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舟  石  と  周  辺

▲(会津若松市一箕町八百山近く)

以下の緑色の文は、現地の「説明板」から
画像クリックで現地の説明板の写真表示も一部あり

舟 石

舟石 舟石 舟石

旧滝沢峠・芭蕉句碑・舟石の説明文 舟石の説明文  崇神天皇元(紀元前97)年、神が船に乗って飛来し「鉾」を投じた。
 地上に落下するや否や、「鉾」は八角の水晶に変化した。
 人々は、降臨された神を崇め、八角神社として宮を建てた。

舟石  その際に、乗り捨てられた神船が化石となったのが「舟石」と云い伝えられている。
 神船は墜落し、辺り一面を焼け焦がしたともいう。
 舟石の下は空洞になっており、浮いているようにも見える。

 民踊/会津磐梯山にも登場するほど、当時は知られていた。


桜井常四郎自刃の地

 戊辰の役、軍事方を務める桜井常四郎に、出陣命令が下る。
 戦闘員からは身を引いていたが、主力部隊が藩境警備で不在のため、総動員となった。
 十六橋が突破されるに至り、戦地に赴くこととなる。
 自邸を出る際、
  「敵が滝沢峠を越えさせることは、命を賭して阻止する。
   もし敵が城下に侵入することがあれば、我は死んだものと考えよ

と、妻に言い残した。
 慶応4(1868)年8月23日早朝、撤退との命令を受ける。
 ここで死守せねば、これまでのの所業から城下は修羅場となろう、との進言が聞き届けられる前に敵影が現れ、流れ弾を受けてしまう。
 舟石の上で 「御敵退散」 の祈祷をおこなった後、敵兵を睨みつつ自刃した。
 享年46歳だった。

 滝沢峠から銃声がとどろき、程なく敵来襲の報が伝わる。
 妻/桜井たみ子は、夫の死を悟り、自邸で自刃した。
 ここにも、運命に翻弄された夫婦がいた。

 あまりの見事で気迫の迫る桜井常四郎の自刃に、は一発の銃弾も撃てなかったという。
 会津の城は、これまでの藩のように簡単に落とすことはできまい、と戦慄したという。
 事実、圧倒的な兵力で攻めたが1か月もの籠城戦を戦い抜かれ、落城させることは出来ず、開城によって戦いは終わった。
 この近くでも多く年老いた藩士たちが戦死したが、その後の長賊らの鬼畜にも劣る所業は、いまだ詳細など判っていない。
 戸ノ口原一帯に現存する多数の墓碑のほとんどが、姓名など今もって不明である。

 近くに、滝沢街道を往来していた時代の「舟石茶屋跡」、「芭蕉碑」がある。

舟石茶屋跡

茶屋跡

 寛永4(1627)年、加藤嘉明公が新しい街道として整備した。
 寛永11(1634)年、子の加藤明成公が石畳みを敷設した。
 石畳みの一部は、今も残っている。
 後に、白河街道二本松街道の追分として若松をつなぐ茶屋は、重要な場所であった。
 明治に入り荷馬車の通れる新道が完成すると、街道としての機能は失われ、茶屋も役割を終えた。

《白河街道と二本松街道の追分》 .
白河街道と二本松街道の追分 白河街道と二本松街道の追分  戊辰の役では、出陣した、白虎士中二番隊が、この辺りで敵の大砲の音を聞く。
 近くにあった舟石茶屋に寄り、銃に弾丸を込め、携帯品を預け身軽になって戦闘態勢を整えた。
 「丸込ヲ為シ携帯品ヲ舟石茶屋ニ預ケ、特ニ身軽装トナス」
 急ぎ足で滝沢峠を越え、強清水から約一丁半進み、戸ノ口原手前の小高い丘に胸壁を築き、敵を迎撃した。

芭蕉の句碑

芭蕉碑

 天保11(1840)年、建立。
 松尾芭蕉の会津来訪の予定が変更になり、悲観し惜しだ会津俳壇の宗匠たちが、せめてもの記念にと建てた追憶の句碑。
 刻まれた句は、「笈の小文」の旅の中 (貞亨5(1688)年4月1日) の一句。

 芭蕉は、幕府の隠密だったとの俗説もある。
芭蕉碑の説明文  事実なら、親藩の中でも最も義を重んじる会津藩には、立ち寄る必要もなかったのだろう。
   「ひとつ脱て うしろに おひぬ 衣かえ
 同じ句の碑は、坂本宿出口にもある。

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