会  津  の  著  名  人

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《 く 》 幕 末 よ り 前

 国安  くにやす、生年不詳〜寛永9(1632)年
 名:清太郎。
 刀匠/2代兼定綱房の弟子で、初め刀銘を「光国」としたが、蒲生秀行公より「国安」を賜る。
 会津藩の鍔工で鍔や鏃 (矢尻) の名工といわれたが、極めて少ないものの大振りで実戦的な作刀をしているとのこと。
 栗村
  弾正盛俊
 くりむら だんじょう もりとし、
 永仁4(1296)年、盛俊が栗村の地を加増されて、七之宮 (喜多方市塩川町) から定林寺境内の西一帯に笠松館 (後の栗村館) を築き、移り住み、栗村氏と称する。
 水利の便が悪く不毛の地が多いことを憂慮し、栗村堰を開削して豊かな稲作地帯に変える決意をする。 屋敷内に祀っていた稲荷神社に開削工事の無事完成を祈ったところ、満願の夜、夢の中に稲荷神社の使い/狐が現れ堰筋を教えてくれるという。 夜明けに目を覚ますと、新雪の上に狐の足跡があったので、足跡に沿って堰の開削を開始。
栗村様感謝之碑  元亀元(1570)年、曾孫/盛清 (備中守弾正少弼) が竣工し、長さ13キロメートル強の用水路により荒地780ヘクタールが美田に変わった。 [写真は県立坂下高校の側]
 今なお流れは絶えずに田畑を潤しており、栗村弾正の偉業を偲び、栗村稲荷神社の御田植祭には、定林寺で墓前法要が執り行われる。
 定林寺に「栗村様感謝之碑」と、明治の神仏分離令で移された「栗村稲荷神社」の跡碑がある。
 栗村弾正の墓もあるが、中世の地頭の官職名/弾正台の略称/弾正は代々引き継がれており、盛俊ではないとのこと。
栗村稲荷神社の跡碑 栗村様感謝之碑
栗村弾正清正墓  文禄4(1595)年、栗村集落が坂下村と合併したため、栗村の名は堰名に残るのみ。

 子孫/憲勝の頃には、七之宮へ戻っている。
 憲勝の子/憲俊は、磨上原の戦いで討死。
 憲俊の子/清正は、父より先に病死し、屋敷跡である弾正ヶ原に墓が残っている。
 黒河内 揮  くろこうち き、寛保3(1743)年〜文化2(1805)年
 寛保1(1741)年〜享和3(1803)年とも。
 通称:十太夫。 字:天門。 号:画竜坊、節斎。
 藩士/木本成理の3男。 黒河内十左衛門高征の養子となる。
 実父/成理は、長沼流軍学の始祖/長沼宗敬の弟子/佐枝政之進に師事し、奥秘を得て会津藩に伝えたとされる。
 実父/成理から兵法を学び、江戸で長沼流佐枝派/岡田正勝から学ぶ。
 天明8(1788)年、軍制改革に貢献し、軍事奉行兼兵学師範となり、藩主/松平容住公や家老/田中玄宰に兵法を伝授している。

 黒河内五八郎は、こちら

 黒河内 松斎  くろこうち しょうさい、
 寛政6(1794)年〜安政5(1858)年5月13日 (65歳)
 名:高定。 通称:十太夫、松斎は号。
黒河内松斎  祖父/黒河内節斎に長沼流軍学を学ぶ。
 江戸でも名声を得て、将軍/徳川家慶から駒場での操練が命じられ、家慶自身も見学している。
 江戸藩邸で備後/福山藩士らに兵法を教えるなど、他藩への伝授も惜しみなく伝授している。
 番頭に就き、江戸湾警備の際に軍事奉行となり兼務する。
 墓は興禅寺
 軍事奉行を継いだ嫡男/式部は、戊辰の役のときには鶴ヶ城下で奮戦するも戦死。

《 く 》 江  戸  幕  末

 窪田 重太  生年不詳〜明治10(1877)年5月18日
 初名:重太郎。
 藩士/窪田伴次の長男として杣町にて誕生。
 元治元(1864)年、父/伴治が禁門の変で一番槍の手柄をたてるも戦死したため、弱冠13歳で家督を継ぎ、外様組付に就く。
 慶応4(1868)年8月23日、 鶴ヶ城下に迫ると 、白虎士中一番隊として甲賀町口郭門で奮戦。
 郭門が破られると入城し、手薄の熊野口郭門から侵入を図る敵兵を、小室隊と山浦隊の援護をして撃退 (天神橋の戦い)。
 同月27日、白虎士中一番隊二番隊の生存者を統合して白虎士中合同隊となり、西出丸防衛総督の家老/原田対馬の指揮下に入る。
 開城後は、猪苗代を経て、東京で幽閉 (謹慎) となる。
 斗南藩に移住するが、名を重太と改めて上京し、警視庁巡査に就く。
 明治10(1877)年、西南戦争が勃発するや、戊辰の役の屈辱を晴らさんと、別働第三旅団第四大隊一中隊二小隊所属 (植木口警視隊一番小隊/三等巡査) として出征し奮戦するも、熊本県中尾山で戦死する。
 「余の父は蛤御門の一番槍となって国に殉じた 余もまた国に死す いささかも悔ゆるところなし」。
 墓は愛宕神社。 「信忠霊神」。
 窪田 伴次  くぼた-ばんじ、文政9(1826)年〜元治元(1864)年7月19日 (39歳)
 伴治とも。 名:忠順。 通称 (初名とも):蔦次郎。
 藩士/吉村忠一と母/阿部氏との次男。 窪田直保の養子となる。
 松平容保の京都守護職就任に伴い、家老/内藤近之助信節隊の寄合組独礼として上洛。
 元治元(1864)年7月19日、長賊らは孝明天皇の拉致 (暗殺とも) を企て禁門の変を起こす。
 御所唐門を守ろうと大槍を振って「窪田伴次一番槍」と叫び、長賊らの中に突入し3人を倒すが、銃弾をあびて戦死。 続いて二番槍」と叫び突入した飯河小膳町野源之助も重傷を負っている。
 墓は京都/黒谷 (埋葬) と愛宕神社。 「武信霊~」。
 倉澤
 平治右衛門
 くらさわ へいじえもん、
 文政8(1825)年〜明治33(1900)年12月10日 (行年76歳)
 名:重為。初名:右兵衛。
 藩士/上田八郎右衛門氏彬6男、藩士/倉澤自閉の養子となり、後に若年寄に就任。 妻/“よね”は家老/諏訪伊助の長女。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い上洛し、公用公用人として活躍。
 慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦いに参戦。
 開城後は、高田で幽閉 (謹慎) となり、その後に斗南藩へ移住し、少参事の任に就く。
 藩の消滅後も五戸 (中ノ沢番外地5) に残り、残留した藩士の救済に尽力、自宅に私塾「中ノ沢塾」設け無償で多くの人材を輩出した。
 籠城戦の際、山本八重の髪を切った高木時尾を養女に迎えている。
 元新選組三番隊組長/斉藤一が時尾と再婚、しばし同居とのこと。
 墓は高雲寺。 「曹源院範岳儒翁居士」。
 黒河内
   式部
 くろこうち しきぶ、
 文化14(1817)年〜慶応4(1868)年8月23日 (享年52歳)
 兵法学者の藩士/黒河内松斎の嫡男。
 軍事奉行表用人などを歴任。
 慶応4(1868)年、軍制改革で全軍の総督に就任。
鶴ヶ城下に侵入するや、主力部隊が不在の中、在宅の者たちを率いて大軍の敵を迎え討ち奮戦するも、この日の最大の激戦地となった六日町郭門の近くで戦死。
 阿弥陀に合葬、墓は興禅寺
 黒河内
  伝五郎
 くろこうち でんごろう、
 享和3(1803)年〜慶応4(1868)年8月23日 (享年65歳)
 初名:義信。 名:兼規。 通称が伝五郎。
 御側医師/羽入良説義英の次男。
 黒河内治助兼博に師事し、居合術/神夢想無楽流を学び、兼博の養子となる。 居合術以外にも、柔術/稲上心妙流、手棒手裏剣術/白井流、薙刀術/穴沢流など多岐に亘る武芸を究め師範の域に達し、特に手裏剣と吹き針の名人だった。
 晩年に眼病で失明したが、それでも手裏剣は百発百中だったと云う。
 野矢常方に学び、和歌にも通じた文人であった。
 慶応4(1868)年8月23日、 鶴ヶ城下に迫ると、足手まといにならないようにと、北越戦で負傷した次男/百次郎と自刃した。
 長男/百太郎も砲兵二番分隊として奮戦するが負傷、翌日に自刃。
 墓は阿弥陀寺。 「進義院剣光尽忠居士」。
 黒河内
  友次郎
 くろこうち ともじろう、
 藩校日新館/武講頭取の藩士/黒河内傳八の弟。
 慶応2(1866)年、新選組とは別に京都の治安維持と藩主護衛のため、剣・槍・弓・馬術の内2つ以上の免許を持つ者で構成の精鋭部隊「京都常詰先備甲士勤 (別選組)」25名の中に選ばれる。
 鳥羽伏見の戦いでは、徳川軍の最前線で斬込隊として敵を食い止める大活躍するも、思いもよらぬ元将軍/慶喜の敵前逃亡によって退却を余儀なくされる。
 その後、義集隊/六番小隊々頭などに就き白河口などで奮戦。
 開城後は、謹慎を経て上京し、警視庁/二等巡査に就く。
 明治10(1877)年、西南戦争に出征し、積年の恨みを晴らすべく奮戦するも重症を負い、3日後に熊本鎮台病院で死去。

窪田重太  熊沢平助  栗村藤四郎  黒河内清次郎  黒河内只四郎  黒河内百太郎・百次郎  桑名宇太郎  郡内半五郎

《 く 》 幕 末 よ り 後

 日下 義雄  くさか よしお、嘉永4(1852)年12月25日〜大正12(1923)年3月18日
 幼名:五郎、初名:石田伍助、謹慎時:石田義雄。
 侍医/石田龍玄と母/ちえ子の長男として鶴ヶ城下にて誕生。
 母/ちえ子 (ちゑ) は、中村為七郎の長女。
 弟/石田和助は、白虎隊二番士中隊として飯盛山自刃した。
 2番目の妻/静子は、遠江浜松藩/2代藩主・出羽山形藩/初代藩主の水野忠精の娘。
 慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦いに参戦し負傷する。
 江戸へ戻り傷が癒えると、大鳥圭介軍と合流し各地で奮戦。
 鶴ヶ城の開城を前にして会津を脱出し、仙台にて再編された会津遊撃隊に加わり箱館戦争を戦い抜く。
 石田義雄の名で東京幽閉 (謹慎/増上寺)、その後に日下義雄に改名。
 明治4(1871)年、岩倉欧米使節団に加わりアメリカへ留学。 留学中に同じくアメリカ留学のた赤羽四郎山川健次郎と親友になる。
 ヨーロッパ視察中、ロンドンで経済学を学ぶ。
 帰国後、内務省に就き、太政官権大書記官などを歴任。
 明治19(1886)年、長崎県令 (後に知事と改称) に就任。
 同じ藩士だった北原雅長を抜擢し初代長崎市長に当選させると、立案していた長崎市の上水道 (本河内高部ダムなど) を完成させた。
 衛生上から長崎市と周辺の土葬を禁止する一方、中島川に吉野桜を数千本を植栽し桜の名所としたりなど、次々と施策を実施した。
 明治25(1892)年、同県出身者として初の福島県知事に就任。
 明治28(1895)年、招聘され弁理公使(常駐外交使節、外国大使)就任。
 明治32(1899)年、鉄道なくして会津の発展はないとして岩越鉄道株式会社を設立、明治30(1897)年に着工し、明治32(1899)年に磐越西線 (会津若松−郡山間) を開通させた。
 その後、第一銀行/常務取締役などの民間の役員も歴任している。
 明治35(1902)年、第7回衆院選で福島県郡部区から立候補し初当選。
 明治45(1912)年、第11回衆院挙で福島県若松市区から再び当選。
 その後も、東邦火災/社長などを歴任。
 墓は谷中霊園 (谷中天王寺に埋葬)。 墓域内に極悪人/民生局監察兼断獄/久保村文四郎を斬殺し獄死した井深元治の墓もある。
 栗村 五郎  くりむら ごろう、文久3(1863)年〜昭和14(1939)年
 号:羽山。
 藩士/栗村五郎左衛門の子として鶴ヶ城下にて誕生。
 開城後、斗南藩に移住。
 数年後には、若松に戻る。
 福島県土木課に就く。
 後に、警察吏、郡書記などの官職を歴任。
 その後、本郷町 (会津美里町) の町長、若松市 (会津若松市) の市会議員となる。
 画家/三橋杏村から南画を学び、多くの山水画を残している。
 黒河内 四郎  くろこうち (くろかわち) しろう、
 明治15(188)年7月〜昭和35(1960)年6月3日
 士族/香川氏の次男として若松町 (会津若松市) にて誕生。
 後に、士族/黒河内源治の養子となる。
 明治34(1901)年、会津中学校 (県立会津高等学校) を卒業、大島破竹郎は同級生。
 明治40(1907)年、東京帝国大学を29名中3番の席次で卒業、逓信省鉄道作業局に就く。
 大正4(1915)年、アメリカに留学し、帰国後に工務局保線課に就く。
 信濃川電気事務所長、鉄道電化調査委員会/委員などを歴任。
 大正13(1924)年、本省に戻り、保線課長に就任。
 建設局計画課長兼工事課長、建設局長、工務局長などを歴任。
 昭和5(1929)年、工学博士号 (東京帝国大学)を取得。
 昭和9(1934)年、退官。
 東京高速鉄道に役員/技師長として招聘され、新橋−渋谷間 (地下鉄銀座線) の地下鉄建設に携わる。 その後、湘南電気鉄道/役員、京浜電気鉄道/役員、東京環状乗合自動車/社長などを歴任。
 昭和18(1943)年、土木学会の会長に就任。
 太平洋戦争後は、富士山麓鉄道/役員、鉄道保安工業/役員を歴任。
 昭和28(1953)年、日本保線協会の初代会長に就任。
 昭和35(1960)年、小田原市の自宅で喜寿の天命を全うした。
 黒河内 信次  くろこうち しんじ、
 明治5(1872)年3月〜大正12(1923)年2月12日 (享年52歳)
 <陸軍少将、基隆要塞司令官>
 藩士/黒河内権之助の次男として北海道磯谷郡にて誕生。
 幼年学校を経て、陸軍士官学校へ進む。
 明治27(1894)年、陸軍士官学校 (5期) を卒業し、陸軍少尉に就き 、日清戦争の開戦で出征。
 同期に、松江豊寿奥田重栄がいる。
 野戦砲兵第七連隊/弘前、野戦砲兵第八連隊/旭川などを経て、野戦砲兵第七連隊中隊長、野戦砲兵第八連隊大隊長、山砲兵第二大隊長、弘前陸軍兵器廠長などを歴任。
 明治37(1904)年、日露戦争に出征。
 大正元(1912)年、中佐に昇進。
 大正 5(1916)年、大佐に昇進。
 大正 9(1920)年、少将に昇進。
 基隆要塞司令官として要塞整備などを歴任。
 大正11(1922)年、待命。
 大正12(1923)年、東京にて死去。
 黒河内 良  くろこうち りょう、
 安政3(1856)年2月〜大正10(1921)年6月7日 (享年66歳)
 初名:八三。 号:盤山。
 藩士/黒河内式部の3男として江戸藩邸にて誕生。
 10歳から鶴ヶ城下に移り住み、日新館に学ぶ。
 勉学中の13歳の時に戊辰の役が勃発。
 慶応4(1868)年8月23日、薩奸長賊らが鶴ヶ城下に至り、父/式部が防衛戦で戦死、乞うて護衛隊に入り籠城戦を戦い抜く。
 開城後は、伴百悦に従い、戦死者の遺骸埋葬に従事する。
 明治9(1876)年、永岡久茂による思案橋事件に連座し投獄される。
 出獄すると、北海道開拓使に就く。
 明治20(1887)年、上京し、警視庁警部に就任。
 南埼玉郡長、青森県警察・秋田県警察・香川県警察の部長を歴任。
 明治39(1906)年、朝鮮京城居留民長に立候補し当選。
 明治43(1910)年、韓国併合により退官。
 明治45(1912)年、発起人の1人として会津会を発足、初代/代表幹事に就任し、第6回まで務める。
 墓は興禅寺
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