殉   難   者   伝

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町 野 源 之 助 (主 水) の 概 歴

(資料提供) 山口新吉 氏    .
町野主水

 天保10(1839)年11月25日〜大正12(1923)年6月9日
 諱:重安
 父:町野伊佐衛門閑水
 母:おきと
 姉:(佐川官兵衛妻)
 弟:久吉
 妻:きよ (南摩家)、いし、まつ (梅宮家)
 子:なを (長女)、源太郎 (長男)、武馬 (次男)


天保10(1839)年

11月25日 (新暦12月30日)
 父/町野伊左衛門・母/おきとの嫡男/源之助 (後の主水) として誕生。


 町野家は、蒲生氏郷公の会津転封に伴い、近江の日野から会津に移る。
 会津での主君/蒲生家は3代で断絶したが、会津に留まり帰農した。
 保科正之公の会津転封に伴い召抱えられ、幕末まで重臣として仕えていた。

元治元(1864)年   数え26歳

 京都守護職本陣である黒谷/金戒光明寺に向う途中、桑名藩士との諍いが起こり、抜刀し2人を斬ってしまったため、その咎で到着後に入牢となる。
 同年7月、禁門の変では脱獄し、戦場に駆けつける。
 窪田伴治に続き、飯河小膳とともに2番槍 (3番槍とも) の功績を挙げるも、津川での謹慎処分となる。

慶応4(1868)年   数え30歳

小出島陣屋跡

 2月15日
 郡奉行 (御蔵入) 兼幌役として小出島に赴任する。



 4月24日
 布陣先の三国峠で実弟/久吉戦死
町野久吉の墓

 8月11日
 朱雀士中四番隊の隊長に就任する。

 8月23日
 若松城下に敵兵が侵入との報を受け、急ぎ戻る。


町野家・南摩家 家族殉難の地

 9月7日
 一家全員が避難中の勝方寺の裏山で避難中、親戚である南摩一家と共に襲われ惨殺されたが、知る由もなかった。
  (母/おきと・妻/おやよ・姉/ふさ子・長女/おなお・長男/源太郎)

 9月11日
 熊倉の戦いでの大勝利に続き、一ノ堰などで奮戦の最中、命により軍事奉行/樋口源助たちとともに鶴ヶ城に入る。

 9月23日
 鶴ヶ城開城、猪苗代に幽閉 (謹慎)。

12月28日
 猪苗代から信州/松代藩への幽閉 (後に東京に変更) が通告される。

12月29日
 会津藩領の状況に無知な西軍は占領を続けていくことに不安を感じ、駐屯兵の減少と相まって源之助たち20名を残留 (居残り組) させ、地元取締の補助者に任命した。
  「謹慎ノママ居残リ取締リ申付ル
 滝沢本陣 (郷頭/横山邸) と、肝煎/吉田伊惣治宅に分けられて収容される。
 業務で外出の際にも、西軍の看守人付きであった。
 名を「源之助」から「主水」へと改める。
 会津の地に残留できたため、戦後の復興に着手する。
 まず、野ざらしにされていた戦死者の遺骸埋葬を認めさせるべく、交渉に奔走。

 肝煎/吉田宅に入った町野は、白虎隊士自刃したことや、隊士の遺体を妙国寺などに埋葬したため捕縛され遺体を元の場所に戻さざるを得なかったことなどを知る。

<幕末の軍制(続き)白虎隊士最初の埋葬地と併記>  .

明治2(1869)年   数え31歳

 遺体埋葬の嘆願を繰り返したが、軍務局からは、
  「官命いまだ許諾なければ、手をくだすべからず」
という決まり文句の返事だけしか返ってこなかった。
 らちが明かない日々が繰り返され進展がないため、軍務局の軍監への直接交渉をするも、軍監/山本登雲介は態度が横柄・非礼で進展しない。
 一命を賭しても埋葬せんと、軍監/山本と刺し違えて自刃しようと決意する。
 不穏な雰囲気は、軍務局にも伝わった。

 2月24日 (新暦では4月5日にあたる)
 雪が解け死臭が漂い始めたため、ようやく戦死者の遺骸を埋めることを認めた。
 小田山の西南方の畑地脇、通称/五社壇と呼んでいた場所を指定してきた。
 古くから藩士の馬や罪人を埋葬する不浄の地であり、とても呑める条件ではない。
 あまりの反発に驚いた軍務局は、“藩の処刑場近くなら” と言い出した。
 そこで、涙橋近くの寂れていた阿弥陀寺に埋葬することになった。
 その際でも、家族・縁者には、遺体に触ることすら許さなかった。
 餞民 (非人) による遺骸の取り扱いは、ごみを扱うように穴に投げ入れられた。
阿弥陀寺の戦死墓  余りのひどさに、伴百悦たちが餞民に身を落とし、陣頭指揮をすることになった。
 阿弥陀寺に収容しきれない遺骸は、近くの長命寺に埋葬した。
長命寺の戦死墓  各地に散乱している遺骸も近くに埋葬するなど、全16か所に総数で2,033体を埋葬したという。
 1,634体とも。
 埋葬には、2ヶ月を要した。

11月 3日
 斗南藩の立藩の時にも移住せず、若松北小路52番地に残留し、復興に尽力し続けた。

明治6(1873)年   数え35歳

 陸軍省が鶴ヶ城の建物を売りに出したため、主水は862円で落札した。
 しかし、翌7(1874)年に鶴ヶ城は、強制的に取り壊された。

明治7(1874)年   数え36歳

 佐川官兵衛たち旧/会津藩士300名と共に、警視庁巡査に就任する。

明治9(1876)年   数え38歳

 鹿島県(佐賀県)土木課御用掛に就任する。

明治15(1882)年   数え44歳

 6月
 諏訪伊助・辰野宗治たちと連名で「会津帝政党」を立党する。

明治16(1883)年   数え45歳

10月
 再婚の妻/よし子が死去。 33歳。

明治17(1885)年   数え47歳

 大沼郡長に就任。

明治20(1887)年   数え49歳

 梅宮兵三郎の長女/マツと、3度目の結婚。

大正2(1913)年   数え75歳

 先人の思いを引き継ぎ、戊辰殉難者の霊魂を永続的祀るため方陣設立を目指す。
 届け出るも認められず、4年の歳月をかけて請願を続ける。
 大正6(1917)年3月29日、やっと旧/内務省から認可がでる。
 「会津弔霊義会」の初代会長に就任した。

大正6(1917)年   数え79歳

 3月29日付
 「会津弔霊義会」が、内務大臣/後藤新平の名で財団法人として認可される。
 戊辰の役から50年の歳月が流れていた。

大正12(1923)年   数え85歳

町野主水の墓

 6月9日
 最後の会津武士といわれた町野主水が、激動の生涯を終えた。
 生前、息子/武馬に遺言を言い渡していた。
  一.我が亡骸は(こも)に包み、荒縄で縛って馬で曳かせる事
  一.葬列は標旗、提灯、抜き身の槍、抜き身の刀、
    それから死骸、僧侶、家族の順とし、全員徒歩たるべき事
  一.戒名は「無学院殿粉骨砕身居士」とせよ

 多くの藩士たちの屍を、棺に納めてやることが出来なかった。
 半年も放置され腐敗し、鳥獣の餌食となって朽ち果てていった。
 やっと埋葬が出来た時には、身元の判別すら難しかった。
  「立派な埋葬では泉下の仲間に申し訳が立たない
   自分の死後は城下に放置されていた仲間の藩士と同様に葬る事

と常々言い聞かせていたという。
 臨終に臨んでも、
  「我幾多の戦場を経たるも不幸にして君の御馬前に死するを得ざりしは、
   洵に恥ずる所なり、而して今や旦夕に迫る、
   願わくは遺骸を菰に包み葬儀を簡にし、槍を棺側に立つべし

と命じている。
  意に反して生き延びてしまった。
  会津藩が、何をしたというのだ。
  会津藩の、どこに罪があるというのだ。
  なぜ多くの婦女子が自刃し、多くの人間が殺されねばならなかったのだ。

 無念、悔しさ、悲憤、怨念は、計りしれなかったことを良く表している逸話である。

 遺言を忠実に守ろうとしたところ、警察から禁止の通告を受ける。
 遺体を菰に包み馬で曳かせたり、抜き身の槍や刀などの行列は認められないと。
 厳父に育てられた武馬も、武士の心得を失ってはおらず、頑として聞き入れない。
 結局、遺体を棺桶に入れるとの条件で、警察が目をつぶることになった。
 棺桶の上に菰をかぶせ、北小路の自宅から融通寺まで引きずって野辺送りがなされた。
 衆人環視の中の壮絶な光景は、多くの人々を驚愕させた。
 意中を知るや、沿道の皆々が涙を流したという。
  「簡粗なる葬列の先頭に槍を立て粛々として融通寺に至る
   沿道これを見るもの故人の意中を解し嘆称せざる者なかりし

 戒名だけは遺言を守らず、住職が命名した「武孝院殿顕誉誠心清居士」とした。
 これからは安らかに眠って欲しいと、息子/武馬の最後の親孝行だったのだろう。

≪    逸    話    ≫

 鴨居に吊るした半紙を槍で突いても、突き通すのは難しいという。
 突くときの勢いで風が巻き起こり、半紙が 捲りあがってしまうからである。
 源之助 (主水) は、半紙をまったく動かせずに突けたという。
 日々の鍛練を積み重ね、宝蔵院流の槍の達人だからこその極意だと称賛された。

 町野家には、蒲生氏郷公から下賜された先祖伝来の槍「宗近」を所有していた。
 この槍で源之助 (主水) は、禁門の変の時に2番槍の武功を挙げている。
 実弟/久吉も、三国峠の戦いで1番槍として奮戦するが銃撃され戦死し、槍は西軍に奪い取られてしまった。
 明治30(1897)年8月、山県有朋が没収していることを知った品川弥二郎が福島県の視察にやってきた際に「鑓を取り返してやろうか」と、主水の息子/武馬に申し出た。
 武馬が父/主水に伺った処、即座に、
 「戦場で失った物を畳の上で受け取れるか」
と一喝された。
 如何なる経路かは不明だが、現在、その槍は鶴ヶ城の天守閣に展示されている。

 大正元(1912)年、町野家の玄関にやってきて、大声で喚き始めた。
 ただならぬ雰囲気を感じた主水は、用心のため刀を身につけ応対に出た。
 主水を見るや大男の暴漢が殴りかかってきたので、刀を抜き峰打ちで撃退した。
 しかしながら、打ち所が悪かったのが暴漢は死んでしまった。
 殺人事件として警察が駆けつけ、大騒ぎになった。
 息子/武馬も駐在していた北京から帰還しするほどの騒動であった。
 やがて、近所の顔役が身代わりとして自首するなどと申し出る始末。
 暴漢は札付きの無頼漢であったことなどから、心臓マヒとして処理された。
  「近頃は殺人罪などといって大ごとなのだそうだ」
と不思議そうに悠然と笑っていた主水は、すでに数え74歳になっていた。

 大正6(1917)年8月、戊辰殉難者50年祭典の最中、式半ばにして大粒の雨に見舞われた。
 80歳に近い高齢の町野主水を気遣った市長が、
 「天幕の中に お下がり下さい」
と言うと、主水は
 「武士に向かって“下がれ”とは何事だ」
と一喝したという。
 すでに天幕内に避難していた参列者は、慌てて再び外に飛び出した。
 雨の中で何事もなかったように、式典は挙行された。

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