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御 薬 園 (おやくえん)

▲(会津若松市花春町8-1 Tel. 0242-27-2472)   

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 説明文/図の写真は現地の説明板。 クリックで拡大。

御薬園の説明文 御薬園の案内図


 周囲 540メートル、面積は 5,100坪ほどの本格的な回遊式庭園。
 自然風の庭園で、中心に屈曲した池があり、その中に島を配置してある。
 周囲を石敷路で囲み、東には男滝・女滝、北には赤松、東から南にかけて樅・柊・松の古木がそびえている。
 園内に築かれた山は低く、遠くに望める自然の山々と調和する借景園。
 昭和7(1932)年、国名勝に指定され、昭和28(1953)年から一般公開された。
 曽祖母の時代には、マツタケも採れていたと伝え聞く。

 むかし、この辺は大田谷地と呼ばれており、病弱な喜助が住んでいた。
 白髪の老人/朝日保方は、10数羽の鶴が舞い降りるのを見て泉を発見、その水で介抱したところ喜助は全快した。
 病が治るのを見届けると、朝日老人はあの世に旅立った。
 喜助は、霊泉を「鶴ヶ清水」と名付け、傍らに「朝日神社」として祀った。

 半世紀が過ぎた永享4(1432)年、由来を聞いた10代領主/葦名盛久公が別荘を建立。
 16代領主/葦名盛氏公が復興・整備し、今の原型ができる。
 戦国時代に入って顧みられることのなかった庭園を、会津松平藩の初代藩主/保科正之公が整備し保養所とする。
 寛文10(1670)年、2代藩主/保科正経公が、藩民の疫病対応も兼ねて、聖徳太子の施薬院を参考に数多くの薬草の栽培をはじめる。
 元禄9(1696)年、第3代/正容公が、小堀遠州の流れをくむ目黒浄定と、普請奉行/辰野源左衛門に命じ、現在の回遊式借景園が誕生する。
 長賊ら (明治政府) によって略奪・没収されが、豪商/長尾和俊たちは募金活動を起こし、同じく略奪・没収された土津神社とあわせて買い戻して松平家に献上した。

 御薬園ホームページは、こちら。

受付所

 正門を入ると、すぐにある。

 時おり、着物姿のご婦人たちを見受ける。
 茶会が催される日である。

冠 門

 庭園への入口。
 左手、受付けの真向かいにある。

篠田悌二郎の句碑

 俳句の「初鴨」の復刊20年の記念として句碑を建立する際、本人の強い要望で会津のこの地に、昭和48(1973)年に建てられた。
 江戸の町火消しだった祖父/岩崎鎌蔵が、容保を慕って会津に移り、戊辰の役では籠城戦に加わっていたからである。
   磐梯は 遥けく青し 凌ぜん花

重陽閣

勢津子妃の説明文  節子姫が秩父宮とご成婚され、いわれなき汚名を晴らした後に来若された。
 その時に、節子姫ご一家が宿泊された東山温泉の「新滝旅館」の別館。
 もとは3階だったが、2階として昭和48(1973)年に移築された。
 9月9日 (五節句の一つ/重陽) が誕生日のことから、秩父宮妃殿下/節子姫が命名された。   

薬草標本園

薬用植物園の説明文  寛文10(1670)年、領民の病の治療や予防のために薬草園を設置し、様々な薬草の栽培を始めた。
 朝鮮人参の試植を始め、民間にも奨励したため、「御薬園」と呼ばれるようになった。
 現在、約400種類の薬草・薬木が植栽されている。

籍田跡

 寛政2(1790)年、初めての籍田の儀式が行われた。
 以降、毎年3月上旬の土用入りに執り行われていた。
 農耕の奨励を、藩主みずから率先していた良い例である。
 奥に“籍田の礼”を行う稲荷社があり、御薬園の守護神として祀られている祭神/倉稲魂命は、稲の神で五穀豊穣をつかさどる。

 2千年の眠りから覚めた縄文の蓮「オオガハス」も植栽されている。
 昭和26(1951)年、千葉市検見町の遺跡発掘で発見され、発見者/大賀氏の名が付けられた。
 御薬園に貸与され、現在、培養されている。

五葉松(ごようまつ)、ハイビャクシン

 五葉松は山地に自生するマツ科の常緑高木。
 庭園木や盆栽にも利用されている。
 ハイビャクシンはヒノキ科のイブキの変種で、日本原産の低木。

心字の池

 自然の地形を、そのまま活用して造営された。
 「心」の字を意識して造られたのではない。
 江戸の終わり頃に、「心」の字形に似ていると評判となる。
 その後から、呼ばれるようになった。
 禅宗の影響を受けて造成された心字池は、鎌倉・室町時代に見られ、東京の日比谷公園や旧古河庭園、清水谷公園など国内に10園ほど存在する。

石灯籠

 当初、照明としての「石灯籠」は、茶道に傾注していく過程で、庭園を演出する風景の1つとして配置されるようになった。
 男滝の中央に「水分石」、右側の岸に大永5(1525)年4月13日と刻まれた石灯籠がある。
 年代から、第15代領主/葦名盛舜公が配したと推察されている。

与謝野晶子の歌碑

 2度会津を訪れているが、最後の昭和11(1936)年に読まれた歌である。
  秋風に 荷葉うらがれ 香を放つ おん薬園の 池をめぐれば
 荷葉(かよう)とは、ハスのこと。
 碑は、昭和37(1962)年に一般公開10周年を記念して建立された。

朝日神社

 小さな祠であるが、親しみを感じる雰囲気を持つ。
鶴ヶ清水の説明文
 「鶴ヶ清水」は、今でもコンコンと湧き出ている。

日新館の石橋

日新館の石橋

 藩校/日新館の三日月の池に架けられていた石橋の一部。
 日新館は戊辰の役ですべて焼失しており、市街地が進んだため移築した。

女 滝

 なだらかで広い石組を、ゆっくり流れている。

 流れ出る手前に、三層石塔がある。

男 滝

 狭い石組を、一気に流れ落ちている。
 最後の石は「水分石」と呼ばれ、早い流れを演出している。

楽寿亭

掛け軸の説明文

 亀島と呼ばれている池の中島に建てられている数寄屋風の建物。
 第3代藩主/正容公が命名した。

楽寿亭の説明文
楽寿亭の内部

 8畳間1つで、榧床(かまちどこ)が付いている。
 茶室としてだけでなく、重臣たちとの密議にも使われていたという。


 池での舟遊びのための船着場跡が2か所にある。
 新緑の頃、紅葉の季節、雪景色などは、特に素晴らしい。

楽寿亭の刀傷

     刀傷は、西軍が気晴らしに斬り付けたものである。



 

双鳩石

 この近くで、いつも何故か、つがいを見かける。

枯沢の説明文  池と反対側に、小ぢんまりした「枯沢」が造られている。


(もみ)の木、(ひいらぎ)高野槙(こうやまき)伽羅木(きゃらぼく)

 樹齢400年以上の樅の木、柊、伽羅木が、御茶屋御殿の脇に植栽されている。
 樅の木は、日本特産のマツ科の常緑針葉樹。
 樹齢450年以上で、日が沈む時にあかね色に染まった空と黒い影絵のように映えることから「夕陽木(ゆうひぎ)」と呼ばれている。

 高野槙は外国でも化石として発見はされているものの、現在では日本だけに生き残っている樹木。
 会津が北限でもある。
 伽羅木は耐雪性に強く、会津では「ツガ」と呼ぶ。

御茶屋御殿

 元禄9(1696)年に建築された。
 雪国のため木造の痛みが速く、改造・補修が繰り返されている。
 藩は質素を旨としていたため、静かなたたずまいの趣がある。
 「8畳の上ノ間、10畳の次ノ間、北に付き出ている12畳の(ひかえ)ノ間」からなっており、藩主以外に藩士や商人などを招いて使われていた。

 京都守護職から戻り、恭順を示すため藩主を譲った藩主/容保鶴ヶ城には入らず、ここで過ごした。
楽寿亭の説明文  戊辰の役の時は、西軍の負傷者を手当てする場所として使われている。
 数か所の刀傷は、西軍が気晴らしに斬り付けたものである。
 ここで戦闘は行われていない。

 「10畳の松の間」と2階は、明治15(1882)年に容保一家が、東京から転居する際に建てられたもの。

長屋門跡

 戊辰の役で焼失した。
 旧・御薬園通りに面した西側の中央にあり、正式な入口であった。
 常時、数人の番兵が詰めていたという。

売店、資料室

薬草茶 土産屋の中の資料展示

 出口の手前に売店がある。
 お土産には、薬草茶がお勧め。

 壁際のケース内に資料類が展示されている。

 薬膳料理、会席料理が名物だったのだが、残念ながら平成22年2月に終了。

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