会  津  の  著  名  人

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《 つ 》 幕 末 よ り 前

 束原 龍渓  つかはら りゅうけい、文化5(1808)年〜明治13(1880)年2月22日
 名:博光。 通称:龍太郎。 号:篆斎とも。
 豪商/善太郎と母/“りん”との子として小中津川村 (野尻村とも、昭和村) にて誕生。
 書家/賢明に師事し書を学ぶ。
 後に能書家として一家を成し、門下生が数10人と云われる。
 数多くの名筆家を招き、この地の文化発展に寄与した。
 土屋 壺関  つちや こかん、生年不詳〜文政(1818〜1829))年間 (42歳)
 通称:七郎。 号:屋郎。
 壺下村 (猪苗代町壺楊字壺下) にて誕生。
 文人として、松平容敬公に仕える。
 後に江戸に上がり、歴史家・思想家で文人/頼山陽らと交わり、頼山陽の著書「日本外史」の編集に協力した。

《 つ 》 江  戸  幕  末

土屋敬治惟迪  角田五三郎

《 つ 》 幕 末 よ り 後

 角田 秀松  つのだ ひでまつ、嘉永3(1850)年2月12日〜(1905)年12月13日 (56歳)
 藩医/角田良智の次男。
 父/良智の赴任地の蝦夷に同行し、蝦夷地/標津代官の任に就いていた南摩綱紀 (日新館/教授) に学ぶ。
 松平容保の京都守護職就任により秋月悌次郎に従って上洛し、林権助に洋式訓練を受ける。
 鳥羽伏見の戦いに参戦し、その後は朱雀隊として各地で奮戦。
 開城後は、幽閉 (謹慎) を経て、斗南藩へ移住。
 斗南藩が消滅したため上京し、開陽丸を操船の航海技術者/古川庄八らに航海術学んだ後、商船の水夫となり船長代理に就く。
 明治 7(1874)年、台湾出兵の運送船に乗組んだ縁から、長崎海軍出張所雇となり「雲揚艦」乗組、海軍少尉に就任。
 明治 8(1875)年、江華島事件では陸戦隊を率いて上陸を敢行し砲台を占領するなどの戦功を上げる。
 「清輝艦」乗組を経て「孟春艦」乗組に就く。
 明治 9(1876)年、再び「清輝艦」乗組に就く。
 明治10(1877)年、西南戦争に従軍、戦功をあげ海軍中尉へ昇進。
 明治11(1878)年、日本艦船初のヨーロッパ長期巡航に「清輝艦」の航海長として参加する。
 明治12(1879)年、ヨーロッパ巡航ら帰還し海軍大尉に昇格、後に「東艦」副長に就く。
 明治13(1880)年、「扶桑艦」乗組を経て、海軍水雷練習所に就く。
 明治15(1882)年、海軍水雷練習所副長に就任。
 明治16(1883)年、海軍少佐に昇進し、海軍省水雷局副長に就任。
 明治19(1886)年、長浦水雷営長、長浦水雷営武庫主事の兼務、迅鯨艦長心得の兼務を経て、横須賀鎮守府水雷司令兼武器部次長、長浦兵器部派出所に就く。
 明治20(1887)年、海軍大佐に昇進し、横須賀軍港水雷司令兼長浦水雷営長に就く。
 明治22(1889)年、「浪速艦」艦長に就任。
 明治24(1891)年、佐世保知港事兼佐世保予備艦長に就任。
 明治26(1893)年、海軍軍令部第一局長に就任。
 明治27(1894)年、日清戦争により初代/海軍軍令部第二局長 (作戦部長) を兼務し、大本営幕僚の任に就く。
 明治28(1895)年、海軍少将に昇進し、台湾総督府参謀副長兼海軍局長に就任。
 明治30(1897)年、台湾総督府海軍参謀長を経て、佐世保鎮守府予備艦隊司令官に就任。
 明治31(1898)年、呉鎮守府艦隊司令官に就任。
 明治32(1899)年、常備艦隊司令官に就任。
 明治33(1900)年、長賊らが跋扈する中、旧藩士として初の海軍中将に昇進。 海軍艦政本部長に就任し、海軍将官会議議員を兼務。
角田秀松の墓  明治34(1901)年、常備艦隊司令長官に就任。
 明治37(1904)年、日露戦争により竹敷要港部司令官 (前年) に就任。
 明治38(1905)年、就任中に戦病死。
 「余は亡国の士なり 故国の滅亡は 薩長の為す所なり 余は当事心に誓て 其復讐を為さんと欲し 志を決して海軍に入りたり、然るに一たび海軍に入るに及びては 〜〜〜 陛下に対して身命を擲つを以て、軍人の本分と為すに至れり
 墓は青山霊園
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