会  津  の  著  名  人

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《 わ 》 江  戸  幕  末

若林源八珍彦  和田伝蔵  和田ミワ・ナカ・コマ  渡部久馬  渡部源次郎  渡部治左衛門  渡部四郎  渡部綱英・三男・後妻  渡部吉三郎  渡部巳之吉

《 わ 》 幕 末 よ り 後

 若嶌 久三郎  わかしま きゅうざぶろう、
 天保13(1842)年〜明治24(1891)年1月6日 (48歳)
 本名:小沢久三郎。 旧姓:根本久三郎。 四股名:若嶌 → 楯山。
 漆器塗師の次男として鶴ヶ城下にて誕生。
 体格に恵まれ (現役時代の体格:173cm、114kg)、家業の手伝いの傍ら宮相撲などで大活躍したため、勧められて力士を目指す。
 江戸に上り、5代/楯山 (元大槇) 部屋に入門。
 文久 2(1862)年、三月場所で初土俵 (序ノ口) を踏む。
 前年の十月場所とも。
 慶応 4(1868)年、戊辰の役で会津に戻り、力士隊として奮戦。
 明治 3(1870)年、十一月場所で十両入り (幕下十枚目)。
 明治 7(1874)年、三月場所で幕入り (数え33歳。
 押し相撲が得意だが、慎重すぎる取り口が禍して出世が遅れるも、入幕してからは本領を発揮し、好成績を挙げる。
 明治 9(1876)年、正月場所では東前頭三枚目として、8勝1分で最優秀の成績 (まだ幕内の優勝制度はない) を挙げる。
 明治10(1877)年、五月場所で小結、十二月場所で関脇に昇進。
 明治14(1882)年、正月場所で大関に昇進。
 関脇時代は、1度も幕内での負け越しが無かった。
 同年の夏の東北巡業中、横綱/境川浪右衛門が病気となり、代わって横綱土俵入りを行なった。 免許のない力士が横綱土俵入りをすることで、県令に許可を得るななど、当時としては事件であったという。
 明治15(1883)年、師匠の跡目を継ぎ「楯山久三郎」を名乗る。
 同年六月場所から二枚鑑札で活躍、大関を4年8場所を務める。
 明治17(1885)年、五月場所で引退し、年寄専務に就任。
   ◇ 幕内在位 21場所
   ◇ 幕内成績 104勝34敗15分4預53休
   ◇ 勝率   7割5分4厘
   ◇ 最優秀 (現在の優勝)
         2回 (明治9年正月場所、明治12年六月場所)

 若松賤子については、こちら

 和田 晋  わだ しん、明治31(1898)年〜昭和57(1982)年9月17日 (享年84歳)
 <剣道家/一刀流溝口派継承者、範士九段/全日本剣道連盟>
 藩士/和田又四郎の子とし若松市 (会津若松市) にて誕生。
 祖父/ 井深宅右衛門は、戊辰の役の故なき責で切腹直前の萱野権兵衛から、一刀流溝口派を伝授された。
 次いで、受け継いだ父/又四郎から伝授された。
 大正 7(1919)年、東京高等師範学校に入学し、剣道家/高野佐三郎に師事し中西派一刀流を学ぶ。
和田晋の胸像  東京高等師範学校を卒業し、石川県師範学校、金沢第四高校、府立第七中学校、攻玉社中学校、若松商業高校、会津短期大学で剣道を指導。
 昭和43(1968)年、他見他言の掟のため途絶えてしまうのを惜しんで、第14回全日本東西対抗剣道大会において初公開。
 その後、全会津剣道連盟会長、会津武徳殿師範、福島県剣道連盟副会長、全日本剣道連盟審議員などを歴任。
 胸像は善龍寺
 渡部 鼎  わたなべ かなえ、
 安政5(1858)年9月7日〜昭和7(1932)年7月18日 (享年75歳)
 <医師/会陽医院院長で陸軍軍医少佐、政治家衆議院議員>
 漢学者/渡部思斎の長男として河沼郡野沢 (西会津町) にて誕生。
 幼くして父/思斎の私塾/研幾堂で漢学を学ぶ。
 明治 5(1873年、上京して高島嘉右衛門の藍謝堂に入学し洋学を学んだ後に医学を志して、大学南校へ入学。
  明治 7(1874)年、大学南校を卒業し、東京医学校 (東京大学医学部) へ進学。
 明治10(1877)年、警察医や陸軍軍医の資格を取得、西南戦争に新撰旅団第四大隊附軍医試補として出征。
 明治18(1885)年、親友/石川暎作と共に「婦人束髪会」を創設し、医学的立場から女性の健康・地位向上のため理容の礎を築く。
 明治18(1885)年、渡米し、後にカリフォルニア大学医学部に入学。
 明治21(1888)年、ドクトル・オブ・メディシンの学位を取得後、海外で開業した日本人初の医師として、サンフランシスコにて開業。
 明治23(1890)年、父が死去の報を受け帰国・帰郷し、会陽医院 (渡部医院) を開業。
 明治25(1892)年、野口英世の不自由な左手を手術。
 翌年から英世は会陽医院に書生として住み込み、偉大な医学者への道を歩むことになる。
 明治27(1894)年、日清戦争に軍医として出征。
 明治35(1902)年、第7回衆議院議員総選挙 (若松区) で議員に就任。
 明治39(1903)年、上京し、日本初のラジウム治療病院を開設。
 明治37(1904)年、日露戦争に軍医として出征。
 軍医としては、大阪鎮台歩兵第八連隊副官、大阪私立医学校教頭、大阪医事研究会会長、東京憲兵第一大隊医官、軍医学会幹事などを歴任。
 大正 6(1917)年、胃病を患い帰郷し、再び医院を桂林寺町に開業。
 昭和 7(1932)年、東京で死去。
 墓は西会津町樋ノ口。
 渡部 恒三  わたなべ こうぞう、昭和7(1932)年5月24日〜
 福島県議/渡部又左衛門の3男として田島町 (南会津町) にて誕生。
 <衆議院副議長、厚生大臣、自治大臣、通産大臣、国家公安委員長>
 昭和26(1951)年、会津中学校 (県立会津高等学校) を卒業し、早稲田大学第一文学部に進む。
 昭和30(1955)年、早稲田大学第一文学部を卒業。
 昭和34(1959)年、福島県議会議員選挙 (自民党) 当選。
 昭和38(1963)年、福島県議会議員選挙 (自民党) 2期目当選。
 昭和44(1969)年、第32回衆議院議員総選挙(福島2区/無所属)当選。
 以降、第45回衆議院議員総選挙まで当選を重ね、14期務める。
 昭和58(1983)年、64代/厚生大臣に就任
。  昭和62(1987)年、自民党国会対策委員長に就任。
 平成元(1989)年、39代/自治大臣兼49代/国家公安委員長に就任。
 平成 3(1991)年、衆議院予算委員長を経て55代/通商産業大臣就任。
 平成 5(1993)年、自民党を離党し、新生党を結成。
 平成 6(1994)年、新生党を解散し、新進党を結成し幹事長代理就任。
 平成 7(1995)年、新進党政策審議会長・国会対策委員長に就任。
 平成 8(1996)年、党総務会長、副党首、60代/衆議院副議長に就任。
 平成 9(1997)年、新進党分党により無所属となる。
 平成12(2000)年、61代衆議院副議長として再び就任。
 平成18(2006)年、民主党国会対策委員長、党最高顧問就任。
 平成20(2008)年、再び民主党最高顧問に就任。
 平成23(2011)年、地下式原子力発電所政策推進議員連盟/顧問就任。
 平成24(2012)年、衆議院解散により不出馬で政界引退。
 渡部 潤一  わたなべ じゅんいち、昭和35(1960)年12月28日〜
 会津若松市にて誕生。  <太陽系天文学者>
 昭和54(1979)年、県立会津高等学校を卒業し、東京大学へ進む。
 「分からないことだらけの学問だから、その謎を解きたい」。
 昭和58(1983)年、東京大学理学部天文学科を卒業し、大学院へ進む。
 昭和62(1987)年、東京大学大学院理学系研究科天文学専門課程博士課程を中退し、東京大学東京天文台の助手となる。
 昭和63(1988)年、国立天文台光学赤外線天文学研究系助手に就き、東京大学理学博士号を取得。
 平成 3(1991)年、ハワイ大学天文学研究所の客員研究員に就く。
 平成 4(1992)年、総合研究大学院大学数物科学研究科助手を兼務。
 平成 6(1994)年、国立天文台広報普及室長に就任。
 平成10(1998)年、国立天文台天文情報公開センター助教授に就任。
 平成18(2006)年、国立天文台天文情報公開センター長に就任。
 国際天文学連合「惑星の定義委員会」委員に就き、冥王星を惑星から除外する決定に携わる。
 平成22(2010)年、国立天文台教授・総合研究大学院大学教授に就任。
 平成24(2012)年、国立天文台副台長に就任。
 著書「図説新・天体カタログ 銀河系内編」「巨大彗星が木星に激突するとき」「彗星の木星衝突を追って」「彗星、地球へ大接近!」「ヘール・ボップ彗星がやってくる」「しし座流星雨がやってくる」「星空を歩く:巨大望遠鏡が見た宇宙」「新しい太陽系:新書で入門」など多数。
 渡部 精司  わたなべ せいじ、 <農業指導者、ハッカ栽培の先駆者>
 文久2(1862)年7月24日〜大正15(1926)年6月26日 (65歳)
 薬種御用商人の子として鶴ヶ城下にて誕生。
 明治15(1882)年、開拓を志し北海道に渡る。
 明治18(1885)年頃から日高/門別や渡島/八雲、旭川/永山などで栽培が始まったハッカに着目し、サロマ湖近辺の試作は失敗が続く。
 明治26(1893)年、北見国湧別原野 (湧別町) でハッカが自生しているのを発見し、入植。
 明治27(1894)年、湧別西一線でハッカの栽培を開始。
 明治29(1896)年、苦難の末、畑地での栽培に成功し、後に北見地方が世界一のハッカ生産地となる基礎を築いた。

 昭和14(1939)年頃の北見地方は、作付面積2万ヘクタールにも及び、世界市場の70%を占めた。
 昭和61(1986)年、「北見ハッカ記念館」「薄荷蒸留館」が発足。
 藁谷 勇三郎  わらがや (わらや) ゆうさぶろう、
 明治10(1877)年4月24日〜没年不明  <陸軍大佐>
 藩士の3男として若松 (会津若松市) にて誕生。
 明治31(1898)年、陸軍士官学校 (第10期) を卒業。
 明治32(1899)年、歩兵少尉として歩兵第二十九連隊附となる。
 戸山学校教官、将校生徒試験常置委員、歩兵第十五連隊大隊長、歩兵第五十九連隊附、松本連隊区司令官などを歴任。
 明治37(1904)年、日露戦争に出征。
 大正 7(1918)年、日露戦争に出征。
 大正11(1922)年、予備役編入。
 その後、会津松平家の執事に就き、稚松会の設立発起に携わる。
 著作「新旧剣術教範之研究」「各種教練と体操」「遊泳教育」「剣術用具ノ手入保存法」など。
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