喜多方市・熱塩加納村・塩川町・山都町・高郷村が合併(平成18年1月4日)。
江戸時代には、会津の北部にあることから、北方(きたかた)と呼ばれていた。
近年は、「蔵の町、ラーメンの街」として、全国的に有名。
≪蔵のまち≫
中町から西町から東町にかけて、酒蔵、米蔵、漆器蔵、座敷蔵などがならぶ。
三津谷地区にはレンガ蔵が並び、杉山地区には兜のような屋根の農家蔵がある。
各商店の店先には、屋号とのれんを掲げている。
各店ごとに、独自のデザインで、見ているだけでも楽しい。
≪観光馬車≫
・10時10分〜14時30分
・所要時間 40分〜50分
≪ペロタクシー≫
・10時〜日没まで
・初乗り500メートルまで\300円+以降100メ−トル毎に\50円
・NPO法人が、3台で運行しているとのこと。
"平打ち熟成多加水麺"呼ばれ、コシのある麺幅約4ミリの縮れ太麺を使った支那そば(ラーメン)。
あっさりしたしょう油味が基本的なベースだが、色合いや風味は店ごとに微妙に違い、同じ味の店はないといわれている。
具材は、3枚のチャーシュー、それぞれの店で味付けしたメンマ、小口切りしたネギ、なるとが入り、味付けタマゴが入らないのが基本である。
秀峰磐梯山と霊峰飯豊山からの、ミネラルをたっぷり含んだ伏流水に恵まれ、麺だけでなく、そこで育った野菜等と共に、他では出せないうまさを醸し出している。
日本三大ラーメン(札幌ラーメン、博多ラーメン)の一つ。
ラーメン店は、120軒ほどあり、人口比率では日本一多い。
年間100万人を越える観光客が、訪ねてくる。
喜多方ラーメン発祥の店である"源来軒"、喜多方ラーメンとして最初に紹介された"まこと食堂"、全国にチェーン展開している"坂内食堂"、蔵座敷で食べられる"あべ食堂"などが人気のようである。
60余店が参加している"老麺会"もある。
"ラーメン館"、"ふぶき亭"など、駐車場を完備した観光客相手の店も増えている。
小さい店ほど 当たり外れがないともいわれている。
大正末期から昭和初期に、中国から渡ってきた青年の藩欽星が、チャルメラを吹きながら、屋台で支那そばを売り歩いたのが始めといわれている。
その後、源来軒を開く。
しかし、現在の形になったのは、昭和20年代に大陸からの引揚者が、中国で得た知識をもとに、営業したことから始まる。
店は原則として、「不定休」なので、ご注意を。
「春夏冬中」という看板を掲げたお店が多いが、"秋"が無いことから、「商い中(あきないちゅう→営業中)」のこと。
≪源来軒≫
▲(喜多方市一本木上7745
Tel. 0241-22-0091)
≪まこと食堂≫
▲(喜多方市小田付道下7116
Tel. 0241-22-0232)
≪坂内食堂≫
▲(喜多方市細田7230
Tel. 0241-22-0351)
≪あべ食堂≫
▲(喜多方市緑町4506
Tel. 0241-22-2004)
≪老麺会≫
源来軒、まこと食堂、坂内食堂、あべ食堂も加入している。
≪会津喜多方ラーメン館、2号館≫
▲(喜多方市梅竹7254-1
ラーメン館 Tel. 0241-21-1414)
2号館 Tel. 0241-21-1417)
・10時〜18時(冬期間は、10時〜17時)
・休館日 12月31日〜1月1日
≪ふぶき亭≫
▲(喜多方市関柴町西勝字井戸尻48-2
Tel: 0241-23-1174)
肝煎屋敷と郷頭屋敷を移築し、穀物蔵、味噌蔵、酒造蔵、座敷蔵、勝手蔵など9棟を移築・再現してある民族資料館。
農民一揆での襲撃の跡も奥座敷の柱などに残っている。
≪旧手代木家住宅≫
江戸後期(天保年間)の村役である肝煎(上層農民)の住宅。
≪旧外島家住宅≫
江戸中期(明和年間)の村役である郷頭(上層農民)の住宅。
▲(喜多方市字押切2-109 Tel. 0241-22-6592)
・9時〜17時(入館は、16時30分まで)
・休館日 年末年始
平成2(1990)年、笹屋旅館の蔵座敷を美術館として開館したもの。
竹久夢二「秋のおとづれ」や、酒井三良、名取春仙、六曲一又、小川芋銭などの日本画や書、陶磁器なども展示してある。
明治12(1879)年創業の三代目が画商をかねていたため、逗留した画家も多かったという。
▲笹屋旅館(喜多方市字三丁目4844 Tel. 0241-22-0008)
・10時30〜16時
・休館日 月曜日、冬期間は土日祭日のみ開館
会津桐や桐の文化史や、桐製品を展示している博物館。
日本で最初の桐の博物館とのこと。
総桐箪笥、桐下駄など桐の小物や桐工芸品を販売もしている。
桐を使った物への絵付けや、ミニ下駄製作、下駄鼻緒付けなどの体験もできる。
▲(喜多方市字押切南2丁目12 Tel. 0241-22-1911)
・9時〜17時
寛政2(1790)年創業の酒造店
実際に酒造りをしていた6棟の酒蔵を公開している。
酒造りの道具の展示のほか、試飲コーナーもある。
▲(喜多方市字寺町4761 Tel. 0241-22-2233)
・9時〜16時30分
・休館日 年末年始
豪商や豪農から収集した700点の陶器や漆器が展示されている。
市役所の向かいにあり、レンガ造りの3階の建物。
万里焼などが、年代順に展示されている。
▲(喜多方市字梅竹7294-4 Tel. 0241-24-3576)
・9時〜20時(冬期は、10時〜20時)
県内一といわれた大地主風間善九郎邸の離れ屋敷を博物館にしたもの。
漆塗師の田中亨氏の作品を中心に、絢爛豪華な屏風などを提示してある。
2階には、漆の採取道具、漆器作りの道具なども展示されている。
▲(喜多方市字東町4095 Tel. 0241-24-4151)
・9時〜17時(冬季は、9時〜16時)
熊倉街道の北側にあり、「勝(すぐれ)の観音堂」といわれている。
茅葺で三間四面の寄棟造で、和唐折衷様式の建物。
観音堂は、国指定重要文化財。
本尊は十一面観世音菩薩で、会津三十三観音の第六番札所。
鐘楼にある銅鐘は、会津刀の名工である古川兼定の作による。
室町時代に、松島に向かっていた京都の女性の勝前(すぐれのまえ)が、この地で亡くなったため、偲んで建立された。
享禄2(1529)年に焼失、その後に幾度となく再建された。
現存するものは、寛文5(1665)年に保科正之公が再建したもの。
▲(喜多方市関紫町三津井字堂ノ上630)
・旧7月17日 祭礼
嘉禄3(1227)年、僧隆寛が開基し、多念義派の本山でもある。
隆寛は、浄土宗の開祖法然の高弟である。
木造の阿弥陀如来来迎三尊像(座像と脇侍)は、鎌倉時代の作で、国指定重要文化財。
会津十二支守り本尊の辰・巳(普賢菩薩)と午(勢至菩薩)。
会津二十一地蔵尊の一つ。
高さ2.41ルートルと巨大な仏像は、金色に輝く小さな千体仏の船形光背が特徴。
会津大仏と呼ばれている。
奥の新しい堂に安置されていて、拝観可能。
▲(喜多方市上三宮町上三宮字籬山833 Tel. 0241-22-1565)
・見学所要時間 40分
木造の薬師如来坐像は、88センチほどの寄木造漆箔押。
優雅で円満な面相は、藤原仏の面影をよく伝える傑作。
冷蔵庫に保管されている。
国指定重要文化財。
会津十二薬師の第三番。
▲(喜多方市関柴町関柴字赤坂)
天喜3(1055)年、源頼義が戦勝祈願のために会津若松市に創建。
その後、この地に遷座した。
本宮、新宮、那智の熊野三山を祀っている。
"長床"という拝殿があることで有名。
熊野三社本殿、文殊堂、観音堂が残っている。
長床は、藤原時代の寝殿造りの主殿の形式で、太い柱が44本が等間隔に並び、正面9の側面4間が吹き抜けになっている。
長床(拝殿)、銅鉢は国指定重要文化財で、銅鐘は国認定重要美術品。
境内にある大銀杏は、高さ30ートル、根本周り8メートルもあり、樹齢600年といわれている。
▲(喜多方市慶徳町新宮字熊野2258)
・境内に入るのにも、拝観料がいる。
・見学所要時間 40分
鎌倉時代初期の関東武士である佐原十郎義連公の孫、加納五郎左衛門盛時が城を構えていた場所。
応永9(1402)年、新宮氏に敗れ、佐原氏は滅ぶ。
東西160メートル、南北250メートルの大きさで、周囲を土塁と空掘で囲ってある。
東城と西城があったといわれるが、現存するのは西城の跡のみ。
▲(喜多方市上三宮町上三宮道上)
5世紀ごろの有力者の古墳。
周囲にも古墳があったが、開発により失われ、3基が残っているだけ。
直径17メートル、高さ5メートルで、 喜多方地方の中では最も大きい。
▲(喜多方市岩月町宮津字宮地、南沢田)
ひめさゆりが、山の斜面に群生している場所。
5月下旬から6月上旬頃に、うす紅色の花が咲き乱れ、ヒメサユリ祭りも開催される。
県外からも多くの見学者が訪れ、駐車場は満杯となってしまう。
会津・山形・新潟の亜高山帯と宮城県南部にしか自生していない貴重なユリ科の多年草植物。
種から一輪の花が咲くまで7年を要するといわれ、絶滅危惧類にも指定されている。
高さ約40センチ、広披針形の葉で、薄桃色の六弁花が咲く。
可憐な姿から、おとめゆり(乙女百合)とも呼ばれる。
▲(喜多方市熱塩加納町宮川字東舘山)
旧国鉄時代の日中線の終着駅である"熱塩駅"を改装保存した記念館。
当時としては珍しいメートル単位の間取りで造られている。
昭和13(1938)年、喜多方駅から熱塩までの11.6キロkの路線として開業。
山形県米沢までの計画であったが、第二次大戦、その後はマイカーブームの影響で再検討、昭和59(1984)年、国鉄の赤字再建のために廃線となる。
▲(喜多方市熱塩加納町熱塩)
・9時〜16時
押切川の上流に建設された多目的ダム。
高さ101メートル、堤長423メートルで、ロックフィルダムとしては東北有数の規模。
積み上げられた土と岩石は489万立方メートルにも及び、エジプトのクフ王のピラミッドの約2倍とのこと。
せき止められてできた湖は、募集により"日中ひざわ湖"と名付けられた。
▲(喜多方市熱塩加納町熱塩)
位置 北緯37度45分09秒、東経139度54分28秒
河川 阿賀野川水系押切川
大同2(807)年、空海が五峰山慈眼寺として建立。
その後、源翁禅師によって護法山示現寺として再建された。
源翁禅師は、栃木県那須の殺生石を鎮めたことでも知られる。
鉄の槌のついた大型ハンマーである大工道具「ゲンノウ」の語源にもなった僧である。
新潟の三条燕の生まれとの説もあるが、定かではない。
開山堂に、源翁作と伝えられる木像が安置されている。
奥州各地に、37ヶ所の末寺をもつ。
"椿彫木彩漆笈"は、国指定重要文化財。
予約すれば、座禅と法話の体験ができる。
≪観音堂≫
向って左側に建っている。
堂内には、千手観世音菩薩が安置されている。
会津三十三観音の第五番札所。
≪瓜生岩子(うりゅういわこ)の銅像≫
数多くの社会福祉事業に貢献し、明治のナイチンゲールといわれている。
仏教思想に基づく、育児事業の先駆者でもある。
現在の社会福祉組織の基礎を作った岩子の精神は、今なお受け継がれいる。
文政12(1829)年、北方の油商・若狭屋に生まれたが、9歳の時に父が病死し店も焼失したため、母の実家である熱塩村瓜生家に移り住んだ。
14歳に、会津藩医の手伝いを始める。
会津藩主から城中に招かれ、お誉めの言葉と金一封を授与された。
明治元(1868)年の戊辰戦争の際には、敵味方の区別なく看護した。
明治4(1871)年に上京し、東京深川の教育養護施設にて学ぶ。
その後は、社会福祉活動に一生を捧げる。
野口英世の母が、産婆の資格を取得する際にも協力している。
藍綬褒章を、女性としては初めて受賞している。
明治12(1897)年の皇后の見舞いに対して詠んだ和歌。
「老いの身の ながからざりし 命をも たすけたまへる 慈悲のふかさよ」
この2日後に、死去した。
境内の奥に、昭和7(1929)年に建立された銅像がある。
偉業を称えた銅像は、浅草浅草寺の公園内、福島市長楽寺の境内にもある。
蔵の里には資料が展示されており、誕生の地には標柱が建てられている。
瓜生家の墓地の中央にある墓石は、渋沢栄一男爵の筆跡である。
8月19日には、墓前祭が執り行われている。
≪加波山事件殉難志士顕彰墓≫
加波山事件とは、明治17(1884)年に起きた薩摩出身の横暴な栃木県令三島通庸らへの暗殺未遂事件のこと。
爆殺するための爆薬が、製造中に誤爆したため計画が発覚し、茨城県の加波山山頂付近に立てこもった。
自由民権運動の拡大を恐れた政府は、300人に及ぶ逮捕者を強盗などの罪で裁き、7人に死刑を宣告した。
明治15(1882)年には、薩摩出身の県令三島通庸の横暴さに耐えかねた農民千数百人が喜多方警察署に押し寄せた喜多方事件(弾正ヶ原事件)が起きている。
▲(喜多方市熱塩加納町熱塩温泉甲795 Tel. 0241-36-2031)
・1月4日 湯殿入り
・4月18日
・5月7日 開山忌
400年も続いた葦名時代の始祖である。
保延4(1138)年、三浦大介義明の七男として、三浦半島である相模国の佐原で誕生。
佐原(横須賀市佐原)に城を構え、佐原氏を名乗る。
治承4(1180)年の源頼朝挙兵に、一族と共に馳せ参じて御家人となる。
一ノ谷の合戦では源義経の軍に属し、"逆落とし"で真っ先に駆け下り武功をあげている。
奥州征伐での功も加わり、会津四郡を拝領。
建久2(1191、正治とも)年、地頭として幕の内村に居住する。
その後、半在家村の国府に館を築き、移り住む。
孫の光盛公になってから蘆名氏を名乗り、有力な戦国大名として400年の栄華を誇ることになる。
室町時代には、京都扶持衆として、自らを「会津守護」と称していた。
宝きょう印塔は、永仁6(1298)年に建立。
佐原義連公の墓は、半在家(宝きょう印塔)の他に、在城の岩尾館(五輪塔)、三浦半島の佐原の万願寺(五輪塔)の3カ所にある。
寛文8(1668)年、保科正之公が山崎闇斎に調査を命じ、3代/松平正容公が元禄8(1695)年に墓のそばに碑文などを建立した。
▲(喜多方市熱塩加納町半在)
塩川物産館「川番所」の2階にあり、河川に関する資料を展示している。
シアターコーナー、ライブコーナー、河川データベースコーナー、パネルコーナー、図書コーナー、みんなの川の情報コーナーなどがある。
屋外には、復元された和船「日橋丸」も展示してある。
「あがらんしょ」とは、会津地方の方言で「あがってください」という意味。
▲塩川物産館「川番所」(喜多方市塩川町字東栄町1-1-1 Tel. 0241-27-8691)
・10時〜18時(冬季間は、10時〜17時)
・休館日 火曜(祝日の場合は翌日)、年末年始
5世紀後半から6世紀初頭の豪族が住んでいた国内最大級の居館跡。
東西約230m×南北約220mの小高い所にあり、幅5メートルの堀と柵が四角二重に配置されており、内側に竪穴住居があ
居宅のほか、倉庫や祭祀の施設が確認されている。
国指定史跡。
▲(喜多方市塩川町字大田木字古屋敷)
明治15(1882)年、県からの強制労働(三方道路)に反対し農民数百名が結集した場所。
弾正ヶ原は喜多方事件(弾正ヶ原事件)がなければ、たんなる武将の栗村弾正清正の屋敷跡であるが、自由民権運動発祥の地として全国的に有名になる。
弾正ヶ原事件とは、薩摩出身の県令三島通庸の横暴さに耐えかねた農民千数百人が、弾正ヶ原に集結して喜多方警察署に押し寄せた事件。
事件の発端は、強引に進めた三方道路の建設を、15歳以上60歳以下の男女すべてに、2年間毎月1日の賦役を負わせたことから。
工事現場は、住む所から80里も離れていることも多かったという。
役夫に出れない者には、男1日分金15銭、女は10銭の罰金を科した。
払えない者には、戸板、畳、戸棚の道具や種籾に至るまで差し押さえて競売にする冷酷さであった。
▲(喜多方市塩川町新江木719)
江戸幕府によって全国に設置された一里塚の一つで、旧米倉街道沿いにある。
東側が直径14メートルで高さ3メートル弱、西側が直径12メートルで高さ3メートル弱ほどの2.8mほどの大きさ。
代表的な一里塚の形状を保っており、貴重なもの。
▲(喜多方市塩川町小府根)
そば資料館、そば伝承館などからなる。
そばの栽培から、製粉、そば打ちまでを紹介している。
そば打ち体験や、打ち立てのそばを味わうこともできる。
冬の雪を保存しておく「雪室」の建物が、駐車場を隔ててある。
▲(喜多方市山都町字沢田3077-1 Tel. 0241-38-3000)
・9時〜16時30分
・休館日 月曜(祝日の場合は、翌日)、年末年始
沼ノ平地区の5ヘクタールに、100万株の福寿草が群生する。
3月下旬から4月上旬には黄色い花が咲き誇り、春の訪れを告げる。
開花時期に。「福寿草まつり」が開催される。
キンポウゲ科の多年草で、山林に生育する毒草である。
春を告げる花から、元日草(がんじつそう)、朔日草(ついたちそう)とも呼ばれる。
▲(喜多方市山都町沼ノ平地区197)
明治43(1910)年に、長さ 445m、高さ 17mk石造りの鉄橋として完成。
当時は、東洋一といわれる。
飯豊山を背景に、蒸気をあげて走るSLは感動もので、鉄橋を渡る撮影スポットとして有名。
▲(喜多方市山都町舟岡)
年老いた小野小町が、生まれ故郷の出羽ノ国に里帰りする途中、病にかかり、この地で亡くなくなった。
村人たちは供養のために、小町の塚の上に五輪の塔がおかれたと 伝えられている。
新編会津風土記にも記載がある。
元の五輪の塔は、風化が激しく、昭和53(1978)年に新しく建て替えられた。
▲(喜多方市高郷大字峯字家ノ西地内)
雪どけの遅い会津にも、ようやく春が訪れ、梅と桜が一時に咲き誇っているころ、尾登(西会津町)の方から丸山(利田領地)にかかり、峠道をとぼとぼと下ってくる老女があった。老女が利田の村へ入ったとき、あたりはすっかり夕闇に包まれてきた。老女は一軒の農家の門口に立った。「私は出羽の国まで旅をしている婦でございます。一夜のやどをかして給われ」
と頼み込んだ。見るからに疲れ果てているという様子、どこか京なまりのある気品をたたえた容貌であった。トンボ(玄関口)に立った農夫は、 「お見かけするところお疲れの様子、これぞとお構いもできないげんじょ、いろりの焚き火と、温かいかゆ等進じられっから、どうぞお泊まりくなんしょ」 旅の老女は、ほっとした安堵の様子が見えた。老女はいろりそば近く案内され、白然にむかし語りなど始めていた。いろりの焚き火に照らし出された顔を見た農夫は、ハッと息を飲んだ。 「もしかして、あなた様は、京都の小野家の屋敷の小町様ではありませんか。私はその昔京夫として上げられ小野家の用人として働いたものでございます」 「あっ、やっぱりそうでしたか。私ははじめあなたが挨拶したときから、あの時の若い方と悟っておりました」 そこで二人は、いろいろな昔語り、乞食同然の姿で旅に出た訳など話し、お互いに袖で涙をしぼり、夜のふけるのも忘れて語り合った。
〜〜〜
年老いて身分を矢い、このような姿で旅を続ける道すがら、利田の村を通ったのである。 農夫は、京都にいた三年、小野家に仕え、特に同じみちのくの出ということで小町には特に目をかけてもらった。あれから何十年農夫は、今もって小町のことを忘れられないでいた。 次の日、農夫は小町を案内して田面まで出かけた。田面の桜は今を盛りと咲き誇るかのようであった。小町は、大そうに喜び、「みちのくのうどの桜と人問はば会津のそとの田面のさと」と一首の歌を作り、農夫に渡したのであった。 すすめられるままに、小町はいく日か利田の農家に逗留した。
そのうちに、旅の疲れがでたのか、小町は病となり、農家夫婦の親身の看護のかいもなく、遂に利田の農家でなくなった。農家の夫婦は、申すに及ばず、村中の老若男女、小町の死を悲しみ、村はずれに塚を築き、ていねいに葬った。
|
熱塩温泉山形屋
|
|
ひめさゆりの宿ゆもとや
|
国道121号沿い
日帰り温泉「蔵の湯」も併設されている。
▲(喜多方市松山町鳥見山字三町歩5598-1
Tel. 0241-21-1139)
≪国認定重要美術品≫
・木造釈迦如来立像【太用寺】
≪国選定登録有形文化財≫
・若喜商店店舗、座敷蔵、煉瓦蔵
・甲斐家住宅蔵座敷
・甲斐家住宅店蔵、醤油蔵