会  津  の  著  名  人

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《 う 》 幕 末 よ り 前

 上杉景勝公については、こちら

 梅津 安俊  うめつ やすとし、享保6(1721)年〜文化8(1811)年
 鉄右衛門と裳。
 藩士/沢井周安良孝の5男。 後に梅津六藏政俊の養子となる。
 井深勝阜 (九カ右衛門) に加須波留流/町見述を学び、師範となる。
 町見術とは、算術を使わず磁石やコンパスなどで、里程の遠近や、山谷の高低などを速やかに測る方法。 オランダ人/カスパルが日本に伝えたとされる。
 井深は猪苗代に居住のため、数年間、寒暑・風雪を問わず通学した。
 寛政5(1793)年 9月、「土地民間巨細録」を編集する。
 寛政9(1794)年正月、検地竿頭となる。
 享和2(1802)年 8月、特旨を以て二之寄合席、見地方頭取となる。
 文化8(1811)年 9月、死去。 「見矩院一覺宗無居士」。
 母の墓が建福寺にある。

 会津藩/梅津家は2系ある。
  ◇ 梅津官助官俊を初代とする梅津鉄右衛門俊勝の系統
    本姓:源
    本国:信州高遠
    定紋:劔梅鉢
    通字:「俊」
  ◇ 梅津兵助を初代とする梅津平右衛門貞亮の系統
    本姓:不詳
    本国:不詳
    定紋:右三ツ巴
    通字:3代目以前は不明、4代目以降は「貞」
 浦上 秋琴  うらがみ しゅうきん、天明5(1785)年〜明治4(1871)年
 名:遜、仲謙、浦上舎人宗敏とも称す。
 岡山藩/浦上玉堂の次男。
 寛政6(1794)年、父/玉堂・兄/春琴と共に岡山藩を出奔 (10歳)。
 京都で糸竹に優れた画家として名を馳せる。
 寛政8(1796)年、会津藩に召し抱えられる (12歳)。
 寛政9(1797)年、雅楽修業のため京都へ赴く (13歳)。
 修行に勉め、横笛と箏の皆伝となる。
 文化2(1805)年、会津へ帰る (21歳)。
 文化4(1807)年、日新館/雅楽方頭取となる (23歳)。
         文化8(1811)年とも。
 天保5(1834)年、慶徳稲荷神社の途絶えていた旋律を作る (50歳)。
 明治2(1869)年、戊辰の役の後に、故郷/岡山へ帰る (85歳)。
 明治4(1871)年、岡山で死去 (87歳)。
 墓は半田山墓地。 猪苗代町飯坂にもあったとのことだが不明。

《 う 》 江  戸  幕  末

 浮洲 七郎  うきす しちろう、
 天保10(1839)年〜慶応4(1868)年閏4月21日 (享年30歳)
 鶴ヶ城下にて誕生。 御代官/庄之助の弟。
 藩校/日新館で頭角を現し、昌平坂学問所(昌平黌)に遊学。
 慶応2(1866)年、藩命により上洛し梶原平馬の顧問として京都の動向調査に従事し、任務を終えると江戸に戻り復学する。
 鳥羽伏見の戦い勃発の報を受け、急きょ江戸大砲隊/軍事参謀兼隠密として上洛し防護策を立案するが、元将軍/慶喜の敵前逃亡で幕軍の士気は地に落ち、やむなく江戸に戻る。
 箱根の峻険での決戦を提言するが容れられず、江戸に残留・潜伏した後、日光で大鳥圭介率いる旧幕府軍の参謀に就く。
 会津軍と連携し、日光に篭るを攻撃したが、下野/今市にて胸部貫通の銃創を負い、山川大蔵に介錯を頼み自刃。
 埋葬は和尚塚、墓碑は大窪山墓地
 「我に益する三友あり 一は永岡久茂の智、二は米澤昌平の直 三は高木友之進の勇 是れなり 我 平生これを慕って及ばず
 内村 直義  うちむら なおよし、
 天保12(1841)年〜明治10(1877)年3月15日 (37歳)
 通称:砂次郎。
 藩士/蘆澤寛治の次男。 後に祐筆/内村三蔵の養嗣子となる。
 戊辰の役で、実父/蘆澤寛治が戦死している
内村直義の墓  開城後は、高田で幽閉(謹慎)を経て、上京し、東京府巡査/二等中警部に就く。
 明治10(1877)年、西南戦争に植木口警視隊一番小隊半隊長として出征し、田原坂で奮戦するも被弾して戦死。 「精忠院勇誉鉄心直義居士」。
 墓は谷中霊園 (熊本県/宇蘇浦官軍墓地に埋葬したが後に改葬合祀)。
 傍らに、戦友/騎西安遷・戸田重之たち80人が建立した恩師/南摩綱紀の撰文による碑「内村直義碑銘」がある。

 瓜生岩子については、こちら

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