会  津  の  著  名  人

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《 し 》 幕 末 よ り 前

 塩田 昭矩  しおだ あきのり、元禄14(1701)年〜明和5(1768)年5月28日 (68歳)
 通称:権六。 諱:重矩。
 喜兵衛重矩の子。  <水野新富流柔術師範>
 父/喜兵衛から柳生流を伝授され、小林歳種・歳重父子に師事し水野新当流/柔術を学び印可を受け、師範に就き子弟の指導に当たる。 師/歳重が教法数条を著す際には編集を助けている。
塩田昭矩の墓  柔術家のみならず、用所役人・密事・代官などを歴任し、優秀な藩吏として「秀傑七人衆」と称された1人。
 (大目付/横田光次郎、郡奉行/丸山勝左衛門、郡奉行/大沼市大夫、目付/今泉隼右衛門、山奉行/苗村清三郎、儒者/今泉伊三郎)
 墓は大窪山墓地 (現地図に記載あり)。
 「鹽田昭矩之墓
  明和五戊子年五月廿八日
  鹽田権六 行年六十八歳
 塩田 牛渚  しおた ぎゅうしょ、文政11(1828)年〜慶応2(1866)年 (38歳)
 通称:番。 名:允、升夫など。 号:牛渚。
 藩士/塩田権六の3男として五軒町にて誕生。
 弘化3(1864)年、江戸勤番中の事故で隠居を命じられると、弟に家督を譲り画家を目指す。
 藩士/浦上秋琴に師事し、越後/行田雲濤、上京し花鳥画の大家/浦上春琴、長崎で長崎三大家 (鉄翁祖門・木下逸雲・三浦梧門)に学ぶ。
 沈南蘋派の技術を極め、京に戻り木屋町に居を構える。
 京都守護職就任の松平容保からの命で、孝明天皇への献上画を作画している。 山本覚馬広沢安任外島機兵衛たちと親交。
 墓は金戒光明寺、碑は大窪山墓地。
 塩見 伊知
  於伊知
  美崎
  本妙院殿
 しおみ いち、宝永7(1710)年1月6日〜享保17(1732)年7月13日 (23歳)
 岡山の浪人/塩見平右衛門行重の娘/市として江戸にて誕生。
 母は、加藤氏。
 享保8(1723)年、正容の継室/於祐の女中となり、江戸藩邸に入る。
 享保8(1723)年8月、召されて側室/於伊知となり、鶴ヶ城の別邸に移り住む (14歳)。
 享保9(1724)年8月16日、正容の8男/長菊丸(容貞公)を出産する。
 享保10(1725)年11月、家臣/与五右衛門の妻として下賜される。
 16歳の若さで気立ても良く、またたく間に仲睦まじい夫婦となり、娘/富子にも恵まれる。
 享保12(1727)年、城内では兄/正房・正甫が次々に死去し、於伊知の生んだ長菊丸が嗣子となってしまう。
 夫/与五右衛門は納得せず、家禄を没収されてまで拒み続けるが、藩命により生母として再び城へ戻され、美崎と称される。
正容公の継室/於祐の墓  享保17(1732)年、若くして波乱の生涯を閉じた。
 「本妙院殿遠寿日量大姉」。
 元文4(1739)年、容貞公が墓参し、正式に正容の継室に列せられた。
 墓は院内御陵/西之御庭
 志賀 重則  しが しげのり、文化10(1813)年〜嘉永3(1850)年 (37歳)
 <宝蔵院流高田派槍術師範>
 宝蔵院鎌流師範/志賀重方の嫡男。 野矢常方の従兄弟。
 父の才を受け継ぎ、槍術の印可を受け、弓術・馬術・兵学も修める。
 江戸では、天下一の「鬼の小太郎」「夜叉の小太郎」と称される。
 18歳にして西国・九州の諸藩を巡って武者修業を行なったが、地元の槍の使い手すら相手になるものはおらず「天下無双・天下一」と称され、各藩にて槍術を教授している。
 帰国後も、分け隔てなく他藩の藩士を受け入れ、教授・指導した。
 弘化3(1846)年、藩校/日新館の槍術師範に就任 (33歳)。
(nisi-中)  戊辰の役で、過去の恩義など持ち合わせていない長賊らが、武器を銃に徹したのは、会津の槍術の恐ろしさを知ったからである。
 嘉永3(1850)年、槍術の天才も流行り病には勝てず病没。  「観國院名槍」。
 墓は大窪山 (現地図に記載あり)。
 「観國院釋名槍正定位
 戊辰の役で、嫡男/英馬・次男が戦死し、槍術師範を引き継いだ野矢常方など高弟も戦死しため、会津の宝蔵院流高田派槍術は途絶えた。

 渋谷荒人については、こちらのメニューから

 島田 貞継  しまだ さだつぐ、慶長13(1608)年〜延宝8(1680)年
 通称:覚右衛門。
 駿河/七兵衛宗源の子。
 和算学に秀でているとして、保科正之公に召し抱えられる。
 承応2'1653)年、江戸初期の著名な和算書「九数算法」を著す。
 勘定奉行、普請奉行を歴任。
 寛文6(1666)年、磐梯山の測量を実施。
 会津の著名な和算家/安藤有益は、愛弟子の1人。
 寿林(なえ)  じゅりん、生年不詳〜延宝7(1676)年10月19日
 黒田与右衛門の娘。 藩主/加藤家の筆頭家老/堀主水の妻。
 加藤明成が藩主に就くや民を虐げる藩政に変わり、正そうとする堀主水との間が不和になっていく。
 主水の家来と明成の家来とが喧嘩する事件が起き、明成が主水の家来に非ありとの裁定し、主水にも蟄居を命じ家老職を罷免した。
 寛永16(1639)年、激怒した主水は主従の縁を切って鶴ヶ城に鉄砲を放ち、橋を焼き払い、関所を破り出奔した(会津騒動、堀主水事件)。
 女人禁制の高野山に入るため妻/寿林と子を鎌倉/東慶寺に預けた。
 明成の追手は寺を取り囲み引き渡しを求めたが、住職/天秀尼 (奈阿姫) は「如何なる罪人でも引き渡さない寺法を定めた男子禁制の尼寺」と応じず、執拗な要求が続いたため将軍/徳川家光の姉で義母に当たる千姫を通じ訴え、最後まで引き渡さなかった。
寿林の墓  この事件以降、駆け込み寺(縁切り寺)として有名になる。
 主水は、家臣たちにも暇を与え、自身は高野山に入った。 治外法権の地であったが、高野山に迷惑をかけまいと下山し幕府に訴えるが、結局 明成に下げ渡され拷問の上で惨殺された。
 後に明成も改易され庶子/明友の下で暮らす。
 寿林は、田島検断の職にあった弟/黒川貞得に引き取られ、持仏堂を造り亡夫の冥福を祈る生活を過ごし84歳の天寿を全うした。
 「観譽壽林大姉霊位」
 墓は徳昌寺
 正阿弥 長次  しょうあみ ながつぐ
 蒲生氏郷公の会津移封に従い、近江国日野から移った鐔工。
 その後、一派は多くの優工を輩出し、「会津正阿弥」と称され幕末まで活躍する。
 乗丹坊  じょうたんぼう、生年不詳〜寿永元(1182)年
 平安時代末期の僧で、「寺僧3百人・僧兵6千人」と強大な軍事力を有していた全盛期の慧日寺の衆徒頭 (軍事部門の総責任者)。
 承安2(1172)年、越後領主/城資永から蒲原郡小川荘75村 (新潟県阿賀町辺り) を寄進される。
 以降、幕末に会津藩が消滅するまで、長らく会津領であった。
 寿永元(1182)年、木曾義仲追討のため信濃国へ出陣した城助職を助けるべく兵を率いて駆けつけたが、横田河原の戦いで戦死した。
 平家方についた慧日寺は、多くの兵を失い一時 衰退する。
乗丹坊供養塔  不動院龍宝寺の境内に、墓と伝わる高さ2.7メートルほどの供養塔 (宝篋印塔) がある。
 乗丹坊が挿した桜の杖が芽吹き育ったとされる「木挿し桜」が現存している。
 ▲(磐梯町本寺上  仁王門の隣り)
木挿し桜

乗丹坊供養塔
 如活禅師  じょかつ ぜんじ、生年不詳〜寛保元(1741)年10月1日
 享保4(1719)年、中荒井の金地川原で渡部市郎右ェ門から声をかけられ、同家 (開当男山酒造) に宿泊、その時に家人の眼病を治した縁で、中荒井に草庵を結ぶ。
 生涯を通じて寺を持たず、田島の各地 (中荒井・黒沢・針生・永田) に粗末な庵を結び、北は南部から南は長崎まで転々と遍歴を続けた黄檗宗の禅師。
 仏教だけでなく神道や修験道、医術や天文、易にも長けており、庶民の救済念仏を続けると同時に、多くの医生も育てている。
 享保16(1732)年、禅師が仏塔を建立。
 死後、初めに庵を結んだ地/中荒井三沢に葬られた。
 「われは臨済三十八世上龍下水如活禅律師なり
如活禅師の墓
 ▲(南会津町
   中荒井三沢口)

如活禅師の墓
 新宮 盛俊  しんぐう もりとし、貞和4(1348)年〜応永27(1420)年
 名:新宮治郎兵部大輔時康。 通称:入道正宗。
 佐原盛連公 (義連公の子) の6男/時連を祖とした一族。
 代々新宮荘の地頭職で、新宮城の城主。
 応永9(1402)年、庶家/北田政泰と結んで蘆名氏に背き、加納荘の佐原氏を滅ぼす。
 応永10(1403)年、蘆名氏に攻められ新宮城が落城、小布施城の戦いで敗れ降伏する。
 応永15(1408)年、再び北田氏と結んで蘆名氏に背くも、翌年には北田氏が滅ぼされる。
 その後も、葦名氏と戦いを繰り広げる。
 応永27(1420)年、蘆名軍の来襲で新宮城は落城し、長男/時兼を越後に逃すも、弟や次男とともに戦死した。
 永享5(1433)年、長男/時兼は蘆名氏の支城/津川城を攻めるが、金上盛勝に反撃され谷山にて自害し新宮氏は滅亡した。
新宮盛俊伝承の塚  鹿瀬に残る塚が、盛俊の墓と伝わる。
 応永二十六年 (一四一九年) 新宮盛俊は津川城を攻めたが敗退、越後の五十公野氏を頼った。雌伏十三年、永享五年 (一四三三年) 盛俊は弟小荒井盛常らを率い、再び津川城を囲んだ。 激戦死斗のすえ新宮軍は武運つたなく敗れ、ここに自害したと伝えられる。
 ▲(新潟県東蒲原郡鹿瀬町大字鹿瀬字漕渡5397  国道459号沿い)
 信松尼
  信松院
  信松禅尼
 しんしょうに、永禄4(1561)年〜元和2(1616)年4月16日 (享年56歳)
 幼名:松。 名:新館御料人、甲斐御前、大儀院。
 武田信玄と母/油川刑部信守の娘との6女として甲斐にて誕生。
 甲州一といわれた母の容姿を受け継いだ美女だったと云う。
 永禄10(1567)年、織田信長の嫡男/奇妙丸 (信忠) と婚約 (7歳)。
 元亀 3(1752)年、三方ヶ原の戦いが勃発、婚約は自然解消 (12歳)。
 天正元(1573)年、父/信玄が死去、兄/仁科盛信に庇護され高遠城下の館 (長野県伊那市) に移る (13歳)。
 天正3(1575)年、長篠の戦いで織田・徳川の連合軍に完敗 (15歳)。
松姫さま、東下之像  天正10(1582)年、婚約者であった織田信忠を総大将とした織田軍が甲斐になだれ込み、兄/勝頼が天目山で自刃し名門/武田家は滅亡。
 ことに及び、兄/盛信の強い願いにより盛信の娘/小督姫たち3人の姫を連れて国境/案下峠を越えて八王子にまで逃れて金照庵に入り隠棲。
 織田信忠から迎えの使者が訪れ向かうも、途中で本能寺の変で暗殺されたとの報を受け戻り、心源院に移って卜山舜越禅師に師事し、剃髪して信松尼と称す (22歳)。「信」は父/信玄・兄/盛信から取ったともいわれるが、上杉景勝公の正室にとの縁談を頑なに拒否したことから許嫁/信忠からではなかろうか。
信松院  天正18(1590)年、元武田家臣であった江戸幕府の代官頭/大久保長安から援助を受け、草庵/信松院を建立。
 近在の子弟に手習いなどを教え、自ら養蚕や絹の織物を手がけ、3人の姫を養育する。 後に八王子市が織物の町として発展する基礎といわれる。
 慶長15(1610)年、志津(於静) が将軍/徳川秀忠の2度目の子を身ごもったのを知る。 姉/見性院から聞いたとも、信松尼が見性院に知らせたとも云われる。
信松尼(松姫)の墓  身重のお志津を見性院の知行地/大牧村へ連れて行き、無事に幸松丸 (保科正之公) を出産させ、姉と共に養育し成長を見守る (51歳)。
 志津が氷川神社に納めた無事出産の祈願文に、信松尼への感謝の文が入っている。
 後に幸松丸は高遠藩/保科正光の養子となるが、高遠は最愛の兄/盛信の縁地であり、保科正光の父/正直は兄/盛信の副将として仕えていた。
 元和2(1616)年、死去。
 「信松院殿月峰永琴大禅定尼」。
 墓は信松院

《 し 》 江  戸  幕  末

 柴 五郎

 しば ごろう、万延元(1860)年5月3日〜昭和20(1945)年12月13日
 藩士/柴佐多蔵の5男として鶴ヶ城近くの邸宅にて誕生。
柴邸宅跡  慶応4(1868)年8月23日、 が鶴ヶ城下に乱入たが、日新館が休校のため松茸狩りで別荘におり偶然にも難を逃れた (8歳) ものの、自邸にいた祖母・母・兄嫁・姉妹たち全員が自刃した
 開城後は、長兄/太一郎の従者として東京へ護送され幽閉 (謹慎)。
柴五郎一家居住跡  斗南藩に移住するが辛酸をなめる
 食べ物にも事欠き、栄養不足などで頭髪が全て抜け落ちたという。
 明治 6(1873)年、上京し陸軍幼年学校入学。
 明治10(1877)年、陸軍士官学校に進学。
 明治12(1879)年、陸軍砲兵少尉に就く。
 明治13(1880)年、陸軍士官学校を卒業。
 明治14(1881)年、大阪鎮台山砲兵第四大隊小隊長に就任。
 明治16(1883)年、近衛砲兵大隊小隊長に就任。
 明治17(1884)年、参謀本部出仕を経て陸軍中尉に昇格、清国差遣として福州/北京に赴任。
 明治21(1888)年、近衛砲兵連隊小隊長に就任。
 明治22(1889)年、陸軍砲兵射的学校を卒業し陸軍大尉に昇格、近衛砲兵連隊中隊長に就任。
 明治23(1890)年、陸軍省砲兵課員を経て、陸軍士官学校教官に就任。
 明治25()1892年、参謀本部第二局員に就く。
 明治27(1894)年、イギリス公使館附心得に就き陸軍少佐に昇格、大本営参謀に就任。
 明治28(1895)年、日清戦争に出征。
 明治32(1899)年、陸軍中佐に昇格。
 明治33(1900)年、清国公使館附の駐在武官に就く。
 まもなく義和団の乱が勃発、実質的な指揮官として60日間の籠城戦を戦い抜き、各国の居留民を守り抜いた。
 この功績により名は世界中に鳴り響き、称賛した各国政府から勲章が授与され、欧米で著名となった最初の日本人となる。
 「籠城中の外国人の中で、日本人・柴五郎ほど男らしく奮闘し任務を全うした国民はいない。彼の輝かしい武勇と戦術が北京での籠城を持ちこたえさせた/ロンドンタイムスの社説」。
 特にイギリスでの評価は高く、日英同盟締結へと結実する。
 明治34(1901)年、参謀本部附を経て、野砲兵第15連隊長に就任。
 明治35(1902)年、陸軍大佐に昇格。
 明治37(1904)年から明治39(1904)年まで日露戦争に出征し、帰還後にイギリス大使館附に就きロンドンへ赴任。
 明治40(1907)年、陸軍少将に就任。
 明治41(1908)年、長賊らの嫉妬から佐世保要塞司令官に左遷。
 明治42(1909)年、重砲兵第2旅団長に就任。
 明治44(1911)年、参謀本部附の身分で清国に出張。  大正元(1912)年、重砲兵第1旅団長に就任。
 大正 2(1913)年、陸軍中将に昇格するが、下関要塞司令官との兼職。
 数多くの武勲に嫉妬する長賊らによる左遷にもめげず、次々に功績を粛々とあげていく。
 大正 3(1914)年、第12師団長に栄転。
 大正 8(1919)年、会津藩出身として初の陸軍大将に就任。
 昭和 5(1930)年、退役。
柴五郎之墓  昭和20(1945)年、とうの昔に退役していたが、軍人として太平洋戦争の責で自決を図る。 しかし老齢のため刀に力が入らず未遂となるが、その傷が悪化して波乱万丈の生涯を閉じた。
 墓は恵倫寺
 後に、柴五郎が少年期に書き残した記録を、藩士の末裔/石光真人が編集し「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」として出版された。
 衆議院議員で作家の兄/柴四朗 (東海散士) も、小説「佳人之奇遇」を著している。
 長賊らの欺瞞に満ちた歴史ではなく、真実が綴られている。
 柴四朗については、東海散士を参照
 柴 太一郎  しば たいちろう、
 天保10(1839)年〜大正12(1923)年4月28日死去 (85歳)
 名:盛道。 通称:秀次、松島翠庵。  <藩士、官吏>
 藩士/柴佐多蔵榮由道の長男で、柴四朗柴五郎の兄。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に伴ない、事前に家老/田中土佐や公用人野村左兵衛と共に上洛し、公用方に就く。
柴太一郎の墓  軍事奉行添役とし鳥羽伏見の戦いに参戦、その後は長岡など越後方面で奮戦するも負傷。
 開城後は、東京幽閉(謹慎)を経て、斗南藩へ移住し、下北郡長に就く。
 明治3(1870)年、食糧の購入代金を横領される「糧米代金事件」に連座。
 明治9(1876)年、長い訴訟の末、禁固刑で入獄。
 その後に会津へ戻り、大沼郡長、南会津郡長を歴任。
 墓は恵倫寺
 柴 司  しば つかさ、弘化元(1844)年2月14日〜元治元(1864)年6月12日 (享年21歳)
 幼名:又四郎。 名:次正 (つぐまさ、つぎまさ)。
 藩士/柴友右衛門次直と母/西郷氏の4男として誕生。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い上洛。
 元治元(1864)年、池田屋事件の残党探索の応援として新選組へ派遣されたが、誤報により踏み込んだ東山の料亭亭にいた土佐藩士/麻田時太郎が名乗りもせず逃げたので負傷させてしまう (明保野亭事件)。
 会津藩の職務行為に非なしと認定されたが、土佐藩が士道不覚悟として麻田を切腹させたため土佐藩内に不満が蔓延、藩同士の衝突を危惧した柴司は回避しようと自決を決意、兄/外三郎の介錯で自刃した。
 「忠信院盡孝刃司居士」。
 墓は黒谷会津墓地死を惜しむ墓誌が刻まれている。

 事態を聞き感じ入った藩主/松平容保は、忠義に報いるため新たに禄を兄/外三郎に与え別家を興させた。
 渋谷 東馬  しぶや とうま、
 天保3(1832)年10月13日〜明治37(1904)年5月6日 (73歳)
 名:貞保、昌甫。 号:時中軒、沈斎剣士。
 藩医/生江寛隆の3男として坂下村 (会津坂下町) にて誕生。 後に渋谷家の養子となる。
渋谷東馬の墓  実戦的な小野派一刀流の剣術を究め、弟子/武田惣角などが継ぐ。
 剣術だけでなく漢学にも秀でており、文武二道の塾「養気館」を坂下村に開き子弟を育成する。
 戊辰の役では、門弟40人を率いて鶴ヶ城へかう途中、薬師堂川原で遭遇した敵兵と奮戦。
 明治 8(1875)年、円蔵寺に剣術の額を奉納 (現存している)。
 明治13(1880)年、絶家となっていた元藩医/渋谷家を再興。
 墓は定林寺。 「渋谷昌甫 イン 之墓
   天保三年十月十三日 明治三十七年五月六日永眠
 荘田 胆斎  しょうだ たんさい、文化12(1815)年〜明治9(1876)年3月30日(62歳)
 名:忠坦。 通称:長之助、半蔵。 字:君平。 庄田胆斎とも。
 藩士/半蔵忠重の次男として鶴ヶ城下にて誕生。
 藩校/日新館の書学寮師範/星研堂に書法を学び、後に上京し巻菱湖に師事、まもなく師よりも勝れていると称される。
 その後、藩の祐筆に取り立てられる。
 開城後は、福島県や文部省に就くが辞職を繰り返し、清国 (中国) に渡り書家と交わる。
招魂碑銘 荘田胆斎の墓  姑蘇で詠んだ詩が評判となり、当地で「寒山先生」と称賛され、後に詩碑が寒山寺に建立されたとのこと。 帰国し、東京にて書塾を開くが、まもなく病いで死去。
 著書「西航漫吟」など。
 墓は興禅寺
 招魂碑銘は飯盛山
 白井
  五郎太夫
 しらい ごろうだゆう、
 天保3(1832)〜慶応4(1868)年1月5日 (享年37歳)
 名:胤忠。 藩士/白井胤忠の嫡男。
 大坂から京へは「鳥羽街道」「竹田街道」「伏見街道」の街道があるが、戦いは「鳥羽街道」「伏見街道」の2ヶ所で起きた。
 慶応4(1868)年1月3日、大砲隊を率いて竹田街道から京へ向かう。
 途中で、布陣していた土佐藩と出会う。
 土佐藩内は公議政体派と討幕派とで対立していたが、前藩主/山内容堂は親慶喜派で、「参戦禁止」の厳命が下っていた。
 土佐藩から教えてもらった抜け道を進み、抵抗する薩摩藩伏見藩邸の表門を大砲で破壊し邸内に突入すると、敵は主力部隊を鳥羽街道方面に配置していたため守りが軟弱で、難なく占領する。
 さらに先に進み、もうすぐ京に入る直前、なぜか進軍を止めてしまう。 一部隊だけで突出して孤立するのを警戒したからとされるが、負傷者もおらず、6年にもわたる京都守護職の任に就いていた京は知り尽くしており、知友も多いのにである。
 そのまま進んでいたら、は竹田街道に兵を配置しておらず、結果として裏をかくことになり敵は大混乱に陥って、歴史は完全に逆転していたとされる。
 1月4日 午前8時頃、倉澤豊次郎と日向勝治・大岩元四郎を鳥羽街道へ、戸枝栄次郎と原八五郎を伏見街道への偵察に向かわせる。
 午前11時ころ、「宇治方面に迂回して敵本営の搦手より攻撃せよ」の出陣命令を受ける。
 出陣して数丁も行かないうちに諏訪常吉が馬で馳せ参じ、敵兵の進攻を食い止め押し返しているとの報を受け、出陣を取りやめた。
 まもなく、「鳥羽街道で苦戦している御味方の援軍」の出陣命令を受け急行軍したが、すでに小橋付近は戦場と化していた。
 街道上に大砲2門を曳き出し、攻撃を開始した。
 本格的な初の戦闘であり藩兵の士気は高く果敢に奮戦するも、場所が悪くて1ヵ所に陣を敷くことができず、さらに大砲隊単独での戦闘のため戦況は一進一退となった。
 「死して君恩に報いるはこの時ぞ」と隊長の叱咤に励まされ、民家などに分散して果敢に戦うこと1時間、背後から佐川官兵衛率いる白兵戦を得意とする別撰隊が怒涛の如く駆けつける。
 「別撰組が来たぞ」の声を聴くや、「別撰組に先んじられてはならじ」と突撃したため、敵は総崩れとなり死傷者を見棄てて敗走を始めた。 これを追撃すること4キロほどの下鳥羽まで押し戻し、日没までに敵の首級までも挙げる。 敵の首級は長賊であった。
 奮戦は凄まじく、隊識別の足袋を指して敵兵からも「勇なるかな会津の白足袋」と恐れられた。
 戦死者1名 (武田俊馬)と、安部井留四郎・草刈行衛・坂部虎三郎・藤沢辰三郎・和田仙六 (5名は傷がもとで後に死去)、大熊俊六郎、杉本弥三郎、日向勝治の負傷者を出したものの完全な勝利であった。
 守備として上田隊を残し、陣に引き揚げた。
 1月5日 朝7時頃から鳥羽・伏見の両道から砲声が轟きはじめた。
 昨夜の戦勝地に布陣の上田隊が苦戦しているとの報が入り、急きょ出陣する。 朝食前だったので食料を食べながらの急行軍であった
 到着すると、戦況の悪化は、なぜか幕兵が撤収をはじめているのが原因と知る。 組頭/松沢水右衛門と杉浦佐伯が「軟弱な兵などに用はないが大砲は置いていけ」と幕兵を怒鳴りつけ大砲を分捕った。
 「総員ここを死所と心得て戦え」と号令の下、会津兵単独での戦いを続けるも、組頭/小池勝吉が戦死し自らも被弾し重傷を負ってしまう。
 「続て隊長も丸に当り重傷を負うも猶口に進め懸れの声を絶たす
 「五郎太夫既に傷を蒙るも顧みず、自ら砲を発して衆を励まし遂に重傷を負う/會津戊辰戦史」
 苦しい息の中からも「進め、かかれ」を発し続けたが、後方の淀城下に火の手が上がり、伏見街道は淀町口まで墜ちた様相から撤退の道も閉ざされた状況に陥る。
 弾薬も尽きはじめ全滅を覚悟し奮戦していると、大垣藩の小隊が来援して負傷者を搬送してはとの提言に従い、大垣藩が敵の追撃を抑えている間に撤収することにした。
 八幡の関門まで戻り休息している中、傷が悪化し死去した。
 墓は一心寺黒谷慰霊。 「明心院殿義専欣浄居士」。
 その後、白井大砲隊は「大坂へ引上げよ」との陣将から命を受け、淀城下の大橋から船で大坂八軒屋へ撤収した。
 神保 内蔵助  じんぼ くらのすけ、
 文化13(1816)年〜慶応4(1868)年8月23日 (享年52歳)
 実名:利孝 (としたか)。
 家老/神保茂左衛門経周の嫡男。
 神保修理は長男、北原雅長は次男。
 安政5(1858)年、若年寄に就任。
 文久2(1862)年、家老に就任。
 松平容保の京都守護職就任に従い上洛。
 文久3(1863)年、家老を免職。
 元治元(1864)年、家老に復職し、禁門の変では長賊を撃退し、天王山に追い込み朝敵/真木保臣ら17名を自決させる戦功をあげる。
 慶応4(1868)年8月23日、 鶴ヶ城下に迫ると、主力部隊が国境守備で不在の状況下で六日町口郭門の守備に就くが防ぎきれず、家老田中玄清と共に医師/土屋一庵邸にて刺し違えて自決。
 「忠岳院殿賢道量義居士」。
 墓は建福寺
 神保 修理  じんぼ しゅり、天保5(1834)年〜慶応4(1868)年2月22日 (享年34歳)
 初名:直登。 名:長輝 (ながてる)。
 家老/神保内蔵助利孝と母/トシとの長男。
 幼少の頃より学問に秀で、藩校/日新館でも逸材と称賛されていた。
 成長すると海外の情勢にも目を向け、国内の小事より国をまとめることが大事と考えるようになる。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に際して抜擢され、随行し国事に奔走する。
 慶応2(1866)年、長崎に遊学し、軍制の改革や西洋の教練を学ぶ。
 慶応3(1867)年、大政奉還によって暗雲が立ち込める大坂へ帰還。
 藩内の主戦論派台頭を危惧し、前将軍/徳川慶喜や藩主/松平容保に江戸に引き上げた上で不戦恭順論を強く提言するも、佐川官兵衛など主戦論派と対立し聞き入れられなかった。
 慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦いが勃発、軍事奉行添役として出陣。
 圧倒的な兵力の旧幕府軍だったが、鳥取藩などの寝返りが始まり不利になると判断し、朝敵になることを避けるため慶喜と容保に恭順を再び進言したが、両者は密かに大坂城を抜け出して敵前逃亡してしまう。
 総大将を失った旧幕府軍は、戦意を喪失し一気に崩壊してしまう。
 負けるはずのない鳥羽伏見での敗戦の原因は前代未聞の敵前逃亡であったが、責任者として修理の名が持ち上がる。
 国際動向や国内事情に通じ、長賊らの中にも多くの信奉者や知人がいたため、長賊らと通じているとの疑惑から生け贄にされる。
 容保に処罰を迫る意見が高まり、和田倉上屋敷に幽閉される。
 旧幕臣/勝海舟が幕府側に身柄を引き渡すよう要求したことから、藩内に怒りが爆発し、密かに三田下屋敷に移され切腹が命じられた。
 弁明の機会を与えられず、偽命と知りつつ、粛々と自刃。
 帰りこん 時ぞと母の 待ちしころ はかなきたより 聞くべかりけり
 「遺徳院殿仁道義了居士」。
建福寺の慰霊墓 興禅寺の墓  自刃の前日に、詩を勝海舟宛の詩をおくっている。
 「一死もとより甘んず しかれども向後奸邪を得て忠良志しを失わん すなわち我国の再興は期し難し 君等力を国家に報ゆることに努めよ 真に吾れの願うところなり 生死君に報ず 何ぞ愁うるにたらん 人臣の節義は斃れてのち休む 遺言す 後世吾れを弔う者 請う岳飛の罪あらざらんことをみよ
 また一人の優秀な人材を失い、会津藩の運命は大きく舵を切った。
 墓は興禅寺。 慰霊墓は建福寺

志賀勘兵衛  篠田岩五郎  柴謙助  柴辰之助由信  柴ツネ・フワチ・トク・素衣・サツ・シヲ・ヒサ・ツネ・兵部  柴宮八三郎行孝  渋井小次郎  島影新兵衛  下平庸三郎  庄條[某]  城取やい

《 し 》 幕 末 よ り 後

 渋川 善助  しぶかわ ぜんすけ、
 明治38(1905)年12月9日〜昭和11(1936)年7月12日 (満30/享年32歳)
 海産物/渋川問屋の長男として若松市(会津若松市)七日町で誕生。
 会津中学校 (県立会津高等学校) 卒業後、仙台幼年学校を経て、陸軍士官学校予科に入学。
 陸軍士官学校本科 (39期) 卒業目前に、教官の腐敗と堕落を糾弾したため退学処分となる。
 上京し明治大学法科に入学、国家主義運動に傾注していく。
 同志と直心道場を設立し、主宰する。
 昭和7(1932)年、杉田省吾・西田税・福井幸・加藤春海らと憂国団体/維新同志会を結成し主宰。
 昭和11(1936)年、民間人として二・二六事件に関与し、東京代々木陸軍刑務所にて処刑 (銃殺刑) される。
 墓は本覚寺 (合祀とのこと)。
 少年の時の部屋を松本清張や三島由紀夫、沢地久枝らが取材に訪れており、三島由紀夫が名付けた「憂国の間」として現存している。
 下坂 藤太郎  しもざか とうたろう、
 明治元(1868)年10月4日〜昭和16(1941)年1月12日
 藩士/下坂藤次郎の長男。
 明治27(1894)年、東京帝国大学を卒業し、大蔵省に入る。
 明治28(1895)年、第二回文官高等試験に次席合格。
 秋田県収税長、大蔵省参事官、書記官、理財局銀行課長などを歴任。
 明治32(1899)年、退職し、台湾銀行理事に就き、後に副頭取に就任。
 明治39(1906)年〜明治40(1907)年、銀行制度調査で欧米視察。
 明治45(1912)年、東洋製糖 (大日本製糖) 専務に就任。
 大正 3(1914)年、東洋製糖社長に就任し、東洋海上保険 (日新火災海上保険) 社長も兼務。
 大正11(1922)年、両社の社長を辞任。
 昭和 3(1928)年、日商 (日商岩井) 初代社長に就任、後に会長。
シュガー佐藤  シュガー さとう、昭和53(1978)年11月29日〜
 本名:熊崎 季恵。 旧姓:佐藤。
 会津若松市出身の元/女子プロレスラー。
 平成 6(1994)年、GAEA JAPANに所属。
 平成 7(1995)年、東京・後楽園ホールの対/成田舞子戦でデビュー。
 平成 8(1996)年、新たに結成されたOZアカデミーに参加。
 平成17(2005)年、GAEA JAPANの解散でフリーとなるが、同年に引退。
 平成19(2007)年、OZアカデミー新宿大会で現役復帰を宣言し、OZアカデミー後楽園大会で1日限定で復帰。
 得意技は、ボディーアタック、雷電ドロップ、白虎など。
 入場テーマ曲は、「COOL IN THE JUNGLE」。
 白井 新太郎  しらい しんたろう、
 文久2(1862)年10月22日〜昭和7(1932)年12月10日 (享年71歳)
 号:如海。
 藩士/白井五郎太夫の長男として鶴ヶ城下にて誕生。
 父/五郎太夫は、鳥羽伏見の戦い林安定 (権助) と共に大砲隊白井隊長として奮戦するも戦死する。
 開城後は、再建された日新館 (県立会津高等学校) で学武。
 明治11(1878)年、上京して秋月悌次郎の門下生として勉学に励む。
 明治17(1884)年、外交官/東政図 (南部次郎) が芝罘領事としての赴任に随行し、清国改造運動に参加。 妻は東政図の次女/恵子。
 明治18(1885)年、帰国し井深彦三郎・中野二郎たちと同居生活。
 明治24(1891)年、設立に関与した東邦協会の幹事に就任。
 明治27(1894)年、台湾へ渡り台湾総督府の事務嘱託に就き、要人の民政長官/後藤新平らと親交を重ね、台湾商工公司の設立などに関わる。
 明治32(1899)年、官塩売捌組合の顧問に就き、台湾全島に食塩専売制度の道を開き、台湾商工公司の顧問として土木建築にも尽力する。
 明治39(1906)年、帰国し、設立した富士水力電気の専務や、駿豆鉄道の社長を歴任。
 大正6(1917)年、第13回衆議院議員総選挙で若松市(会津若松市)から立候補し初当選。 新太郎を援助し続けた柴四朗とは1票差だった。
 大正10(1921)年、「社会極致論」を著す。
 新城 新蔵  しんじょう しんぞう、
 明治6(1873)年8月20日〜昭和13(1938)年8月1日 (66歳)
 酒造業/新城平右衛門の6男として若松 (会津若松市) にて誕生。
 若松町第一番小学校 (鶴城小学校) 在学中は、成績優秀のため半年ごとに進級、神童と称されていた。
 帝国大学理科大学物理学科から大学院に進学。
 明治30(1897)年、陸軍砲工学校教授に就任。
 明治33(1900)年、京都帝国大学理工科助教授に就任。
 ドイツ/ゲッティンゲン大学へ留学し、帰国後、教授に就任。
 大正7(1918)年、留学中に宇宙物理学への関心を持ち、京都帝大に宇宙物理学教室を設立し、主任教授に就任。
 流星圏・回転天体・連星系など天文各分野の研究を推進し、同大理学部の基礎を築き、理学部長などを歴任。
 昭和4(1929)年、第8代/京都帝国大学総長に就任。
 昭和10(1935)年、京大総長を退官すると中国に渡り、上海自然科学研究所の第2代/所長に就任。
 京都帝国大学の在任中、支那学の狩野直喜・内藤虎次郎らとの親交から中国古典に関心を深めていた。
 まもなく日華事変が勃発し上海は戦場と化すが、研究所を閉鎖せず古代中国の天文学を研究し続け、中国年代研究の科学的基礎を築く。
 昭和13(1938)年、戦時下での貴重文化財の保護に奔走した過労から、視察先の南京にて客死。
 著書「宇宙進化論」「迷信」「東洋天文学史研究」「こよみと天文」「戦国秦漢の暦法」「物理及ビ化学・宇宙物理」など。
 宇宙物理学や中国科学史、東洋天文学研究の先駆者であると同時に、徹底した科学的合理主義者として日本で根強く残っていた迷信や因習からの改善に尽力した。
 新城 和一  しんじょう わいち、明治24(1891)年5月15日〜昭和27(1952)年4月7日
 筆名:真城倭一。
 会津若松市にて誕生。
 会津中学校 (県立会津高等学校) を卒業、旧制第一高等学校第一部丁類に入学し、校友会誌に詩を発表するなど創作活動を始める。
 大正 2(1913)年、未来社に参加し「狂気」などの作品を発表、露風系の詩人として知られるようになる。
 大正 4(1915)年、東京帝国大学仏文科を卒業、「白樺」に参加。
 大正 5(1916)年、洛陽堂から「ドストイエフスキー」を出版、後にドストイエフスキー関連を数多く著す。
 大正10(1921)年、人間社出版部からロマン・ロランの翻訳「ロマン・ローラン全集第一巻 (植村宗一と共訳)」を出版、後にロマン・ロランの翻訳を数多く著す。
 大正13(1924)年、東京堂書店からバルザックの翻訳「結婚の契約 ウウジェニイ・グランデエ」を出版、後にバルザック翻訳を数多く著す。
 その他、ジャン=ジャック・ルソー、エミール・ヴェルハーレン、ヴィクトル・ユーゴー、ポール・ブールジェなど数多くの翻訳をする。
 昭和 8(1933)年、法政大学教授を辞任。
 昭和16(1941)年、25年間務めた陸軍教授を退官。
 昭和18(1943)年、「ドストエフスキー人・文学・思想」を著し、評論分野にも進出。
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