会  津  の  著  名  人

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《 ふ 》 幕 末 よ り 前

 藤倉氏  ふじくらし、
 佐原盛連公の3男/三郎左衛門盛義が、河沼郡藤倉 (会津若松市河東町倉橋字藤倉) に城を築き、河沼郡半郡を領し、藤倉氏を称する。
 盛義の孫/盛弘が、河沼郡金上 (会津坂下町金上) に本拠を移して、金上氏を称する。
 盛弘は、盛義の次男/石見守時盛の長子 (8人兄弟)。
 さらに、津川城を築き、阿賀野川上流域を支配する。
 一族である子孫は、蘆名家を支える家臣団の重鎮として栄華を誇る。

 古川兼定(初代)については、こちら

 古屋 昔陽  ふるや せきよう、享保19(1734)年〜文化3(1806)年4月1日 (73歳)
 名:鬲 (かなえ)。 通称:重次郎。 字:公頴。 別号:紫陽。
 熊本の出身。  <古学者 (儒者)、詩人・書家>
 熊本の漢学者/秋山玉山に師事し、徂徠(そらい)学を修める。
 江戸に上り、私塾を開き (37歳)、名声を得る。
 藩士を藩校で教育し才能を見極めて要職に採用する学制刷新に成功した熊本藩教育制度を知った田中玄宰から招聘され、会津へ赴く。
 松平容頌公を含め藩の首脳陣は、藩祖/保科正之公以来の朱子学でないことから難色を示したが、家老職を賭した田中の熱意に折れ、容頌公の嗣子/松平容住公の侍講として了承される。
 熊本藩主が帰国し江戸不在となる時期に、会津入りして講義を続け、藩校/日新館の創立にも携わる。
 その後20年間ほど、徂徠派古学が藩学の重要な教学となり、学風に多大な影響を与えたことは間違いない。
 寛政10(1798)年、兄/愛日斎の儒官を継ぐため、熊本へ帰国。
 著書「詩説」「古今学変考」など。

 松平容衆公の代になると、藩祖/正之公の朱子学へ回帰すべきとの意見が藩内の主流を占めるようになる。
 文化7(1810)年、昔陽の徂徠派古学が正式に排除された。

《 ふ 》 江  戸  幕  末

 福田 為之進  ふくだ ためのしん、文化10(1813)年〜明治19(1886)年
 名:詮。 字:君平。
懐徳碑  号:平樵、淡々斎。
橋爪靖と併記の懐徳碑  福田辰五郎と母/吉田氏の倅。
 素読所預に就き南北両学館で教授に就く。
 開城後は斗南藩に移住するも、会津へ戻り精義塾を開き、生涯を子弟教育に尽力尽くす。
 詳細は不詳。
 墓は融通寺
 橋爪靖と併記の懐徳碑は飯盛山。
 藤沢 正啓  ふじざわ まさひろ、嘉永3(1850)年〜昭和9(1934)年3月19日 (83歳)
 通称:忠八郎。
 藩士/藤沢内蔵丞忠啓の長男。
 鳥羽伏見の戦い では、大砲隊白井隊として奮戦。
 江戸に戻ると幕府練兵場でフランス式陸軍の訓練を受け、日光口や白河の戦いなど を転戦。
 帰城すると長命寺の戦いに参戦し、高田や南会津など各地で奮戦。
 開城後は、高田/善行寺幽閉(謹慎)。
 後に、各地の警察署長や警視庁典獄などを歴任。
藤沢正啓の墓  明治36(1903)年、鍛冶橋監獄署の典獄 (刑務所長) 就任時、未決囚の拘禁には不十分とし、新たに未決監獄を築き移転して東京監獄 (市谷刑務所) と改めている。
 後に、松平家の家政顧問を勤める。
 著書「会津藩大砲隊戊辰戦記」「看守訓授筆記」など。
 墓は建福寺
 白虎士中二番隊で唯一の生き残った飯沼貞吉から、状況を聞き出した1人の藤沢啓次は実弟。

 古川兼定(11代)については、こちら

 古川 春英  ふるかわ しゅんえい、
 文政11(1828)年1月4日〜明治3(1870)年11月7日 (享年43歳)
古 川 春 英 先 生 の 碑
 文政十一年 (一八二八) 一月四日、駒板村の農家古川長蔵の末子として生まれる。幼名、留吉。幼い頃から俊逸で、日吉丸の異名があったという。生家は駒板村の法雲寺の西側にあった。十三歳で医師になることを決意、若松の山内春瀧の家弟となって医術を学んだが、ほどなく漢方医学の限界を感じ、会津を出奔して大坂の緒方洪庵塾に入門する。
 安政四年 (一八五七) 会津藩に蘭学所が開設されたのを聞いて会津に戻り、蘭学所の責任者である野村監物のとりなしによって帰藩を許され、蘭学所の教官となった。
 しかし、しばらくするうちに日々進歩する医学に遅れをとってしまっていることに気づき、再び大坂の緒方洪庵のもとで学び、さらに長崎に渡って蘭医ボードウィンに師事した。
 この長崎で松本良順と出会っている。
 慶応四年 (一八六八) 戊辰戦争が勃発し、戦地から後送されてくる戦傷者の手当てに窮した藩は、松本良順に応援を依頼する。良順は会津に赴き、治療を手がける傍ら「古川春英は どこにいるのか。会津藩には名医古川春英がいるではないか。早く彼を呼びなさい」と藩首脳部に訴え、藩は慌てて春英を探し出して召還させたという。
 会津戦争中、城内で神業的な外科手術や治療を行い多くの命を救ったが、このときの婦女子の協力を得た治療看護活動は、後世の看護制度の嚆矢ともいわれている。
 戦後、島村 (現・会津若松市河東町) の治療所所長を経て若松千石町の治療所に移り、患者の治療や子弟の教育に力を傾注したが、明治三年 (一八七〇) 流行したチフスの治療に当るうちに自らも感染、十一月七日邁進し続けた生涯を閉じた。享年四十三。
 最初 融通寺に葬られたが、のちに故郷の駒板 (河東町駒板) に改葬された。現在、駒板の墓地に家族と共に眠っている。
 二〇一三年のNHK大河ドラマ「八重の櫻」の中に医師としての古川春英の活躍ぶりが放映された。
古川春英の墓  河東町が生んだ偉人として後世に伝えるため この碑を建てる。
       二〇一三年五月  河東町史談会

 ▲(会津若松市河東町金田字駒板)
古川春英の墓
古川春英の墓の説明文
 古澤 幸三郎  ふるさわ こうさぶろう、天保3(1832)年〜大正3(1914)年 (83歳)
 名:友雄。
 藩士の子として鶴ヶ城下の上小田垣で誕生。
 後に、古澤籐八の養子となる。
 戊辰の役では、敢死隊/指図役として奮戦。
 開城後は、幽閉 (謹慎) を経て、斗南藩/安渡村に移住。
 翌明治4(1871)年、北海道に渡り、余市に入植
 柔術真砂流の免許を所有していたため、余市郡黒川村に設けられた講武所の師範として子弟を指導。
 「真砂流柔術ハ 〜 遠藤貞八郎二伝ワリテ天保ノハジメ會津城主松平忠恭君 該流ノ妙術ナルヲ悟得セラレ同藩士倉沢伝之進ヲ ソノ門二遣ワシ其奥義ヲ会得 〜
 余市郡副戸長や、川村村・浜中村・仁木村などの戸長を歴任。
 明治33(1900)年、歌集「貝ひろひ」を著す。
 晩年は、和歌を通して文化活動に大きな功績を残す。
 古田 伝之助  ふるた でんのすけ、文政11(1828)年〜慶応4(1868)年8月23日(41歳)
 本田新田村の農民/酒井家の子として誕生。
 後に、下荒井村の古田佐助の養子となる。
 戊辰の役では、募兵に応募し、敢死隊に入隊。
鶴ヶ城下に迫るや、主力部隊が藩境防備で不在の中、白虎隊など共に戸ノ口原に出陣し、奮戦するも笹山で戦死。
 墓は宝寿院

深谷作三郎  福原勝吾  藤森八太郎  船田[某]  舟橋久治  古川十兵衛  古川深次郎

《 ふ 》 幕 末 よ り 後

 藤井 重郎  ふじい じゅうろう、
 明治16(1883)年7月18日〜昭和12(1937)年8月21日 (満54歳)
 <陸軍少将、満州国陸軍中将>
 農家/塩谷家の6男として若松市(会津若松市)天寧寺町にて誕生。
 後に、藤井家の養子となる。
 会津中学校 (県立会津高等学校) から仙台陸軍幼年学校に進む。
 陸軍中央幼年学校本科を経て、陸軍士官学校を卒業 (16期)。
 明治37(1904)年、歩兵少尉として陸軍将校歩兵第三十二連隊附。
 明治37(1904)年、日露戦争に出征し、終戦まで転戦。
 帰国し、歩兵第六十五連隊大隊副官に就任。
 同連隊・歩兵第四連隊の中隊長、歩兵第六十一連隊大隊長を歴任。
 大正14(1925)年、歩兵第四十四連隊附の中佐に昇進。
 松本連隊区司令部員などを歴任。
 昭和 5(1930)年、大佐に昇進し、後に予備役編入。
 里見日本文化学研究所全国特派員、国体主義同盟理事長などを歴任。
 招聘され満州に渡り、靖安遊撃隊副司令に就任。
 昭和 7(1932)年、靖安軍司令官に就任。
 満州国の官吏養成機関/大同学院の学監などを歴任。
 昭和 8(1937)年、熱河支隊長として日中戦争に出征。
 昭和12(1937)年、敵情視察中に熱河省境黒達営子で狙撃され戦死。
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