設立する。
 民政局へ日参するも受け入れられず、待ち切れず区長や肝煎を説得し、元の藩校日新館の教師に頼み込み、やっとの思いで6月に幼学校を開校する。
 日新館の運営方式を見本としたが、武芸の代わりに、今後の時代に役立つ算盤などの算術や、養蚕、機織り、紙の造り方など実用的な科目を取り入れた。
 評判を聞きつけた若松県が、遅ればせながら金1両を支援する。

明治3(1870)年    42歳

 幼学校の事業が順調に進む中、長賊らによる会津藩を流刑地/斗南へ移す策略が実行され、生徒数が激減してしまう。

明治4(1871)年    43歳

 小学校令発布予告のため、2年以内に「小田付幼学校」の閉鎖を命じられる。
 貧困に苦しむ人を救うためには、新たな法律や会所の組織・方針・経営・実施などの知識も必要と実感、習得を決意する。
 閉鎖となった幼学校は、貧者救済や婦女子教育の場とした。

明治5(1872)年    44歳

 東京/深川に救養会所があるのを知り、ひとり上京する。
 歩いての上京は、途中で山賊に襲われるなど苦難の道中であった。
 半年間、寝食も忘れ、貧者救済の手法や経営学などの勉学を終え、帰郷する。
 残金をはたいて魚の干物を買い求めて、通りすがりの村々で干物を売りながら路銀を得ての帰路だった。

明治6(1873)年    45歳

 救養会所の設立を目指すが、障害は大きかった。
 自宅において、貧困に苦しんでいる人に裁縫や機織りを教え始める。

明治12(1879)年   51歳

瓜生岩子の碑

 廃寺であった長福寺を無償で借り受け、貧窮者を住まわせ仕事の世話を開始する。
 裁縫教授所を開所し、近隣の娘たちにも裁縫や礼儀作法、時折 僧侶の法話を加え婦女子の教育に尽力する。
長福寺  授産指導や相談活動も積極的に行う。

明治20(1887)年   59歳

 県知事/折田平内の要請で、福島の長楽寺近くに居を移す。
 活動の場を、会津から福島へと広げる。
 教育会の設立を説くと同時に、貧困による堕胎や棄児の防止を説く。

明治21(1888)年   60歳

 生活の基盤は金銭の裏付けが必要と、水飴製造や飴粕の利用法を教えて歩く。
 当時、捨てられていた飴の糟を使って、飴糟餅の製造を考案・改良したものである。
 ※太平洋戦争後「上野〜御徒町駅」間に飴屋が集まり「飴屋横丁(アメ横)」となる。

 7月15日
 磐梯山が大噴火、5村11集落が埋没し、477名の犠牲者が出る。
 救護活動を行っている。
 岩子60歳。

明治22(1889)年   61歳

 念願であった貧民孤児救済のための救済所「私立福島救育所」設立が認可される。
 東北地方で初めての育児所である。
 これを契機に、育児会、瓜生会など貧者救済の組織が続々と発足する。
 仏教徒による鳳鳴会も組織化される。

明治24(1891)年   63歳

  1月
 全国に養育院を建設する「婦人慈善記章の制」を帝国議会に請願する。
 女性としては、初めての請願書であった。

 東京市養育院院長/渋沢栄一の招きで、幼童世話掛長に就任。
 岩子は63歳と高齢のため半年間だけであったが、渋沢の予想を遥かに超え、次から次へと功績を残した。
 ここでの業績で、全国的に名が知られるようになった。
 若松に育児会が組織され、喜多方に産婆研究所 (北町2944) を設立する。

 10月28日
 陸域では史上最大の濃尾地震が発生し、7,273名の犠牲者が出る。
 救護活動を行っている。

明治25(1892)年   64歳

 福島に、瓜生会が結成される。
 若松と喜多方、坂下に、育児会が組織される。

明治26(1893)年   65歳

 福島鳳鳴会に、育児部 (愛育園) を設置する。
 有力者たちの援助を得て、若松に生活困窮者のため「私立済生病院 (針屋名子屋町11番地)」を設立する。
 無料で医療を行うとともに、婦女子に教育も行った。
 野口英世の母/シカも、岩子の協力があって産婆資格を取得できた。
 本籍を、「北町2951」に移す。

明治27(1894)年   66歳

 福島瓜生会は、東京の下谷根岸に「福島瓜生会支部水飴伝習所」を設立する。
 水飴30貫を、日清戦争での傷病兵救護のため寄贈している。

明治28(1895)年   67歳

 皇后陛下の上覧のため、包帯の裁ち屑を使って記念織を作った。
 台湾の救養活動まで計画する。

明治29(1896)年   68歳

 5月
 これまでの業績を讃えられ、女性として初めての藍綬褒章を受章する。 [史料]

 6月15日
 三陸地震が発生し、38メートルを超える津波で2万人を超える犠牲者が出る。
 被災者救済のため、募金やバザーを実施する。

明治30(1897)年   69歳

 4月19日
 過労のため病臥していた福島で、回復することもなく死去。
 熱塩村にある瓜生家の菩提寺である示現寺に埋葬された。
 いつも社会の弱者の側に味方として立ち、子どもの健全育成に努め、「菩薩の化身」と称された人生の幕が閉じた。 病床には、各界から数多くのお見舞状が寄せられ、周囲の人々が改めて偉大な功績を実感したという。
 死去の2日前には、皇后陛下が福島へまで見舞いに訪れている。
  「老いの身の ながからざりし 命をも たすけたまへる 慈悲のふかさよ
 宮中に入っていた山川捨松の姉/操が、会津弁の通訳のため同席している。

瓜生岩子の墓(示現寺)  8月19日
 瓜生家の墓地の中央に、男爵/渋沢栄一の筆によるが建立。

 毎年8月19日、「瓜生岩子顕彰会」が墓前祭を執り行っている。

 今でも温泉宿/山形屋は岩子の子孫に引き継がれ、長男/祐三・3女/とめ・甥/角兵に囲まれて安らかに眠っている。

 明治32(1899)年、四恩瓜生会が結成された。
  「故瓜生岩子の生前の徳を記念し、
        慈善矯風を目的とせる


 昭和34(1959)年に「社会福祉法人 和光会」と改称されるも、遡ること昭和29(1954)年に四恩瓜生会が開設した「阿佐谷保育園」内で、今なお遺志は引き継がれている。

 明治32(1899)年 女性として日本初の銅像の建立が計画される。
 大山捨松たち30人ほどが募金活動を開始するや、渋沢栄一の積極的な賛同・協力を得るなど、瞬く間に目的を超える金額が集まったという。
 明治34(1901)年4月19日、東京/浅草寺の境内に建立
 委員長/渋沢栄一により除幕式を取り仕切られ、参列者5百人ほどの他に一般人が数千人も参集した。

 この後、瓜生岩子の銅像が各地に建立される。


 大正13(1924)年、従五位が追増される。


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