戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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昭     和     村

 この辺りの戦死者の遺骸は、各部落の外へとゴミのように投げ捨てられた。
 後に「犬や猫でも埋葬するのに」と、村人たちは祟りに恐れおののいたと云う。

野村新平の墓、戊辰の役古戦場

野村新平 .

 矢ノ原湿原の傍らにある。
 「野村新平 墳墓の地」の碑も建っている。
 大芦赤坂山の会津藩戦死二人之墓にも墓がある。
 村民にも慕われていた所以である。

 朱雀寄合三番隊/鈴木隊半隊頭。
 明治元(1868)年9月24日、侵入してきたに奇襲をかけ撃退し追撃するも、深追いし大芦村で戦死。
 25歳。
 2日前の22日には会津での戊辰の役は終結していた。
 祖父/野村監物と祖母は、足手まといにならないようにと、鶴ヶ城内で自刃している。

 

戊辰の役古戦場

野村新平の墓の説明文

  野村 新平の墓

 明治元年 (一八六八) 旧八月二十三日、会津戊辰戦争で西軍が会津になだれ込んだ日である。
 そして九月十日頃から、御親藩を始め加賀藩を主に各藩から約六百人の西軍が繰り込んで野尻郷各村 (現昭和村) へ宿陣し警備についた。
 九月二十四日朝八時頃、田島方面から進撃してきた会津藩の奇襲を受け、西軍は敗走しこの道を下中津川方面へ退却した。
 これを追って会津軍朱雀三番寄合組隊、鈴木隊長以下約二十五名がこの付近まで進撃して来た時、軍を立て直した西軍が逆襲し合戦となり会津軍は少数不利となり、大芦へ退却する。 この時の戦で会津軍、野村新平ここで戦死する。 星霜流れ 一三〇年を経た。
      会津藩士 野村 新平
       朱雀三番寄合組隊鈴木隊半隊頭
       町奉行、二百石、二十五歳
       明治元年旧九月二十四日大芦村矢ノ原にて戦死
         平成十二年 五月
<緑色の文は 現地板から/画像クリックで拡大表示>  .

 ▲(昭和村大字下中津川 周辺)

会津藩戦死二人之墓 .

会津藩戦死二人之墓

 墓の側面には、2名の名が刻まれている。
   矢ノ原戦死 野村新平
   屋敷原戦死 角田五三郎
 両名とも、鶴ヶ城開城後の9月24日の戦死であった。
 野村新平の墓は、矢之原古戦場跡にもある。
 国道401号の「奥会津昭和の森」入口前にある。
 中央の大きな「遥拝墓碑」に向かって左へ1つ目の墓。

会津藩戦死二人之墓

角田五三郎

 助次郎の伜。
 朱雀士中三番隊/小野田隊。
 明治元(1868)年9月24日、南山大芦で戦死。 23歳。
 ▲(昭和村大芦赤坂山4894)

佐藤音之助 .

佐藤音之助墓

 朱雀寄合三番隊/道案内兼斥候。
 明治元(1868)年9月24日、下中津川で戦死。
 村外れの山の斜面にある。
 雑草に埋もれていたが、最近、案内板が設置され分かり易くなった。

 ▲(昭和村大字大芦字上赤田)

丹羽族 (徳林寺)

徳林寺

 野尻の代官、兵糧方総督。
 慶応4(1868)年8月7日、野尻村にて自刃。
 54歳。
 悔いた村人たちが仮安置された徳林寺に墓碑 (供養碑) を建てるも侵入した長賊らにより破壊され、今となっては場所すら不明。
徳林寺

 曹洞宗    .

 ▲(昭和村大字野尻字山崎4738 Tel. 0241-57-3167)


<下郷村南会津町と併記>

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