会  津  の  著  名  人

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《 ま 》 幕 末 よ り 前

 牧原 半陶  まきはら はんどう、天明6(1786)年1月〜天保13(1842)年 (57歳)
 名:直亮。 通称:只次郎。 字:景武。 別号:己千堂。
 山神流兵学師範である藩士/牧原只七直永の次男。  <儒学者>
 文化5(1808)年、昌平坂学問所 (昌平黌) の教授/古賀精里に聴講入門し、朱子学を修める。
 文化7(1810)年、昌平坂学問所 (昌平黌) の教授/林述斎に聴講入門。
 文政3(1820)年、藩校/日新館の儒者見習に就く。
 後に、松平容衆公の侍講を勤め、赤羽松陽 (赤羽四郎の父) など藩士の子弟を数多く育てる。
 著書「性情心意説」。
 学才に優れ、特に詩文に非凡の才があり、27歳の時に七言絶句を一夜で100首を詠じた逸話を残している。
 政長  まさなが、慶長4(1599)年〜正保5(1648)年   <刀工>
 姓:三好。 通称:三好利右衛門。
 寛永4(1627)年、父/長国と共に加藤嘉明公に従い、会津入り。
 寛永20(1643)年、加藤明成公が御家騒動の不手際のため吉永藩へ蟄居移封に従い移住の際、新領主/保科正之公に救われ、会津への定住を決意。
 嫡男/長道が卓越した刀工に育ち、後に仕官する際に三善長道と名乗って、兼定とともに会津の2大刀匠と称される家格に至る。
 墓は法華寺

 会津松平家/藩主については、こちら

 松平 容章  まつだいら かたあき、
 享保12(1727)年〜天明6(1786)年10月24日 (享年59歳)
 幼名:隆七。  <会津松平家唯一の分家当主>
 4代藩主/容貞公の弟、6代藩主/容住公の祖父。
 3代藩主/正容公と側室/於佐久との末子(9男)として鶴ヶ城で誕生。
 延享 2(1745)年、将軍/吉宗に謁見し、元服。
 寛延元(1748)年、分家が許され、1万石の当主となる (20歳)。
 寛延 3(1750)年、7歳で容頌公が藩主を継いだ際、幼い藩主の代理として将軍に謁見。 この後から明和2(1765)年までの15年間に亘り容頌公の輔弼役を務め、実質的な藩主として藩政を執る。
 同年4月6日、側室/嘉代が長男/専之助 (容詮) を出産。
 宝暦 5(1755)年 2月27日、側室/嘉代が長女/当姫 (常姫、春洞院、上野吉井藩主/松平信明・伊予大洲藩主/加藤泰侯へ嫁ぐ) を出産。
容章  宝暦 9(1759)年12月11日、側室/嘉代が次女/留姫(蓮受院、大村藩主/大村純鎮へ嫁ぐ)を出産。
 墓は三田/実相寺
 「愿彰院殿[シ+大+ム]譽覺仁譲容章大居士」
実相寺 実相寺

 文化2(1805)年、孫/容住公が6代藩主となる。
 容頌公に嫡男が無く、容章の長男/容詮が容頌公の養子となり嫡子となるも藩主就任前に死去、さらに容詮の長男/容住公を嫡子とした。
 松本 寒緑  まつもと かんろく、
 寛政元(1789)年〜天保9(1838)年閏4月4日 (50歳)
 名:重信。 通称:来蔵。 字:実甫。  <儒学者>
 学校奉行添役の藩士/松本一之丞重堅と母/木本氏の3男として誕生。
 幼くして学才に優れ、さらに武道も好み、特に槍術の達人であった。
 藩命により、昌平坂学問所 (昌平黌) の教授/古賀精里に聴講入門し、朱子学を修める。
 その後、江戸藩邸の儒者見習勤を経て、副教に就任。
 清廉にして気が強い性格から、君主に学問を論ずる時も、遠慮することなくなく直諫するため、まわりはハラハラしていたという。
 幕府代官/羽倉外記 (簡堂) による伊豆七島の海防調査に随行して巡視中、御蔵島に着く直前に暴風のため船が難破して水死。
 海に投げ出されても、しばし文天祥の正気歌を吟じていたという。

 頑固なまでの遇直さゆえ、数々の逸話が残っている。
 @ 食事中に、兄が病に臥したと実家からの使者に聞くや、口に含んだ食べ物を吐き出し、すぐさま出立して昼夜を問わず70里 (240km程) も走り続け、3日間で駆けつけた。
 A ヨーロッパ諸国が五大陸を支配している風刺画を目にすると激怒し、国境防衛の必要性を感じ、西洋の国情・動向を知る賢人を訪ね回り、北は蝦夷から南は薩摩まで歩き日本全土の形勢を調査した。
 B 生来、欲がなく、困窮者には分け隔てなく援助をし、粗末な家にボロボロの衣服で生活していた。
 そのような人格から、数多くの人々が慕い従っていた。
 安政元(1854)年、品川/吉端岡に「寒緑松本先生碑 (撰文/塩谷宕陰)」が建立された。
 現在は、品川神社の富士塚/七合目に移されている。
 松本氏  まつもとし、 蘆名四天宿老の1つ (富田氏・佐瀬氏・平田氏)。
 古くから会津に土着の豪族で、蘆名氏への反乱の歴史が多い。
 本拠は大沼郡屋敷邑/船岡館だが、允殿館に松本右馬允、中野館に松本対馬、綱取城に松本勘解由、関柴館に松本備中なども一族で支配。
 源頼朝から会津四郡が与えられた佐原義連公や子孫と度々争い、臣従後も しばしば一族の誰かが反乱を起こし続けた。
 延徳4(1492)年、松本藤右衛門が猪苗代伊賀と富田淡路らで反乱が起こし、蘆名盛高公を黒川館に退ける。
 明応3(1494)年、隣国/伊達家の内乱で伊達尚宗に味方した盛高公が3千騎を率いて出兵した機に乗じ反乱。
 明応4(1495)年、合戦。
 明応7(1498)年、合戦。
 明応9(1500)年、松本対馬の中野館が陥落し、対馬の弟/松本勘解由の綱取館も陥落し、蘆名氏に降伏。
 永正2(1505)年、盛高公と蘆名盛滋公の父子で争うが、家臣団の松本氏と佐瀬・富田氏との対立からであった。
 大永元(1521)年、盛滋公が死去し弟/蘆名盛舜公が領主を継いだ直後、松本大学・弟/藤左衛門が反乱し討ち取られるが、次いで反乱した猪苗代氏に松本新倉人・松本宇門が味方する、
 蘆名氏が会津統一を成し遂げ、松本氏が蘆名四天宿老となっても、一族の中から反乱が起きている。
 天正13(1585)年、関柴の地頭/松本備中守輔弘は伊達政宗公の誘いに内応して先導を務め討死するが、残りの一族は伊達氏に仕えた。
 天正17(1589)年、摺上原の戦いで蘆名盛氏公が会津から逃れると、松本氏一族の多くは政宗公に臣従したが、翌年の豊臣秀吉による奥羽仕置によって伊達氏に従ったため、会津での松本氏の歴史は終焉した。

《 ま 》 江  戸  幕  末

 馬島 瑞園  まじま ずいえん、文政8(1825)年〜大正9(1920)年1月5日 (96歳)
 号:杏雨。
 眼科医の藩医/馬島瑞延の次男として鶴ヶ城下にて誕生。
 父/瑞延から眼科を学び、杉原凱 (外之助) から内科を学分。
 藩校/日新館医学寮の教授も務め、松平容保の侍医も務める。
 戊辰の役では、籠城して容保や藩主/松平喜徳公の側に仕えながら、城中の負傷者治療に尽力。
 宇都宮戦で足を負傷した土方歳三清水屋旅館に搬送されるや、近くに居住する古川春英と共に藩命を受け、治療に努める。
 開城後は、因州邸、紀州邸で幽閉 (謹慎)。
碑/白虎隊殉難詩 馬島瑞園の墓  明治4(1871)年、大蔵省に入省。
 3年間 勤めて退官し、東京で古銭・書画などの鑑定・売買で生計を立てる。
 酒も煙草も嗜まず、長寿を生きる。
 著書「絵銭譜」など。
 墓は谷中霊園。 碑/白虎隊殉難詩は飯盛山
 間瀬 みつ  ませ みつ、天保4(1833)年〜大正10(1921)年 (89歳)
 藩士/間瀬新兵衛利貞と母 (黒河内図書の3女) との次女として鶴ヶ城下にて誕生。
 戊辰の役では、籠城戦を戦い抜く (36歳)。
 長兄/岩五郎は朱雀足軽隊/中隊頭として長命寺の戦い戦死し、弟/源七郎は白虎士中二番隊として飯盛山で自刃して果て、父/新兵衛も城内にて戦死し、末妹/ユウも被弾した傷がもとで後に死去した。
 開城後に、自刃した弟/源七郎の遺骸を飯盛山で捜し歩いたのは、みつ・のぶ・つやの三姉妹であった。
 斗南藩/三戸町へ移住。
 明治7(1874)年、会津へ戻る。
 著書「戊辰後雑記」は、籠城中の城内の様子から斗南藩で辛酸な生活、そして帰国までの間を女性の目から克明に記録した体験記で、貴重な資料でもある。
 大正10(1921)年、若松市材木町にて死去し、天寧寺に埋葬。
 「福寿院智室妙宏大姉」。
 町野 久吉  まちの ひさきち (「きゅうきち」とも)、
 嘉永5(1852)年〜慶応4(1868)年 (享年17歳)
 父/町野伊左衛門と母/おきとの4男として鶴ヶ城下にて誕生。
 藩士/町野主水の実弟。
 戊辰の役の時には17歳であったために白虎隊に入るべきところ、小出島(飛び領) の郡奉行兼幌役に任じられた兄/主水に随従し出陣した。
 身長6尺 (180cm) の体格で、槍術では兄をも凌ぐ使い手であり、武士が鉄砲を使うことなど潔しとせず、自らの槍に頼る若者であった。
の動向を探るため小出島から出陣し、三国峠で対峙する。
 敵陣に槍にて突撃を願い出るが兄/主水は許さず、逆に会津領との国境で迎撃と命じられる。
 慶応4(1868)年閏4月26日、敵陣に単身で突入を決行した。
 会津領である小出島まで撤退の命令を受け、「会津武士に“退く”という言葉は無い」との抗議だった。 実質的な自刃である。
 虚を突かれたは周章狼狽し、18人が槍で突き伏せられたと云う。 最後方の総隊長に至る直前、我に返ったの一斉射撃によって斃された。
 さらし首にされ、胴体と四肢の肉はそがれ、に食された。
 英雄の肉を食べると、その力を授かるという迷信からという。
 一斉射撃をした永井村の猟師/広吉は、その後も亡霊に怯え続け、臨終の際して「久吉が来る、恐ろしい、恐ろしい」と絶叫し苦悶の形相で絶命した。
 さらし首と遺骸は放置され、腐乱し死臭が漂う頃、見かねた村人らによって夜陰に紛れて密かに葬られた。
町野久吉の墓 町野久吉の首塚  墓は駒利山
   融通寺(首塚)。
 小出島に戦死者姓名碑

戦死者姓名碑

 後々に、久吉が愛用の槍を返還してもよいとの申し出に、兄/主水は「戦場で失ったものを畳の上で受け取ることは出来ぬ」と断った。

 町野主水については、こちら

 松坂 鯛二  まつざか たいじ、嘉永3(1850)年〜明治15(1882)年6月18日
 変名:日野重晴。  藩士/松坂三内の子。
 文久3(1863)年、父/三内が大和郡山にて天誅組の動向の偵察中、郡山藩軍奉行/薮内極人に天誅組の仲間と間違われ射殺される
 慶応2(1866)年11月27日、叔父/原掟之進・松坂源吉の助太刀を受け、薮内極人を斬殺し父の敵討ちを果す。
 戊辰の役では越後口で奮戦し、 鶴ヶ城下に侵入したため帰城、長命寺の戦いに参戦し負傷。
 祖父/松坂平左衛門も玄武士中一番隊として奮戦し戦死 (66歳)
 開城後は、斗南藩に移住するも辛酸を舐める生活を強いられる。
 名を日野重晴と改め、会津に帰る。
 明治 7(1874)年、台湾出兵に出征し戦功をあげる。
 明治 8(1875)年、その戦功により坂下警察署長に就任。
 明治10(1877)年、西南戦争に豊後口警視徴募隊一番小隊長として出征し、積年の恨みを晴らすべく奮戦し戦功をあげる。
 墓は井上浄光寺とのこと。

牧原奇平  牧原文吾  増子惣左衛門  真島儀右衛門  間瀬利直  松尾延蔵  町田兵太輔  町野おきと・おやよ・おなお・源太郎・ふさ子  松坂平左衛門

《 ま 》 幕 末 よ り 後

 町野 武馬  まちの たけま、
 明治8(1875)年11月16日〜昭和43(1968)年1月10日 (92歳)
町野武馬  <陸軍大佐、張作霖の顧問、政治家>
 藩士/町野主水の次男として若松 (会津若松市) にて誕生。 幼き頃に父/主水から、武士の心構えを厳しく教育されている。
 上京し山川浩の書生をしつつ成城学校で学び、陸軍士官学校に進む。
 明治31(1898)年、陸軍士官学校(10期)を卒業。
 明治32(1899)年、歩兵少尉として歩兵第一連隊付に就く。
 明治34(1901)年、清国駐屯歩兵第一大隊付に就き、歩兵中尉に昇進。
 明治37(1904)年、歩兵中尉として日露戦争に出征、歩兵大尉に昇進して歩兵第十五連隊中隊長に就任するも、第3回旅順総攻撃で胸と腕に負傷し戦線から離れ、北京駐屯歩兵隊副官に就任。
 明治39(1906)年、北京警務学堂総教習に就く。
 明治44(1911)年、辛亥革命では張作霖を支援。
 大隊長などを歴任。
 大正2(1913)年、歩兵少佐に昇進し歩兵第1連隊付を経て、歩兵第四十五連隊大隊長に就任。
 大正 3(1914)年、参謀本部付となり、張作霖の奉天督軍顧問に就く。
 大正 7(1918)年、陸軍中佐に昇進。
 大正11(1922)年、陸軍大佐に昇進。
 大正12(1923)年、予備役となる。
 大正13(1924)年、第15回衆議院議員総選挙 (福島2区) で当選。
 大正14(1925)年、張作霖から招聘され、再び軍事顧問に就任。
 昭和 3(1928)年、関東軍が満州国の建国に邪魔な張作霖を爆殺。
 同じ列車に同乗していた町野は、満州国の建国が対米戦争につながるとして一貫して大反対していたことから爆破計画を知らされず、たまたま爆破前に天津で下車したため難を逃れる。
 昭和 4(1929)年、辞任し、帰国。
 昭和28(1953)年、再興された大日本武徳会の初代会長に就任。
 松江 豊寿  まつえ とよじゅ、明治5(1872)年〜昭和31(1956)年
 藩士/松江久平と母/信子との長男として馬場上五之丁 (本籍:甲賀町百三番地汗之組3、会津若松市) の高厳寺の借家にて誕生。
 松江春次は実兄。
 明治22(1889)年、仙台陸軍地方幼年学校に入学 (16歳)。
 明治25(1892)年、陸軍士官学校に入学。
 明治27(1894)年、陸軍士官学校 (5期) を卒業し、陸軍歩兵少尉に就き (22歳)、日清戦争の開戦で出征。
 同期に、奥田重栄黒河内信次がいる。
 明治37(1904)年、韓国駐剳軍司令官/長谷川好道大将の副官に就任し、日露戦争の開戦で出征。
 明治40(1907)年、浜松歩兵第六十七連隊附少佐に昇進。
 明治41(1908)年、第六十七連隊の大隊長に就任。
 明治44(1911)年、第七師団副官に就任。
 大正3(1914)年、陸軍歩兵中佐に昇進し、徳島の歩兵第六十二連隊付に就く。 やがて第一次世界大戦が勃発し、青島の戦いでのドイツ軍俘虜の一部を収容する徳島俘虜収容所長に任命され、次いで捕虜を集結した板東俘虜収容所所長に任命される。
 武士道の人道意識は消えておらず、に故なき汚名を着せられた経験も加わって、 陸軍省上層部の意向に反しても「彼らは愛国者であって犯罪者ではない」との意思は変えなかった。
 最大限に自由な行動を許可し、近隣住民との交流さえ許している。
 誇り高きドイツ兵たちは処遇に感激し、持てる技術・知識を惜しみなく伝授した。
 養鶏・養豚などの牧畜、野菜の栽培などの農業、建築に関する設計・施行・配管の技術、楽器修理、金属加工など積極的に指導している。
 所内には図書館・印刷所・製パンや製菓など80種ほどの施設も設けられ、俘虜らによる新聞「ディ・バラッケ」も発刊された。
 近隣の町村では、バターまでが作られ、ドイツ菓子が販売されるほどだったという。
 身を案じてドイツから来日した捕虜の妻たちは、いつでも面会することが許されていたので、近くに移り住んだ。
 そして、最も感謝された松江に贈られたものは、俘虜たちによる日本で初めての「ベートーベン/第9交響曲」演奏であった。
 年末恒例となった同曲演奏の始まりである。
 大正11(1922)年、陸軍少将に昇格し後に退役するや、推挙されて第9代/若松市長に就任。
 長賊らに迎合し利権を貪ることに明け暮れる市議会と対立することが多く、1期のみで再任を受けることはなかった。
 昭和31(1956)年、東京都狛江市の自宅で死去。
 墓は大塚山墓地 (高厳寺)。
 松江 春次  まつえ はるじ、明治9(1876)年〜昭和29(1954)年11月29日 (78歳)
 藩士/松江久平と母/信子との次男として馬場上五之丁 (本籍:甲賀町百三番地汗之組3、会津若松市) の高厳寺の借家にて誕生。
 松江豊寿は実兄。
 明治28(1895)年、会津中学校(県立会津高等学校)を卒業(1回生)。
 在学中、特選生の野口英世と親交。
 明治29(1896)年、東京高等工業高校応用化学科(東京工業大学)入学。
 「砂糖学」に巡りあい、生涯の課題テーマとなる。
 明治32(1899)年、東京工業学校を首席で卒業し、大日本製糖 (大日本明治製糖) に入社。
 明治36(1903)年、農商務省の海外実業練習生試験に合格し、米国/ルイジアナ州立大学砂糖科に留学。
 在学中、全米各地の製糖企業を訪ね製糖技術、特に角砂糖を学ぶ。
 明治40(1907)年、同大学を卒業し帰国、大日本製糖/大阪工場の工場長に就任 (31歳)。
 驚異的な実績を上げ続け、在職中に日本初の角砂糖製造に成功。
 日本製糖汚職事件が発覚し、混乱の大日本製糖に嫌気がさし退社。
 台湾に渡り、斗六製糖、新高製糖などの経営参画を転々とする。
 サイパン島で国策により入植事業の失敗により1千人を超える日本人が飢えているのを目の当りにし、島の調査で製糖事業の成功を確信した後、飢餓救済のため企業を興すことを決意する。
 大正10(1921)年、政府と東洋拓殖の出資を受け、南洋興発株式会社を創業し、最高経営責任者/専務取締役に就任。
 大正12(1923)年、サイパンの製糖工場が落成し操業開始。
 大正13(1924)年、南洋興発の取締役社長に就任。
 昭和 5(1930)年、テニアンに東洋最大級の新式製糖工場が落成。
 昭和 9(1934)年、南洋群島の在往者によりサイパン島に、現職にもかかわらず異例の銅像が建立される。
 昭和10(1935)年、南興水産を設立し社長を兼務する。
 事業を軌道に乗せ、製糖業以外にも事業を拡大し、アギーガン・口夕島・ポナペ島・ペリリユ島・クサイ島など南洋全群島の産業開発に着手、5万人もの入植者を迎えて南洋群島で最大の企業へ興隆させ、「砂糖王 (シュガーキング)」として、今なお称賛され語り継がれている。
 自らの苦難の経験から「青年に投資する」が持論だった。
 昭和15(1940)年、健康上の理由で社長を退き、会長に就任。
 昭和18(1943)年、相談役に就き、経営から退く。
 昭和20(1945)年、 松江の功績は海外でも高く評価されており、サイパンを占領した連合国最高司令官マッカーサーは「マツイの銅像を決して壊すな」と厳命を下しており、銅像は現存しているとのこと。
 昭和29(1954)年、奇しくも南洋興発の創業記念日に脳溢血で死去。
 「顕光院殿春誉南洋興発大居士」
 墓は染井霊園とのこと。
 松本 信一  まつもと しんいち、
 明治17(1884)年11月7日〜昭和59(1984)年8月1日 (99歳)
 <医学者(皮膚科学者)、京都帝国大学名誉教授、大阪医科大学学長>
 若松市 (会津若松市) にて誕生。
 明治42(1909)年、京都帝国大学医科大学を卒業。
 大正 2(1913)年、京都帝国大学医科大学助教授に就任
 大正 6(1917)年、医学博士号を取得。
 大正 8(1919)年、京都帝国大学医学部教授に就任
 昭和13(1938)年、京都帝国大学医学部長に就任
 昭和19(1944)年、京都帝国大学を退官。
 昭和21(1946)年、京都帝国大学名誉教授 大阪医科大学学長に就任
 昭和24(1949)年、日本学士院会員に就任
 昭和30(1955)年、ドイツ第十字功労賞を受賞。
 昭和31(1956)年、日独文化研究所所長に就任
 昭和33(1958)年、第2回野口賞を受賞。
 昭和40(1965)年、第2回シャウヂン・ホフマン賞を受賞。
 昭和41(1966)年、文化功労者。
 著書「皮膚病学/前篇・後篇」「実験的黴毒の比較病理」など。
 丸山 二郎  まるやま じろう、  <歴史学者、千葉大学教授>
 明治32(1899)年12月15日〜昭和47(1972)年6月30日 (72歳)
 耶麻郡千里村 (猪苗代町) にて誕生。
 会津中学校 (県立会津高等学校) を卒業し、第三高等学校を経て、東京帝国大学文学部国史学科へ入学。
 大正13(1924)年、東京帝国大学を卒業し、同大学文学部副手に就く。
 大正15(1926)年、姫路高等学校教授に就任。
 昭和 4(1929)年、黒板勝美の要請を受け姫路高等学校教授を辞職し、「新訂増補国史大系」編纂の事務局長に就任。
 昭和11(1936)年、黒板勝美が病に倒れたため、同編纂の中核に就く。
 昭和18(1943)年、国史大系編纂に活用するため、文部省古典編修部の嘱託として「日本書紀」の校訂に就く。
 昭和21(1947)年、黒板勝美の死去で、国史大系編纂の代表に就任。
 昭和23(1948)年、日本学術会議会員に就任。
 昭和24(1949)年、千葉大学学芸学部講師に就任。
 昭和25(1950)年、千葉大学文理学部教授に就任。
 昭和26(1951)年、国史大系本「日本書紀」を刊行。
 昭和39(1964)年、国史大系の全巻を刊行、朝日文化賞を受賞。
 昭和40(1965)年、千葉大学教授を定年退職。
 著書「新訂増補国史大系」「今昔物語集」「日本書紀の研究」「日本の古典籍と古代史」「日本紀年論批判」など。
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