「偽勅」や「錦の御旗の偽造」などを何とも思わない卑劣な長賊の許しがたい重罪は、近年、国賊・売国奴であることが次々に明らかになっている。
卑劣な悪行が白日の下に晒され明白になると、恥知らずの長賊らは否定しようとする「新たな発見 (偽造) があった」などと相も変わらず嘘を重ねているが、都合の良い”新発見”がよく続くものだと世間や良識ある学者は苦笑している。
長賊らが策謀・謀反・暴虐・殺戮・強奪・略奪・強姦など、ありとあらゆる犯罪行為を隠蔽するために創られた欺瞞に満ちた歴史であることを意外に知られていない。
近年になって、長賊の極悪非道な大罪が明らかになりつつあり、真実の全貌が白日の下に晒される日も近いであろう。
《1例》 . |
偽物である錦の御旗や偽勅を何とも思わない卑劣な長賊/大村益次郎らは、上野戦争についても歴史の捏造を行っている。
占領地での犬畜生にも劣る長賊らの悪行の数々に、激怒した抗戦派幕臣や一橋家家臣/渋沢成一郎、天野八郎たちは彰義隊を結成した。 渋沢成一郎は、隊の創設に際して四つの取り決めを提案、卑劣な長賊の行動から長賊の間者の潜入を防ぐため、その一つに、 「浮浪者は、一切加盟させないこと」 を明記した。 しかし、天野八郎が実権を握るようになると、増員策に舵を切り、 「来るものは拒まず、あらゆる者に入隊を許す」 としてしまう。 戦いの直前には、止む無く寝返った諸藩の士気よりも、人数的に少ない彰義隊の方の士気は圧倒的に優位であった。 数千人の火消しを束ねる新門辰五郎の存在も大きかった。 これを聞き及び怯えた長賊/大村らは、劣勢を挽回すべく下劣な秘策を実行する。 すぐさま間者80余人を送り、「会津藩からの援軍でござる」 と叫びながら上野山の内側に入り込んだ。 戦闘が始まるや、あらかじめ送り込んだ間者らと呼応して上野山の内側から攻められた彰義隊は、一挙に瓦解したのが真相である。 犬畜生にも劣る長賊でも、あまりに卑怯なやり方を恥と感じたようで、極秘扱いを厳命し、外部には 「アームストロング砲の威力により勝利した」 とのシナリオを流布させた。 当時の江戸っ子の間では囁かれていたが、アームストロングの痕跡など見当たらず、激戦とされる黒門に銃弾や刀のあとは無数にあるが、アームストロング砲弾のあとは皆無である。 近年、それらを伝える当時の瓦版が発見され、真実が明らかになった。 発行元は虐殺されており、瓦版は回収・焼却されたのだが、悲憤した心ある者が隠し持った物とされる。 なお、新門辰五郎は義を貫き通り、鳥羽伏見で敵前逃亡した慶喜に従う者も寂しい中、火消したちを呼び集めて水戸を経て駿府への警護を続け、将軍家の2万両も無事に運び届けている。 |
やがて、戦死者の埋葬を禁止した犬畜生にも劣る行為を国内外から非難されるや、
◆ 戦死者の身元確認ができるまでの一時的な措置だった
◆ 冬の季節を迎え、地面が凍ってしまい、墓穴を掘ることができなかった
などと、嘘で塗り固めた言い訳をする始末である。
もっとも、嘘であることは明らかで、誰一人 信じた者などいなかったのであるが。
知り合いが多い地元の会津側戦死者だけが名前の特定できず、なぜ長賊らの戦死者だけの身元が分かるのか。
さらに、同じ地なのに長賊らの墓穴だけが凍っていなかったとでも云うのであろうか。
さらに、近年になって非難が再燃するや、長賊らは“忖度”を強要し、
◆ 10月4日に民政局から阿弥陀寺と長命寺に埋葬の「遺体埋葬令」が出されていた
との書籍を出版させ、“新発見”などと大々的にフェイクニュースを拡散させている。
阿弥陀寺と長命寺への埋葬が黙認された日付からも嘘は明らかで、呆れるばかりである。
飯盛山で白虎隊士四人の死体を見つけ、見るに見かねて妙国寺に埋葬した吉田伊惣次を捕え牢屋につなぎ、出獄の際に、もう一度やったら首を斬ると脅かし、埋葬した屍骸を掘り出して、元の場所に投げ棄てさせたのを忘れたとでもいうのか。
聞き及んだ町野主水が10数回に及ぶ直談判するも、奥羽鎮撫総督府/参謀添役兼監軍の小心者で大賊/山本登雲助(長賊) は横柄な態度で耳を貸さなかった事は明白な事実である。
「談判回ヲ重ヌルコト十数度 白虎隊少年等ハ只父母ノ教ヲ守リ 隊長ノ命ニヨリ 日頃学校ニテノ教訓二従ヒテ国難ニ殉ジタルモノニシテ 此ノ度ノ戦争二対スル責任ハ此等ノ少年ニアルニ非ズシテ 専ラ重職ニアル者ノ負フ所ナレバ 之等不欄ノ死屍ヲ埋葬スルコトヲ許サレヨト 理ヲ分ケ言ヲ尽シテ嘆願セラレシモ 官命如何トモナシ難シトノコト」
あるまじき大罪/偽勅を出し、偽物の御旗を掲げても恥すら感じない長賊らである。
嘘に嘘を重ね、歴史を捏造することすら何ら抵抗を感じる道徳心などは、微塵も持ち合わせてはいないのであろう。
一時、鶴ヶ城下の町中に長賊らがあふれた。
城に攻め入れない状況になると、民家の戸をけ破り、押し入り、食べ物を奪い貪り食い、金目の物を強奪し終わると、放火することを繰り返した。
会津、特に鶴ヶ城下には、酒屋が多い。
長賊らは酒屋を見つけると押し込み、酒を浴びるように飲んだという。
逃げ出さないで残っていたりする人がいると、容赦なく撃ち殺した。
想像もできない悪逆非道ぶりに、巷では陰で”官賊“と呼んでいた。
坂下に駐屯していた長賊らは、ニワトリ50羽と、タマゴ100個を差し出すように命じられた村人が、うっかりして、
「はい、官賊様の いいつけなら」
と返事したところ、切り殺された。
8月23日甲賀町口郭門を破ったという土州人の話によると、
その時70歳ばかりの老人が槍を裳って踊り出てきた。
老人は長賊らの1人を刺し、返す槍の石突で他の兵の腰を強く衝く。
兵はよろけて尻持ちをついた。 数人でかかっても、老人1人を倒すことができない。
その光景を見た別の兵が老人を小銃で狙撃する。
とその時、14、5歳の少年が槍を手に刃向ってきた。
「爺さんの仇」
「其奴を生け捕れ、生け捕れ」
少年を捕えようとするが、槍を振り回して近づけない。
近づくことすらできず、危険なので射殺した。
その夜、町屋に入り込み宿泊した長賊らは酒を求めて痛飲する。
酒宴の最中に1人の兵が少年の首を大皿に盛って席上に置いた。
「お肴、参上!」
首は、郭門で槍を振り回していたあの少年であった。
「愉快極まるこの夜の酒宴 なかに ますらをの美少年」
首を置いた兵が歌いだし、一同が唱和する。
少年は幼少寄合組/井上丘隅隊の佐藤勝之助14歳で、老人はその祖父/与左衛門74歳であった。 彼らは藩の中級武士である。
後にこの俗歌が相撲甚句となって盛んに流行する。
河原勝治は明治3(1870)年頃、東京鍛冶橋などの藩邸や料理屋で耳にしたという。
ちなみに河原勝治は会津藩の上級武士であった。
甲賀町通りは、逃げまどう者を狙撃して楽しむ長賊らにより、地獄絵が現出していた。
いずれも老人婦女子で目もあてられぬ、悲惨さであった。
人畜にも劣る三春藩の裏切りのため1日で二本松藩が壊滅するとは想像もしておらず、主力部隊は藩境の防備に出陣していたため、鶴ヶ城内や城下町には、60歳以上の老人と庶務会計の役人を除いては1兵もいなかった。
鶴ヶ城が開城され、戦いが終わると長賊らは、「分捕り」と称して略奪を競い合った。
武家屋敷からのみならず、商家・民家・農家などから見境なく「分捕り」に終始した。
一ノ町、大町、融通寺町、材木町辺りに運び集められた略奪品の運搬で、滝沢街道は駄馬の往復で殷賑をきわめたという。
城兵は猪苗代、城外兵は塩川、動けない負傷者は青木村・御山村、婦庶子は喜多方方面へ立ち退くよう指示。
天神橋御門の先の延寿寺下の濠端、芝原には城から担ぎ出された病人・負傷者が看護されることなく、何百人も横たわっており目もあてられぬ光景だった。
長賊らが陣屋としていた接収していた商家の邸宅などから引き払う際は、持ち主とは無関係な者に強要して売りつけて
いった。
征韓論破裂後、世の中は不穏な空気が漂っていた。
明治7(1874)年2月4日に佐賀の乱が起こった。
長賊らは旧会津藩士の恨みの復讐を恐れ、象徴である鶴ヶ城の消滅を急いだ。
国立公文書館にある文書には 「城郭保存は危険である」 とある。
戊辰戦争の時、城下は薩長らによる「分捕」と称した激しい「掠奪」が盛んに行なわれた。
土中に埋めた家財道具までも掘らせ、馬背にして若松町内に持ち込み競売する者、戦火を避け一時避難した町人の空家に無断で入り込み商売していたことも紛れもない事実である。
城下の寺の多くは焼き討ちにあい、宝物や什器類は勝手に持ち去られるという有様であった。
錦旗をなびかせ、「官軍」と称して進入してきた薩・長・土藩を主力とする西軍は、さすがに「菊の御紋」を掲げる勅願所である融通寺だけは焼き討ちする訳にはいかなかった。
しかし、寺の家財道具や多くの書類などを門前で焼却し、その火は三日三晩にわたって燃えつづけたという。
戊辰戦争の時の住職・寂禅という人は、武家の出だったらしく、国難に当たって じっとしておられず、自ら還俗して会津藩に従軍していた。
従軍したまま行方不明になっていた寂禅の身を案じて、その弟子であった蒲生岳順が融通寺を訪ねた。 岳順は、融通寺に屯営していた長賊らに捕らえられ、西軍戦死者のための回向を命じられ、せねば処刑すると脅迫された。
この様な無理強い・強要された回向では、極楽浄土へは望めるはずもなかろう。
融通寺には、この頃、西軍各藩の連絡をとるための会議所が置かれていたので、西軍兵士らの遺体の多くはここに埋葬されたのであった。
抵抗する会津兵のみならず、町人百姓、老若男女の別なく、町にいた者は、薩長土肥の雑兵、特に土佐兵を先頭に、見境なく切られ、撃ち殺された。
腹を裂かれた若き娘、見ることさえ恐怖に陥るほどの残酷な姿にされた遺体、ドブの中に顔を突っ込んだまま、翌春の雪解けまで手を付けることすら、極悪非道の長賊らは禁止した。
地元紙の記者だった磯部定治氏の「魚沼の明治維新(恒文社)」を読んでいたら、戦死した町野久吉の体を たくさんの人々が食った、という記述があって驚愕した。
その根拠となった「小出町歴史資料集 第六集・明治維新編(昭和六十三年、小出町教育委員会)」を開くと、群馬県側の古老の談話として、そういうことが記録されていた。
「首より下の胴・四肢は官兵及び村びとが肉をそぎ取って食べたという。
その理由は全く英雄崇拝の迷信からで、斯くの如き勇者の肉を喰う時は、角力が強くなり、腕力が増し、健康な子孫が生まれるということからで……」
この時、肉を食べた一人に、永井村(現在の群馬県新治村)の猟師がいた。
彼が昭和三年四月に死去する直前、病床で「久吉が来る、おそろしい」と絶叫したという話に続いて、引用部分が記載されている。 猟師は、久吉を銃撃した一人でもあった。 〜 〜 〜
さて、町野久吉の首は晒された末に、永井村の駒利山に葬られた。
それが、昭和五年三月二十七日付の「越佐新報」に、葬地が発見され、分骨して会津若松の祖先の墓所に埋葬することになった、という記事が載っている。 〜 〜 〜
今、昭和三十五年に建立された久吉の墓碑があるが、道路工事のために、本来の場所からは少し移されているという。
ところで、「蒲生家伝来の大身槍」は久吉の死後、北陸道征討軍を指揮していた山県有朋の手に渡ったと言われている。 三十年ほど後になって、家宝の槍を町野家に返却してはどうか、と仲介する人があった。 これに対して、元気だった町野主水は、こう答えた。
「戦場で失った物を、武士たる者が畳の上でもらうわけにはいかぬ」
相手は絶句したに違いない。
新政府軍は会津若松を占領すると同時に命令を出して、〈戦死者一切ニ対シテ決シテ何等ノ処置ヲモ為ス可カラズ、若シ之レヲ敢テ為ス者アレバ厳罰ス〉(町野主水「明治戊辰戦役殉難之霊奉祀ノ由来」)と通達して、死体処理に関する方針の一端を明かにした。
そしてまず、融通寺の傍の一劃に「官軍墓地」を造り、新政府軍各藩それぞれに自藩戦死者を埋葬させ、立派な墓標を建てて鄭重に弔った。
しかし、会津藩戦死者にたいしては、さしあたって何らの処置をも取らなかった。
それに、会津藩士はすべて猪苗代と塩川の二ヵ所に監禁謹慎の身であったし、その家族は四散し、町民たちは当然、占領軍の命令に反抗してまでそれらの遺体を処理する力を持ってはいなかった。 そのため会津藩戦死者は誰もこれを埋葬する者がなく、死屍はみな狐狸鳶鳥のついばむところとなり、あるいはいたずらに腐爛に任せるしかなかった。
それが謹慎中の藩士たちのいちばん気がかりになっていたところである。 したがって、町野たちが新政府軍の手伝いをするようになったとき、何よりも先に新政府軍との交渉に取り上げたのは、会津藩戦死者の死体処理問題であった。
早川喜代次氏著「史実会津白虎隊 (昭51・8・新人物往来社)」所収の、町野源之助(主水)が大正二年に「若松新聞」に寄稿した回顧談によると、はじめ樋口源助と宮原捨六が融通寺の軍務局に行き、〈山本総督〉に会って話したが、〈山本なる者は博徒上りとかの人物で〉、〈今江戸へ伺い中だからとの一点張り〉で、どうしても埒が明かない。
翌日は この二人に大庭恭平も加わって、三人で出向いたが、やはりだめ。 さらに次の日、町野は高津仲三郎と二人で〈山本総督〉の止宿先である栄町の栄屋という薬種屋に早朝から押し掛けたが、山本は馬上から見くだして、「融通寺に廻れ」 と言って出て行った。 こんな無礼にもじっと我慢して融通寺に行くと白洲で待たされ、しかも長時間待たせたあげくに出て来た山本は「江戸へ伺い中だからだめだ」と言うと、そのまま引っ込んでしまった。
この〈山本総督〉というのは、あるいは奥羽鎮撫総督府の参謀添役で監軍を兼務していた山本登雲介かもしれない。 山本は長州藩士で、沢為量副総督に従って秋田藩に赴き、これを督励して庄内藩攻撃にあたった。 もしこれが山本登雲介なら、この長州藩士の思い上がりは、福島で仙台藩士に暗殺された、同じ長州藩士の世良修蔵を思わせるものがある。
「官命いまだ許諾なければ、手をくだすべからず」というのが、決まり文句の返事だった。
その返事の裏には、〈朝敵〉なるがゆえに禽獣以下の取扱いしか受ける資格がない、という、官軍の理窟が ちらついていた。
会津藩側はついには軍務局の軍監と刺しちがえて死のうとまで決意した。 〜 〜 〜
そこで軍務局は、埋葬場所を城西薬師堂川原と小田山麓の二ヵ所に指定してきた。
これは会津藩の〈罪人塚〉であった。
これは当然、会津藩士たちの承服できる提案ではなかった。 たとえ敗軍の将兵とはいえ、国難に殉じた戦友たちを、どうして罪人塚に埋めることができようか。 会津藩側から、埋葬の場所はぜひ寺院にしてほしい、という嘆願が出たのは自然の成行きだった。
話は また こじれた。 しかも軍務局側は、戸ノロ原にあった戦死体三十三体を、刑死体処理人を使って小田山麓の罪人塚まで運ばせた。
しかし会津藩側は強硬に談判を続け、阿弥陀寺と長命寺に埋葬することを提議して、それがようやく認められたのが明治二年二月二十四日であった。 このときも最終的には、岡山藩の三宮耕庵の取りはからいによって結論が出された、といわれる。 〜 〜 〜
陽暦に換算すると、四月五日にあたる。 会津の春は遅いといっても、雪融けはもう終りに近く、消え残りの雪が畦の片隅や日陰の沢地に色あせて小さな堆積をつくっているにすぎない。
もっとも、小川の水はまだ指を切るような冷たさで、川底から噴き上げるように奔溢し、大地もまだしっとりと湿った黒土をあらわにして、会津盆地一帯に拡がっていた。
長州の吉田松陰、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、山縣有朋、伊藤博文、井上馨、結論だけを述べれば、彼らは現代風にいえば暗殺者集団、つまりテロリストたちでした。
テロを行ったテロリストには、薩摩藩士や土佐藩士、土佐の郷士崩れなども含まれますが、圧倒的中心が長州のテロリストでした。
仲間内でハクをつけるための無差別殺人というのは、まるでヤクザの世界の話のようですが、長州テロリストが行った多くの暗殺は、その残虐さにおいて後世のヤクザの比ではありません。
ハクをつけるためという許し難い暗殺には、実は伊藤俊輔(博文)も手を染めているのです。
もはや これまでの京都所司代だけでは手のつけようがない京都の治安。
そこで新しく設けられた京都守護職を押し付けられた会津藩は、こういう時期に京に入ったのです。 テロリストの多くは、会津藩の「会津」を正しく「あいづ」と読めなかったといいます。
天下の親藩の名さえ読めず、それがどこにあるかも分からない者が多くいたのです。
酷な表現をしますが、彼らは、そういう知的レベルの集団でした。
つまり、実態は「ならず者」集団に近かったのです。 そして、山縣有朋が会津戦争に向けて率いた長州第一軍の主力が、奇兵隊でした。 後の会津戦争において、会津城下で繰り広げられた戦争犯罪ともいうべき蛮行は あまりにも有名ですが、それが奇兵隊であったとすれば、さもありなんという感がするのです。 [出典]
見過ごしてはいけないことは、長賊らがイギリス東インド会社の侵略の実行部隊とも言える「死の商人」ジャーディン・マセソン社の日本代理店/グラバー商会と手を結んで (イギリスの手下?)、下関が武器密輸入の一大基地と化していたのに、「尊皇攘夷!」、「王政復古!」と喚いて、社会を騒乱状態に陥れるテロを繰り返したことである。
外国人を撃ち払って国内に入れない「攘夷」を喚きながらイギリスと手を結ぶ、この一点だけですら どのように解釈しても、おかしな話ではないか。
暗殺に美しいも汚いもないが、長賊らテロリストの殺し方は、あまりにも残酷であった。
首を切り、今日の町なかや橋の欄干ら晒す、首、手足をバラバラにして、それぞれバラバラに公卿の屋敷などに投げ入れるといった具合で、徳川慶喜の宿所に投げ込まれたこともあった。
猿の文吉などは、肛門から竹を刺し込まれ、そのまま脳天まで貫かれて絶命した。
彼らは、己の政治目的を達成するためにこういう残虐行為を繰り返したのである。
これをテロと言わずして何をテロと言えばいいのか。
さらに、クーデターにより政権奪取をしたにもかかわらず、一貫して「恭順」の姿勢を示し続けていた会津を何が何でも攻撃しなければ気が済まぬという戊辰東北戦争、中でも会津戦争には、何の大義も名分もなく、この戦は戊辰戦争と切り離して考えるべきであり、京で散々テロリズムを妨害された長州の会津に対する私怨を晴らす戦以外の何物でもなかったのである。
長州兵が、会津城下で この先も歴史から消し去ることが到底不可能なほどの人道に反する残虐行為を繰り広げた。
その実態は「賊」ではなかったか、即ち、「官賊」と呼ぶべきものではなかったか。
これまでの、いわゆる官軍教育を真っ向から否定し、史実によって教科書を書きかえるべきではないか。 [出典]
「王政復古の大号令」が完璧に失敗し、偽勅による幕府転覆の策謀も未遂に終わり、打つ手を失った長賊らは本性を現し、最後の手段として京都・江戸で挑発を開始し、強引に戊辰の役を引き起こす。 挑発といえば聞こえはいいが、放火、略奪、強姦、強殺である。
この江戸市中での騒乱を引き金に、一気に戊辰の役へと突っ走り、後に「明治維新」と詐称したクーデターで政権奪取を断行した。
残虐極まりないテロ行為と年貢半減という虚言などで民衆を惑わし、クーデターを成功させた一番の功労者?/赤報隊ですら、己の悪事を隠匿すべく、役目を終えると「偽官軍」として抹殺した。 長賊らに利用され、使い捨てにされたのだ。 [出典]
「廃仏毀釈」とは、長賊らの政権が打ち出した思想政策によって捲き起こされた仏教施設や僧侶・仏教徒に対する無差別、無分別な攻撃、破壊活動のことを指す。
これによって、日本全国で奈良朝以来の夥しい数の貴重な仏像、仏具、寺院が破壊され、僧侶は激しい弾圧を受け、還俗を強制されたりした。 仏教徒の虐殺も発生している。
ひと言でいえば、長賊ら新勢力による、千年以上の永きに亘って創り上げられた我が国固有の伝統文化の破壊活動である。
現代のイスラム原理主義勢力、タリバーンや「イスラム國」(IS) を思えば分かり易いであろう。
明治新政権の下で繰り広げられた蛮行は、それと全く同様なものであった。
「廃仏毀釈」に目をつむる歴史教育とは、長賊らに媚びへつらい、且つ、究めて悪質な怠慢を意図して行っているといえるだろう。 [出典]
★ 明治という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト
改訂増補版[原田伊織/毎日ワンズ]
いまも続く長州薩摩社会 「維新」「天誅」をとなえた狂気の水戸学が生んだ「官軍」という名のテロリストたち 御所を砲撃し、天皇拉致まで企てた吉田松陰一派の長州テロリスト 偽りに満ちた「近代日本」誕生の歴史 |
★ 昭和という過ち この世を滅ぼした二つの維新 [原田伊織/毎日ワンズ]
あの戦争を煽った、真の戦犯は誰か!? 明治維新が生んだ昭和維新という狂気 いまなおこの国を蝕む偽りの歴史から目を背けるな! 日本を軍国ファシズムへと導いた昭和維新は、歴史を歪めた長州人によるテロリズム至上主義から始まっている。 |
★ 会津人の書く戊辰戦争 [宮崎一三八/恒文社]
抵抗する会津兵はもとより、武士、町人百姓、老若男女の別なく、町の中にいた者は見境なく斬られ、撃ち殺され、あるいは砲弾の破片に当たって死んだ。 〜 〜 赤児を背負った女が路上に倒れ、赤児は声をからして泣き叫んだが、母は動かなかった。 群衆は銃弾に追われるように逃げ、悲鳴をあげて走り続けた。 〜 〜 至る処で阿鼻叫喚、修羅場は忽ち この世の地獄となった。 <長賊らは>血を見ると、怪鬼のように快感を覚えて、人影を見れば、撃ちまくった。 〜 〜 〜 こと切れた遺体は、秋の悲願すぎから翌春の雪どけまで、ドブの中に顔を突っ込んだままになっていた 〜 〜 〜 “会津憎し”と殺戮の好奇心のための行為だったとしか思えない |
孝明天皇が崩御された時から、宮中や関係者の中では毒殺なのでは、睦仁親王も毒殺され別人にすり替えられたのでは、と語られていたが、長賊らの必死な恫喝により噂することさえ憚れるようになった。
★ 公家/中山忠能の日記 全4冊 [日本史籍協会叢書]
「天皇の病状を見ると、確かに不審な点がある。 12日ごろ発熱し、16日に痘瘡と診断されたが、容態は快方に向かっていた」 ★ 天皇の公式発表資料「御容態書/典薬寮医師」 「順調に回復に向かっており、1月30日のご容態は益ご機嫌が良くなられたと 報告されている」 と記載されているのに崩御された。 最後の経過が「一転急変し苦悶の果てに崩御」はヒ素中毒と同じであった。 |
昭和15(1940)年、京都で産婦人科医を営む医史学者/佐伯理一郎氏は、日本医史学会関西支部大会の席上で、
「孝明天皇が痘瘡に罹患した機会を捉え、岩倉具視が その妹の女官/堀河紀子に指示し天皇に毒を盛った」との論説を発表した。
天然痘がほぼ治癒した状態で、異常な症状による急変は、単なる天然痘として説明することが出来ないと主張。
発表すると、長賊から連日、執拗な脅迫、罵詈雑言が続き、憲兵までが不敬罪だと恐喝する始末で、医師としての生業の危機に陥れられ、止む無く論戦から退いた。
ウィキペディア(孝明天皇)の注釈には、辛うじて下記の記載がある。
「7.^ 伊良子光孝が医学史雑誌『医譚』の第47・48号(1976年)に天脈拝診日記を再発表した際に記述したところによると、拝診日記の最初の発表以降、孝明天皇毒殺の証拠を探ろうとして光孝のもとへ歴史研究者や作家の類がかなり押しかけてきたという。これに閉口したのか、光孝は天皇の死因について「真実は医師である自分にも判らない」として私見の開陳を避け、「討幕派が天皇毒殺をするなど考えられず、また考えたくもない」といった旨のことも述べている。」 |
長賊らにとって、政権を奪取する上で もっとも邪魔になったのが孝明天皇の存在である。 孝明天皇は、もともと“夷人嫌い”で知られる。
同時に頑固なまでの大政委任論者であり、何よりも「復古」が嫌いであった。
「復古」を喚く勢力が大嫌いであったともいえる。 このような事実から、孝明天皇の暗殺説が生まれ、これを記述する書籍が数多く世に出ている。。 [出典]
太平戦争で敗戦となると、抑圧されていた言論が解き放たれた。
初めて学問的に死因を論じた禰津正志 (ねずまさし) は、侍医/伊良子光順の日記や、「御容態書」などを足掛かりに徹底的に調査した結果、ヒ素による毒殺とし、犯人は首謀者/岩倉具視・実行犯/堀河(川)紀子であるとした。
★ 天皇 誰が日本民族の主人であるか [蜷川新/光文社] 「岩倉具視が、一八六六年(慶応二年)一二月に、孝明天皇を暗殺した」 ★ 歴史学研究 第173号 [歴史学研究会/績文堂出版] 「孝明天皇は病死か毒殺か 死因を毒殺だと主張」 ★ 人物日本の歴史 10 [禰津正志/読売新聞社] 「典医日記が語る疑問」 ★ 天皇家の歴史 下 [ねずまさし/三一書房] 「孝明天皇の暗殺」 「岩倉具視が女官に出ている姪をして、天皇に一服毒を盛らした (京都/霊鑑寺の尼僧の証言/佐伯理一郎の談話)」 |
昭和50(1975)年、孝明天皇の侍医/伊良子光順の曾孫である医師/伊良子光孝氏が、光順が毒殺だと疑っていると記述した日記類を公開。
「御所御疱瘡ノ節并ニ御凶事勤仕日記 慶応二寅年−卯年中 光順」
天然痘がほぼ治癒した状態で、異常な症状による急変は、単なる天然痘として説明することが出来ないと主張。
★ 医譚 47号 天脈拝診--孝明天皇拝診日記 1 [伊良子光孝] 「孝明天皇の死因を急性毒物中毒によるものと推定」 ★ 医譚 48号 天脈拝診--孝明天皇拝診日記 2 [伊良子光孝] ★ 実録・天皇記 [大宅壯一/角川書店] 「天皇暗殺説」 ★ 週刊新潮 1975.4.17 [新潮社] 「孝明天皇毒殺の犯人は岩倉具視 説」 ★ 滋賀県医師会報 334 天脈拝見 [伊良子光孝] ★ 人物探訪 日本の歴史20 日本史の謎 [明田鉄男/暁教育図書] 「孝明天皇怪死事件」 ★ 幕末非運の人びと 反維新に殉じた孝明天皇 [石井孝/有隣堂] ★ 歴史学研究月報 1990.8 [石井孝/歴史学研究会] 「原口清氏の孝明天皇病死説に反駁する」 ★ 日本近代史の虚像と実像 1 [藤原彰/大月書店] ★ 孝明天皇の攘夷 [鍋谷博/近代文芸社] 典薬寮医師の子孫/伊良子光孝を引用し「孝明天皇は毒殺された」と断定 ★ 近代史を視る眼 孝明天皇病死説批判 [石井孝/吉川弘文館] ★ 歴史と旅 臨時増刊 352 [宮路佐一郎/歴史と旅] 「孝明天皇毒殺説の謎」 ★ 裏切られた三人の天皇 明治維新の謎 [鹿島f/新國民社] ★ 週刊文春 38 (34) [猪瀬直樹/文芸春秋] 「維新前夜の伝染病と孝明天皇 毒殺説」 ★ 歴史読本 孝明天皇毒殺疑惑 [麻倉一矢/新人物往来社] ★ 諸君 1999.2 [中村彰彦/文芸春秋] 「歴史常識のウソ20 孝明天皇、砒素で毒殺。公武合体吹っとぶ」 ★ 歴史読本 岩倉具視 孝明天皇暗殺疑惑の真相とは何か[麻倉一矢/新人物往来社] ★ オール読物 2008.6 [中村彰彦/文藝春秋] 「孝明天皇暗殺説を考える」 ★ 幕末維新史の定説を斬る [中村彰彦/講談社] 「巷間言われている孝明天皇病死説には、論理の飛躍や不備が存在する」 ★ 月刊WiLL (ウィル) 2021年5月号 [中村彰彦/ワック] 「歴史の足音 孝明天皇毒殺説を支持する新研究の登場」 ★ 《Wikipedia》 |
昭和4(1929)年、宮内大臣にも居座った田中光顕が、
「今では知っているものが私だけだから」
と語った内容は、皆が噂していた内容の通りだった。
「睦仁親王を毒殺し、別人を明治天皇にすり替えた」
明治天皇の幼馴染みである西園寺公望も、竹馬の友を装って沈黙を貫き通し、公望の実兄で内大臣・侍従長の徳大寺実則など主要な閣僚も知っていたとのこと。
明治6(1873)年に撮影された名刺判写真 (縦10.0cm×横6.3cm) の小さな写真が残っているだけで、四隅に唐草を描いた台紙などは粗末なものとのこと。
写真が嫌いだからとの理由で、以降15年間も写真は撮られていない。
そのようなことが、ありえるだろうか。
写真を公にできず困った長賊らは、またもや欺瞞の一策を講じた。
わざわざイタリア人の版画家・彫刻家/エドアルド・キヨッソーネに頼み込んで、意に沿った肖像画を描いてもらい、それを撮影した写真を公表し、一般に知られている肖像写真となった。
大酒飲みで、日本酒の他にワインを好み、しょっちゅう宴を催しては明け方まで飲んでいたという。
上半身が清浄で下半身が不浄との「穢れ思想」から、上半身と下半身を担う別の女官が別の湯で洗うことになっていたが、面倒くさいと風呂嫌いであったことから、女官たちも高貴な育ち方をしていないと疑っていたという。
明治天皇の即位前と即後とでは、同一人物でないことは、だれの目にも明らか。
◇ 即位前は、とても小柄で細身の身体で弱虚体質。
即位後は、体重80〜90キロを超える大柄な体格。
◇ 乗馬をした記録がないのに、乗馬を好んでいる。
◇ 上手であった字が、まったく異なった字形に変わっている。
◇ 利き手が右手から、左手に変わっている。
◇ 天然痘に感染していないのに、口の周りに誰の目にも明らかな痘痕跡がある。
(疱瘡に罹っていたが、即位後には痕跡がないとの逆説も)
他説もあるが、長賊/伊藤博文が率いていた一介の隊士/大室寅之祐が知られる。
後にすり替え疑惑が発覚するや、南北朝時代の後醍醐天皇の末裔などと欺瞞する始末。 日本の歴史上あり得ない偽勅や偽の錦の御旗を平気でやる極悪人どもであるから“さもありなん”である。
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戊辰戦争150年を前に 〜 〜 当時の庶民たちはどう捉えていたのか。 幕末期のメディアである錦絵などを用いて検証し、明治維新の実像を読み解いていく。