会  津  の  著  名  人

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《 ほ 》 幕 末 よ り 前

 保科正経公については、こちら

 保科 正光
[肖像]
 ほしな まさみつ、永禄4(1561)年〜寛永8(1631)年10月7日 (71歳)
 幼名:甚四郎。
 武田信玄の家臣/保科正直と母/跡部氏との長男。
 天正10(1582)年、天目山の戦いで武田氏が滅亡、武田勝頼の人質として新府 (韮崎) にいたが、井深重吉 (茂右衛門、重光の祖父) たちによって救出される。
 父/正直の正室が、徳川家康の異母妹/多却姫だった縁で家康に従い、駿府在城の時には側近として仕える。
 天正12(1584)年、小牧・長久手の戦に参陣。
 天正18(1590)年、小田原征伐に参陣。
 家康が関東入りすると、下総国多胡に1万石を拝領し、保科氏として初の大名となる。
 天正19(1591)年、九戸政実の反乱鎮圧に参陣。
 天正20(1592)年からの文禄・慶長の役では、肥前/名護屋城に布陣。
 慶長 5(1600)年、関ヶ原の戦いでは、浜松城の守備を任せられる。
 戦後処理で越前国/北ノ庄城に入り城番として尽力、その功により旧領/高遠2万5千石の領主となる。
 松代城や飯山城の城番を歴任。
 慶長19(1614)年、大坂/冬の陣では、淀城を守備。
 慶長20(1615)年、大坂/夏の陣では、天王寺の戦いで軍功をあげる。
 元和 2(1616)年、越後/三条城の城番を務める。
 元和 3(1617)年、コ川秀忠の庶子/幸松丸 (正之公) を養子に迎える。
 養嫡子にしていた弟/正貞を廃嫡し、正之公に家督を継がせる。
 正貞自らが身を引いたという。
保科正光の墓  元和4(1618)年、正之公の養育費として、筑摩郡に5千石を加増され3万石の大名となる。
 元和6(1620)年、大坂城の城番を務める。
 元和9(1623)年、伏見城の城番を務める。
 寛永6(1629)年、正之公を連れ、江戸で父である将軍/コ川秀忠と初お目見えさせ、3ヶ月後には駿府で兄/コ川忠長と対面させる。
 寛永8(1631)年、死去
 墓は高遠/建福寺
 「大宝寺殿信嚴道義大居士」

 正之公は幕府から松平姓を名乗るよう命じられても固辞し、養育してくれた正光への恩義を忘れず、終生 保科姓を名乗り続けた。
 「正之幼より保科氏に養はる 今氏章を改むるは安んぜざる所なり 且家臣等信濃の僻地に生長し 樸実なる者多し 若し我が氏章を変ずるを聞かば或は離心あらん 今奥羽の要鎮に在りて臣主和せずんば 何を以て国に報ぜん 故に敢えて之を辞す
 会津藩主として松平を名乗ったのは、3代/松平正容公からである。
 寛永14(1637)年、徳川一門となった正之公は、廃嫡となった正貞に保科氏正統を継承させるべく、所有していた保科家累代の伝来物の全てを、元養嫡子/正貞に返還した。
 慶安元年(1648)年、正貞は上総国飯野に1万7千石を拝領し、大名として飯野藩を立藩、幕末まで子孫に引き継がれる。

 保科正之公については、こちら

 保科 正頼  ほしな まさより、
 寛永17(1640)年1月24日〜明暦3(1657)年2月1日 (18歳)
 幼名:虎菊丸。
 保科正之公と継室/於萬との嫡子として江戸/桜田邸で誕生。
 すでに長男の兄/幸松は夭折していた。
 慶安4(1649)年、伯父の将軍/徳川家光に初謁見 (10歳)。
 承応3(1654)年、元服し、正頼を名乗る (15歳)。
  同年12月25日、従四位下侍従に叙任、長門守を兼ねる。
 明暦元(1655)年、初会津入りする。 
 この年に将軍の近習を命じられる。
 幼少の頃から才知が特別にすぐれていて、将来を嘱望されていた。
 明暦3(1657)年、明暦の大火が発生し、類焼した箕田藩邸消火の陣頭指揮を執るが、その時に大量の水を浴び、もともと病弱であったため、風邪がもとで10日後に避難先の品川/東海寺にて死去。
 正之公の悲しみは、見るのも はばかれたという。
 院内山に御陵が開かれ、「西の御庭」に埋葬される。
 これ以降、当主と家族は院内御陵に葬られることになる。
 土津神社にも末社「岩彦神社」として祀られている。
 細川 春流  ほそかわ しゅんりゅう、文政2(1819)年〜明治14(1881)年5月21日
 名:長世。 通称:忠八、万吾、佐兵衛。  <歌人>
 藩士/細川庄次郎長英の嫡男。
 沢田名垂野矢常方に師事し、歌道を学ぶ。
 嘉永3(1850)年、師よりも勝れていると称され、「鶴城三十三番扇合」の講師を努める。
 小山代官見習、家老付御用所詰などを歴任。
 文久3(1863)年、北方防備の任に就き、蝦夷へ渡る。
 蝦夷地で大庭恭平と知遇を得て足利三代木像梟首事件に興味を持つ。
細川春流(higasi-下)  開城後は、斗南藩へ移るも脱藩し京都に移住。
 明治5(1872)年、開拓使に就く、
 後に、資生館の舎監を兼務。
 その後、東京に移り曙新聞の記者となる。
 明治7(1874)年、晩年に職を辞して若松に帰り、私塾を開設して歌道を教える。
 著書「奇題百詠」など。
 作「白虎隊の長歌」「奇題百詠」など。
 墓は大窪山 (現地図に記載あり)。
 「明治十四巳年 五月二十一日
 堀 長勝  ほり ながかつ、享和元(1801)年〜安政5(1858)年閏5月8日 (57歳)
 通称:源四郎、七太夫、左衛門。  <藩士>
 文政 6(1823)年、藩校/日新館の書学寮執事に就く。
 文政11(1828)年、病のため日新館を辞任。
 天保元(1830)年、小荒井村 (喜多方市) に居を移す。
堀先生遺愛之碑  読み書きや書法・漢文素などを27年にも亘り、1千人をも超える近在の子供や村民たちに教えたという。
 写本「萬躾方之次第」。
 墓は安勝寺とのこと。
 「高徳院温良慈恵清居士」
 遺品を納めた「堀先生遺愛之碑」は、道路拡張工事により移転するも現存。

 平成21(2009)年、喜多方市の民家から、堀長勝の肖像画とみられる掛け軸が見つかった。
 堀 主水  ほり もんど、慶長5(1600)年〜寛永18(1641)年3月25日
 加藤嘉明公の重臣/筆頭家老。
 元は多賀谷氏であったが、大阪の陣で敵将と組み合って堀に転げ落ちながら首を取る武功をあげ、ご満悦の嘉明公から「堀」の姓を賜る。
 寛永4(1627)年、嘉明公の会津移封に従って、会津入りする。
 代が変わり、加藤明成が藩主に就くや民を虐げる藩政に変わり、正そうとする堀主水との間が不和になっていく。
 主水の家来と明成の家来とが喧嘩する事件が起き、明成が主水の家来に非ありとの裁定し、主水にも蟄居を命じ家老職を罷免した。
 寛永16(1639)年、激怒した主水は主従の縁を切って一族郎党3百余名を引き連れ、鶴ヶ城に鉄砲を放ち、橋を焼き払い、関所を破り出奔した (会津騒動、堀主水事件)。
 女人禁制の高野山に入るため、妻/寿林と子を鎌倉/東慶寺に預けた。
 明成の追手が寺を取り囲み執拗に引き渡しを求めたため、住職/天秀尼 (奈阿姫) は将軍/徳川家光の姉で義母に当たる千姫を通じ訴え、最後まで引き渡さなかった、
 この事件以降、駆け込み寺(縁切り寺)として有名になる。
 主水は、家臣たちにも暇を与え、自身は高野山に入った。 治外法権の地であったが、高野山に迷惑をかけまいと下山し幕府に訴え出た。
 寛永18(1641)年、結局、明成に下げ渡され、加藤家下屋敷 (増上寺の門前) において、拷問の上で斬殺された (廃絶禄/南条範夫)。
 「真良院殿延叟宗朴居士」
しかし、後に明成も改易となり、妻/寿林は弟/黒川貞得に引き取られ84歳の天寿を全うした。

保科民部正興

《 ほ 》 江  戸  幕  末

 星 暁邨
  (暁村)
 ほし ぎょうそん、文化13(1816)年〜明治33(1900)年9月12日
 文化10(1813)年〜、文化12(1815)年〜とも。  <画家・歌人>
 名;朗、義恵。 通称;旧七。 号;薫園、滴声舎など。
 商家の子として融通寺町にて誕生。
 幼き頃から文雅を好んでいたという。
 遠藤香村から四条派の絵を学び、野矢常方から和歌を学ぶ。
 弘化4(1847)年、江戸湾防備の相模・伊豆・房総の佳境を描く。
 安政5(1858)年、上洛し、仁和寺法親王に画を奉納して「法橋」の免許状を得る。
 歌人/香川景嗣や大田垣蓮月など広く交遊し、各技を学ぶ。
 元治元(1864)年、北方防備のため藩領となった標津番屋に絵師として派遣される。 遠藤香村が没すると あとを継ぐ。
 秋鮭漁や加工の様子などを描いた絵画は、写実的な技法の評価だけでなく、当時の様子を伝える資料としても高い評価を受けている。
星暁邨の墓(伝) 星暁邨の墓(伝)  慶応4(1868)年、 鶴ヶ城下に迫ると、家族一同で自刃しようとするを海老名リンを説得し思いとどまらせている。
 詠歌は千余数に及び、後に師/野矢常方の遺詠集「蓼の落穂」を著す。
 墓は、大運寺
            [秋景山水図]
 飯盛山に、彰恩碑。
雨ならず 露ならずして 旅衣 ぬらすは人の 情けなりけり 義恵
花みつつ かすみ酌むまのひと時は うき世の外の 我世なりけり
 星 研堂  ほし けんどう、寛政5(1793)年9月〜明治2(1869)年11月23日(77歳)
 名:孚。 通称:俊吾。 諱:猷訓。 号:研堂。 <藩士、書家>
 藩士/俊蔵清猷と母/川手氏の長男として鶴ヶ城下にて誕生。
 幼き頃より書を良くし、内田近明から滝本流を学ぶ。
 祐筆/加須屋時鳴に師事し、後に藩命で上京し書法を研鑽する。
 楷書は唐の顔真卿、草書は唐の懐素へ進む。
 頭角を現し、3年の課程を1年で修め、帰国。
 文政2(1819)年、家督を継ぐ。
星研堂の墓  祐筆に就き、藩校/日新館の師範を兼務する。
 戊辰の役では、城に入れず、山三郷方面へ出陣など城外で奮戦。
 倅/精蔵は長命寺で戦死し、孫/万吾が赤岩村で自刃の際に介錯したという。
 開城後は、塩川での幽閉 (謹慎) を経て、塩川で地元の子弟教育に尽力。
 編著「草書格」。
 墓は塩川/阿弥陀寺。「研堂星孚之墓.
 「宝樹院光誉研堂清居士」
 門弟/荘田胆斎佐瀬得所たちが東山温泉内に頌徳碑を建立したが、昭和13(1938)年の道路拡張のため、川原町/菅原神社境内に移築されたとのこと。
 [一行書]
 堀 粂之助  ほり くめのすけ、天保9(1838)年〜慶応4(1868)年9月4日 (31歳)
 諱:光器 (みつかた)。
 砲兵隊寄合組/堀清左衛門の長男。
 文武両道に優れ、藩校/日新館の助教授を勤める。
 戊辰の役では、母成の守備の後に、籠城戦に入る。
 藩より米沢藩へ援軍要請の使者を命じられ、吉村寅之進と共に出立。
 米沢城に至り米沢藩家老/竹俣美作に援軍要請を伝えるが、すでに米沢藩は降伏を決めていた。
 米沢藩がダメなら仙台藩へ援軍要請をすべきとの同行者/寅之進に対し、米沢からの援軍を得よとの命であって仙台からではないとし、旅籠/越後屋へ戻り主人に金子を与え後事を託して自刃した。
 「神かけて 誓ひしことの かなはねば
      ふたたび家路 思はざりけり
(辞世の句)」
 遺体は竜泉寺に葬られた。
 昭和46(1971)年、辞世の歌碑が建立された。
 堀 悌助  ほり ていすけ、天保7(1836)年〜明治16(1883)年7月16日 (48歳)
 別名:羽山光和、堀和光。
 藩士/堀昌三郎(堀光則)の嫡男。
 戊辰の役では、籠城戦を戦い抜き、開城時の参政重臣の1人。
 父/昌三郎は隠居組として8月23日に甲賀町口で戦死 (68歳)、弟/恒蔵は朱雀寄合二番隊として9月4日に会津木曽で負傷し小荒井で死去 (24歳) している。
 町野主水永岡久茂が意見対立による抜刀騒ぎの際、割って中に入ったて仲裁した逸話がある。
羽山光和の墓  東京で幽閉(謹慎) を経て、斗南藩移住
 青森県羽山氏の養子となり、羽山光和と改名。
 明治 9(1876)年、一等開拓使に就く。
 明治13(1880)年、准奏任御用掛に就き根室に移住、その後15年間、根室県少書記官・大書記官を歴任し、開拓使として根室の発展に尽力。
 退官後、東京に移る。
 明治16(1883)年、肺病で死去。
 墓は谷中霊園

《殉難者》 星精蔵・万吾 星保記 星勇八 堀田繁治
堀半右衛門      

《 ほ 》 幕 末 よ り 後

 星雲吉 (湯田運吉) については、こちら

 保志 総一朗  ほし そういちろう、昭和47(1972)年5月30日〜
 愛称:ほっしー、総兄ちゃん、ぱっぴぃ。
 <声優、歌手、ナレーター>
 会津若松市にて誕生。
 専門学校東京アナウンス学院放送声優科・日本ナレーション演技研究所 (第8期特待生) 出身。
 平成 7(1995)年、テレビアニメ「ビット・ザ・キューピッド (Bit the Cupid)」のモデム役でデビュー。
 平成15(2003)年、第25回アニメグランプリ声優部門で受賞。
 平成16(2004)年、シングル「Shining Tears」が累計4万枚売上。
 平成18(2006)年、第28回アニメグランプリ声優部門で受賞。
 平成19(2007)年、第29回アニメグランプリ声優部門で受賞。
 公式サイト
 星 冬四郎  ほし とうしろう、
 明治40(1907)年12月23日〜平成元(1989)年8月7日 (満81歳)
 <家畜生理学専門の農学者>
 若松市 (会津若松市) にて誕生。
 会津中学校 (会津高校) を卒業 (中31回) し、第二高等学校を経て、東京帝国大学農科大学獣医学科に進学。
 昭和 6(1931)年、東京帝大農科大学を卒業。
 帝国競馬協会、東京帝大農科大学勤務などを歴任。
 昭和12(1937)年、東京帝大農科大学/助教授に就任。
 第二次世界大戦で2度の召集を受け、陸軍獣医少尉として陸軍獣医学校教官などに就く。
 昭和21(1946)年、東京大学農学部教授に就任。
 その後、京都大学、名古屋大学、九州大学などの非常勤講師などや、北里大学教授などを歴任。
 学外では、獣医師免許審査委員会、薬事審議会の各委員、日本獣医学会理事、家畜繁殖研究会 (日本繁殖生物学会) の理事長・会長を歴任。
 昭和38(1963)年度の日本農学賞を「哺乳期における卵巣機能に関する研究」で受賞。
 全面改訂「島村家畜生理学/原著:島村虎猪」、編纂「繁殖学辞典」、共編「泌乳」など。
 妻/まり子の父は歌人/佐治斗牛 (歌碑が殺生石稲荷神社にある)。
 星野 喜代治  ほしの きよじ、
 明治26(1893)年11月11日〜昭和54(1979)年10月14日 (満85歳)
 酒造業の家の次男として若松市 (会津若松市) にて誕生。
 会津中学校 (県立会津高等学校) に入学。
 同級生に、小林美登利小山知一水野敏雄がいる。
 同校を卒業 (中17回) し、第一高等学校に進み、東京帝国大学法科大学英法科に進学。
 大正7(1918)年、東京帝国大学を卒業し、大蔵省に入る。
 在学中に文官高等試験に合格していた。
 総務部総務課、外国為替管理部総務課、大臣官房秘書課や、銀行局の普通銀行課、銀行課、検査課の課長を歴任。
 昭和13(1938)年、大蔵省を辞任し、朝鮮銀行/理事に就任。
 昭和20(1945)年、朝鮮銀行/副総裁に就任。
 第二次世界大戦の終結で同行は閉鎖、4年ほど公職追放される。
 昭和32(1957)年、日本不動産銀行設立に携わり、初代頭取に就任。
 昭和36(1961)年、同行の会長に就任。
 昭和44(1969)年、同行の相談役に就任。
 昭和52(1977)年、同行が日本債券信用銀行に変わるが留任。
 星野 義信  ほしの よしのぶ、嘉永6(1853)年〜明治42(1909)年 (57歳)
 初名:平三郎。
 藩士の子として鶴ヶ城下の柳原で誕生。
 戊辰の役では、白虎足軽隊として籠城戦を戦い抜く。
 開城後は、東京幽閉(謹慎)を経て、斗南藩/田名部に移住
 明治 7(1874)年10月1日、青森/小泊村に郷倉を校舎とした簡易小学校/小泊小学校が創立され、首座 (校長) に就任。
 明治 9(1876)年、函館に渡り教職に就く。
 その後、開拓使根室支庁に就く。
 明治12(1879)年、根室測候所の初代所長に就任。
 空知監獄署、夕張郡役所を歴任。
 明治23(1890)年、歌志内で寺子屋式教育場を創立。
 歌志内役場の筆生に就き晩年を過ごす。

 義信の子/純逸は、札幌農学校で有島武郎と同級生。
 大正11(1922)年に有島武郎の札幌農学校を舞台にした小説「星座 第一巻」が発行され、主人公「星野清逸」は純逸がモデルとされる。
 なお、雑誌/新潮に連載時の題名は「白官舎」で、「星座」は未完。
 平成 2(1990)年、星野義信ゆかりの碑「歌志内教育発祥之地」建立。
 平成16(2004)年、北海道新聞社出版局から「会津白虎隊士の涙  北海道開拓に生きた星野平三郎義信」が出版。
 ボヤッキー  フルネームは、ブツクサ・ボヤッキー (声優/八奈見乗児)。
 身長168センチメートル、25歳,
 会津若松市の出身 (総監督/笹川ひろしは会津若松市の出身で、ドロンジョの本名は「ササッガワ・ヒロッコ」)。
 アニメ「ヤッターマン」の悪役/ドロンボー3人組の1人で、メカ設計開発・製作・作戦を担当。
 少ない予算と限られた時間でメカを製作する天才科学者だが、毎回やられても決して くじけず、売り上げを誤魔化すこともあるが約束は絶対に守る真面目な性格も持ち合わす。
 やせすぎな体格、面長で鋭角なアゴに、出っ歯が特徴。
 いつもゴーグルを着用していて、オネエ言葉を使うがゲイではなく、女子高生が大好きで、ドロンジョの胸に弾みで触るシーンも多い。
  ◇「全国の女子高生の皆さ〜ん!」
 決めセリフの多さは、作品の中で断トツに多い。
  ◇「今週の見せ場ァ!」「今週のヤマ場ァ!」
  ◇「会津若松のおハナちゃんのところに帰りたい」
  ◇「こんな生活もうイヤ!」
  ◇「説明しよう」
  ◇ 完成したメカを紹介する際に「全国○×協会推薦です」
  ◇ ボタンを押す際に「ポチッとな」  など
 故郷に恋人「おハナちゃん」を残し、ドロンボー一味に加わるため上京したが、昭和オリジナル版の最終回でドロンボーが解散したため帰郷し、念願の「おハナちゃん」と結婚して、蕎麦屋を開く。
 後に、平成版・実写版も製作されている。

星伊策 星和男・洋二 星光一 星創太 星安次郎 保志雄一
本名文任

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