戊  辰  の  役  /  殉  難  者

[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]     [メニュー]

鶴  ヶ  城  周  辺


       続きは、こちら。

「大窪山で眠る殉難者 (東麓 中央 西麓)」 は、こちら。

「善龍寺で眠る殉難者」 は、こちら。

「なよ竹の碑、西郷一族の墓」 は、こちら。

「西郷邸跡」 は、こちら。

「恵倫寺で眠る殉難者」 は、こちら。

「本光寺で眠る殉難者」 は、こちら。

大法寺

秋山彦左衛門の墓

秋山彦左衛門 .

秋山彦左衛門の墓

 蔵奉行。
 慶応4(1868)年8月23日、城内で自刃。 51歳。
 「慶応四戊辰年八月廿三日於城中戦死」。

 長男/清八は、鳥羽伏見の戦い、赤口の戦い、籠城戦と戦い抜き、後に初代/若松市長になった。

長谷川家之墓

長谷川源次郎 .  青龍士中一番隊鈴木隊。
 慶応4(1868)年5月1日、磐城/白河で戦死。 36歳。
 「義正院殿忠道日源居士」
 「明治元年五月一日戦死 白河ニ葬ル 長谷川源次郎之霊

長谷川源三郎  源次郎の弟  大砲林隊
 慶応4(1868)年1月5日、京都/伏見で戦死。 27歳。
 黒谷慰霊碑に合祀。
 「明治元年一月五日戦死 伏見ニ葬ル 源次郎弟 源三郎之霊

磯上内蔵之丞の墓

磯上内蔵之丞 .

 進撃小室隊組頭助勤。
 慶応4(1868)年8月29日、長命寺で戦死。
 43歳。


 ▲(会津若松市御旗町1-9 Tel. 0242-27-9114)
   ・大法寺については、こちら。

東明寺

三澤留吉の墓

三澤留吉 .

 三村留吉と名乗っていた。
 墓域の中央、一本杉の下にある。
 遊撃隊/遠山隊足軽。
 慶応4(1868)年閏4月25日、磐城/白河で戦死。
 35歳。
渡辺治左衛門の墓

渡部治左衛門    .

 源太郎の父。     .
 慶応4(1868)年8月23日、.
五軒町で戦死。 64歳。.


好川瀧之助・瀧三郎の墓

好川瀧之助・瀧三郎 .

≪好川瀧之助≫ 第二遊撃隊井深隊。 慶応4(1868)年閏4月24日。
 「白虎隊士 越後三国峠盤若塚にて戦死  見阿徳性居士
  慶應四年四月二十四日 瀧之助忠信 享年二十一才

≪好川瀧三郎≫ 白虎寄合一番隊原隊。
  慶応4(1868)年9月15日、負傷し16日に面川で死去。 16歳。
 「白虎寄合組 一ノ堰村で戦死  實應良性居士
  慶應四年九月十七日 瀧三郎忠義 享年十五才


 ▲(会津若松市川原町5-20 Tel. 0242-27-3637)

秀長寺

赤塚惣吾の墓

赤塚惣吾 .

 左源治の伜。
 朱雀足軽二番隊/桜井隊免許。
 慶応4(1868)年7月29日、岩代/二本松で戦死。
 18歳。

井上定五郎の墓

井上定五郎     .

 元金山同心徒分。  .
 戊辰(1868)年9月16日、
城内で負傷し、 .
10月8日に死去。 .
 42歳。     .

の墓

斎藤八郎 .

 目付席。
 進撃隊/小室隊。
 慶応4(1868)年8月29日、長命寺で負傷し、9月1日に城内で死去。
 53歳。
 墓は大窪山にもある。


秀長寺古戦場碑   供養塔   佐川官兵衛の歌碑
 山門をくぐった右手に、秀長寺古戦場碑、供養塔、佐川官兵衛の歌碑が並んでいる。

古戦場の碑 供養塔 佐川官兵衛の歌碑

3つの碑
       
新/説明板  慶応4年(1868)年9月5日、佐川官兵衛の部隊が長賊らを撃破した。
 大勝利を収めた会津軍も、 10名が戦死した。
 これ以降、開城するまで、城内への物質の補給路を確保する。 [戦闘図]
 ≪佐川官兵衛の歌碑≫
  雲水に 心はまかせ 澄む月の 法の鏡と 世をやわたらむ

会津藩戦勝地跡の碑 住吉川原戦場跡の碑  ▲(会津若松市材木町1-10-33
   Tel. 0242-27-4935)
   ・秀長寺については、こちら

 隣りの住吉神社境内に「会津藩戦勝地跡」の木標が、入り口の鳥居脇に「住吉川原戦場跡」の木標がある。
 住吉神社については、こちら


光明寺

 一ノ堰周辺の戦いで確認された戦死者だけで67人にも及ぶが、戦いが終っても埋葬は許されず、遺体は鳥獣に喰い荒らされた。
 翌年5月に見つけることのできた戦死者47名 (現地板は48名) の遺骸を合葬したが墓碑の建立は許されず、今となっては場所すら不明。


 戊辰戦争終結直前である慶応4年9月中旬、ここ一ノ堰を中心として、小山田・青木・御山・堤沢・面川・雨屋・新村・中野・井出・徳久・羽黒等当時の門田村全域が戦場と化していた。
 旧暦9月15日と9月17日の2回にわたる激戦が この一ノ堰の地で繰り広げられ、多くの戦死者を出すこととなる。   〜 〜 〜 〜 〜
 二回にわたる激戦で、東西両軍に多くの犠牲者を出したが、東軍 (会津軍) の兵士の遺体は、そのまま放置されていた。 これは、会津の兵士の遺体を埋葬することを禁じたためである。 その後、現在の供養碑は、明治2年になってから、戦死した会津兵の遺体を収集し、光明寺境内に供養されたものである。
 一ノ堰の戦いで戦死した会津兵は、67人とされているが、ここ一ノ堰に埋葬されたのは48人である。 残りの19人の埋葬先は未だに不明である。
(現地板より)

一之瀬要人(かなめ)之墓

一之瀬要人 .(かなめ)

 家老、越後方面の総督。
 食糧路を確保するため入城せず、城南周辺を防備。
 そのため一ノ堰周辺は、激しい戦闘が繰り広げられた。
 戊辰(1868)年9月15日の徳久村で負傷し、22日に桑原村病院で死去。
 砲術隊長、享年37歳 (25歳とも)。
 家老としては、唯一の戦死者である。


伊与田図書の墓

伊与田図書      .

玄武士中隊/中隊頭。   .
戊辰(1868)年9月17日、  .
一ノ堰で戦死。        .
享年45歳。          .
「秋元院明元恵忠清居士」.

山本権八之墓

山本権八 .

 山本覚馬、新島八重の父。
 玄武士中隊/伊与田隊。
 戊辰(1868)年9月17日、一ノ堰で戦死。
 享年61歳。
 一之瀬要人之墓の西隣。
 京都/若王子墓地に慰霊墓がある。

有賀九左衛門の墓

有賀九左衛門    .

九次郎の父。       .
玄武士中隊/伊与田隊。 .
戊辰(1868)年9月17日、 .
一ノ堰で戦死。       .
享年56歳。         .
「意心院義功良康居士」 .

田原與五左衛門(重義)の墓

田原與五左衛門 .

 名:重義。
 直之助の父。
 玄武士中隊/伊与田隊。
 戊辰(1868)年9月17日、一ノ堰で戦死。
 享年44歳。
 「直蔵院忠○俊居士」

 ▲(会津若松市門田町大字一ノ堰字村西500)
   ・光明寺については、こちら。

明光寺

戊辰戦役殉難者の碑 加藤治太郎之墓

加藤治太郎

 慶応4(1868)年8月23日、諏方神社で負傷し、
 10月8日に青木病院で死去。
 15歳。
 「法照院秋山兼居士」。




杉原良之助、杉原勇記の墓

杉原良之助、杉原勇記 .

≪杉原良之助≫
  戊辰(1868)年9月17日、城内で負傷し、27日に御山で死去。
  27歳。 「性山義孝居士」
≪杉原勇記≫
  朱雀足軽二番隊/桜井隊。
  慶応4(1868)年7月29日、岩代/二本松大壇で戦死。
  「法全日歓居士」

小林幸太郎の墓

小林幸太郎 .

 重蔵の伜。
 遊撃隊足軽。
 慶応4(1868)年8月23日、一之丁で負傷し、
  10月11日に青木病院で死去。
 20歳。
 「清正院寒山道風居士」

横山三郎の墓 鈴木寿三郎の墓

横山三郎 .
 御山で戦死とのことだが、詳細不詳。
 強清水で負傷し、10月5日に青木で
死去した健三郎 (英蔵の伜、31歳) か。

鈴木寿三郎      .
 戦死者とのことだが、  .
 詳細不詳。         .
 鈴木茂三郎か。      .

 以前は点在していたが、加藤の墓を除き入口に移された。
 その他にも戦没者と伝えられている墓が並んでいる。
 御山病院で亡くなった方々と思われるが、詳細不詳。
 16基の内、3基は「大姉」が付いている。
 悲しい最期を遂げられたのであろうか。

 ▲(会津若松市門田町大字御山字館ノ内81-1
    Tel. 0242-26-0160)

慈光寺

林忠吾の墓

林忠吾

 青龍士中一番隊/有賀隊付。
 戊辰(1868)年9月14日、諏訪社で戦死。
慈光寺  22歳。
 「義範道覺居士」。

 ▲(会津若松市門田町大字堤沢709)


中島共同墓地

菊池[某]の墓

菊池 [某]

 詳細不詳。
 中島村の人。
 「勇[草冠+ワ+子]良道清居士」。

 ▲(会津若松市門田町一ノ堰)

浄光寺

日向左衛門、新太郎の墓

日向左衛門 .
 文政10(1827)年、父/与惣右衛門の嫡男として誕生。
 名:次孝。 日向新太郎・日向ユキの父。
 御旗奉行 → 町奉行。
 慶応4(1868)年8月23日、大町口郭門を守るべく乗馬して敵兵を蹴散らすも重傷を負い、近くにあった母の実家/加須屋左近邸内で自刃。
 42歳。 「英義院殿忠山日路居士」
日向新太郎  
 遊撃二番隊/半隊頭。
 戊辰(1868)年9月8日、飯寺で戦死。
 20歳。 「至孝院殿忠義日勇居士」

原新五右衛門の墓

原新五右衛門.

 幼少寄合組小隊頭。
 慶応4(1868)年8月23日、甲賀町口で戦死。 50歳。
 この日の甲賀町口郭門の戦いは、会津での最大の激戦であった。
 藩兵は国境防備に就いており、隠居した者や幼き子だけの迎撃で、武器は刀槍だけであった。  それでもひるまず、味方の屍を乗り越え奮戦するも、次々に狙撃の餌食となり、悲壮・凄惨な死闘が繰り広げられた。
 一時、甲賀町口郭門は奪われたが、国境から藩兵が帰城するや奪還し、開城するまで守り抜いている。

佐藤五左衛門の妻の墓

佐藤五左衛門の妻 .

 横田クヱの娘。
 慶応4(1868)年8月23日、死去。
 「妙忠院義達日道大姉」。

  日向勝見の墓

日向勝見

 白虎士中一番隊/生田小隊。
 墓碑名は、「日向家代々之墓」。

  海老名リン
 軍事奉行/海老名季昌の妻。
 戦後に斗南藩に移住し、その後は夫の転勤に伴い山形、福島、東京などを経て会津へ戻る。
 明治26(1893)年、甲賀町に私立若松幼稚園を開園。
 女子教育のため若松幼稚園の敷地内に「私立若松女学校(現/県立葵高校)」も開校。
 明治42(1909)年4月20日没。 享年61歳。
海老名リン像
 ▲(会津若松市宝町4-25 Tel. 0242-27-5181)
   ・浄光寺については、こちら。

豊岡墓地

星勇八、保記の墓 星 勇八 .  勝治の次男。
  白虎寄合二番隊/太田隊。
  慶応4(1868)年8月10日、越後/石間口左取で戦死。 16歳。
  墓は、飯盛山と、五泉市の長徳寺にもある。

星 保記   勝治の弟、勇八の叔父。
  結義隊/井上隊。寄合。
  戊辰(1868)年9月17日、一ノ堰で戦死。 35歳。

笠間善太郎の墓

笠間善太郎.

  慶応4(1868)年8月23日、戦死。
  52歳。
  詳細不詳。
 ▲(会津若松市城南町)

泣血氈の誓い (会津戊辰戦争終結の地)

会津戊辰戦争終結の地 会津戊辰戦争終結の地 泣血氈の誓いの説明文
 現地板の図
 ここで降伏式が行われた。
 「薩奸長賊となら戦えるが、天皇に弓を引くことはできない」 との容保の決断であった。
 故なく汚名を着せられた無念を忘れぬために、式場に敷かれた緋毛氈を小さく切り取り、懐中深く持ち帰った。
 泣血氈 (きゅうけつせん) と呼ばれている。
 薩奸長賊らの代表は中村半次郎 (桐野利秋) だったが、無学 (剣客) であったため、会津藩からの書類が読めず、代読しても内容の詳細を理解できなかった。

 ▲(会津若松市東栄町)

野矢常方の顕彰碑 (諏方神社)

野矢常方の顕彰碑 野矢常方の現地板

 惣五郎常利の子、良助の父。
 宝蔵院流槍術師範。
 和歌にも長じており、和学所師範でもあった。
 慶応4(1868)年8月23日、桂林寺町で戦死。
 67歳。
 戦後に長男や門人たちが遺体を捜すも見つからず、菩提寺に遺詠を埋め、旧邸内の庭石を遥拝石にした。
 「晧月院覺譽涼齋居士」。
 墓は大窪山墓地野矢常方翁拝石大運寺にある。

 自宅近くの桂林寺町口郭門で、敵兵1人を十文字槍で仕留めるも、銃弾を浴び戦死した。
 槍先には、一首の歌が結び付けられていたという。
    弓矢とる 身にこそ知らぬ 時ありて ちるを盛りの 山桜花
 後の教科書「修身」に常方の歌が載り、全国的に知られることとなる。
    君がため 散れと教えて 己まず 嵐にむかう 桜井の里

<大窪山墓地大運寺と併記>    .
 ▲(会津若松市本町2-50 Tel. 0242-27-7427)
   ・諏方神社については、こちら。

[ 続 き ]
 [閑話]

[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]     [メニュー]