市の中心部の東側にあり、標高314メートルの山で、市内が一望できる。
飯を盛ったような山の形をしているので、名付けられた。
山頂には、4世紀代の前方後円墳 (65m) と円墳があり、その後に山城 (飯盛山城) にもなっている。
[城図]
白虎隊自刃の地としても知られ、「白虎隊十九士の墓」には年間200万人もの観光客が訪れる。
隊士の墓までは、183段の石段。
並行して、動く坂道「スロープコンベア (有料)」がある。
数分で、中腹の霊域に到着。
標識の番号順に見学すれば、代表的な場所が巡れる。
慶応4(1868)年8月22日、新撰組などの旧幕府軍700名が守る母成峠で、2,000もの兵による侵攻があり、破られるとの一報が入った。
主力部隊は、他の地域の守備に当たっており、不在だった。
やむなく、白虎隊の士中二番隊に出陣を命じ、松平容保みずから滝沢本陣にて指揮をとる。
白虎隊は、15歳から17歳の少年たちで構成された藩主警護・後方支援の部隊である。
少年兵たちは初陣であったが、戸ノ口原の戦いで勇敢に戦う。
圧倒的に多い敵兵の数に力およばず、撤退を余儀なくされる。
戦闘中に隊長とはぐれた20名は、疲労と空腹に耐え、負傷者を抱え城に向かう。
敵兵の目を逃れるため、猪苗代湖の水を若松に引くための戸ノ口堰洞穴をくぐりぬけ、やっとのことで飯盛山にたどり着く。
そこで仰ぎ見たものは、城下全体をおおう大火災だった。
鶴ヶ城も、すでに火焔に包まれていた。
もはや藩主も生きてはおられまいと、誰もが考えた。
に屈するよりも会津藩と運命を共にしようと決意し、一刻も早く黄泉路を辿る藩主のもとに馳せ参じようと次々に自刃。
蘇生した飯沼貞吉を除き、全員が死亡した。
強制されたものではなく、指揮官なしで、最後まで統率が乱れなかった行動は、日本史上、稀有の出来ごとである。
幼少期の「什の掟」と、当時の最高レベルであった藩校「日新館」での教育の賜物といわれている。
実際は、城の周辺の武家屋敷などが燃えていただけだった。
この後も、1か月の籠城戦を戦い抜くことになる。
ここでもは、死体をそのまま放置しておくよう命じたため、埋葬もできなかった。
見かねた肝煎によって埋葬された隊士の遺体は、再び掘り起こされ、元の地に打ち捨てられている。
明治17(1884)年に、やっと墓が建てられる。
白虎隊士の墓は、遠く鶴ヶ城の方を向いている。
皮肉にも1人だけ生き残った飯沼貞吉によって、忠義の経過が語られ、広く知られるところとなった。
一緒に死ねなかったことから、二度と若松を訪れることはなかった。
後に、友が眠っているこの地へ、分骨された歯と遺髪が埋葬された。
彼らの精神は日本のみならず、海外でも名が知れわたっている。
特に、騎士道を重んじる欧州の国々などで賞賛されている。
ローマから記念碑が送られ、ドイツからは石碑が建てられた。
今も、墓前には香煙の絶えることはない。
そして、霊を慰める
剣舞
が、春と秋の年二回、墓前で奉納され続けている。
白虎隊の歌詞については。こちら。
[閑話]
▲飯盛山スロープコンベア(会津若松市一箕町大字八幡字弁天下) 鶴ヶ城から 3.1km
・運行時間 8時〜17時
・運行期間 4月〜11月末日(降雪期は運休)
・見学時間 40分
・丁字路の信号を50メートル下った所に、市営の無料駐車場がある。
無料の土産店の駐車場も多数あるが、地元ナンバーの車まで呼び込むほどの商魂。
寛政7(1795)年、僧/郁堂と棟梁との創意により飯盛山の中腹に着工され、翌寛政8(1796)年に完成した。
旧正宗寺三匝堂として、国指定重要文化財。
高さ16.5メートル、真径6.3メートルの六角形の三層の不思議な建物で、木造二重らせんは世界で唯一とのこと。
時計周りに螺旋状のスロープで上り、頂上の太鼓橋で反時計回り下りとなり、裏面から出る。
上りと下りがつながっており、一方通行になっている。
サザエの巻貝殻のの中のようで、平衡感覚がおかしくなような体験ができるだろう。
堂の中を3回めぐることから、三匝堂の名がある。
通路の内側に、西国三十三観音像が祀られ、一回ですべての巡礼を終えることができたという。 仏像は、戦乱と廃仏毀釈のため、残っていない。
▲(会津若松市一箕町飯盛山 Tel. 0242-22-3163) 鶴ヶ城から 3.2km
・8時15分〜日没まで(冬季は、9時30分〜16時)
・年中無休
文禄4(1596初)年建築の横山家主屋を、本陣としたもの。
延宝6(1678)年に藩から本陣の命を受け、東側の追加増築に着手し、翌年から本陣として使用される。
古い農民住居の姿を残しており、屋根は茅葺きで書院づくりの建物。
現存する東北地方最古の民家である。
横山家は、飯盛山城を城館としていた現在16代の旧家。
国の史跡に指定、横山家住宅主屋と座敷は国指定重要文化財。
白河街道の滝沢口にあるため、領内巡視時の休憩場としてや、土津神社の祭礼、参勤交代の時の旅装を整える場として用いた。
当時のままの御入御門、御座之間、御次之間などが保存されている。
藩主の身回り品、参勤交代の道具類、古文書なども保管されている。
戊辰の役では、藩主/松平容保が本陣をおく。
白虎士中二番隊が、戸ノ口原戦場への初陣命令を受けた場所でもある。
無数にある弾痕や刀傷が、戦闘の激しさを物語っており、生々しい。
城下の建造物は焼失や破壊されたが、当時の戦いの痕跡が完全な形で残っているのは、ここ滝沢本陣だけである。 開城後に
は居残り組の監禁場所として使われた。
▲(会津若松市一箕町大字八幡字滝沢122 Tel. 0242-22-8525) 鶴ヶ城から 3.1km
・早朝から夕刻まで (8時〜18時)
・休館 年中無休 (冬季は予約が必要)
士中二番隊19人の少年たちの自刃を通して、会津藩のみならず、武士の終焉を後世に伝えようとする資料館。
飯盛山の参道を挟んで、スロープコンベアの反対側にある。
肖像写真・肖像画などや幕府軍の資料、四斤大砲、鉄砲などの武器など1万2千点が展示されている。
が名付けた娘子隊と記載したり、案内のビデオで降伏開城を落城と呼ぶなど史実に難点はあるが。
「会津復古会」加盟館。
▲(会津若松市一箕町大字八幡字弁天下33 Tel. 0242-24-9170) 鶴ヶ城から 3.2km
・8時〜17時(12月から3月は、8時30分〜16時30分)
・年中無休
・館内撮影禁止
白虎隊を中心にして、戊辰の役の資料を約5千点が展示されている。
隊士が学んだ会津藩校日新館、戊辰の役にまつわる新選組なども含め、会津藩の歴史を今に伝える資料館。
一昔前には、館長みずからが、わかりやすく解説してくれたのだが。
▲(会津若松市一箕町大字八幡字弁天下 Tel. 0242-26-1022) 鶴ヶ城から 3.1km
・8時〜17時(12月から3月は、9時〜16時30分)
・年中無休
・館内撮影禁止
飯盛山で自刃した白虎隊士の遺体を、最初に葬った場所。
戊辰の役で開城後に、松平容保・藩主/喜徳公の父子などが約1か月間 (28日)、蟄居謹慎した寺でもある。
[逸話]
は戦いが終了した後にも、遺体の埋葬を禁じた。
自刃した白虎隊士の屍も例外ではなく、放置された。
滝沢村の肝煎/吉田伊惣次 (治) が、密かにの目を盗んで、この寺に仮埋葬した。
すぐに発覚し捕らわれ、遺体は掘り起こされて元の場所に投げ捨てられた。
古道/滝沢坂の中間ほどにある大きな石。
太古の昔、神が会津に来る際に乗ってきた船が、後に石と化したと語り継がれている。
厚さ1メートル、幅3メートルほどで、座イスの形にも見える。
平らな石の背に、船の帆のような八角形の岩が直立している。 昔は、民踊/磐梯山の歌詞に載るほどの名所であった。
近くに舟石茶屋跡、芭蕉の歌碑がある。
滝沢本陣の前の道を直進し古道/滝沢街道を進めば至るが、お勧め道順は、金堀集落から古道/滝沢街道の長坂を上り、車止めから徒歩で5〜10分ほど下る。
戊辰の役には、悲劇も起こっている。
▲(会津若松市一箕町八百山近く) 鶴ヶ城から 9.4km
前方部は幅23メートル高さ3.5メートル、後円部は径45メートル高さ6メートルあり、全長114mの前方後円墳である。
4世紀末に造られたと推測され、東北地方最古の古墳の一つ。 国指定の史跡。
大きさは、東北地方で第4位で、県内では会津坂下町の亀ヶ森古墳に次いで第2位の大きさ。
飯盛山古墳、堂ヶ作山古墳などの一箕古墳群の中の一つ。
昭和39(1964)年5月14日〜27日、発掘調査。
昭和52(1977)年、出土品が一括して国指定重要文化財/考古資料になる。
出土した三角縁神獣鏡や三葉環頭太刀、銅鏃など多くの遺物は、県立博物館と天守閣郷土博物館に保管 (一部は展示) されている。
現地の
【図】
【文】。
大塚山城として蘆名氏の家臣/大塚氏の居城があった。
土塁、堀、平場、虎口などが残るのみで、墓園になっている。
▲(会津若松市一箕町北滝沢) 鶴ヶ城から 3.6km
右の写真をクリックで、現地案内板の文。
≪堂ヶ作山古墳≫
大塚山古墳より小さいが、4世紀前半に築造と年代は古い。
前方後円墳、全長84メートル、標高380メートルの山頂に築造。
≪飯盛山古墳≫
4世紀前半か、5世紀前半に築造と推定されている。
前方後円墳、全長70メートル、一箕町弁天の丘陵上に築造。
東日本大震災で被災したため、閉館。