会  津  の  著  名  人

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《 か 》 幕 末 よ り 前

 加賀山 蕭山  かがやま しょうざん、
 宝暦元(1751)年〜文政11(1828)年3月10日 (78歳)
 名:知常。 通称:勝四郎、俊蔵、賀知常、東米山人。 <書家>
 藩医/謙純盛昌の次男として鶴ヶ城下に誕生。
 21歳のころ一念発起、交友を断ち独学に励む。
加賀山蕭山(nisi-上)  3年後に友人の画家/奥山盤谷と諸国を巡業、長崎で王義之の筆法を清国人から学び、江戸で国学者・能書家である幕臣の右筆/屋代弘賢輪池に師事し、10年後には塾長にまでなる。
 天明8(1788)年、日新館の書学寮/華様師範として仕官する。
 藩主/松平容頌公容住公容衆公の墓碑銘を謹書し、会津藩/書道の中興の祖と称される。
 墓は大窪山 (現地図に記載あり)。
 「蕭山先生墓
 加須屋 武成  かすや たけなり、慶長8(1603)年〜延宝2(1674)年
 通称:左近。
 賤ヶ岳七本槍の一人/糟屋武則の弟で紀州藩士/助兵衛の子。
 保科正之公に召し抱えられ、持弓頭兼奏者番となり、後に会津藩弓術3流派の1つ「日置道雪派」の祖となる。
 3流派の中でも道雪派だけは昇級に試験があり、100矢を射て垂的に80本以上を命中が合格という厳しさがあった。
 京都三十三間堂の通し矢で、「天下一」を3度も得ている。
 円城寺豊貞とともに江戸期の弓術「天下の三射人」の一人。
 片桐 嘉矜  かたぎり かきん、生年不詳〜文政3(1820)年
 通称:林之助。  <暦算家・天文暦学家>
 藩士/片桐嘉保の長男。
 会津藩において算額の中興と称される父/嘉保から関流の和算や、天文・暦術を学び、藩校/日新館の教授となる。
 家督を継ぎ、勘定役に就く。
片桐嘉矜(naka-中)  その後、与力、南北館算所、天文師、学校算師などを歴任。
 文化 4(1807)年、幕命により、蝦夷地を調査。
 文化 5(1808)年、青森、津軽、宗谷を調査。
 文化10(1813)年、官職を退くも、天文師・学校算師は在任のまま。
 文化13(1816)年、天文師・学校算師から退く、
 著書「算律国字解」「数学雑録」「伊須多羅比説」など。
 墓は大窪山 (現地図に記載あり)。

 加藤明成公については、こちら

 加藤 遠澤  かとう えんたく、
 寛永20(1643)年〜享保15(1730)年11月5日死去 (88歳)
 名:守行、通称:玄甫。 茶坊主 (右筆)、画家。
 肥後熊本/勝宗九右衛門の3男。
 加藤嘉明公の移封に従い会津に入る。
 藩絵師/棚木良悦に師事して狩野派画法を学ぶ。
 19歳の時、狩野探幽に師事し才能が開花、山水や人物画を得意とし、後に桃田柳栄・鶴沢探山・久隅守景とともに探幽四天王と称される。
 墓は池上本門寺 (宝塔の右側)。

     妙法  覺性院圓宅日理居士
     會津家士  加藤遠澤守行墓
     享保十五年庚戌歳十一月五日

 加藤嘉明公については、こちら

 金上 盛備  かながみ もりはる、大永7(1528)年〜天正17(1589)年6月5日 (63歳)
 兵庫、平六とも。 14代当主/金上盛信の子。
 卓越した政治手腕から「蘆名の執権」と称される。
 天正6(1578)年、御館の乱では蘆名盛氏公に従い、上杉景虎側として参戦し、上杉景勝公の蒲原安田城を攻め落とした。
 天正9(1581)年、新発田重家の乱では蘆名盛隆公に従い、重家側として景勝公と戦った。
 同年に上洛し、織田信長に拝謁し、蘆名氏との仲介に尽力する。
 天正12(1584)年に盛隆公が家臣によって殺害され、後見役となった蘆名亀王丸も天正14(1586)年に非業の最期を遂げると、伊達政宗公の弟/小次郎を推す派を押さえ、常陸/佐竹氏から義広公を迎えるのに成功するが、家中に深刻な亀裂を残す。
 天正17(1589)年、磨上原の戦いで、壮絶な戦死を遂げた。
金上盛備の墓  「仏照院殿嶽道一無大居士」。
 後に、松平容敬公は金上盛備・佐瀬種常・佐瀬常雄の忠勇を称え古戦場跡に「三忠碑」を建立。
金上盛備の墓

≪金上氏≫  かながみし
 佐原盛義公の曽孫/盛弘 (盛義の孫) が、河沼郡金上 (会津坂下町金上) を本拠として、分家/金上氏を興し金上館を築く。
 阿賀野川を下って進出し、陸奥国河沼郡と越後国蒲原郡を支配する。
 建長4(1252)年、津川城を築く。
 以降、津川城と金上館を拠点に、阿賀野川上流域を支配。
 歴代当主の中で最も勝れたとされる第15代当主/盛備が、伊達政宗公との摺上原の戦いで戦死したため、嫡男/盛実は政宗公に下る。
 豊臣秀吉の奥州仕置により所領を没収されたため、盛実と弟/備秀は会津を去ったが、残り3人の弟は会津に土着する。
 初代/兼定  かねさだ、享禄2(1529)年〜寛永2(1625)年3月2日
 美濃関兼氏12代の末葉で、2代/和泉守兼定の孫。
 通称:孫四郎、後に清右衛門。 通し名:和泉守。
 丑年の生まれだったため柳津の虚空蔵菩薩への参詣に会津を訪れた。
 その時、当時の領主/葦名盛氏公のたっての要請により仕えることとなり、住居を花畑に、采地を耶麻郡宮ノ前村に拝領する。
 以降、歴代の藩主に減禄されることなく召し抱えられ続け、会津での最も古い刀匠の家柄として子孫も代々「兼定」を名乗り、銘を奥州住会津兼定などと切り、長道とともに会津の2大刀匠と称される。
 土方歳三の愛刀は、11代/兼定のものである。
 優れた刀を数多く鍛えたが、現存するものは稀有。
 墓は歴代 実相寺だったが、近年に子孫の居住近くに移されるも、平成14(2002)年に再び会津の地/天寧寺に移された。
兼定の墓 兼定の墓


 蒲生氏郷公については、こちら

 蒲生忠郷については、こちら

 蒲生秀行については、こちら

 川島
 与五右衛門
 かわしま よごえもん、 幼名:与一郎、諱:重英。
 安永5(1776)年4月10日〜文化11(1814)年11月25日 (39歳)
 寛政12(1800)年、家督を継ぎ、代々勤める藩の蝋漆改役に就任。
 文化9(1812)年、藩役人の不正を糾弾した16条の嘆願書を江戸幕府へ直訴した。 幕府は会津藩に真相糾明を命じ不正が明らかとなる。 窮乏していたた農民は救われたが、役職を剥奪され藩外追放となった。
 文化11(1814)年、故郷へ戻ったところ捕えられ牢内で斬首される。
 救われた農民たちによって遺骸は、東尾岐/龍門寺に埋葬された。
 「大空院万機常体居士」。
 同年12月25日、江戸に在住の藩主/松平容衆公から大赦が与えられるも、すでに処刑後であった。
 河原田 盛次  かわらだ もりつぐ  生年不詳〜天正19(1591)年1月
 治部少輔とも。
 河原田盛頼の嫡男。 南会津郡伊南河原田氏最後の領主。
 天正19(1589)年、摺上原の戦いで蘆名氏が滅亡、伊達政宗公が黒川城 (鶴ヶ城) へ入り会津全土を掌握しつつあったが、軍門に下った鴫山城主/長沼盛秀らの降伏勧告にも応じず、「武士として二弓をひくことはできぬ」と事前に築いた久川城で抗戦し伊達軍を撃退させた。
 しかし、豊臣秀吉の奥州仕置きによって蘆名氏の属臣と見做されたため所領を没収され、400年続いた伊南領主としての地位を失い、上杉景勝公を頼って越後国に落ち延びたという。

≪河原田氏≫
 小山政光の五男/盛光は、下野国河原田に居住し河原田氏を名乗る。
 文治5(1189)年、源頼朝から奥州合戦の戦功により、会津郡の伊南を賜った盛光が伊南河原田氏の祖とされる。
 その後、要害に囲まれた伊南郷一帯に勢力を築き、独立した国人領主としての勢力を確立する。
 天文12(1543)年、勢力を拡大する蘆名氏最盛期の盛氏公が攻め入り、蘆名氏との唯一の合戦でも降ることはなかった。 まもなく蘆名氏の麾下に属するも、伊南地方の領主としての自立性は保ち続けている。
 会津全土をほぼ制圧した伊達政宗公ですら打ち破ることができなかったが、豊臣秀吉の奥州仕置きによって終焉を迎える。
 最後の領主/盛次の子孫の庶流は、蘆名義広公を頼り角館へ移る。
 嫡流は伊南に残留して帰農し、後に保科正之公に仕え、戊辰の役でも子孫の河原田治部包彦の親子が一族を束ねて を迎撃し、鶴ヶ城の開城まで領地を護り抜いている。
 神戸 盛大  かんべ もりひろ、 宝暦5(1755)年〜文政5(1822)年
 織右衛門、三右衛門とも。
 藩士/善太夫長教の子。
 代官、郡奉行、大目付、勘定所主役、用人を歴任。
 寛政6(1794)年、郡奉行の在任中、前任者たちが元禄年間・宝永年間・安永年間など4回も失敗した灌漑工事の必要性を知り、5回目の工事に着手した。
 翌寛政7(1795)年2月、延3万2千人を投じ日橋川取水口から塩川町東常世北沢までの総延長12キロに及ぶ難工事 (駒形堰) が竣工し通水。
 恩恵は、竹屋・南屋敷・中屋敷・東常世・西常世・金森・上窪の7ヶ村/水田2百余町歩にも及んだ。
 嘉永7(1854)年、郡奉行/神戸盛大の徳を讃え。中屋敷/菅原神社前に頌徳碑が建立されたというが不詳。

《 か 》 江  戸  幕  末

 加賀山 翼  かがやま たすく、
 文化8(1811)年3月19日〜明治4(1871)年4月29日 (61歳)
 幼名:岩松、通称:潜龍、号:仁山 (仁仙)。
 藩医/小島雲淋の次男。 後に加賀山太沖の養嗣。 御側医。
 蘭学者/東玄朴や織田研斎らから蘭学を学ぶ。
 安政5(1858)年、江戸でコレラが流行し多くの死者が出た際、蘭書「昆剌地格烈剌 (コンラツコレラ) 篇」を翻訳して治療に貢献した。
 安政6(1859)年、蘭学所を江戸藩邸内に創設し、育英資金制度を提言、後に日新館に医学寮蘭学科を創設し日新館初の洋学師範となる。
 戊辰の役では、日新館の軍事病院医師として負傷者の治療に当たる。
 墓は大窪山。
 柿沢 勇記  かきさわ ゆうき、天保5(1834)年〜慶応4(1868)年4月27日 (35歳)
 名:重任。 別名:森三之丞。
 藩士/森長蔵近好の5男。 柿沢勇八の養子となる。
 藩校/日新館にて頭角を現し儒学を修め、詩文にも勝れる。
 山本覚馬と共に最も早く蘭学を学び、藩命で江戸にて洋学を修める。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に伴ない、上洛して公用局書記に就く。
 慶応4(1868)年、江戸総引き揚げの際には、残留し動向を探索。
 任を終えると、大鳥圭介率いる伝習隊第二大隊の参謀に就任。
 4月23日に下野/壬生で両股を打ち貫かれる重傷を負い、同月27日に日光/和泉屋金右衛門方にて死去。
 墓碑には「四月廿五日 於野州宇都宮城外戦死」とある。
 墓は観音寺 「泰岳院久安道顯居士」、
   真龍寺 「厚源院釋清佑居士」。
 六道口の戊辰之役戦死墓にも記載がある。
 梶原 平馬  かじわら へいま、天保13(1842)年〜明治22(1889)年3月23日 (48歳)
 名:平馬景武、後に景雄。
 家老/内藤介右衛門信順の次男。 後に梶原景保の養子。
 兄の家老/内藤介右衛門信節、弟の武川信臣がいる。
 文久2(1862)年、容保の京都守護職就任に従い大目付として上京。
 慶応2(1866)年、家老に就任し、藩外交の最高責任者となる。
 イギリスの外交官アーネスト・サトウは、「梶原は顔立ちの格別立派な青年で行儀作法も申し分がなかった」と好印象を書き残している。
 エドワード・スネルから、武器購入の道を開く。
 開城後に 東京で幽閉(謹慎) 後、斗南藩/五戸に移住、廃藩後は青森県の庶務課長を勤め、東京、函館へと移り、後に消息不明となる。
 昭和63(1988)年、根室市の市営西浜町墓地 (耕雲寺) で墓が発見される。 「鳳樹院泰庵霊明居士」
 11代/兼定  かねさだ、天保8(1837)年〜明治36(1903)年3月28日に急逝 (67歳)
 姓:古川。 名:兼元、後に兼定。 通称:友弥、後に清右衛門。
 14歳で、父/近江 (10代兼定) に師事し鍛錬を学ぶ。
 16歳で、お道具お手入れ見習として出仕。
 文久元(1861)年、“虎”と名乗る不敬の者を打ち果たしたため退嫡を命じられるが、同年12月に帰嫡を許された (25歳)。
 文久3(1863)年、修業のため上京し、西洞院竹屋町日本鍛冶宗領三品伊賀守金道家の門を叩く。 同年12月に和泉守に叙任。
 元治元(1864))年の禁門の変では御所警備を務める。
 同年に、中川宮御太刀を仰せ付かる。
 土方歳三の愛刀で有名な「和泉守兼定」は、この時代に鍛えた刀。
 慶応元(1865)年2月、会津に帰る。
 慶応4(1868)年4月、藩命で門人数名を率いて越後国/観音寺村の松宮雄次郎方に赴き鍛刀するが、戦火のため同年6月には会津へ戻る。
 同年8月15日、家督を相続。
 籠城戦では1度だけ出撃したが、その後は弾丸の鋳造に専念した。
 開城後は、猪苗代での謹慎後に慶山村病院に移されたため、旧宅で非公式に鍛刀を再開した。
 明治2(1869)年、容保の嫡男/慶三郎 (容大公) の御守刀を献上。
 同年9月10日、命により越後/加茂町に移住、数多く鍛刀する。
 明治7(1874)年9月まで加茂町に居住した時期の鍛刀を、「加茂打ち」と称せられている。
 明治9(1876)年、福島県土木課の判任官御用掛に就任。
 明治36(1903)年、陸軍砲兵工廠に招聘され、新設の日本刀鍛冶所で鍛刀を開始するが、在任中の同年に急逝した。
 墓は歴代 実相寺だったが、近年に子孫の居住近くに移されるも、平成14(2002)年に再び会津の地/天寧寺に移された。
兼定の墓 兼定の墓


 金田 百太郎  かねだ ひゃくたろう、天保13(1842)年〜明治36(1903)年10月4日
 藩士/金田百助の長男。  <太子流の剣客>
 慶応2(1866)年、京都守護職就任の松平容保の護衛と京都の治安維持のため、京都常詰先備甲士勤に選抜され上洛。
 慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦いでは別選組佐川隊として奮戦。
 4月に結成の義集隊分遺隊長に就き、片貝などの越後戦線で戦う。
金田百太郎の墓(伝)  開城するや、水戸/結城党と行動を共にし、水戸城の奪還をもくろむもならず、10月4日に高崎藩の飛び地/松岸村(銚子市)にて降伏。
 斗南藩に移住したが、まもなく会津に戻り破壊された鶴ヶ城の北側に居住し、町の復興に尽力しながら、若松警察署剣道師範として武道の普及につとめる。
 墓は大運寺
 蒲生誠一郎については、山浦鉄四郎を。
 萱野 右兵衛  かやの うへえ、天保11(1840)年〜明治5(1872)年6月2日 (33歳)
 名:萱野右兵衛長誠。
 安政2(1855)年、家督を継ぐ。
 物頭、町奉行、番頭などを歴任。
 戊辰の役では、越後/水原奉行として本郷の志願兵/陶工達36名を含む兵250名を率いて水原陣屋に布陣し、鎮将隊別楯隊を編成し榎峠の戦いなど越後戦線で奮戦、終戦まで戦い抜いた。
 萱野隊の組頭が、伴百悦である。
 開城後は、高田/高田別院で幽閉 (謹慎) される。 その幽閉中、家老恪として藩士たちを統括。
 斗南藩へ移住し尽力するが、元部下の陶工達から招かれ本郷に戻り、本郷焼の陶土造り業を生業とする。
 明治5(1872)年、本郷の地で死去。
 墓は天寧寺。

 明治28(1895)年8月、萱野隊の生存者が本郷観音山麓に別楯隊寄合萱野隊の死節碑を建立。
 大正6(1917)年、死節碑を本郷観音山 (白鳳山公園) に移築する際、隊長を慕う陶工達が萱野隊長之碑を建立。
 昭和32(1957)年9月24日、戊辰戦役90年祭の際に子孫が明治戊辰戦役萱野隊記念碑を建立。
 萱野 権兵衛  かやの ごんべえ (ごんのひょうえ)、
 天保元(1830)年〜明治2(1869)年5月18日 (享年40歳)
 名:長修 (ながはる)、初名:恒治、通称:権兵衛。
 萱野権兵衛長裕の長男。 初代/権兵衛長則は加藤明成公の重臣だったが改易の際に明成公の勧めで保科正之公に仕えた。長修は9代目。
 一刀流溝口派の達人だが、性格は極めて温和で人望があった。
 文久3(1863)年、父の隠居により、家督を継ぐ。
 松平容保が京都守護職に就くと、国家老として内政に尽力する。
 戊辰の役では、軍事奉行に就任。
 慶応4(1868)年の8月22日、母成峠が破られるとの報で、緊急登城し桑名兵を率いて大寺方面へ出陣、守備を固めた。
 翌日に十六橋が突破されたため、蚕養国神社に移動し迎撃する。
 桑名藩主/松平定敬が米沢へ向かい桑名兵も後を追ったため、戦線を離脱し高久方面へと移動、幕府軍/衝鋒隊と合流した。
 中野竹子たち婦女子から同行を懇願され、初めは拒否するも熱意に負けて最後には許可し、鶴ヶ城へ入城させている。
 その後は城外戦に撤し、城内との連絡や補給を行った。
 同年9月15日、塩川で部隊を再編成し飯寺の敵兵を敗走させ、翌日に鶴ヶ城へ入城、開城の準備を始めた。
 開城後は、藩主/喜徳公に付き添って東京/久留米藩邸に謹慎した。
 家老/田中土佐神保内蔵助とともに責任者3名に指名されたが、両名はすでに戦死している。
 明治2(1869)年5月18日、戦争責任を一身に背負って、飯野藩/保科邸内で自刃した。
 「報国院殿公道了忠居士」。
 切腹の前、一刀流溝口派が絶えるのを惜しみ、火箸を使って秘伝の奥義を井深宅右衛門に伝授したと伝えられている。
 墓は興禅寺天寧寺にあり、鶴ヶ城に殉節碑、阿弥陀寺に遥拝碑、余市町に殉節碑が建立されており、屋敷跡に説明版がある。
 5月の命日近くの日曜日には、今でも法要が営まれている。
 河原 勝治  かわら かつじ、
 河原善左衛門の次男。
 慶応4(1868)年8月22日、母成峠が破られるとの報で、父/善左衛門の勤務地/人参役場まで出陣した。 数え11歳であった。
 夕刻に祖母から「今日は祖父の命日であるから いったん帰宅するように」との使いがあり家へ戻ったため、生き残ることになる。
 翌日の戦いで、父と兄/勝太郎は戦死した
 開城後は、母/あさ子とともに斗南藩へ移住し、藩の貢進生に選ばれ上京し大学南校 (開成学校、後の東京帝大) に入学しるが、病のため止む無く退学することになってしまう。
 病が癒えると三菱商船学校に入学して苦学を重ね、明治17(1884)年に優秀な成績で卒業すると海運業へ進む。 日本郵船会社の船長を23年ほど務め、海上生活は37年に及んだという。
 著書の回顧録「思い出の記」は、戊辰の役で受けた戦死者に対する惨状を、今に伝える貴重な資料になっている。
 小説「斗南藩子弟記」は、勝治をモデルにした著者/永岡慶之助の処女作であり、昭和36(1961)年の直木賞候補となっている。
 河原
  善左衛門
 かわら ぜんざえもん、
 文政10(1827)年〜慶応4(1868)年8月23日 (享年42歳)
 名:政良。 勘兵衛政明の長男。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い上洛し、公用方を務めつつ別選隊の副長も兼務する。
 後に公事奉行として会津に戻り、国産奉行に就く。
 大局的な情勢を冷静に判断できる数少ない恭順派の1人であった。
 「将軍/慶喜公が大政を奉還した上は、我が藩も鳥羽伏見での抗戦を謝罪して恭順すべき」との主張を続け、戦火が北関東や北越に及ぶと「藩兵を国境外へ出すべきではない」と強く主張した。
 藩内が抗戦も止む無しの流れに傾き、輪王寺宮を奉じ外国の武力を借りて西軍を討つとの動きにも大反対した。
 単に反対論を唱えるだけでなく、国産奉行として採掘現場を巡歴し、弾丸を造る鉛や錫、鉄、山塩などの備蓄も急いでいる。
 梶原平馬に随伴し、仙台藩と米沢藩に和平工作も行った。
 慶応4(1868)年8月23日、 が来襲の報を受け国産奉行管轄の人参役場から30余名を率いて出陣するが、一箕山八幡神社で待ち伏せされ、奮戦するも長男/勝太郎・弟/岩次郎を含む多くの隊士と共に戦死。
 「政良神霊」。 墓は大窪山

 善左衛門の妻/アサは、袖に「河原善左衛門妻」と書いた白衣を着用て薙刀を抱え、義母/キク (69歳)、長女/クニ (9歳)、キクの甥/高木友之進の姉妹2人に下僕を従え、本一之丁の自宅から城へ向かった。
 すでに城下は戦場と化し進むことができず、止む無く川原町口郭門より郭外に逃れ湯川を渡って石塚観音堂に至る。
 突然、義母/キクが足手まといになるのを避けようとしたのか、喉を突いた。 早く介錯をとのキクの要求に介錯し、敵兵に殺されるよりは母の手でと長女/クニに言い聞かせて自害させた。
 2人の首を衣に包み、下僕に大窪山墓地に埋葬するよう指示し、戦場を駆け抜けて外讃岐口郭門から城内に入ることが出来た。
 梶原平馬に進撃に参加したいと請うが許されず、照姫に侍して傷病者の看護に当たることになる。
 「梶原平馬に今日の顛末を報じ隊後に従って進撃せんことを請いたるも許されず 我が公 照姫 あさ子を召し見て厚くこれを慰諭し 照姫に侍して傷病者を看護せしむ
 開城するや石塚観音堂に行くと、堂宇は焼失していたが鐘楼堂そばに新しい土饅頭を見つけ、掘り起こすと義母と長女の遺体だった。
 夫/善左衛門の遺体は、終に見つからなかったという。
 辛酸を舐めつつも、生き残った次男/勝治を育て上げる。
 明治21(1888)年4月、勝治に嫁いできた妻の父/黒田九兵衛が、石塚観音堂の首の無い2体を埋葬してくれた人だと分かった。
 縁とは不思議なものである。
 河原田 包彦  かわらだ かねひこ、
 嘉永6(1853)年12月6日〜明治2(1869)年8月10日 (享年17 歳)
 信俊、隆孝とも。  御蔵入奉行/河原田治部信盛の長男。
 戊辰の役の時、父/治部信盛が蝦夷地防衛のため不在だったため、藩境/檜枝岐村沼山峠の守備を命じられる。
 伊南郷からも、かつての領主の末裔/包彦の下に旧臣「河原田武士」が続々と集結、父に代わって16歳で一族/数百名を率いて指揮する。
 慶応4(1868)年5月11日、探索の者から「沼田より戸倉にかけて6藩1千2百人の大軍が襲来」との報を受ける。
河原田包彦の墓  翌12日、旧臣に宛てて「我が宗の大事」と檄文を発し、戸倉のを撃退し敗走させた。
 その後も、急遽帰国した父/信盛に協力し、を挟撃し撃退するなど、この地を鶴ヶ城の開城まで守り続けた。
 幽閉 (謹慎/願念寺) 中に、早すぎる生涯を異郷の地で閉じる。
 「貫忠院殿義照隆孝居士」。
 墓は越後高田/会津墓地
 照国寺に慰霊碑 (追惜之碑)。
 河原田 治部  かわらだ じぶ、文政11(1828)年〜明治36(1903)年12月
 幼名:百太郎、名:信盛、真一郎とも。  河原田順吾信壽の子。
 弘化元(1844)年、松平容敬公の小姓として江戸へ上京 (17歳)。
 万延元(1860)年、父の隠居により家督を継ぐ (33歳)。
 文久元(1861)年、日新館に出仕、火術方主役などを歴任。
 文久 3(1863)年、江戸勤番に就任。
 文久 4(1864)年、1年任期の蝦夷地勤番に就任、
 慶応 2(1866)年6月、再び蝦夷地勤番に就任 (38歳)。
 慶応 4(1868)年1月24日に鳥羽伏見の戦いの報を聞くや一大事と判断し、まず2月に婦女子を帰国させ、閏4月22日に帰国の途につく。
 同年6月16日、途中で暴風雨に見舞われながらも、若松に帰る。
 御蔵入奉行に返り咲き、長男/包彦の指揮の下にあった「河原田武士」を再編成し、「河原田精神隊」を結成する。
 かつて伊達政宗軍を撃退した末裔の旧主従関係から団結心は旺盛で、伝習隊士の大木鈴太郎と中川七之助の助力による軍事訓練を受け、農兵といえども正規の精鋭部隊に劣らない強さを発揮した。
 同年9月25日の夜、鶴ヶ城開城の報が届く。

柿田政太郎  梶田銀蔵  梶原梯次郎  勝右衛門  加藤治太郎  上遠野六郎  兼子進  兼子雄吾  神尾武右衛門  神山盛蔵  河瀬重次郎  河原善左衛門・勝太郎・岩次郎  神田源左エ門  神田万蔵  神田一八  神戸民治・岩蔵綱衛

《 か 》 幕 末 よ り 後

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 片桐 酉次郎  かたぎり ゆうじろう、
 文久元(1861)年6月19日〜 昭和13(1938)年12月27日 (満77歳)
 藩士/片桐嘉則 (宮内省御歌所御用掛) の次男として天寧寺町にて誕生。 後に片桐新一郎の養子となる。
 明治14(1881)年、海軍省に入る。
 参謀本部副計官、主計学校の教授などを歴任。
 明治22(1889)年、巡洋艦「高雄」の主計長に就任。
 明治25(1892)年、造船造兵監督官としてイギリス駐在。
 明治26(1893)年、防護巡洋艦「吉野」の主計長に就任。
 明治30(1897)年、呉造兵廠会計課長に就任し、主計中監に昇級。
 造兵廠の不正を正そうとしたところ、経理局第二課課僚や艦政本部部員などに左遷された。
 明治45(1912)年、第11回総選挙/東京府郡部の衆議院議員に当選。
 当時、軍人出身ガ国会議員に立候補することは珍しいことだった。
 大正3(1914)年、海軍の収賄事件「シーメンス事件」が発覚し、長く海軍大臣だった山本権兵衛内閣の弾劾演説をし、免官・勲記返上。
 大正4(1915)年、代々幡町 (東京都渋谷区) の町会議員に当選。
 大正13(1924)年、代々幡町町の町長に就任。
 加藤 寛六郎  かとう かんろくろう、嘉永2(1849)年〜昭和10(1935)年
 号:六石。 藩士/加藤与一郎の長男として、鶴ヶ城下にて誕生。
 近藤勇が斬首された時の状況を土方歳三から聞き取ったのが寛六郎であり、天寧寺墓を建立する際に法名を松平容保から賜った。
 明治 5(1872)年、青森中学校の助教授に就任。
 その後、警視庁に入り、千葉県警察署署長を歴任する。
 明治10(1877)年、西南の役に出征し、抜刀隊小隊長として報怨。
 高知県師範学校長、高知中学校長、福井県尋常師範学校長で教育に従事し、次いで福井県参事官、札幌支庁長を歴任。
 明治35(1902)年、札幌区長 (市長) に就任。
 明治39(1906)年、福島農工銀行頭取に就任、商業会議所頭取も兼務。
 大正時代に入り、戊辰の役50周年の際に阿弥陀寺墓域整備計画が持ち上がり、その費用募集に大金33万円を寄付した。 生活費が月100円未満の時代である。
 鹿目 由紀  かのめ ゆき、(1976)年1月26日〜
 会津若松市にて誕生。
 名古屋が拠点の「劇団あおきりみかん」を主宰し、脚本家・劇作家・演出家として活躍中。
 唐橋 ユミ  からはし ゆみ、昭和49(1974)年10月22日〜
 喜多方市の酒蔵/ほまれ酒造の家にて誕生。
 県立会津女子高等学校卒業で会津を出る。
 大学卒業後、テレビユー福島の契約社員となる。
 平成16(2004)年、テレビ局を退社し、(株)三桂所属のフリーアナウンサーとして活躍中。
 川島 廣守  かわしま ひろもり、
 大正11(1922)年2月27日〜平成24(2012)年12月9日 (90歳)
 会津若松市にて誕生。
 会津中学校 (県立会津高等学校) を卒業後に会津から出る。
 大学在学中に高等文官試験合格、卒業後に内務省入省。
 海軍主計大尉としてインドネシア・サバン島で終戦を迎える。
 昭和38(1963)年、警視庁公安部長に就任。
 昭和46(1971)年、内閣官房内閣調査室長に就任。
 昭和48(1973)年、内閣官房副長官に就任。
 昭和59(1984)年、第3代セントラル・リーグ会長に就任 (14年)。
 平成10(1998)年、第10代プロ野球コミッショナーに就任 (2期6年)。
 平成18(2006)年、功績が称えられ特別表彰で野球殿堂入りとなる。
 河原田 盛美  かわらだ もりはる (もりよし)、
 天保13(1842)年10月5日〜大正3(1914)年8月15日
 <幕末から明治の農学者、農商務省技手、県議>
 会津郡宮沢村 (南会津町) 名主/の弥七の長男として誕生。
 農学を志し養蚕・製糸の改良に務め、後に指導して生産された生糸は横浜などで大評判になったという。
 戊辰の役では、会津藩に仕え、農兵隊を率いて国境警備に就く。
 明治2(1869)年、若松県生産局御用係に出仕。
 明治6(1873)年、大蔵省に出仕。
 明治8(1875)年、内務省に出仕し、琉球出張所/所長心得に就任。
 その後、農商務省などを歴任し、日本の水産学の興隆に尽力。
 明治23(1890)年、農務省技手を最後に官職を辞任。
 明治24(1891)年、帰郷して農業に就き、地元の農業・水産業の新興に尽力、自ら代表となり野岩鉄道を計画 (日清戦争のため断念)。
 明治36(1903)年、福島県会議員に就任。
 田島を結ぶ難路/駒止峠の本格的な改修工事に尽力し、道幅を2〜3間の道路に拡張・完成させた。
河原田盛美の墓 香取神社の碑  著書「日本農学捷径」「日本水産圖説」「日本水産製品分類表」「水産改良説」「琉球備忘録」「琉球紀行」「沖縄物産志」など多数。
 墓は、宮沢の共同墓地。
 ▲(南会津町宮沢)
 近くの香取神社境内に碑もある。
 神田 重雄  かんだ しげお、
 明治7(1874)年4月22日〜昭和22(1947)年12月6日 (享年74歳)
 藩士/神田小四郎の長男として移住先/三戸郡湊村(八戸市)で誕生。
 16歳から叔父が居住の根室で過ごす。
 明治27(1894)年、八戸に戻り、湊尋常小学校教員に就任。
 明治29(1896)年、湊村役場に出仕。
 明治42(1909)年、湊前浜漁業組合/理事に就任。
 大正元(1912)年、湊村村会議員で政界入りし、三戸郡会議員、青森県議会議員、八戸市議会議員・初代議長を歴任する。
 昭和 5(1930)年、2代目/八戸市長に就任し、3期12年間 務める。
 八戸港の修築や市営魚市場の開設などに尽力し、現在の八戸港の基礎を築いた。 八戸銀行の経営不振の際には自ら再建に乗り出すなど、地域振興にも力を注いだ。
 昭和 6(1931)年2月3日、東京日日新聞社主催の座談会の中での発言がきっかけとなって「八戸小唄」が誕生、観光にも尽力した。
 晩年は、青森県漁業会連合会長、青森県水産食糧品統制組合組合長などを歴任し、「大八戸建設のために」を著す。
 昭和33(1958)年、八戸港を見下ろす館鼻公園に銅像が建立された。
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