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会 津  の  風 土

磐梯山  会津の風土は、雪が創ったという。
 1年の4分の1を、雪の中で過ごす。
 毎日、絶え間なく降りそそぎ、積り続ける雪との厳しい戦い。
 盆地がゆえに、春の訪れるまで、他の地域とは、交流できない。
 隔絶された環境が、長い時間をかけ、会津の風土を育てた。

 春の訪れは、いまの我々には想像も出来ない、喜びだった。
 真っ白で、生きているものが見当たらない世界から、一転、野草が芽生える
 枯れた姿の木々からは、芽吹きが始まる。

 だが、耕作期間は、短い。
 春への感動もまもなく、作付け。
 やがて、盆地特有の、耐えがたい暑い夏。
 収穫の秋が訪れると、間もなく、飯豊山が白くなる。
 追いかけるように、磐梯山に初雪が降る。
 そして、あっという間に、冬がやって来る。

 どうにもならない自然との闘い。
 ちょっとした自然の変化にも、感動する気質が同居する。
 しかし、遊んでいては生きられない、一人では生きられない、助けあわねば生きられない。
 そのような環境が、他の地方の人からは、なかなか理解できない 「頑固者」 を育てた。
 お互いの絶対的な信頼がなければ成立しない 「無尽」 も、いまだ健在である。
 最近でも、市内の飲食街には、「無尽承ります」 の看板をよく見る。

 会津の気質を語る時、よく言われる言葉に、「会津の三泣き」 がある。
 的を得て妙である。

 「\ならぬことは、ならぬものです」 で代表され、一途な頑固の象徴でもある 「什の掟」 も、よく引き合いに出される。
 しかし、「朝寝、朝酒、朝湯が大好き」 で身上をつぶした小原庄助さんも、会津を代表する気質であることを忘れてはならない。

 雪国の厳しさと、豊かに広がる農地を兼ね備えているのが、会津なのである。
 [閑話]

会 津 の  三 泣 き

稲穂
 いにしえから伝わる言葉である
 会津の土地柄を話す時に、よく引き合いに出される。
 よく言い表していると思う。

 諸説はあるが、
   1. 移り住む人は、閉鎖的で頑固さから、よそ者扱いされて泣く。
   2. しばらくすると、心の優しさと、底知れぬ人情に触れて泣く。
   3. 最後に、会津を去る時には、別れがつらく、離れがたくて泣く。
のが、代表的な解釈だろう。

 後に、会津に赴任が決まった某新聞社の記者が、自分になぞらえて、
   1.辺鄙な土地に行かなければならないことで泣いたが、
   2.赴任してみると、徐々に会津の人たちの温かい人情に触れ、うれし泣きをし、
   3.数年後に会津から転勤で去る時には、去りがたくて泣いた
と、記事に書いた。
 それ以降、全国に広まった。

什 の 掟 、 日 新 館

什の掟 (じゅうのおきて)

日新館天文台跡

 会津藩の男子は、10歳になると藩校「日新館」 に入る。
 入学前の6歳から9歳までの子供たちは、各自の家に集まり、心構えなどを勉強した。
 その際の心得が、「什の掟」 である。
 「やっていけない事は、理屈ではなく、してはいけない
との教えである。
   一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
   二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
   三、虚言をいふ事はなりませぬ
   四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
   五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
   六、戸外で物を食べてはなりませぬ
   七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

   ならぬことは ならぬものです

 「お話の什」6歳より9歳までの子供達が「お話を致します。」と言って心得を誓い合いました。 座長(参会者のうちの最年長者)が1つ1つ読みあげると、座員はその都度、
 「ハイ」「ハイ」と頭を下げて拝聴する。
 「お話」がすむと、座長は厳かに座中を見渡して「何か言うことはありませんか。」と言って、昨日から今日までの間に、「お話」に違反したものの有無を問いただします。
 その時もし違反したものがあると、座長はその違反者を座の中央に呼び出して、その事実の有無をたずねます。もし事実であると、どんな制裁を加えるかを相談して、適切な制裁を加えるのでした。
 制裁には次のようなものがありました。
 無念……ごく軽い罰で、座長からみんなに「無念をたてなさい。」と命じ られると、みんなに向かって「無念でありました。」と言ってお辞儀をし て、心からわびをする。
 しっぺい…これには掌にやるのと、甲にやるのとの2通りがある。軽いほうは掌に、重いほうは甲にやった。実施の時は座長がよく看視していて、手加減を許さなかった。
 絶好(派切るともいう)……一番重い制裁であった。一度派切られると、 父なり兄なりが付き添って行き、みんなにおわびをして、解除を求めなければならない。これは、めったには実行されなかった。
 手炙り……冬火鉢の上に手をかざさせる。各人が自分の指先に鼻の脂をぬり、これを被告の手にすりつけたりした。
 雪埋め……冬、雪の中に埋める。
 とにかく、子供心に一番恐ろしかったのは「お話し」の後の、上記の審問でした 。
 「遊びの什」…「什」 は町を幾つかに、地域割りして組を作りました。このグループのことをいいます。天気が悪くない限り、お話がすむと、今度は皆戸外に出て,日没まで共に仲良 く遊びました。これが「遊びの什」です。
 年長者が解散を宣言しない中は、一人で勝手に帰ってはいけません。たとえ親戚の人が遊びに来たからといっても、勝手には帰られませんでした。もし、早く帰る時は、父や兄なりが迎えにきて、許可を受けなければなりませんでした。
   以上、(会津戊辰戦争……平石辨蔵著より)(NN運動から転載)

會津藩校 日新館 (にっしんかん)

日新館跡の碑

 江戸時代、全国300諸藩の中でも随一との評判の藩校であった。
 藩祖/保科正之公が、4代将軍/家綱の補佐役として教育をしていたことから、寛文4(1664)年、日本最古の「稽古堂」が会津に設立される。
 延宝2(1674)年、学問所「講所」が郭内に開校する。
 以降、「講所」は藩士の子弟の教育を、「稽古堂」は一般農工商の子弟の総合的な教育をすることになる。

 寛政11(1799)年、家老/田中玄宰の進言と豪商/須田新九郎の造営費用拠出により日新館が着工。
 享和3(1803)年、鶴ヶ城の西隣7千余坪の敷地に、1千人もの生徒が集う学問の殿堂が、5年の歳月を費やして完成した。
 「書経」の「日日新而又日新」と、「易経」の「日新之謂盛徳」から名付けられた。
 儒教を根底として朱子学を中心に、天文学、数学、医学、兵学などを学ぶ総合的な学校であった。 武術としては、刀術、砲術、馬術、水練、弓術、槍術などの教育を受ける。
 日本初のプールと言われる「水練水馬池」まで備えられていた。
 水練場や天文台も設けられた藩校は珍しく、全国の中でも3本の指に入るほど教育水準が高かく、多くのすぐれた人物を世に送り出している。
 会津藩士の子弟は、10才で入学 (素読所) が義務づけられ礼法・書学・武術などを学び、16才で卒業して白虎隊に入隊することが定められていた。
 成績優秀である者は、今の大学にあたる溝釈所に進学する。
 さらに溝釈所で優秀な者は、幕府の教学機関「学問所 (通称:昌平坂学問所、昌平黌)」へ遊学する機会を与えられた。  遊学生については、こちら。

 戊辰の役では、野戦病院として使用された。
 多くの負傷者を収容していたが、西軍の侵略の報が伝わると、身動きの出来ない重傷兵は自刃したという。
 戊辰の役の戦火に見舞われ、すべての学舎が灰燼に帰した。

日新館跡  鶴ヶ城の西出丸口の国道118号沿い一帯にあったが、が残っているのみ。
日新館天文台跡
 現在では、日新館天文台跡が唯一の遺構。
 380メートルほど離れた所にある。


 石橋の一部が、妙法寺の入口と、白虎隊記念館の前、御薬園の中に残っている。

白虎隊記念館前の石橋 白虎隊記念館前の石橋 妙国寺山門前の石橋

≪江戸日新館≫
 江戸詰藩士の子弟教育のため芝中屋敷内に開校し、日新館より儒者1人・素読所2人 (1人は手伝い)・書学/和様と華様の2人が交代で派遣されていた。
 武術は、
  ◇ 砲術 自由斎流・荻野流・種子島流   ◇ 馬術 大坪流
  ◇ 弓術 日置流の道雪派・印西派の2流  ◇ 柔術 神妙流
  ◇ 槍術 大内流・宝蔵院流・一旨流    ◇ 居合術 新景流
  ◇ 刀術 聖徳太子流・神道精武流
と一部であるが主な流派は揃っおり、水練・櫓手も加わる。

≪猪苗代校≫
 日新館より儒者1人、素読所4人が出張して教授していた。
 武術は、
  ◇ 砲術 自由斎流    ◇ 弓術 道雪派   ◇ 槍術 宝蔵院流
  ◇ 刀術 太子伝安光流  ◇ 馬術 大坪流   ◇ 柔術 神妙流
  ◇ 居合術 夢想流
で、三尺棒術も加わる。

≪京都日新館≫
 元治2(1865)年、京都守護職就任に伴い開設し、漢籍などを教授した。

≪斗南藩洋学塾 (通称/東京日新館)≫
 明治2(1869)年、東京で幽閉 (謹慎) となったため、宿坊の増上寺/徳水院に開校し、斗南藩へ流刑されるまで子弟の教育に当たらせた。

≪斗南日新館≫
 明治3(1970)年8月、斗南に流刑にあった時も子弟の教育は忘れず、田名部の商人大黒屋/立花文左衛門宅を借りて開校した。
 新たに福沢諭吉の「世界国尽」「西洋事情」などの洋学も授業に加え充実した内容であった。
 明治4(1971)年2月、藩庁である円通寺に移設し、田名部の町人らの入学も許可した。
 寄宿舎もあったが狭く収容しきれず、田名部に4ヶ所 (野辺地・大畑・川内・斗南ヶ丘)、五戸に5ヶ所 (市川・中市・三本木・七崎・八幡)、二戸に1ヶ所の分校を開校した。
 地元民からも多くの逸材を輩出している。

≪余市/日進館
 明治4(1971)年6月、余市に入植した旧会津藩士たちが開校。

小 原 庄 助 さ ん

 民謡「会津磐梯山」の一節

   小原庄助さん、なんで身上つぶした
   朝寝朝酒朝湯が大好きで、それで身上つぶした
   ああ、もっともだ、もっともだ

 小原庄助さんの正体も諸説があり、今もって、特定されていない。
   1.信州の高遠から、保科正之公に従った小原庄右衛門の子孫 (郷頭) 説。
     戊辰の役で戦死し、秀安寺に墓がある。
   2.材木商で財を成した「丸正」という商人説。
     毎日毎日、東山温泉で豪遊をしていた。
   3.白河の友人宅で客死した「久五郎」という会津漆器の塗り師説。
     皇徳寺に墓がある。
   4.その他
     造り酒屋、木更津の油屋、庄屋、女衒など。
 小原庄助は実在したが、会津磐梯山の「庄助さん」は創作された人物のようだ。

 時世の句
   朝によし 昼は なほよし 晩もよし 飯前飯後 其間もよし
 [閑話]

 [余談]
 深海探査艇によって、海底温泉の周りに棲んでいる新種のエビが見つかった。
 温泉といえば、♪ 朝湯が大好きで ♪ からか、「オハラエビ」 と名付けられた。
 体長5センチほどの白いエビで、 学名は 「Alvinocaris longirostris」。
 ただし、吹き出し口の温度は 280℃とのこと。

無  尽 (むじん)

大川  早く言えば、民間の互助的な金融なのだが、情報交換の場でもある。
 昔は、全国的にもはやっていた様だが、会津では、いまだに健在で、しっかり根付いている。
 信頼がなければ成立しない無尽が、いまでも続いていることは、信頼が今でも続いていることであろう。
 "集まり"ごとに様々なやり方があるが、大体は代表的なやり方で行う。
   1. 10人、または12人で、1つの無尽が組まれる。
   2. 毎月1回、きめられた金額を持ち寄り、無尽が開催。
   3. 入札をして決まった人が、集まった合計金額を受け取る。
   4. すでに落札した人は、次回からの入札には、当然、加われない。
   5. 10人の場合は10カ月、12人の場合は12カ月開催。
   6. 一巡したところで、終了する。

 会津の無尽は「酒無尽」と言われるように、飲食が当たり前なのである。
 持ち回りで自宅でやる場合もあるが、やはり飲食店で行う。
 無尽だけで成り立っている飲食店もある。
 人口比率では、飲み屋の数が、県の中では1番多いそうだ。
 1万円を持ち寄り、飲食代は3千円が主流のようだ。
 [閑話]

 無尽とは日本の金融の一形態である。複数の個人や法人等が講等の組織に加盟して、一定又は変動した金品を定期又は不定期に講等に対して払い込み、利息の額で競合う競りや抽選によって金品の給付を受ける。
 頼母子あるいは頼母子講、沖縄では模合という。 貞永式目追加法にも記述があり、鎌倉時代に登場したとされる。(「ウィキペディア」より抜粋)

民謡「会津磐梯山(あいづばんだいさん)」

     エイーヤー 会津磐梯山(あいづばんだいさん)は 宝の山よ
     笹に黄金(こがね)が エーまた なりさがる

       小原庄助(おはらしょうすけ)さん なんで身上(しんしょう)つぶした
       朝寝(あさね) 朝酒(あさざけ) 朝湯(あさゆ)が大好きで それで身上つぶした
       ああ もっともだ もっともだ

     エンヤー 東山から 日日(ひにち)の便り
     行かざなるまい エーまた 顔見せに

     エンヤー 恋 (鯉) の滝沢 舟 (鮒) 石越えて
     親は諸白 エーまた 子は清水 (強清水(こわしみず))

     エンヤー 音に聞こえし 飯盛山(いいもりやま)
     花と散りにし エーまた 白虎隊(びゃっこたい)

 (以下、あちこちから抜粋 ・・・ 各地区には各地の名称などの入った歌詞がある)
   エンヤー 会津盆地の 緑の夏よ  風もほがらに エーまた 鶴ケ城
   エンヤー ことしゃ豊年 穂に穂が咲いて  道の小草も エーまた 米がなる
   エンヤー 忠義一途の あの稚児桜  散りてその名も エーまた 白虎隊
   エンヤー つぼみ散らして その名を残す  花も会津の エーまた 白虎隊
   エンヤー 田舎坂でも 上れば下る  会津七坂 エーまた 七曲り
   エンヤー 誰か来たよだ 垣根の外に  鳴いた鈴虫 エーまた 音を止めた
   エイヤー 縁がありゃこそ 見知らぬ人に  一目会津で エーまた 忘られぬ
   エイヤー 北は磐梯 南は湖水  中に浮き立つ エーまた 翁島
   エンヤー 会津磐梯山に 振袖着せて  奈良の大仏 エーマタ婿にとる
   エンヤー 何故に磐梯 あのように若い  湖水鏡に エーまた 化粧する
   エンヤー 主は笛吹く 私は踊る  櫓踊りの エーまた 上と下
   エンヤー 主が歌えば 踊りがしまる  櫓太鼓の エーまた 音もしまる
 日本三大民踊の一つ。
  (会津磐梯山おどり、岐阜県/郡上おどり、徳島県/阿波おどり)
 会津の盆踊り (玄如節、気狂(かんしょ)踊り) の歌に、越後の五ヶ浜甚句が取り入れられたもの。
 合いの手「朝寝 朝酒 朝ボボが大好きで それで身上つぶした」など、現在の歌詞とは違っている点も多い。

玄如節の記念碑  「会津民謡集 (山ノ内磐水)」によると、現在の形になったのは明治始めとある。
 山ノ内磐水は、古麻生 (会津若松市門田町一ノ堰) の荒木源次郎に師事して玄如節などの練習をした。
 その後、会津の民謡を全国的に普及させることに尽力。
 鶴ヶ城の三之丸には、山ノ内磐水の顕彰碑がある。

 「正調会津磐梯山」は162番もあるが、大半が都都逸を当てたもので、会津とは無関係なものが多い。
 その1番目は、
   五ヶ浜 立ち退くからは 後は野となれ エーまた 山となれ
 現在の出だしの「会津磐梯山は 宝の山よ 〜〜」は、21番にある。
 ちなみに、最終番は、白虎隊で 〆 ている。
   忠義一途の あの稚児桜 散りてその名も エーまた 白虎隊

 昭和9(1934)年、作家/長田幹彦が歌詞を整理し、小唄勝太郎が日本ビクターからレコード「会津磐梯山」を発売してから、全国的に有名になった。

 太平洋戦争時は、「朝寝 朝酒 朝湯が大嫌いで」に変えられた。

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