会  津  の  著  名  人

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《 い 》 幕 末 よ り 前

 池上 安道  いけがみ やすみち、
 元禄元(1688)年5月24日〜明和4(1767)年2月2日 (80歳)
 粂之助、善左衛門、丈之助、伊右衛門。 39歳から:丈左衛門。
 多くの公文書に安通ともあるが墓碑は安道。 晩年:丈仙。
 藩士/丈左衛門安次の嫡男。
 流祖/溝口正則の門下/伊藤政盛が会津へ溝口派一刀流を伝えたのだが、皆伝する前に去ってしまった。
 安道が皆伝を得るため江戸へ赴くが、すでに散逸しており得ることができず、工夫を重ね苦労の末に独自に完成させた。 これを以て会津の溝口派一刀流は安道を祖とし、池上派一刀流と呼ぶ研究者もいる。
 帰藩してから多くの門弟を育て、会津五流 (安光流・太子流・真天流・神道精武流) といわれる剣術の中でも主流にまでにした。
 松平正容公以降の藩主が学ぶ流派となり、上級武士に教授された。
 安道の嫡男/久五郎安廉は町野忠助重勝に伝授し、その後は町野家が世襲の指南役となる。
 御留流 (秘密の流派) であったため公にされず、戊辰の役で伝承者の大半が戦死してしまった。
 途絶えるのを惜しんだ家老/萱野長修が、藩の責任を取って切腹する前に井深宅右衛門に伝授した奥義は、宅右衛門の娘婿/和田又四郎、その子/和田勁、和田晋に伝えられ、今に伝わる。
 なお、現存する溝口派は、会津藩伝と和田重郷伝の2派がある。
 墓は、建福寺
 [史料]

 和泉守兼定については、こちら

 一ノ瀬 大蔵  寛政9(1797)年〜安政4(1857)年
 名:忠移。
 砲術師範/一ノ瀬熊十郎忠良の長男。
 代々、永田流砲術の師範。
一ノ瀬大蔵の墓  若くして文武に優れ、一夜にして五言律詩百首を詠じたことから、藩から褒美/金500疋が授与されている。
 西洋流の砲術が伝来したため藩命により上京し、江川坦庵に師事し学ぶも門人の中で大蔵と肩を並べる者はおらず、塾頭にまで就任している。
 砲術訓練の費用捻出のため、砂糖売買を建議し、藩から認められてもいる。
 墓は、東京/実相寺
 「浄境院清學了心居士」
 一宮 盛信  いちのみや もりのぶ、元和6(1620)年〜延宝3(1675)年4月4日(55歳)
 名:信嗣。 通称:左太夫。
 父祖伝来の一刀流剣術 (林崎新夢想流) の奥義を究め、一宮流居合術として完成させたことにより、会津藩に召し抱えられた。
 その流派の道場は、幕末まで本一之丁に続いていた。
 林崎新夢想流としては、3藩に伝承されていた。
  ◇ 会津藩 一宮盛信
  ◇ 新庄藩 駒木根良重
  ◇ 弘前藩 常井直則
 猪苗代 兼載  いなわしろ けんさい、
 享徳元(1452)年〜永正7(1510)年6月6日 (59歳)
 幼名:梅、梅子。 名:興俊、宗春。 別号:相園坊、耕閑軒。
 <連歌師、法橋>
 猪苗代城主/猪苗代宗実 (式部少輔盛実) の子として誕生。
 母/加和里御前が小平潟天満宮に祈願し、百夜通いの満願により授かったと伝わる。
自在院の歌碑  長禄元(1457)年、自在院の住職/仏賢に引き取られ、法号/興俊と改名し仏門に入る。
 自在院の門前に歌碑がある。
  「花ぞ散り かからむとての 色香かな
 文明 2(1470)年、関東流浪中の心敬に師事。
 文明 3(1471)年、「河越千句」に参加し、連歌界で活躍。
 文明 7(1475)年、上京し、公家歌人/飛鳥井雅親・雅康、公家歌人/姉小路基綱・三条西実隆らと親交。 この期間中も地方にも赴き、武家歌人/木戸孝範らと親交。
 文明18(1486)年、兼載を名乗る。
 延徳元(1489)年、北野連歌会所奉行、連歌宗匠に就任。
 明応 3(1494)年、堯恵に師事し古今集を学ぶ。
 明応 4(1495)年、宗祇の「新撰菟玖波集」編纂に携わるが、意見が対立し全国各地の大名などを歴訪、将軍/足利義政の師匠にもなる。
 明応 9(1500)年、大火で京の住居を焼失。
 文亀元(1501)年、京を去り、関東各地を巡り、岩城に草庵を結ぶ。
鳥追観音の歌碑  永正 2(1505)年、連歌百句一巻の「蘆名祈祷百韻」を詠む。 その中の1句の歌碑が、鳥追観音(如法寺)にある。
 「さみだれし 空も月げの 光かな
 永正 6(1509)年、故郷に帰る途中 病に罹り、古河公方/足利成氏 (2代) に招かれ、病気治療のため下総国古河に滞在。
 永正 7(1510)年、滞在地/古河で死去。
 墓は満福寺。 「耕閑軒兼載居士」
 著書「万葉集之歌百首聞書」「新古今抜書抄」「自讃歌聞書」「兼載名所方角和歌」、句集「園塵」「若草山」、連歌論書「心敬僧都庭訓」「連歌延徳抄」、家集「閑塵集」など。  《兼載筆
 「さみだれに 松遠ざかる 州崎哉/故郷の風景」
 「山は雪 海は氷を かゞみかな/冬の猪苗代湖」
 野口英世は子孫。

 猪苗代(平)盛胤については、こちら

 井深 重光  いぶか しげみつ、
 元和2(1617)年10月〜元禄12(1699)年4月13日 (83歳)
 組頭/井深監物重次の子として信州高遠で誕生。
 通称:半弥、茂右衛門。 号:常敬。
久彦霊社  寛永9(1632)年、将軍/コ川家光が父/台徳院(秀忠)霊廟を増上寺に建立する普請を保科正之公に命じた際、国元から呼び寄せられ自らも工事に加わり陣頭指揮をしている。
 その後、正之公の山形藩会津藩移封に従い、会津/井深家の祖 (家老六家の1つ) となる。
 万治2(1659)年、家老職に就く。
 保科正之公から正容公まで31年にわたり仕え、実直な人柄は上下ともに信頼が篤かった。
 土津神社の境内に御末社「久彦霊社」として祀られている (墓は善龍寺)。
 元禄2(1689)年、隠居願いを出し、職を辞す。
 嫡子/茂右衛門常方が本家を継ぎ、次男/三郎左衛門重喬、3男/清太夫重堅、4男/七野右衛門重旧がそれぞれ分家として幕末まで続く。
 子孫として、白虎隊/井深茂太郎や、石山家の養子となり飯盛山で自刃した虎之助、明治学院/総理の井深梶之助、ナイチンゲール記章を受章した井深八重、ソニーの創立者/井深大などがいる。

 元々の祖先は松本城主/小笠原家の家臣として松本岡田/井深城 (長野県松本市岡田伊深) の城主であったが、小笠原長時の時代に信玄に攻められ逃亡したため、当主/井深茂右衛門重吉は保科正俊の配下に入る。
 保科家の嫡子/正光は武田勝頼の人質として新府 (韮崎) にいたが、武田家滅亡の際に新府から正光を救い出した忠臣が重吉である。
 その後、重吉は、正光の側近として仕える。
 寛永13(1636)年、重吉が死去 (73歳)。
 重吉の嫡男が井深監物重次で、重光は孫にあたる。
 慶安4(1651)年、井深監物重次が死去。
 なお、小笠原長時は蘆名盛氏公の庇護を受け会津で没している。
 “ご縁”とは不思議なものである。
 以降、幕末まで家老九家として歴代家老4名が務める。
  重光  → 常方  → 尹常  → 武常  → 重ロ  → 重孝
 井深 尹常  いぶか ただつね、貞享4(1687)年〜享保20(1735)年6月22日
 幼名:重矩。 通称:平蔵、監物。 通称:茂右衛門。
井深尹常之墓  井深重右衛門常方の嫡男。
 河陽流兵学を究め、和歌にも長けていた。
 元禄16(1703)年、膳番に就く。
 宝永 3(1706)年、家督を継ぎ、用人に就く。
 宝永 4(1707)年、松平正容公の側衆に就く。
 正徳元(1711)年、内證用人に就く。
 享保 7(1722)年、家老に就任。
 享保10(1725)年、茂右衛門を襲名。
 墓は大窪山墓地 (現地図に記載あり)。

飯田兵左衛門 五十嵐茶三 五十嵐養庵 生駒直方 石川宗玄
井上安貞 伊南芳紀 伊南芳教 伊南芳通 今村伝十郎
(いつき)太夫 入江先生之墓

《 い 》 江  戸  幕  末

 飯河 小膳  いいかわ こぜん (しょうぜん)
 文政8(1825)年〜明治17(1884)年10月21日 (59歳)
 名:義通、諱:光義。  <私立日新館教授>
 藩士/飯河岩之進の子として鶴ヶ城下にて誕生。
 しかし、幼少の頃に父が死去したため、家は途絶えた。
 刻苦勉励して文武を修め、上洛して世に出る機会を待っていた。
 文久2(1862)年、松平容保が京都守護職のため上洛した際に願い出て、寄合組士に召し抱えられた。
 元治元(1864)年、蛤御門の戦いでは町野源之助とともに2番槍の武功をあげ、負傷したものの外様組付となる。
 斗南藩移住し、少属試補に就く。
飯河光義之墓  明治6(1873)年、澄月寺を借りて第七大学区第十六中学区三番小学 (三本木小学校) の創立に関与するなど地元の教育にも尽力するが、藩も消滅しており、帰郷し大塩村 (喜多方市) に隠棲。
 明治9(1876)年、思案橋事件に連座した中根米七たちを、自邸に匿っている。
 明治15(1882)年、若松に戻り、旧藩士/中條辰頼たちと協力して私立「日新館」を創立し、自らも教授となって子弟教育に尽力した。
 墓は大窪山墓地 (現地図に記載あり)。
 「飯河光義之墓 同妻之墓
 飯沼 貞吉
仙台/輪王寺の案内板
仙台/輪王寺の案内板
[肖像]
 いいぬま さだきち、
 嘉永7(1854)年3月25日〜昭和6(1931)年2月12日 (78歳)
 戦後に貞雄と改名、号:孤舟、孤虎。
 藩士/時衛一正と母/文子の次男として、本二之丁と三之丁間(大町通り)の自邸で誕生。
 父/時衛の妹が西郷千重子
 飯盛山自刃した白虎士中二番隊の中で唯一の蘇生した隊士。
 生き残ってくれたために、自刃に至る状況が今に伝わる。
 慶応4(1868)年8月22日、出陣の触状を受取ったが、父/時衛は青龍寄合一番隊の中隊頭として白河口へ、兄/源八も越後口へ出陣しており、母/文子へ暇乞いし、母から歌を贈られての初出陣であった。
  「あずさ弓 むかう矢先は しげくとも
         引きなかへしそ 武士(もののふ)の道

 発見までの経過は、出版されている内容とやや違うので省略。

 藩士/印出新蔵の妻/ハツが息子を探している際に、まだ息のある貞吉を発見、医者を求めて塩川に辿り着き、醸造業/近江屋 (会津藩塩川本陣) の深田文内宅に匿わ、医者/三本住庵と長岡藩軍医/阿部宗達・吉見雲台らの治療により一命をとり止めた。 慶山村の渡部佐平が発見し、その長男の嫁/おむめとハツの2人で救出ともいわれている。
 極悪非道の長賊らの探索から逃れるべく、塩川から北方 (喜多方) へ、さらに清流寺不動堂へ隠れて介護を受けた。
 近年になって功績を嫉妬したのか長賊らが庇護・教育したと云いだしているが、本人はもとより伝承すら まったく無い。
 偽勅や錦の御旗の偽造を何とも思わない長賊らが都合が悪くなると、よくやる捏造による“新発見”だろう。
 印出ハツは、匿ったとして惨殺された。
 開城した鶴ヶ城の藩士たちが幽閉(謹慎)された猪苗代に出頭する。
 明治3(1870)年、斗南藩の立藩(前年末)により謹慎が解かれ、広沢安住の紹介で、元藩士の林三郎を頼って静岡の林塾に預けられる。
 明治5(1872)年、東京/工部省技術教場の電信技師に就任。
 その後、全国各地で勤務する。
 明治18(1885)年に新潟で勤務の時、工部省が逓信省に変わった。
 明治20(1887)年、逓信省工務局第一課長に昇進。
 明治26(1893)年、戊辰の役で絶えた叔父/友次郎の家を再興。
 明治27(1894)年、日清戦争に従軍し、大本営付/技術部総督として通信網敷設に貢献。
 明治38(1905)年、札幌郵便局工務課長として札幌に赴任 (50歳)。
 この後5年間、電話交換機の取り替え工事の監督、電信電話線の架設や無線電信局の建設など、北海道全道の電気通信網の発展に尽力。
 札幌市の居住地跡に功績を讃えた碑/飯沼貞吉ゆかりの地がある。
 明治43(1910)年、仙台逓信通信管理局部長。に就任。
 大正2(1913)年、退官するも仙台に住み続け、この地で後に死去
 墓は輪王寺飯盛山。 「白巖院殿孤虎貞雄居士」
 飯盛山にある墓は、頭髪と抜けた歯を小箱に納めて「もし会津に墓を建てることになったら渡すように」との遺言により、昭和32(1957)年9月の戊辰戦役九十年祭の際に建立された。

 母/ふみ(文子)は、西郷十郎右衛門近登之の娘。
 貞吉の家は父/時衛が物頭を務める大家族で、母/ふみは家庭の切り盛りを良くし、雅号/玉章 (たまずさ) という歌人でもあった。
 曽祖母、祖父/粂之進、祖母、父、母、兄、弟、妹、叔父夫妻に加え、下男下女が同居。
 斗南藩の移住先/五戸村 (五戸町) の名簿には、年齢と共に12名と記載されている。
  ◇ 曽祖母/みの (87歳) ◇ 祖母/こう (67歳)
 ◇ 父/猪兵衛(隠居、47歳)◇ 母/文子 (ふみ、43歳)
 ◇ 兄/飯沼源八 (戸長、24歳)◇ 貞吉 (21歳)
 ◇ 妹/ひち (15歳)◇ 弟/関弥 (11歳)
 ◇ 大叔父/留蔵 (61歳)◇ 大叔父の妻/よし (47歳)
 ◇ 下男◇ 下女
 まもなく、祖母/こうが亡くなり八幡宮入口の墓地に埋葬したが、貧しさが故、墓碑を建立できず、今では不明とのこと。
 貧困な生活にもかかわらず、貞吉を静岡の林塾へ留学させた。
 明治7(1874)年、五戸村の生活に見切りを付け、会津へ歩いて帰郷。
 明治30(1897)年8月17日、死去。 68歳。
 枕元に海老名リンを招いて代筆を頼み、辞世の歌を詠んだ。
  「今さらに なげかるゝかな つひにゆく
         道とはかねて 思ひしれとも

 母/文子の姉/えん(艶) は、家老/山川重固尚江に嫁いでおり、その子の山川大蔵健次郎二葉大山捨松とは従兄弟。
 井口 慎次郎  いぐち しんじろう、
 安政元(1854)年〜明治10(1877)年2月7日 (24歳)
 藩士/井口隼人と母/みさ (浅羽忠之助の姉) との次男として、鶴ヶ城下にて誕生。
 戊辰の役では、白虎隊幼少組に編入され籠城戦を戦い抜く。
 兄/信太郎は、朱雀士中二番田中隊として長命寺の戦いで戦死。
 父/隼人は、高田にて幽閉 (謹慎) 中に病死
 東京幽閉 (謹慎) を経て、母/みさ・弟/常四郎と共に斗南藩/金田一村に移住。 同じく斗南藩へ移住し少参事に就任した永岡久茂から弟のように可愛がられ、後に永岡の書生となり、思案橋事件に加わる。
 明治9(1876)年、思案橋事件に連座し投獄され、翌年初めに処刑。
《辞世の句》  [資料]
 「待て暫し 我も後より続かまし 同じ黄泉路を 辿る身なれば
 墓は、源慶寺
井口信雄   [資料]
 明治26(1893)年2月20日、斗南藩士/常四郎の3男として岩手県二戸郡金田一村釜坂 (戸籍は三戸町大字八日町35) で誕生。
 釜澤小学校を卒業し、三戸小高等科、さらに青森師範学校に進む。
 大正2(1913)年3月、師範学校を卒業し、田子小学校の教師に就く。
 大正14(1925)年、同校の18代/校長に就任。
 昭和17(1942)年、三戸国民学校長兼三戸実家女学校長に就任。
 昭和27(1952)年、三戸町教育長/就任。
 昭和33(1958)年に退任するまで、学校教育一筋に尽力した。
 叔父/井口慎次郎の件があったからか、斗南藩に関しては1度も話しをしたことがなかったという.
 池上 三郎
[肖像]
 いけがみ さぶろう、
 安政2(1855)年1月26日〜大正3(1914)年11月10日 (60歳)
 幼名:八三郎。
 郡奉行/池上武輔と母/ウメの3男として本三之丁で誕生。
 長兄は夭折。 次兄/友次郎鳥羽伏見で戦死、父/武輔も第二遊撃隊/組頭として越後/小千谷で負傷。 後の大阪市長/四郎は弟。
 元治元(1864)年、藩校/日新館に入学。
 慶応4(1868)年8月23日、鶴ヶ城下に侵入するや、中軍護衛隊 (14歳) として戦い、籠城戦で北出丸へ迫る敵兵を撃退させるなどの軍功をあげている。
 開城後は、上窪村 (塩川町) の肝煎/鈴木家に仮住まいする。
 明治3(1870)年、斗南藩に移住するが食料すら事欠く辛酸をなめる。
 明治4(1871)年、上京し福地源一郎 (仏語塾) に師事、次いで慶應義塾に入学、高島嘉右衛門 (藍謝堂) に師事するなど苦学する。
 明治6(1873)年、新治県土浦/化成塾で洋学の教師に就任 (19歳)。
 その後、東京日日新聞の記者になり、法律の勉強に没頭する。
 明治10(1877)年、司法省一等出仕に就任。
 山形県庄内一揆(ワッパ騒動)に手腕を発揮し、検事補となる。
 明治14(1881)年、検事に昇進。
 長崎や大阪各控訴院検事、神戸地方裁判所検事正などを歴任。
 明治38(1905)年、函館控訴院検事長に就任。
 大正2(1913)年に休職するが、翌年に東京/渋谷の自宅で死去。
 [史料]
 池上 四郎
[肖像]
 いけがみ しろう、
 安政4(1857)年4月18日〜昭和4(1929)年4月4日 (73歳)
 藩士/池上武輔と母/ウメの4男として本三之丁で誕生。
 長兄は夭折。 次兄/友次郎鳥羽伏見で戦死、父/武輔も第二遊撃隊/組頭として越後/小千谷で負傷。 後の検事長/三郎は兄.
 慶応2(1866)年、10歳で藩校/日新館に入学。
 戊辰の役では、白虎隊を希望したが12歳のため年少隊にも入れなかったが、籠城戦で護衛隊に入隊する。 砲弾が飛び交う中、気後れすることなく唐人凧をあげて味方の士気を鼓舞した逸話は有名。
 開城後は、上窪村 (塩川町) の肝煎/鈴木家に仮住まいする。
 明治3(1870)年、斗南藩に移住するが、生死の狭間を渡り歩く生活。
 斗南藩が消滅したため、兄/三郎を頼って上京、柳谷卯三郎 (横浜正金銀行) の書生などをしながら苦学に励む。
 明治10(1877)年、警視局一等巡査に就任 (20歳)。
 まもなく警部となり石川県、富山県の警察署長、京都府警部、長崎県典獄などを歴任。
 明治31(1898)年、千葉県警察部長、次いで兵庫県警察部長に就任。
 明治33(1900)年、大阪府警察部長に就任し、その後13年もの間、商都大阪の治安維持に尽力、多くの市民から信頼を得る。
 大正2(1913)年、政治的に腐敗・混乱している大坂市政の浄化と建て直しを図るべく嘱望されて大阪市長に就任。
 その後3期10年もの間、財政再建を進めつつ、都市計画事業・水道事業・大阪港の建設など都市基盤を整備し、近代都市創りに尽力。
 大阪のメインストリート/御堂筋を立案し、博物館や図書館などの教育施設や、病院の整備など社会福祉充実にも尽力した。
 大正4(1915)年、天王寺動物園を開園。
 大正8(1919)年、全国初の児童相談所や公共託児所を開設。
 大正12(1923)年、大阪電灯(株)を買収し電気の供給事業を市営化。
 同年9月1日に壊滅的な関東大地震が発生すると、真っ先に支援物資を満載した輸送船を大阪港から東京に派遣し被災者の救済を行った。
 昭和2(1927)年、市長職退任後に行政手腕を買われて、嘱望されて朝鮮総督府政務総監に就任する。
 すぐさま現地に赴任し現地を視察、貧困化している小作農を救済するために小作法を制定するなどの救済教化政策を推し進める。
 昭和4(1929)年、出張先の東京/築地 (六方館) で脳溢血のため倒れ、療養も虚しく「大・大阪建設の祖父」は死去。
 享年73歳。 墓は池上家累代之墓に合葬。
池上四郎の墓  昭和10(1935)年、功績を讃えるべく大阪市民の手によって銅像が建立される。 高さは、単一人の像としては当時で最大のものであった。
 太平洋戦争の金属供出により、昭和(1942)年に撤去されてしまう。
 昭和34(1959)年6月、初代の像より少し小さくなったものの、市政70周年を記念して天王寺公園に再建された。
 秋篠宮紀子妃殿下の、曽祖父に当たる。
 墓は興徳寺の「池上家累代之墓」に合葬。
 [史料]
 石田 龍玄  いしだ りゅうげん、文政4(1821)年〜明治8(1875)年 (57歳)
 名:常雄。  <内科・産科術・調薬の名医>
 金上村の肝煎/石田五郎左衛門の3男 (長男/七郎左衛門、次男/謙齋、四男/喜作)、石田七郎左衛門が兄兼養父。
 日下義雄 (石田五助) は長男、石田和助は次男。
 幼時から学問を好み、鈴木玄甫重積に学び、師匠/玄甫の助力で江戸へ就学し、刻苦勉励の末に若松に戻る。
 紺屋町に居を構え、貧民救済の無料診断を行い名声を得て、町医から御側医 (側醫格/士分) に推挙される。
 開城後は、上京し本所にて開業し、内科の名医として名声を得る。
 墓は、東京/天王寺とのこと。
 一ノ瀬 要人  いちのせ かなめ、
 天保2(1831)年〜慶応4(1868)年9月22日 (38歳)
 初名:伝五郎。 名:隆知、隆智。 通し名:要人  <家老>
 家老/一ノ瀬要人隆鎮の嫡男として誕生。
 文久 2(1862)年、松平容保の京都守護職就任で番頭として上洛。
 元治元(1864)年、禁門の変では弐番隊/陣将として奮戦。
 慶応 2(1866)年、父/隆鎮の死去により家督を継ぎ、若年寄に就任。
 慶応 4(1868)年の戊辰の役では、家老に就任し、越後口総督 及び同盟軍/軍議所総督として北越戦線を転戦。
 長岡城落城で負傷の長岡藩家老/河井継之助を会津領に退避させた。
 籠城戦に入ると、糧道を確保するため塩川周辺に布陣し奮戦、熊倉の戦いでを撃退するなど戦功をあげる。
 萱野権兵衛隊とともに一ノ堰に移動し、自ら陣頭に立って銃を撃つという激戦の末に敵兵を撃退するが、重傷を負ってしまい、6日後に桑原の野戦病院にて死去した。
 容保からの開城を告げる親書を受け取り、悟って超然と息を引き取ったという。 家老で唯一の戦死者であった。
 墓は光明寺。 「日大忠院殿武法執威居士」

 一ノ瀬帰一(雑賀重村)については、こちら

 伊東 左太夫  いとう さだゆう、
 文政9(1826)年〜明治4(1871)年4月15日 (46歳)
 名:祐順(すけより)、左太夫は通り名。 通称:図書。 号:寛堂。
 藩士/伊東慎吾祐辰の長男。
 藩校/日新館で頭角を現し、14歳で日新館/講釈所 (大学) に進む。
 優秀であるため昌平坂学問所 (昌平黌) への遊学が内定したが、日新館で充分と辞退。
 儒者見習、用所密事頭取、軍事方を経て大目付となる。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い上洛し、翌年に公用人に任命され藩外交に尽力する。
伊東左太夫の墓  戊辰の役では、藩命により使者の1人として米沢藩・庄内藩との交渉に奔走した。
 父/慎吾は、甲賀町口で戦死。
 次男/梯次郎は、白虎士中二番隊として飯盛山自刃
 開城後は大沢村に蟄居し子弟の教育に尽くす。
 明治2(1869)年の秋、松平喜徳公の侍講として東京に赴き、出仕中に心臓発作で急逝。
 「聡明院英俊智達居士」
 墓は天寧寺
 井上 丘隅  いのうえ おかずみ、文化12(1815)年〜慶応4(1868)年8月23日(54歳)
 大組物頭の子として甲賀町郭門南にて誕生。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い上洛。
 鳥羽伏見の戦いに参戦、白河の戦いで奮戦し負傷。
 帰国後は、幼少隊寄合組/組頭に就く。
鶴ヶ城下に迫ると、傷も治らないうちに滝沢口に出陣。
 その後、甲賀町郭門を死守するも被弾し、やむなく五之丁角の自宅へ戻り、妻/トメ・長女/チカ・3女/ユミ・臼木サダと共に自刃。
 墓は阿弥陀寺/戦士墓に合葬、家族は建福寺

 この場に次女/雪子も居合わせたが、神保修理に嫁いでいたため諭して嫁ぎ先の神保家に向かわせる。
 しかるに、その後、婦女隊として奮戦し戦死した。
 井深 梶之助
[肖像]
 いぶか かじのすけ
、安政元(1854)年6月10日〜昭和15(1940)年6月24日 (87歳)
 学校奉行/宅右衛門重義の長男として本三之丁で誕生。
 幼名:清佶。 名:重信。
 母は家老/西郷頼母近思の娘/八代子、衆議院議員/井深彦三郎は弟。
 文久3(1863)年、10歳で日新館に入学。
 戊辰の役では、父の率いる第二遊撃隊に従軍し小千谷にし激闘にも参戦するが、父の命により帰城し松平容保の小姓として籠城 (14歳)。
 初陣で叔父が近藤勇から譲り受けた銃で敵兵1人を撃ち倒している。
 開城後、斗南藩に移住するが、斗南藩の私塾で西洋の圧倒する技術力を知り、学ぶべく明治3(1870)年 (16歳)に上京する。
 私塾を転々とした後に、横浜/修文館の学僕となる。
 修文館で英語を教えていた宣教師ブラウンに感銘し師事する
 明治 6(1873)年1月5日、キリシタン禁制解除の前にブラウンから洗礼を受け、横浜海岸協会会員となる。
 明治 7(1874)年、ブラウンが修文館を辞任したため、井深や松平定敬たち10名ほどが集まり教えを請う。 ブラウンの自宅に私塾を開くことになり、「ブラウン塾」と呼ばれ神学を学ぶ。
 明治10(1877)年、東京一致神学校が開校、第一期生として入学する。
 明治12(1878)年、教師補に任命される。
 明治13(1879)年、日本基督一致教会の牧師に就任。
 明治13(1880)年、麹町教会 (日本基督教団高輪教会) の牧師に就任。
 明治14(1881)年、東京一致神学校の助教授に就任。
 明治19(1886)年、明治学院創立理事会で日本人理事(副総理)に選出。
 明治20(1887)年、明治学院の設立時に教授に就任。
 明治22(1889)年、明治学院の副総理に就任 (初代総理はヘボン)。
 明治23(1890)年、米国/ニューヨークのユニオン神学校に留学。
 明治24(1891)年、帰国し、明治学院の2代目/総理に就任。
 前年にから公認学校で宗教儀式や教育を禁止する通達が出ていることを知り猛反発、憲法に定める信教の自由を強く主張し、公認学校の特典すら拒否して宗教教育を堅持した。
 の威圧的な施策に苦しめられていた人々が大いに勇気づけられ、以降、彼らから様々な支援を受けることになる。
 明治37(1904)年、両親が離婚した姪/井深八重を預かる。
 明治44(1911)年、基督教教育同盟会 (キリスト教学校教育同盟) の2代目/理事長に就任。
 大正10(1921)年、明治学院の総理を辞任し、名誉総理となる。
 大正13(1924)年、明治学院を退職。
 昭和15(1940)年、脳膜下出血のため東京/自宅 (芝白金三光町) で死去。
 墓は青山霊園
 井深
  宅右衛門
 いぶか たくえもん (たくうえもん)、
 文政13(1830)年1月26日〜明治30(1897)年3月19日 (38歳)
 父/井深清大夫重保と母/リツ子 (柴太一郎の次女) の嫡男。
 幼名:梶之助、名:重義。
 妻/八代子は西郷頼母の妹、長男が井深梶之助、3男が井深彦三郎
 文武両道に秀でており、特に漢籍に深い造詣を持ち、会津怡渓派茶道の皆伝書も受けている。
 物頭、組頭、町奉行、奏者番上席、日新館/学頭などを歴任。
 文久2(1862)年、江戸常詰の聞番に就任。
 文久3(1863)年、京都守護職/松平容保の軍事奉行仮役として上洛。
 慶応2(1866)年、学校奉行として帰城。
 戊辰の役では第二遊撃隊/隊頭として飛び藩領/小出島などで奮戦。
 敵兵城下乱入の報で鶴ヶ城に入り、用人として籠城戦を戦い抜く。
 開城後は松平喜徳公に付き添い、滝沢村、東京/有馬邸へ幽閉。
 明治2(1869)年、戦争責任を一身に背負い切腹した萱野権兵衛は、一刀流溝口派の途絶を惜しみ、奥義を伝授した相手が宅右衛門である。
 明治3(1870)年、家族と共に斗南藩/五戸へ移住する。
 明治6(1873)年、若松に帰り、小学校の教員となる。
 その後、若松区長、大沼郡書記、南会津郡書記、田島村戸長を歴任し、晩年に東京へ転居する。
 墓は青山霊園
 井深 元治  いぶか もとはる、嘉永2(1849)年〜明治6(1873)年2月5日 (25歳)
 藩士/井深保と母/シゲ (商人/富田治平の娘) との子として鶴ヶ城下にて誕生。 安部井帽山の養子となるが、後に離縁。
 幼くして才が優れ、昌平坂学問所(昌平黌)で学ぶ。
 明治2(1869)年7月12日、戦死者の埋葬を禁止したり、調べもせず惨殺するなど悪政の限りを尽くした民生局監察兼断獄の極悪人/久保村文四郎を、束松峠にて伴百悦高津仲三郎、武田源三の4名で斬り殺す。
 名を「神山大八」と変え、九州などでの逃亡生活を経て、招聘され淀藩子弟の教育に就く。
 首謀者は処刑され捜査も終了したと聞き及び上京し、横浜の藍謝堂 (高島学校) の教頭に就任するが、密告により捕縛される。
 明治6(1873)年、判事の長賊/玉乃世履らによる惨い拷問で獄死。
 遺体は、小塚原回向院に投げ捨てられた。
 明治27(1894)年、日下義雄が墓碑を谷中霊園に建立。
 今泉 岫雲  いまいずみ しゅううん、
 天保5(1834)年4月7日〜明治29(1896)年4月17日 (63歳)
 名:利武、 通称:勇治。
 孫総利武の長男として大町南口で誕生、後に四之丁へ移る。
今泉岫雲墓  5歳の時に父/孫総利武が死去 (50歳) したため、姉婿の藩士/隼右衛門利直の養子になる。
 日新館にて文武を修め、漢学者として岫雲を名乗り、家督相続を放棄する。
 成人になって日新館で漢学を教え、山川健次郎赤羽四郎高嶺秀夫などを育てている。
 開城後は、塩川、北越などで教育を続ける。
 去る際、北越の弟子に切に別れを惜しまれた。
 明治 6(1873)年、若松に戻り漢学教授に就く。
 明治15(1882)年、復活して設立された私立日新館の教授に就任。
 晩年も頑固なまでに研鑽を怠らず、横三日町宅にて死去。
 墓は浄光寺

《殉難者》 飯田重孝 飯沼友次郎 五十嵐関四郎 五十嵐寅助
井口信太郎 池上新太郎 池上新兵衛 池上貞之助
池上友次郎 池田勇太郎 生駒五兵衛 石川七之助
石川八重子 石田徳三郎 石田和助 石田[某]
石野八四郎 石山虎之助 石山万七 井関喜一郎
磯田藤治 板橋喜平 市川権次 一瀬晴治
伊東慎吾祐辰 伊東悌次郎 伊藤光隆 伊藤俊彦
稲生新助 井上恒之助 井上佐久馬 井深数馬
井深重應(茂太郎) 井深元治 井深茂太郎 伊与田図書
伊与田留蔵 入江政徳 岩崎千代蔵
石井重右衛門 一ノ瀬監物 伊東覚次郎 今泉武太郎
印出ハツ

《 い 》 幕 末 よ り 後

 飯沼 一省  いいぬま かずみ、
 明治25(1892年2月15日〜昭和57(1982)年11月14日 (90歳)
 会津松平家家令の父/飯沼関弥は、白虎隊/飯沼貞吉の弟。
 大正6(1917)年、東京帝国大学法学部を卒業後に内務省へ入り、神社局総務課長、都市計画課長を歴任。
 昭和 9(1934)年、埼玉県知事に就任。
 昭和12(1937)年、静岡県知事に就任。
 昭和13(1938)年、広島県知事に就任。
 昭和14(1939)年、神奈川県知事に就任。
 昭和15(1940)年、内務省神社局長に就任、紀元二千六百年式典で内務省の外局/神祇院が設置されると副総裁に就任。
 昭和21(1946)年、貴族院議員に勅選。
 昭和22(1947)年、内務次官を経て、公選が始まる直前に官選最後の東京都長官 (知事) に就任。
 退職後は、都市計画協会/会長、国土総合開発審議会や宅地制度審議会/会長、国際住宅都市計画連合/名誉副会長などを歴任し国の都市計画行政に尽力した。 会津会/会長も務めている。
 著書「都市計画の理論と法制「地方計画論」「都市計画夜話」など。
 五十嵐 清  いがらし きよし、明治37(1904)年12月〜昭和55(1980)年8月23日
 会津坂下町の農家にて誕生。
 県立会津農林学校を卒業後、北海道帝国大学農学部農学実科へ進む。
 昭和3(1928)年、大学 (特待生) を卒業、北海道農事試験場に就職。
 作物の改良、耕種技術の研究に従事する。
 昭和4(1929)年、瀬棚試験場に転勤し、冷害対策に取り組む。
 北海道の寒冷地農業に希望を与え、農民らの信望を得る。
 昭和25(950)年6月に雪印乳業に入社し、同年12月に分離独立した雪印種苗の専務取締役に就任。
 昭和46(1971)年、雪印種苗の社長に就任。
 昭和52(1977)年、雪印種苗の会長に就任。
 この間の長きにわたり、北海道種苗審議会/副会長、北海道飼料製造会/会長、日本飼料作物種子協会/副会長、北海道種苗協同組合/理事長、全国種苗協同組合連絡協議会/副会長、北海道配合飼料価格安定基金協会/理事長などを歴任し、飼料作物採種事業の先駆者として日本の酪農畜産振興に多大なる貢献をした。
 石井 収  いしい おさむ、弘化3(1846)年〜大正14(1925)年10月10日
 旧姓:生亀、 雅号:盤石。
 藩士/生亀六蔵高軌の長男として江戸にて誕生。
 藩校/日新館で学ぶ。
 慶応4(1868)年、佐川官兵衛の直轄部下として北越戦線で奮戦するが、重傷を負い若松へ後送される。
 開城後、しばらくして父は、石井可汲と改姓・改名する。
 明治5(1872)年、警察官に就き、まもなく少警部に昇進。
 明治10(1877)年、西南戦争するや、積年の恨みをはらすべく応募し、陸軍歩兵中尉として出征、活躍するも再び負傷してしまう。
 その後、新宿署、深川署、本郷署の各署長を歴任。
 明治19(1886)年、請われて東白川郡郡長に就任。
 明治25(1892)年、郡長を退官。
 編纂書「風月無尽」など。

 妻/いつは、館林藩士/田山ワ十郎と母/てつの長女。
 義父/ワ十郎も西南戦争に志願し、熊本県益城郡飯田山麓で戦死。
 小説家/田山花袋は妻/いつの弟。
 花袋の著書「小桃源」に登場する姪/愛子は、石井の娘である。
 石井 常造  いしい つねぞう、明治8(1875)年1月2日〜没年不詳
 藩士/石井七四郎の長男として若松市 (会津若松市) に誕生。
 明治29(1896)年、陸軍士官学校7期を卒業。
 明治30(1897)年、砲兵少尉に就任。
 明治34(1901)年、陸軍大学校に入学。
 明治37(1904)年、日露戦争の開戦で第2師団砲兵隊として出征、遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などを歴戦。
 明治39(1906)年、陸軍大学18期を卒業。
 陸軍砲工学校教官、対馬警備隊参謀、参謀本部部員、第17師団参謀長などを歴任。
 大正10(1921)年、少将へ昇進し野戦砲兵第3旅団長に就任、次いで基隆要塞司令官に就任。
 大正13(1923)年)予備役へ編入。
 身体の各機能を支配する神経が一番の大事な経路とした生気研究者としても知られ、療養所を麹町に開設、「生気自強療法独習録」など生気に関する著作を数多く刊行している。
 石川 暎作  いしかわ えいさく、
 安政5(1858)年4月20日〜明治19(1886)年4月27日 (29歳)
 石川市十郎の3子として野沢本町村 (西会津町) にて誕生。
 明治4(1871)年、渡部思斎の研幾堂に入塾する。
 明治 6(1873)年、横浜/藍謝堂 (通称:高島学校) で英語を学ぶ。
 明治 7(1874)年、慶應義塾へ進学。
 共立学舎で数学を教えながら、英語の勉学に邁進する。
 明治12(1879)年、共立学舎の閉舎で、新設の大蔵省銀行局に入る。
 翻訳局などを歴任。
石川暎作の墓  病のため退官後、明治12(1879)年には田口卯吉が活躍の原点となる主催「東京経済雑誌」の編集を、創刊時から携わる。
 明治18(1885)年、日本で初めてイギリスの経済学者アダム・スミス「富国論」を翻訳出版。
 同年、親友/渡部鼎と共に「婦人束髪会」を創設し、医学的立場から女性の健康・地位向上のため理容の礎を築く。
 明治女学校の創立にも貢献。
 明治19(1886)年、結核により黎明期の日本教育や文化に大きく貢献した人生を閉じる。
 墓は谷中霊園
 訳書「富国論」「米伊紙幣交換始末」「泰西政事類典」など。
 
《田口卯吉》 安政2(1855)年4月29日〜明治38(1905)年4月13日
 幕臣/田口樫郎と母/町子の倅。
 安政6(1859)年、父の樫郎が死去。
 安政7(1860)年、長兄/貫一郎も急死し、幼くして家督を相続。
 慶応4(1868)年、徳川家の静岡移封に従い沼津へ移り住む。
 明治4(1871)年、廃藩置県で静岡藩が消滅、東京へ移る。
 石川暎作が創刊時から編集に携わった主催「東京経済雑誌」が、活躍の原点となる。
 その後、日本の経済学者、歴史家、実業家、政治家 (東京府会議員・衆議院議員)、ジャーナリストなどを歴任。
 若松賤子の夫/巌本善治と共に、明治女学校創立の発起人の1人に列する。
 石塚 英蔵 いしづか えいぞう、慶応2(1866)年7月23日〜昭和17(1942)年7月28日
 藩士/石塚和三郎の長男。
 明治23(1890)年、帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業し、内閣法制局に入り、法制局参事官、兼法制局書記官などを歴任。
 明治27(1894)年、内閣顧問官として朝鮮国に翌年7月まで出張する。
 明治31(1898)年、台湾総督の文官補佐役/勅任参事官に就任。
 その後、台湾総督府で参事官長、総務局長を歴任。
 明治38(1905)年、大連の関東州民政署/民政長官に就任。
 明治39(1906)年、新設された関東都督府/民政長官に就任。
 明治40(1907)年、統監府/参与官に就任し、監査部長などを歴任。
 明治43(1910)年、朝鮮総督府/取調局長官、農商工部長官を歴任。
 大正 5(1916)年、貴族院の終身議員である勅選議員に任命され、同年に東洋拓殖株式会社/総裁に就任。
 昭和 4(1929)年、台湾総督に就任。
 昭和 9(1834)年、枢密顧問官に就任。
 昭和17(1942)年、在任中に死去、78歳。
 石原 信一  いしはら しんいち、昭和23(1948)年〜  作詞家・作家。
 会津若松市出身。
 県立会津高校卒業 (高19回)。
 詩人/サトウハチローに師事し、作詞家を目指す。
 昭和52(1977)年、第19回/日本レコード大賞の新人賞を
  太川陽介が「Lui-Lui」で受賞。
 昭和58(1983)年、第16回/日本作詞大賞の優秀作品賞を
  「越冬つばめ(森昌子)」で受賞。
 平成11(1999)年、会津若松市イメージソング「AIZU その名の情熱」を作詞・プロデュース。  [HP]
 令和元(2019)年、第61回/日本レコード大賞の作詩賞を
  「最北シネマ(松原健之)」「雪恋華(市川由紀乃)」で受賞。
 令和2(2020)年、日本作詩家協会の第9代会長に就任。
≪主な作品≫
  ◇「惚れたが悪いか/石川さゆり
  ◇「二人の御堂筋ためらい/内山田洋とクール・ファイブ
  ◇「ラブ・ショック青いシンボル/川崎麻世
  ◇「ファイターズ讃歌/ささきいさお
  ◇「愛のジャガー/ジャガー横田
  ◇「しあわせ色をあなたに/杉田かおる
  ◇「かけめぐる青春/ビューティペア」  <>
  ◇「見返り美人/モーニング娘 '14
  ◇「デスティニーラブ〜運命の人〜/八代亜紀
  ◇「奥州路/山本譲二
  ◇「いま目覚めた子供のように、など/山口百恵
  ◇「青空、センチメンタルを越えて、など/吉田拓郎
  ◇「北フェリー/岩出和也」  <>
  ◇「しぐれの港/氷川きよし」  <>
  ◇「海峡岬命咲かせて心かさねて/市川由紀乃」 <>
  ◇「北前船/五木ひろし」  <>
  ◇「恋暦、たそがれに燃え/梅沢富美男
  ◇「ありがとう綺麗/森昌子
 同郷の作曲家/猪俣公章との合作曲、合作盤もある。
  ◇「浜っ子一代/坂本冬美
  ◇「冬の蝶/坂本冬美
  ◇「愛の扉・(c/w)流れの女/内山田洋とクール・ファイブ」
 その他 ( や〜 )
 
・昭和58(1983)年、第25回/レコード大賞の最優秀歌唱賞を、
  「越冬つばめ」で森昌子が受賞。
・昭和58(1983)年、第34回NHK紅白歌合戦に、
  「越冬つばめ」で森昌子が出場。
・平成13(2001)年、第52回NHK紅白歌合戦に、
  森昌子が往年のヒット曲メドレー(越冬つばめ)で出場。
・昭和60(1985)年、第36回第36回に、
  「命火」で八代亜紀が出場。
・平成28(2016)年、第67回NHK紅白歌合戦に、
  「心かさねて」で市川由紀乃が出場。
 
 著書「不知火八代亜紀/スポニチ出版」「吉田拓郎 挽歌を撃て/八曜社」「俺達が愛した拓郎/八曜社」「燃えろロックンローラー/集英社」「飛鳥涼論/角川文庫」「あの時フォークが流れていた/シンコー出版」など。
 板谷 まる
 いたや まる、明治3(1870)年〜昭和33(1958)年8月7日 (88歳)
 旧姓:鈴木。 号:玉蘭。
 <教育家・陶芸家、夫/板谷波山を世界的な陶芸家に育てた賢婦人>
 呉服商/鈴木作平次の3女として坂下村 (会津坂下町) で誕生。
 成長すると上京、共立女子職業学校 (共立女子学園) に入学し、裁縫や手芸などの他に、日本画に興味を持ち、閨秀画家/跡見花蹊の門下生となり技法などを学ぶ。
 また、同郷のよしみで知遇を得た瓜生岩子から、児童・婦女子などの社会福祉に関して多大な影響を受ける。
 共立女子職業学校を卒業すると、郷里へ戻る。
 明治25(1892)年、瓜生の支援・指導を受け若松に女子職業学校を創立し、自らも主任教師となり裁縫や手芸を教える。
 瓜生から美術教師/板谷波山を紹介されるや波山の才能を見抜き結婚を決意、女子職業学校の経営を譲渡する。
 明治28(1895)年、瓜生が仲人となり結婚。
 明治36(1903)年、瀧野川村 (東京/田端) に居を構え、夫婦が自らレンガを運び、積み上げて窯を築き、陶芸家の道を歩み始める。
 名もない作品など売れるはずもなく、すでに4人の子供 (後に5男1女) を抱え極貧の生活が続くも、夫の才能を信じ、叱咤激励の日々を過ごす。
 やがて、勧業博覧会での入選を果たすが窮乏生活は変わらず、波山が焼いた日常食器を売り歩いて家計を支える日々は続く。
 明治41(1908)年、日本美術協会展で受賞するや、続々と受賞する。
 明治44(1911)年、皇后に招かれ御前において、夫婦共作の「磁器梅花形菓子器」を実演する。
 参内した時の姿は、髪を後ろに束ねた浴衣姿の普段着であった。
 参列者たちは伝え聞いていたものの、妻/まるが波山を育てた賢夫人であることに改めて確信したという。
 大正6(1917)年、第57回日本美術協会展で「珍果花文花瓶」が最高の賞/一等賞金牌を受賞し、夫の名が世界的にも知られるようになる。
 昭和33(1958)年、夫/板谷波山を世界的な陶芸家に育て上げた妻/まるは、最愛の夫に看取られながら、天命の役割を終えた。
 墓は、大龍寺
「〜 〜 〜 室は福島縣坂下町鈴木作平次次女まる子 すこぶる内助の功あり 家に百合子 嫡男 佐久良 紅葉 松樹 梅樹の一女五男がある 〜 〜 〜 (墓誌)」

 伊東正義 については、こちら

 伊東 正三  いとう しょうぞう、
 明治4(1871)年1月3日〜大正2(1913)年9月13日(43歳)
 号:山華。
 旧会津藩士の息子として斗南藩/三戸で誕生。
 斗南藩消滅のため屯田兵にならざるを得なかった父に従い、一家は北海道/山鼻兵村に入植する。
 帝国大学に入学するも貧困のため中退。
 明治29(1896)年、札幌の日刊紙「北門新報」主筆に就く。
 明治34(1901)年、自ら「北鳴新報 (北鳴新報社)」を創刊する。
 明治40(1907)年、北鳴新報には野口雨情が記者として入社。
 同社には、留寿都村の入植に失敗した鈴木志郎がおり、その妻/“岩崎かよ”から聞いた娘/“きみ”の逸話を野口雨情に伝えたところ、間もなく雨情も生後7日の娘を失う。
 それらが絡み合い、後に幼子/“きみ”をモデルとした童謡「赤い靴」と「シャボン玉」が生まれた。
 明治42(1909)年、経営難のため「北鳴新報」は廃刊。
 その後も、「札幌区史」の編纂など新聞人の信条は終生衰えず、地元発展に尽力した。
 著書「舊記抄録」「参考書目」「北海道史の歴史・主要文献とその著者たち」「 山華随録」など。

 未婚の母として娘/“きみ”を育てていた“岩崎かよ”は再婚するも、夫が入植する開拓地には厳しすぎて連れて行けず、義父/佐野安吉の勧めでアメリカ人宣教師チャールズ・ヒューエット夫妻の養女 (3歳) として託した。
 やがてヒュエット夫妻が帰国することになったが、娘/“きみ”は結核にかかってしまい連れて行けず、東京/の孤児院「永坂孤女院」に預けられ9歳で亡くなってしまう。
 母/“かよ”は、一緒にアメリカに渡たり、幸せに過ごしているものと思って生涯を終えた。
 留寿都村の「赤い靴公園」には、開拓の母像(母かよの像)、母思像(きみちゃんの像)と共に赤い靴の歌碑がある。
 赤い靴の像は、永坂孤女院跡の他にも横浜/山下公園海の駅わんどなど全国各地に建立されている。

 猪俣公章については、こちら

 猪俣 甚弥  いのまた じんや、大正5(1916)年4月30日〜
 若松市 (会津若松市) に誕生。
 若松市 (会津若松市) にて誕生。
 昭和9(1934)年、会津中学校 (会津高校) を卒業 (中40回) し、第二高等学校 (東北大学) に入学したが、生活苦のため学費滞納し中退。
 昭和12(1937)年、歩兵第29連隊に入隊。
 昭和13(1938)年、推されて陸軍歩兵学校に入学し通信を学ぶ。
 同年に陸軍中野学校の前身/防諜研究所 (後方勤務要員養成所) が設立され、陸軍大臣が所轄の全学校に部隊最優秀者を推薦するよう指示が出され、その中に猪俣甚弥が推挙された。
 事前には情報に関する業務とだけしらされて入所すると、軍人としての仕草が矯正され、民間人と見分けがつかないように訓練される。
 昭和14(1939)年、改編された後方勤務要員養成所 (陸軍中野学校) を卒業 (1期生/少尉)、関東軍司令部附として関東軍司令部/ハルピン特務機関に配属。
 昭和15(1940)年、「シベリア鉄道沿線の軍状・ドイツの対イギリス上陸時機・ドイツの占領地の状況」を調査する任務を受け、欧州へ赴く。
 帰国すると、関東軍の第一野戦情報隊長に任命され、主にソ連に対する情報収集や国境突破、通信爆薬搬入、要人暗殺などを研究する。
 昭和18(1943)年、帰国し、中野学校の副官に就任。
 兵器行政本部登戸研究所を経て、軍務局軍事課附などを歴任。
 敗戦を迎えるや天皇家の血筋を守るべく、中野学校出身者らと北白川宮道久王 (8歳) を秘匿する「皇統護持作戦」を立案し上程する。
 マッカーサー暗殺も加わった「本丸計画」は実行に移されず、責任者として新津市で逮捕される。
 官憲の動きは事前に知らされていたが、ひどい疥癬に冒されて身動きが取れなかったとのこと。
 巣鴨プリズンに収容され、同室に正力松太郎がいた。
 死刑を覚悟していたが、半年後に釈放になり、郷里/会津へ戻る。
 その後は、教育委員会事務局、会社役員、会津若松市スポーツ少年団会長など若手の育成に尽力した。
 井深 彦三郎  いぶか ひこさぶろう、
 慶応2(1866)年7月2日〜大正5(1916)年4月4日 (51歳)
 学校奉行/井深宅右衛門の3男、後に分家/守之進の養子になる。
 明治学院総理となった井深梶之助は実兄で、井深八重は娘である。
 2歳の時に戊辰の役が勃発、斗南藩で辛酸をなめる幼少期を過ごす。
 その後、上京し英語の習得に没頭する。
山川家之墓  明治19(1886)年、義兄/荒尾義行に従って大陸 (清国) に渡り、諜報員を務めたとされる。
 日清戦争では第一軍司令部の通訳官を務め、民政事務にも参画する。
 日露戦争後には清国から招聘され、政務顧問として満州開発に貢献。
 明治45(1912)年、第11回衆議院議員総選挙 (福島/郡部6区) に出馬し議員(政友会)に就任。
 生涯に亘って中国に強い関心を持ち続け 、“大陸浪人”と称された。
 その中国/北京にて死去。 墓は青山霊園

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 今泉 六郎  いまいずみ 、ろくろう
 文久元(1861)年2月2日〜昭和7(1932)年6月3日 (71歳)
 初名:良元。
 藩士/隼右衛門利直 (婿/桜井、隼右衛門は通し名) と母/政子 (孫総利武の長女)の子として鶴ヶ城郭内にて誕生。
 慶応2(1866)年、父/利直が死去 (50歳)。
 慶応4(1868)年、戊辰の役で籠城戦の最中、兄/利貞が戦死
 明治4(1871)年、出稼ぎの叔父/勇蔵と母/政子に連れられ、東京/神田鍋町に移り住み、会津藩医/高橋修斎との交流から医学を志す。
 明治8(1875)年、陸軍軍医総監/松本良順の出張所において、開業医/磐瀬玄策に弟子入りし、軍医を目指す。 松本良順の勧めで馬医になることを決め、兵学寮第二舎 (後の陸軍獣医学校) を受験・合格する。
 明治12(1879)年、首席は逃したが、第二席で卒業。
 明治13(1880)年、内務省/嘱託員として下総軍医学舎の教官に就く。
 明治16(1883)年、陸軍一等馬医/曹長に昇進。
 明治18(1885)年、陸軍三等馬医/少尉に昇進し、陸軍病馬厩に就く。
 明治23(1890)年、ドイツ留学生に選抜される。
 ベルリン高等獣医学校で病理解剖や組織学、コッホ伝染病研究所で家畜衛生学や細菌学、ドイツ各地で馬種改良や幼馬育成を学ぶ。
 オーストリア・ハンガリー・イタリアなどへ獣医学の視察に出かけた際に、哲学や法律学も学んでいる。
 明治26(1893)年、帰国すると陸軍獣医学校の教官に就き、同校の基礎を築く。
 明治29(1896)年、陸軍獣医監/少佐に昇進。
今泉家之墓  明治32(1899)年、東京帝国大学より獣医学/博士号が授与される。
 明治33(1900)年、山川健次郎や柴四朗 (東海散士)たちと会津図書館共立会を設立する。
 以降、膨大な冊数の書籍を寄贈している。
 明治36(1903)年、第八代陸軍獣医学校の校長に就任。
 明治43(1910)年、陸軍獣医学校の校長を辞任。
 昭和7(1932)年、ドイツ獣医学のみならず、ドイツ哲学を日本にもたらした功労者が、神奈川/小田原町/自宅で死去した。
 墓は浄光寺。  [史料]

飯沼関弥 五十嵐君枝 五十嵐光昭 五十嵐善作 五十嵐豊岳
石山かずひこ 井関鎮衛 猪巻清明・明 井深とよ 今泉真幸
入江惟一郎

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