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もう一人の八重 「井深八重」 の略歴

 ハンセン病患者の看護に、生涯を尽くした看護婦 (現/看護師) である。
 日本国内より国際的に、非常に高く評価をされている。
 今では解明され克服されたハンセン病であるが、当時は誤った俗説により不治の病とされ、忌み嫌われていた。
 また、遠藤周作の「わたしが・棄てた・女」のヒロインのモデルになっている。

明治30(1897)年

10月23日
 父/井深彦三郎と母/テイの長女として、台北市樺山町 (台湾) で誕生する。
 父は、旧会津藩/家老の流れをくみ、国会議員 (衆議院議員) にもなっている。

[補足]
 祖父の井深宅右衛門(重義)は、会津藩/町奉行・奏者番上席などを経て、京都守護職の時代には軍事奉行として京都に赴任している。
 慶応2(1866)年、会津へ戻り、学校奉行に就任し、藩校/日新館の館長を務める。
 戊辰の役が勃発すると、第二遊撃隊 (諸生隊) 隊長として越後の会津藩飛び地の守備に就く。
 後に、鶴ヶ城に入り、籠城戦に参加する。
 開城後は、藩主/松平喜徳公に伴って、江戸で謹慎生活を送る。
 藩の責任を一身に負い切腹した萱野権兵衛が、切腹直前に一刀流溝口派の奥義を伝えたのは宅右衛門に、である。
 白虎隊士/井深茂太郎や、石山家の養子となり飯盛山で自刃した虎之助、極悪人/民生局監察兼断獄/久保村文四郎を斬殺 (束松事件) し獄死した井深元治は、皆一族である。
 ソニーの創始者/井深大も、遠縁にあたる。

 やがて、一家は台湾から引き上げ、東京で生活をする。
 7歳の時、両親が離婚したため (母は間もなく死去)、多忙な父に代わり、父方の伯父/井深梶之助 (明治学院/総理) の家に預けられる。
 何不自由なく過ごし、英才教育を施された。

明治37(1904)年

3月
 芝区白金尋常高等小学校 (東京市芝区白金今里町 、現/港区立白金小学校) に入学する。

明治43(1910)年

3月
 東京市白金尋常小学校 (改称) を卒業。

4月
 同志社女学校/普通学部に入学。
 家族から離れ、8年間 (その後に専門学部英文科へ進学) の寄宿舎生活が始まる。

大正5(1916)年

4月4日
 父/井深彦三郎が、北京で死去。 51歳。

大正7(1918)年

同志社女子大学

3月
 同志社女学校/専門学部英文科卒業 (現/同志社女子大学)。

4月
 長崎県立長崎高等女学校に、英語教師として赴任。

大正8(1919)年

 教師になって1年目が過ぎ、多くの女生徒たちから慕われ充実し始めたころ、自分の身体の異変に気づく。
 赤い吹き出物のような斑点が肌のあちこちに出てきて、なかなか消えない。
 縁談の話しがきたこともあって、福岡の大学病院で精密検査をする。
 踵部に発症した紅斑からハンセン病の疑いとの診断が、伯父や伯母に告げられた。
 当時は 「らい病」 と呼ばれ、伝染する遺伝的な不治の病として、恐れられていた。

7月10日
 名門/井深家としては伏せねばならないほどの大事件であり、病名を隠したまま御殿場 (静岡県) の神山復生病院に隔離入院となった。
 「復生」とは、キリスト教でいう「復活」のこと。
 井深の籍も抜かれた。
 病名も聞かされることなく入院すると、軟骨が侵され、顔が崩れ、指や足の指が融けて膿が流れ続け、もがき苦しんで死ぬのを待っている患者の病院だった。
 俗説のため看護婦になる人などおらず、医者もドルワール・ド・レゼー神父だけの有様だった。
 症状の軽い患者が、重症者の世話をしていたのである。
 自分の将来に衝撃を受け、毎晩のように泣き明かした。
 恐怖のあまり、何度も自殺を考えたという。
 22歳の時であった。
 後に、「一生の間に流す涙を流し尽くした」 と語っている。

 入院してしばらくすると、病院の敷地内に一軒家を親族が建ててくれた。
 「井深八重」の名を捨て、「堀清子」を名乗るようになる。
 「何のために ここにつれて来られたかを、初めて知った時の私の衝撃、それは、到底何をもってしても、表現することは出来ません。 〜 きのうまで住み慣れた生活環境とは余りにも隔たりのある現状に、私は、悲痛な驚きと恐怖に怯える毎日でした」。
 当時、神山復生病院の院長は、5代目を就任してから2年目のレゼー院長だった。
 レゼー院長は、感染を恐れず素手で献身的に接する。
 院長が往診すると、未来に希望のないはずの患者が笑顔を見せる。
 そして、その日その日を大切に生きようとしている姿に気づいた。
 八重も一筋の光を感じ、積極的にレゼー院長の手伝いをするようになる。

大正11(1922)年

10月5日
 入院して3年が過ぎても、ハンセン病の兆候が現れない。
 むしろ、肌の赤い斑点が消えはじめ、徐々に美しい肌が蘇ってきた。
 レゼー院長の勧めもあり、東京の専門病院で1週間にもわたる精密検査を受けた。
 世界的にも有名であった皮膚科/土肥慶蔵博士の診断で、ハンセン病ではなく、誤診だったことが判明する。
 希望のない入院生活から、一転して将来の希望が開かれた。
 神山復生病院に戻る前に、東京の伯父の家を訪れ、診断書を見せる。
 大喜びの親戚たちは、すぐに退院して帰宅するよう急かすが、昔の八重ではなかった。

 レゼー院長は大変喜び、すぐに退院を勧告し、俗説で差別の残ってる日本が いやならば、神父の母国/フランスに行ってはどうか、とまで気遣ってくれた。
 「あなたが この病気でないことがわかった以上、あなたをここに おあずかりすることは出来ません。 あなたは、もう、子どもではないのですから、自分で将来の道をお考えなさい。 もし、日本にいるのが嫌ならば、フランスへ行ってはどうか。 私の姪が喜んで あなたを迎えるでしょう。
 八重の返事は、意外なものだった。
 「もし許されるならば ここに止って働きたい」。

 八重は、ここで働くことを決めていた。
 医師になろうとしたが、当時ですら少なくとも5〜6年がかかる。
 ドルワ―ル院長は年老いており、1日も早く手伝うことを考慮し、促成科のある東京/半蔵門の看護婦学校に入学する。

大正12(1923)年

9月
 1年後、看護婦の資格を取得し、看護婦学校を卒業する。
 神山復生病院に奉職、病院初の看護婦であった。
 差別と偏見の時代、極貧の神山復生病院で婦長として献身的な看護にあたった。
 薬の調合から、薬を塗るなどの治療など本来の業務だけでなく、炊事や食事の世話、病衣や包帯の洗濯などの雑務、経費を抑えるための畑仕事、義援金の募集や経理までもこなし、休むヒマもなく働いた。
 これ以降、66年の間、献身的な看護を続けることになる。
 レゼー院長には、遡っての大正9(1920)年から昭和5(1930)年までの11年間、仕えている。

 日本カトリック看護協会 (JCNA) の初代会長に就任。

昭和25(1950)年

8月3日
 建設費募金のため、院長に伴いカナダへ出発する。

昭和30(1955)年

9月15日
 保健文化賞を授与される。

昭和34(1959)年

2月20日
 ローマ法王ヨハネ23世から、聖十字勲章が授与される。
  「プロ・エクレジア・エト・ポンティフィチェ勲章」。
 復生病院創立70周年の時であった。

9月1日
 中日社会功労賞が授与される。

10月21日
 黄綬褒章が授与される。

昭和36(1961)年

5月12日
 赤十字国際委員会から、看護婦の最高栄誉である「フローレンス・ナイチンゲール記章」が授与される。

昭和41(1966)年

11月3日
 宝冠賞勲五等を授与される。

昭和49(1974)年

5月18日
 カトリック看護婦世界大会出席のため、ローマに出発。

昭和50(1975)年

 「マザー・テレサに続く日本の天使」と、米国の週刊誌「タイム」に記載さる。
 母校/同志社大学から名誉博士の称号が授与される。

昭和53(1978)年

1月27日
 昭和52(1977)年度の朝日社会福祉賞を授与される。
   「半世紀以上にわたり 癩 (らい) 者の福祉向上に尽くした功績」
 授賞式の様子を、
 「らいに対する偏見の根強い時代から らい者と共に生きた自らの労苦の歳月については一切ふれず、世に知られることなく献身の一生を終えた恩人たちの徳をたたえる井深さんの謙虚さに、列席者たちは うたれた
と新聞は伝えている。
 続いて開催された記念夕食会でも、列席者から称賛と感謝の言葉で埋め尽くされた様子が紙面を飾っている。

4月6日
 名誉婦長となる。

平成元(1989)年

5月15日
 「母にもまさる母」 と慕われた「神山復生病院/名誉婦長」 の八重が、死去。
 満91歳。
 奇しくも、神山復生病院創立100周年記念日の前日であった。
  「み摂理の ままにと思い しのびきぬ  なべては深く 胸につつみて」

 神山地区共同墓地に、神山復生病院で亡くなった患者や関係者に囲まれて、ハンセン病看護に生涯を捧げた八重は眠っている。
 墓碑銘「一粒の麦」は、八重の直筆である。

 神山地区共同墓地については、こちら。
 神山複生病院の敷地の真ん中ほどに復生記念館があり、初代婦長/八重に関する資料や遺品などが展示されている。
 復生記念館については、こちら。


5月16日
 翌日、神山復生病院の創立100年式典で、藤楓協会総裁の表彰を受ける。
 「 以来歴代の院長を助けて戦中戦後の困難を乗り切り、患者とその家族の友となり、支えとなって60有余年をおくる。
 戦後は日本カトリック看護協会の設立にも携わり、初代会長として貢献する。

 八重の業績は語り継がれ、彼女が作詞した「日本カトリック看護協会 会歌」は、今なお歌い継がれている。

  1. 神のみ声の おん召しと みとりの友ら 集いきぬ
御教の 法 胸深く 病む友人に 仕えなん
 
  2. 力は小さく 弱くとも 希望の光 かかげもち
心ひとつに 手を結び 愛のみわざに はげまなん
 
  3. すがしく広き 大空の 結ぶ世界の 果てに病む
声に答えて 主によりて 御母のたすけ 祈りつつ
  祈りつつ   .

平成4(1992)年

11月22日
 八重の生涯が、日本テレビ「知ってるつもり」で放映され、大反響。

平成8(1996)年

4月1日
 「らい予防法の廃止に関する法律」施行により、八重が願っていたハンセン病患者への誤解は、法律的にも無くなった。

 八重は、豊かではあったが、寂しい少女時代を過ごしている。
 父/彦次郎は、台湾で貿易商を営みながら、中国大陸に渡って諜報活動に従事するなど多忙であり、昔にありがちな家庭を全く顧みない家長であった。
 そのような夫と合わず、母/テイは7歳の八重を残して去った。
 忙しい父に代わって、伯父に預けられ、幼少期を過ごす。
 両親の記憶は、ほとんどないという。

 献身的に看護をするレゼー院長に魅せられたのも、事実であろう。
 患者同士が助け合いながら生きる姿に、幼き頃に得られなかった家庭の暖かさを感じたのも、大きな要因であったろう。
 ハンセン病患者で同世代の本田ミヨが、顔や肉体が崩れていくにもかかわらず、病魔と闘い、
  「大切なのは魂なのよ」
といって屈することなく、生涯を全う (43歳で死去) したことも、契機であろう。
 いずれにしても、「誤診によって出会った天命」 であった。

 八重も、普通の人間の一人である。
 誤診ではあったが、病名を知らされたときは、何度も自殺を考えている。
 看護婦となったことに対して、「心の中で後悔したことは何度もあった」 と告白している。
 包帯を取り替えるときや、洗濯するときなど悪臭に息が詰まりそうになり、病院から逃げ出そうと思った事は 「1度や2度ではない」 とも白状している。
 関係者の証言によると、弱音や愚痴こそ こぼさなかったが、
  「私は、侍の子だから
が口癖だったという。
 家族からすら見捨てられた時、神山復生病院は八重を救ってくれた。
 会津の教え 「ならぬことは ならぬものです」 が受け継がれているから、救ってくれた病院を見捨てるなどの “卑怯な振舞い” はとれなかったのだ、は、間違いあるまい。

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