会  津  の  著  名  人

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《 は 》 幕 末 よ り 前

 萩原 盤山  はぎわら ばんざん、安永元(1772)年〜弘化3)1846)年
 別名:紀順信 (きの よりのぶ)。  <絵師>
 甲賀町にて誕生。
 物心が付くと江戸に出て、中橋狩野の第8代/泰信に師事する。
 帰国すると、寺社や商家のために作画に邁進し、狩野派の描法を忠実に受け継いた名画を数多く残している。
 「許由巣父故事図」「鷲捉狐図」「松竹梅之図屏風」など。
 彦根藩に召し抱えられた佐竹永海を育てた師としても知られる。
 城下の松円寺に埋葬されたとのこと。
 「順信院画道盤山居士」。
 服部 安休  はっとり−あんきゅう、
 元和5(1619)年〜天和元(1681)年5月29日 (63歳)
 名:尚由。 通称:門十郎。  <儒学者・神道家>
 織田信長の小姓/森蘭丸の孫。
 江戸にて誕生。 幼くして林羅山師事し、朱子学を学ぶ。
 明暦元(1655))年、保科正之公に召し抱えられ、中国/宋の性理学説「性理大全」を講じる。
 寛文4(1664)年、正之公の命により、吉川神道の創始者/吉川惟足に師事し神道を学び、帰国後に講じる。
末社/進功霊社 服部安休の墓  寛文12(1672)年、編纂に携わった「会津神社志」の完成に伴い、会津領の神社管領を命じられ、神道の普及に尽力。
 延宝3(1675)年、土津神社の初代神官となる。
 墓は、遺言により土津神社の前麓に埋葬
 土津神社の末社/進功霊社として祀られている。
 原田 種次  はらだ たねつぐ、天正12(1584)年〜万治3(1660)年
 初名:嘉種。 通称:伊予(役職が伊予守)。 会津藩出仕で種次。
 高祖城主/原田信種の長男。
 天正15(1588)年、父/信種が豊臣秀吉の九州征伐により所領没収され、加藤清正に仕える。
 慶長の役で父/信種が戦死したため肥後熊本の所領を継ぐも、主君/加藤清正と対立し追放処分され、浪人となる。
 慶長12(1607)年、旧知の唐津藩主/寺沢広高に出仕。
 寛永14(1637)年、島原の乱が勃発したため出陣し、寺沢家の領地にある富岡城を死守するも、主君/広高の子/寺沢堅高が島原の乱の責で改易処分となってしまい、再び浪人となる。
原田種次  慶安4(1651)年、保科正之公に召し抱えられ、種次と改名。
 承応3(1654)年、表留守役として鶴ヶ城に入る。
原田種次  明暦3(1657)年、家督を嫡男/種長に譲り、隠居。
 子孫は代々、幕末まで会津藩に仕える。
 墓は興徳寺
 「本光院覚翁了二居士」
 針生氏  はりゅうし、  <蘆名氏の分家>
 蘆名盛滋公に嫡男が無いため弟/盛舜公が家督を相続したが、隠居後に男児/盛幸が生まれ、耶麻郡針生村を所領の分家/針生氏とした。
 以降、金上氏とともに別格扱いの重臣として蘆名氏に仕える。
 天正17(1589)年、摺上原の戦いで伊達政宗公に敗れた蘆名義広公に従い、当主/針生盛信は常陸/佐竹氏に移る。
 しかし、関ヶ原の戦いで西軍に与した佐竹氏が秋田に移されると従わず浪人となるが、かつての敵将/政宗公に召し抱えられる。
 その後、名家/蘆名氏の断絶を惜しんだ伊達家4代/綱村に命じられ、蘆名氏に復姓する。
 戊辰の役では、子孫/蘆名盛景が最新鋭のスナイドル銃を装備した仙台藩「額兵隊」の総督として、戦闘前に奥羽越列藩同盟の義を破って降伏した仙台藩に納得せず、南下して相馬城を占領している。
 媛姫  はるひめ、寛永18(1641)年〜万治元(1658)年7月28日 (19歳)
 別称:徳姫、春姫、清光院。
 保科正之公と継室/於萬との長女。
 明暦元(1655)年、米沢藩主/上杉綱勝に嫁ぐ。
 万治元(1658)年4月、異母妹/松姫 (摩須姫、11歳) が加賀藩/前田綱紀との縁談が決まると、生母/於萬は側室/於塩が生んだ松姫が自分の娘の嫁ぎ先/米沢藩より大きい加賀藩に嫁ぐのに嫉妬し、毒殺を謀る。
 松姫が輿入れする前日、三田藩邸で祝宴が設けられた。
 正之公が松姫の宴席であるからと、いつもの上席にいた媛姫の席と入れ替えさせたため、於萬の娘が毒の盛られた膳を食べてしまった。
 松姫付きの老女/野村おさきが毒殺の企てを察知し、主役である松姫の前に第一の膳が置かれると、「御妹の松姫様が、御姉君の媛姫様を差し置いて先にお膳をいただくべきではない」と武家の慣習/長幼の理を持ち出し、強引に松姫と媛姫の膳を入れ替えたとの説もある。
 何も知らずに生母が謀った毒入りの膳を食し、3日間も苦しんだ挙句に悶死した (媛姫事件)。
 これを知った正之公は烈火の如く怒り、於萬付きの老女/三好ら18名の関係者を処刑・処罰した。
 於萬は世継/正経の生母ということもあり処罰を免れたが、側から遠ざけられ、後の「家訓」の中に戒めが記載された。
 「婦人女子之言 一切不可聞 (婦人女子の言 一切聞くべからず)
 墓は林泉寺。 「清光院殿月汀正心大姉」。

《 は 》 江  戸  幕  末

 橋爪 助次郎  はしづめ すけじろう、
 文化元(1804)年〜明治13(1880)年3月6日
 名:靖。 号:哂斎。
 昌平坂学問所 (昌平黌) に遊学。
懐徳碑 橋爪助次郎の墓  松平容保の京都守護職就任により上洛し、儒者見習として侍講となる。
 戊辰の役では、軍事目付として戦略に参与。
 開城後は、斗南藩に移住する。
 詳細は不詳。
 墓は宝積寺。 福田詮と併記の懐徳碑は飯盛山。
 林 安定
   (権助)
 はやし やすさだ、
 文化3(1806)年〜慶応4(1868)年1月10日 (享年63歳)
 通称:権助 (通し名)。 幼名:又三郎、笈之助。
 藩士/林安論の長男。
 一宮流居合術、長沼流兵学、砲術、馬術を修めるが、西洋砲術が優れていると知るや率先して自ら学び、保守的な軍制の近代化に尽力。
 江戸詰などを歴任。
 嘉永6(1853)年、西洋砲術や蘭学を学ぶため、山本覚馬を同行させて江戸へ赴く。
 安政2(1855)年、天保の改革で失脚した老中/水野忠邦の藩邸に暴徒が押しかけたとの報を知るや、馬にまたがって現場へ駆け付け退去させ、名声を高めている。
 「汝等夜暗に乗じ将軍の大手先をも憚らず 貴人に対し不穏の状を為すは無礼なり 速かに退散せずんば我が槍玉に拳げん
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い軍事奉行として上洛、洋式の大砲隊を編成して鍛え直し、大砲奉行を兼務する。
 文久3(1863)年、禁門の変では大砲隊を率いて孝明天皇を護り、薩摩藩と共に長賊を撃退、さらに新選組と共に朝敵/真木保臣を追撃した。
 鳥羽伏見の戦いでは、裏切った薩摩兵に対して奮戦するも数ヶ所に被弾、江戸へ戻る船中で死去。
 開戦の砲撃戦は深夜まで及ぶも勝敗は決せず、負傷した安定も最後まで戦場に留まり兵を叱咤激励し、砲撃の止んだ深夜に病院に退く。
 翌朝に戦闘が開始すると、大砲林隊大砲白井隊・別撰組がの進軍を食い止め、逆に4キロほどの下鳥羽まで押し戻した。
 特に、白井隊の奮戦は凄まじく、隊識別の足袋を指して敵兵からも「勇なるかな会津の白足袋」と恐れられた。
 しかし、総大将/コ川慶喜の敵前逃亡により全軍引き揚げとなる。
 この戦いで、息子/又三郎も戦死した。
 人柄から京の市民に親しまれており、見事な髭から「髭の隊長はん」と呼ばれていたという。
 墓は大龍寺。 慰霊碑は京都/黒谷
 原 直鉄
  (直鐵)
 はら なおてつ、嘉永元(1848)年〜明治3(1870)年12月28日 (23歳)
 別名:小松茂。
 原早太の長男として鶴ヶ城下の本二ノ丁で誕生。 原直次郎は実弟。
 文久3(1863)年、松平容保の側役 (御小姓) に就き上洛。
 鳥羽伏見の戦いで奮戦の後、江戸総引き揚げの際には残留して軍事強化策に奔走。
 任を終えると藩命により脱藩して旧会津藩上屋敷「和田倉内七連隊屯所」に参加 (7名)、幕軍歩兵差図役頭取に就任して関東各地を戦い、今市で大鳥圭介の軍に合流し奮戦、後に帰城する。
 父/早太白虎寄合一番隊頭として津川や一ノ堰で奮戦するも戦死。
 開城後は、東京/飯田元火消屋敷で幽閉 (謹慎) となるが脱走、米沢藩/雲井龍雄事件に連座し、ろくな取り調べも行われず斬首される。
 坂内 慎一郎  ばんない しんいちろう、天保5(1834)年〜大正5(1916)年
 名:実包、實英。 通称:孫右衛門。  <検断、篤志家>
 馬場一之堅町にて誕生。
坂内慎一郎の墓  慶応元(1865)年、父の家職を継ぎ、馬場町検断に就く。
 戊辰の役では、糧食の運搬などに奔走。
 明治 3(1870)年、慎一郎に改名し、市中取締役に就く。
 明治10(1877)年、戊辰の役で焼失・破壊された興徳寺を再建。
 明治23(1890)年、飯盛山さざえ堂を修理。
 墓は興徳寺
 (市街地整備による移転の際に合祀とのこと)
 伴 百悦  ばん ひゃくえつ、
 文政10(1827)年〜明治3(1870)年6月22日 (享年44歳)
 藩の鷹番頭/伴佐太郎宗忠の長男として郭内本四ノ丁三日町口郭門西にて誕生。
 戊辰の役では、萱野右兵衛隊/組頭を経て、片貝の戦いで負傷の土屋総蔵に代わって朱雀隊寄合二番隊を率い中隊頭として越後方面で奮戦。
 長岡城陥落後は会津に戻り、籠城戦で戦い抜く。
 開城後、藩士たちは猪苗代と塩川で幽閉 (謹慎) されたが、市中の治安維持に当たる居残り組20名に指名される。
 そこで目にしたものは、戦いが終わったにもかかわらず、古来からの「死ねば皆な仏」の習わしをが破り、禁じられた埋葬による惨憺たる光景だった。
 最近になって、頻発した一揆のため作業が出来なかったとか、冬になってしまい凍結で埋葬が出来なかったとか、がよくやる捻じ曲げた作り話を持ち出している。
 翌年の春になって町野主水たちが、埋葬申請を何度も出しているのに許可しなかったのは事実だし、の遺体埋葬地だけは凍結しなかったとでも言い訳するのだろうか。 いけしゃあしゃあと捻じ曲げた作り話など持ち出せるものだ。
 翌明治2(1869)年、雪が解けて腐臭が覆うようになって、やっと埋葬か許可されるも罪人塚への埋葬と通達される。
 町野主水たちは、軍務局長の岡山藩/三宮耕庵に働き掛けて罪人塚から近くの寺への埋葬に変わったが、親類縁者すら遺骸に触ることを許さず、埋葬作業は被差別部落民のみが行なう条件であったため「屍を投げ入れること岩石を扱う如し」であった。
 見るに見かねて「君候の馬前で命を捨てるのも、彼らの中に身を落として斬られるの変わりのないはず」として餞民に身を落とし、指導・監督する決意をする。
 市中のみならず各地に散乱している遺骸も近くに埋葬するなど、全16か所に総数で2,033体を埋葬したという。
 埋葬には、2ヶ月を要した。
 待っていたのは、極悪人/民生局監察方兼断獄/久保村文四郎から墓標を撤去せよとの厳命であった。 久保村は日頃から不遜な言動をして、取り調べもせず処刑するなど、悪業非道の限りを尽くしていた。
 躊躇していた阿弥陀寺の墓標などは、削り取られ撤去された。
 久保村が民生局の廃止で職が免じられ故郷に帰藩する報を受け、高津仲三郎たち同志とともに束松峠で待ち伏せして斬殺 (束松事件)、天誅を下した後、累が及ばぬよう旧会津領 (飛地) であった越後/大安寺村 (新潟市秋葉区) の坂口津右衛門宅に身を寄せた。
 明治3(1870)年、面目を失った官憲らの必死の探索の末、居住していた慶雲庵が村松藩の捕吏に包囲され、踏み込んできた捕吏の一人/吉田倉之助を板戸越しに刺し貫き、怯んだ隙に割腹して果てた。
 釈迦と渾名された剣の達人であったという。
 遺体は、村人たちにより密かに慶雲庵に埋葬された。
 「修功院殿百法勇悦居士」。
 昭和41(1966)年、越後交通社長/柏村毅 (会津会会長) により、草木に埋もれていた墓域を整備改修
 平成11(1999)年、分家の子孫により慶雲庵から遺骨を分骨し、故郷である善龍寺墓碑が建立

橋爪清助  橋爪又六  橋本利右衛門  長谷川丑吉  長谷川栄助  長谷川源次郎  長谷川源三郎  畑五郎左衛門  服部栄  馬場八郎  早川留吉  林源治  林忠吾  林治郎  林又三郎  原源右衛門俊秀  原新五右衛門  原政治  原早太  半沢萬五郎  半藤久吾

《 は 》 幕 末 よ り 後

 芳賀 栄次郎  はが えいじろう、
 元治元(1864)年8月15日〜昭和28(1953)年2月27日 (88歳)
 号:東山。  <軍外科医>
 藩士の芳賀家の子として鶴ヶ城下にて誕生。
 開城後、斗南藩に移住するも、後に一家は離散。
 明治20(1887)年、東京帝国大学を最優等で卒業し、大学院で外科に進みスクリバに師事。
 在学中の磐梯山噴火で、郷里の現地に赴き、負傷者を救護。
 大学院を卒業し、「特発脱疽の病理」で医学博士号を取得。
 陸軍二等軍医時代に歩兵第二十三連隊に就く。
 日清戦争で得た銃創の研究を論文「日清之役第三師団ニ於ケル銃創治験」に著し、国内のみならず海外、特にドイツで高く評価される。
 明治30(1897)年、ドイツへ留学、レントゲン装置と出会い自費購入。
 帰国の際に、シベリアを単独で横断したという。
 明治31(1898)年、日本初のレントゲン装置が稼働。
 「芳賀教官独逸留学中、独逸陸軍軍医某に就きレントゲン光線に関し攻究し、其外科学上に於ける驚異的成果を見て感ずる所あり、将来斯学に於て重要なる位置を占むべきを期し、帰朝に先立ちて之を購入し、本校研究資料として其器械装置一切を送付す。之実に本邦に於けるレントゲン装置輸入の創始にして、當時未だ東京帝国大学医科大学にすら本機の備付なく特筆に値するの事実なりとす/陸軍軍医学校五十年史
 明治37(1904)年、日露戦争で、第五師団、近衛師団、第一師団の各軍医部長として従軍。
 明治40(1907)年、近衛師団軍医/部長に就任。
 明治41(1908)年、陸軍軍医学校/校長に就任。
 明治43(1910)年、軍医総監に就任。
 大正 4(1915)年、朝鮮総督府医院長/兼京城医学専門学校長に就任。
 大正10(1921)年、予備役として退き、東京//四谷で外科医院を開業。
 昭和 8(1933)年、東京西荻窪で外科専門医院を開業。
 著書「救急新法」「外科通論」「銃創論講義」など。
 旧会津藩所縁の高等武官で組織された稚松会の評議員も務めた。
 日本外科学会の発起人の一人でもある。
 長谷川 戍吉  はせがわ じゅきち、
 慶応4(1868)年5月18日〜明治40(1907)年1月21日 (満38歳)
 <陸軍騎兵少佐、長谷川挺進隊/隊長>
 藩士/長谷川信吉の次男 (嫡男) として南町漆原一番丁 (会津若松市南町) にて誕生。
 誕生する前に、兄/丑吉が戊辰の役 (白河の戦い) で戦死。
 開城後は、斗南藩/三戸郡門前村に移住。
 明治6(1873)年、藩も消滅しており、本郷 (会津美里町) に戻る。
 陶芸家の弟子となり、私立日新館 (県立会津高等学校) へ進むが、退学し単独で上京、山川浩家の家僕となる。
 明治19(1886)年、陸軍教導団に入る。
 明治20(1887)年、士官候補生に就く。
 明治21(1888)年、士官学校に入る。
 明治23(1890)年、士官学校を卒業 (1期)、近衛騎兵大隊附に就く。
 明治24(1891)年、騎兵少尉に昇進し、軍務局副課員心得蹄鉄学舎教官兼獣医学校教官心得に就く。
 明治26(1893)年、騎兵中尉に昇進。
 明治27(1894)年、近衛師団/弾薬大隊縦列長として日清戦争に出征。
 明治28(1895)年、騎兵大尉に昇進し、近衛騎兵大隊中隊長に就任。
 明治31(1898)年、参謀本部に就く。
 明治33(1900)年、第九師団参謀に就く。
 明治34(1901)年、台湾守備混成旅団参謀、騎兵第三連隊長心得就任。
 明治35(1902)年、騎兵少佐に昇進し、騎兵第三連隊長に就任。
 明治37(1904)年、騎兵第十四連隊附として日露戦争に出征。
 明治38(1905)年、特別任務のために編成された第二挺進隊 (長谷川挺進隊) の隊長として出撃し、線路・通信線の爆破や兵站部隊襲撃などの戦功をあげて帰還。
 明治39(1906)年、騎兵第十八連隊長に就任。
 明治40(1907)年、負傷した頭部を癒すため熱海で療養していたが、滞在中に連隊の部下が不祥事を起こしたとの知らせがあり満州公主嶺に戻り、その責により清国第二関東陸軍病院公主嶺分院 (騎兵第十八連隊連隊長室) にて割腹自決した。
 「澄浄院殿信誉義幹大居士」。
 畑 英太郎  はた えいたろう、  <陸軍大将>
 明治5(1872)年7月25日〜昭和5(1930)年5月31日 (享年58歳)
 藩士/畑能賢の長男として誕生。
 三井銀行勤務を経て、陸軍士官学校へ入校。
 明治29(1896)年、陸軍士官学校7期・歩兵科 (7期) を首席で卒業。
 明治30(1897)年、陸軍少尉に就く。
 明治36(1903)年、陸軍大学校 (17期) を優等で卒業し、近衛歩兵第二連隊中隊長に就く。
 明治37(1904)年、第一軍兵站副官として日露戦争に出征し、第一軍兵站参謀、鴨緑江軍兵站参謀、大本営参謀を歴任。
 終戦後、参謀本部員、参謀本部付 (イギリス差遣)、イギリス大使館付武官補佐官を歴任。
 明治43(1910)年、インド駐剳武官に就く。
 大正元(1912)年、参謀本武附として欧州出張して見聞を広め、帰国して陸軍省軍務局軍事課員に就く。
 大正 5(1916)年、陸軍大佐に昇進し、歩兵第五十六連隊長に就く。
 大正 7(1918)年、軍務局軍事課長に就く。
 大正 9(1920)年、陸軍少将に昇進し、航空局次長に就く。
 大正11(1922)年、軍務局長に就く。
 大正13(1924)年、陸軍中将に昇進。
畑英太郎の墓  大正15(1926)年、陸軍次官に就き、軍事調査委員長の兼務。
 昭和 3(1928)年、第一師団長に就く。
 昭和 4(1929)年、関東軍司令官に就く。
 昭和 5(1930)年5月1日、陸軍大将に昇進するが、同月に旅順で急性腎臓炎で死去。
 墓は多磨霊園
 弟/畑俊六は元帥陸軍大将、長男/畑英一は陸軍大尉、妹/タネを娶った義弟/牛島実常は陸軍中将で、兄弟揃っての大将は皇族を除き珍しい。
 畑 俊六  はた しゅんろく、
 明治12(1879)年7月26日〜昭和37(1962)年5月10日 (満82歳)
 藩士/畑能賢の子。  <元帥陸軍大将>
 明治29(1896)年、陸軍幼年学校に入学。
 明治31(1898)年、同校を卒業し、陸軍士官学校へ入学。
 明治33(1900)年、陸軍士官学校を卒業 (12期/次席)。
 明治34(1901)年、少尉に昇進し、野砲兵第一連隊付に就く。
 明治36(1903)年、中尉に昇進。
 明治37(1904)年、日露戦争に従軍し負傷する。
 明治38(1905)年、野砲兵第一連隊補充大隊中隊長に就き大尉に昇進。
 明治39(1906)年、陸軍砲工学校高等科を卒業。
 明治40(1907)年、陸軍大学校へ入学。
 明治43(1910)年、同大を首席で卒業(22期)、参謀本部員に就く。
 明治45(1912)年、駐ドイツ大使館付武官補佐官に就く。
 大正 3(1914)年、陸軍少佐に昇進し、スウェーデン駐在員に就く。
 大正 5(1916)年、参謀本部員に就く。
 大正 7(1918)年、陸軍中佐に昇進し、軍令部参謀に就き、講和会議全権随員として欧州出張。
 大正 8(1919)年、陸軍大学校教官を経て、参謀本部作戦班長に就く。
 大正10(1921)年、陸軍大佐に昇進し、野砲兵第16連隊長に就く。
 大正11(1922)年、陸軍野戦砲兵学校教導連隊長に就く。
 大正12(1923)年、参謀本部作戦課長/兼軍令部参謀に就く。
 大正15(1926)年、陸軍少将に昇進し、野戦重砲兵第4旅団長に就く。
 昭和 2(1927)年、参謀本部第四部長に就く。
 昭和 3(1923)年、参謀本部第一部長に就く。
 昭和 6(1931)年、陸軍中将に昇進し、砲兵監に就く。
 昭和 8(1933)年、第14師団長に就く。
 昭和10(1935)年、航空本部長に就く。
 参謀本部第四部長、同第一部長、砲兵監、第十四師団長などを歴任・
 昭和11(1936)年、台湾軍司令官に就く。
 昭和12(1937)年、陸軍大将に昇進し軍事参議官/兼教育総監に就く。
 昭和13(1938)年、中支那派遣軍司令官を経て、軍事参議官に就く。
 昭和14(1939)年、侍従武官長を経て、陸軍大臣に就任。
 昭和15(19740)年、陸軍大臣を辞任し、軍事参議官に就く。
 昭和16(1941)年、支那派遣軍総司令官に就き、英米開戦よりも日中戦争解決を優先すべきと強行に具申したが通らなかった。
 昭和19(1944)年、元帥となり、教育総監に就く。
 昭和20(1945)年、第二総軍司令官 (広島市) に就き、原爆被爆するが奇跡的に助かり、罹災者援護の陣頭指揮を執る。
 俊六・杉山元・永野修身の3元帥が招集された御前会議の席上で、本土決戦での勝利の難しさを具申、これが終戦を決定させた。
 敗戦後、A級戦犯として逮捕。
 昭和23(1948)年、東京軍事裁判で終身刑宣告。
 昭和29(1954)年、仮釈放を受けて出所。
 昭和33(1958)年、赦免され、偕行社会長に就任。
 昭和37(1962)年、戦没者慰霊碑除幕式に出席中 (棚倉)、急死。
 墓は武蔵野霊園。 棚倉城趾に碑「元帥畑俊六終焉之地」。
 著書「巣鴨日記」など。
 兄/畑英太郎は陸軍大将、長男/畑俊八は陸軍大尉。
 八田 貞義  はった さだよし、  <自由民主党衆議院議員、官房副長官>
 明治42(1909)年9月8日〜昭和61(1986)年12月20日 (享年77歳)
 政治家/八田宗吉の子として河沼郡日橋村(会津若松市)にて誕生。
 会津中学校 (県立会津高等学校) を卒業し、日本医科大学に進学。
 昭和 8(1933)年、日本医科大学を卒業。
 昭和15(1940)年、医学博士号を取得。
 東京市衛生試験所医学部長、厚生省国立衛生試験所細菌部長を歴任。
 昭和22(1947)年、日本医科大学教授に就任。
 昭和30(1955)年、日本医科大学教授から、第27回衆議院議員総選挙 (福島2区) に立候補し初当選。
 その後、通算当選9回。
 公害対策の推進、農業基本法の制定、地域発展のための事業誘致 (東北開発株式会社、国立磐梯青年の家など)、社会保障制度の強化などに活躍し、特に恩給予算の適正化に尽力。
 昭和37(1962)年、池田内閣の改造内閣にて内閣官房副長官に就任。
 昭和51(1976)年、第34回衆議院議員総選挙 (福島2区) で、伊東正義に地盤を切り崩され、落選。
八田貞義の顕彰碑  昭和54(1979)年、第35回衆議院議員総選挙 (福島2区) で返り咲く。
 昭和58(1983)年、第37回衆議院議員総選挙 (福島2区) で、元秘書/渡部恒三にも地盤を切り崩され再度落選し、政界から引退。
八田宗吉の像と貞義の碑
 ▲像
  (会津若松市河東町
   大字八田字八田野)
 八田 宗吉  はった そうきち、  <立憲政友会衆議院議員、陸軍省参与官>
 明治7(1874)年10月9日〜昭和13(1938)年1月16日 (65歳)
 幼名:吉之丞。 異名:馬議員、鉄道代議士、百姓代議士。
 河沼郡日橋村 (会津若松市河東町) にて誕生。
 陸軍軍人となり、歩兵大尉まで昇進。
 日橋村村長となり政治家に転身、県議会議員、参事会員を歴任。
八田宗吉の像  実業家としては、福島県農工銀行、只見川水力電気、日本化学工業、会津電力の役員に就任。
 大正6(1917)年、第13回衆議院議員総選挙 (福島郡部3区) に立候補し初当選、日橋村長も兼任。
 猪苗代水力各発電所を誘致し、会津の鉄道整備にも尽力。
 その後、当選8回。
 陸軍省参与官などを歴任。
 馬政調査委員を務め、日本競馬会設立や競馬法成立に尽力。
 ▲像 (会津若松市河東町大字八田字八田野)
 息子/八田貞義は日本医科大学教授・衆議院議員。
 馬場 祥江  ばば よしえ、  若松市 (会津若松市) にて誕生。
 昭和31(1956)年、ミス・ユニバース日本代表「ミス・ジャパン」に選抜され、第5回ミス・ユニバース世界大会 (アメリカ/カリフォルニア州ロングビーチ) へ参加。
 昭和33(1958)年、サンフランシスコ在住で「すき焼き店」経営の日系2世/野島昇と結婚し、アメリカへ移住。
 結婚後は、同市のジェファーソン通り (Jefferson Street) で日本料理を夫婦で営む。
 林 権助  はやし ごんすけ、  <外交官、男爵>
 安政7(1860)年3月23日〜昭和14(1939)年6月27日 (満79歳)
 幼名:磐人(いわと)。 通し名:権助。 号:竹陰。
 藩士/林又三郎の嫡男として鶴ヶ城下にて誕生。
 大砲隊長林権助(安定) は祖父。
 慶応 3(1867)年、藩校/日新館に入学。
 慶応 4(1868)年、鳥羽伏見の戦いで祖父/安定と父/又三郎が戦死したため家督を継ぎ (8歳)、幼くして籠城戦を戦い抜く。
 藩の流刑に従い斗南藩に移住し、困窮を極めた母子生活を過ごす。
 上京し、大学予備門から東京帝国大学へ進学。
 明治20(1887)年、東京帝国大学を卒業し、外務省に入る。
 仁川と上海領事を経て、英国と清国の主席書記官などを歴任。
 戊戌政変で清国政府に追われた梁啓超を匿い日本への亡命に尽力。
 明治32(1899)年、外務省通商局長 (本省) に昇進。
 明治33(1900)年、駐韓公使に就任し、日露戦争中に日韓協約の調印に尽力し、韓国を日本の保護下に置く。
 明治39(1906)年、駐清公使に就任。
 明治41(1908)年、駐伊大使に就任。
 明治43(1910)年、日韓併合が実現され、桂太郎・小村寿太郎とともに「朝鮮三人男」と称えられる。
 明治44(1911)年、男爵となる。
 大正 5(1916)年)、駐中公使に任ぜられ、間島問題や辰丸事件の解決に奔走し、鄭家屯事件への日本軍/軍事介入に反対を具申。
 大正 8(1919)年、関東長官に就任。
 大正 9(1920)年、駐英大使に就任。
林権助の墓  大正10(1921)年、スイスでの国際連盟総会および近東平和会議の日本代表に就く。
 大正14(1925)年、駐英大使を退官するも、宮内省御用掛として英国滞在を命ぜられ、英国留学中の秩父宮付の補導に当たる。
 昭和 2(1927)年、帰国。
 昭和 3(1928)年、式部長官に就任。
 昭和 9(1934)年、枢密顧問官に就任するが、在任中に死去。 墓所は青山霊園
 著書「わが七十年を語る」など。
 
  三郎惟純
 はやし さぶろうこれずみ、
 藩士/林源太の次男。
 兄/林源輔 (源治) が大野原で戦死したため家督を継ぐ。
佛心寺の墓 蓮永寺の墓  数少ない恭順派を貫いた1人で、秋月悌次郎手代木勝任などと共に並び称される傑物。
 麹渓塾 (麹町教授所) の塾頭などを歴任。
 開城後は、駿遠へ移住した徳川家臣団に招聘され、静岡藩に仕官。
 墓は静岡/蓮永寺
   東京/佛心寺
 原 直次郎  はら なおじろう、安政2(1854)年〜大正元(1912)年 (58歳)
 原早太の次男として本二ノ丁で誕生。 原直鉄は実兄。
 戊辰の役では、父/早太白虎寄合一番隊頭として津川口や一ノ堰で奮戦するも戦死。
 明治 3(1870)年、松平容大公に従い斗南藩/三戸郡に移住。
 間もなく、東京へ遊学。
 明治 5(1872)年、北海道に渡り、開拓使に就く。
 明治15(1882)年、開拓使が廃止のため、北海道庁に就き北海道庁警部・警察署長などを歴任。
 明治22(1889)年、苫小牧村外15カ村戸長役場が設置されるや初代戸長に就任し、併せて室蘭警察署勇払分署長も兼務する。
 後に実業界に転身し、勇払白老漁業組合頭取、勇払郡水産組合長、勇払郡畜産組合長など各種組合の代表を務め、苫小牧村村会議員として王子製紙の誘致に貢献するなど自治・産業・教育と幅広い分野で活躍し、苫小牧の発展の礎を築く。
 原 平蔵  はら へいぞう、安政6(1859)年〜大正15(1926)年11月9日(享年68歳)
 号:東奄。  <自由民権運動家、喜多方町長>
 肝煎/原平二郎の4男として半在家村(喜多方市熱塩加納町)で誕生。
 明治11(1878)年、創設の自由民権結社「愛身社」創立時に加入。
 明治13(1880)年、愛身社の代表として仙台で開催された「東北七州会」に参加し、遠藤直樹と共に上京して第2回国会期成同盟大会に出席、民権運動の必要性を確信し自由党会津部の結成へとつながる。
 特に、極悪人/三島通庸の三方道路での搾取は凄まじく、手先となっていた郡長らを告訴し、反対運動の先頭に立ちあがった。
 「〜〜 官吏、巡査、帝政党の類の者は、いよいよ公売処分と決定されるや、該村民の分担、哀願猶予、家人の在、不在にかかわらず、家財を調査しては農具や牛馬までも封印し、なかには一村全戸が処分されるということもあり 〜〜 公売法に許していない、板戸、襖、障子、神仏、棚、畳、薄べりや仕付戸棚など、いやしくも、財産の種類を問わず、掛矢を用いて打ち破り 〜〜
 農民たちの結束の固まりを恐れた極悪人/三島通庸は、逆に誣告罪で逮捕という法治国家にあるまじき悪行に出る。
 この過酷な労働と厳しい代金徴収の圧政から、喜多方事件清水屋事件などが起こり、会津での自由民権運動の発端になる。
 極悪人/県令三島通庸は絶好の口実として利用し検挙を発令、2千人を超える自由党員と農民を不法逮捕している。
 後に上告して無罪となるが、メンツを潰された極悪人どもに官吏侮辱罪の名目で再逮捕され、実刑に処せられた。
 民間での活動に限界を感じ、行政内での改革・改善を決意する。
 明治17(1884)年、喜多方町に分家。
 明治22(1889)年、町村制実施により喜多方町助役に就任。
 明治26(1893)年、喜多方町長に就任。
 明治27(1894)年、喜多方小学校の建築、岩越鉄道の敷設に尽力。
 明治39(1906)年、喜多方婦人同情会/幼稚園、女子技芸学校の設立。
 明治41(1908)年、喜多方訓盲学校の設立。
 大正 2(1913)年、私立喜多方図書館の設立。
 大正 6(1917)年、喜多方町長から退く。
 大正10(1921)年、喜多方町長に再任。
 大正11(1922)年、喜多方商業学校を設立。
 大正12(1923)年、喜多方女子技芸学校を喜多方実践女学校に改称。
 大正14(1925)年、通算28年間在任の喜多方町長から退く。
 原 実  はら みのる、1901年(明治34(1901)年〜
 <市民運動家、全国歴史的風土保存連盟名誉会長>
 鉄道院/原勇(沼津出身)の子として母の出身地/若松市 (会津若松市) にて誕生、
 幼児期を父の転勤に伴い各地を転々とした後、会津中学校 (県立会津高等学校) に入学し、母の実家から通学。
 大正8(1919)年、会津中学校を卒業し上京、慶應義塾へ進み経済学者/小泉信三に師事。
 卒業後は、慶應義塾大学学生局、鉄道院図書館などに勤務。
 昭和28(1953)年、鎌倉へ転居。
 「鎌倉三日会」に加入し、活動する中で、地方自治の重要性を知り、そのためには市民意識の向上が必要と考えるようになる。
 昭和35(1960)年、月刊誌「鎌倉市民」を創刊。
 昭和37(1962)年、「鎌倉の自然を守る会」の発足で副会長に就く
 昭和39(1964)年、鶴岡八幡宮の背面側 (御谷) の開発計画が発表され、地域住民の反対運動 (御谷騒動) がおこり、「鎌倉の自然を守る会」にも協力が要請される。
 地域住民らにより「財団法人鎌倉風致保存会」が結成され、寄付金を徴募し開発予定地の一部買い取りに成功、日本初のナショナルトラスト運動とされる。
 結局、県は大幅に縮小した開発許可を出すが、業者は計画を断念。
 昭和40(1965)年、これを契機に同様な反対運動を抱える鎌倉・京都・奈良の三市を中心に「古都保存連絡協議会」が結成される。
 昭和41(1966)年、神奈川県・京都府・奈良県選出の国会議員を中心とした議員立法により「古都保存法 (古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法)」が成立。
 昭和45(1970)年「全国歴史的風土保存連盟」が結成される。
 「古都保存法」を活かすためには、市民の自覚が必須であると考えた原の尽力によるものだった。
 後に、「全国歴史的風土保存連盟」の名誉会長に推挙される。
 昭和45(1970)年、神奈川文化賞を授与。
 昭和51(1976)年、鎌倉市市政功労者表彰を授与。
 その後、鎌倉市の「歴史的風土特別保存地区、歴史的風土保存区域」は、指定が拡大され続け、環境保護が図られている。
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