ネ  ッ  ト  で  参  詣

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示 現 寺  (喜多方市)

▲(喜多方市熱塩加納町熱塩温泉甲795 Tel. 0241-36-2031)
 源翁禅師(源翁和尚・玄翁和尚)については、こちら。
 [史料]   .


入口の碑文 入口

 門前の駐車スペースに停める。
 見上げると、石段の先に総門が見える。



芭蕉の句碑

 石段の途中に、芭蕉が山中温泉で詠んだ句碑がある。
   「山中や菊はたおらぬ温泉のにほひ
 弘化2(1835)年、建立。
 “温泉つながり”?

総門

総 門

 午前6時に開門され、午後5時に閉門される。

総門
 この総門は南北朝時代の永和元年 (一三七五) 曹洞宗の源翁禅師開山になる名刹本山示現寺の玄関に当り、華麗な彫刻はないが安土桃山時代の作風を汲む豪壮清楚な四脚門は江戸時代寛保年間 (一七四一) 以後の建立である。
 中央上を仰げば頭貫上に、「第一義」の扁額があり、曹洞宗の根本、只ひちすらに座禅をなし悟りの道を得る「只管打坐」を意味する。
 構造を見ると一門一戸、梁間二間、瓦葺の円柱四脚門である。 中央左右に立つ二本の本柱は扇筋の柱といい、前後に二本ずつの控柱を備え、自然石の礎石の上に礎盤をあしらう柱が立つ、重厚な頭貫、組物、龍を彫る蟇股二段垂木の美しさ、側面から見ると切妻の破風板は二重破風を表現し、中央に拝懸魚、その下に左右の降懸魚、内部に大紅梁、大瓶束などが見え、総欅製のこの山門は会津における近世建築の代表的なものとなっている。

平成十一年六月一日指定 第六号    .
熱塩加納村教育委員会    .

 左手に祠が2か所、その次に新しい観音像がある。   
 観音像の後ろに、会津三十三観音の一つである観音堂がある。
 地蔵や、石造りの小さな祠も。
祠 祠 観音像 地蔵

小さな祠
掃除小僧 掃除小僧
 右手に、新しい掃除小僧の像がある。 お顔は、幼くない。
 釈迦の弟子の中で最も頭が悪い/注荼半諾迦 (小路) がモデルといわれ、「愚路」と陰口をたたかれていた。
 他の弟子や兄/マハー・パンタカ (大路) と違い、学問や知識だけに頼らず、毎日掃除に専念し継続することによって釈迦の教えを会得し、遂に十六羅漢の1人に選ばれるまでなった。

山門

山 門

 正面に、鐘楼様式の山門がある。
 会津では、他に類を見ない。
山門



 観音堂と山門だけは焼失を免れている。
 その先の本堂の赤い屋根とのコントラストは好きである。


本堂

 本 堂

本堂 本堂

示現寺の観音堂

観音堂

 本堂に向って左側に建っている。
 焼失を免れており、唐様の松や菊透かし彫りの彫刻は見事。
 堂内には、千手観世音菩薩が安置されている。
 会津三十三観音の第五番札所


天地人の中心で愛を叫ぶウォーク」 天地人の中心で愛を叫ぶウォークの説明文

 「天地人の中心で愛を叫ぶウォーク 愛 直進
の看板に誘われて、本堂から庫裏への渡り廊下を横切って進む。
 手書きの案内板が見える。

開山堂
座禅石の説明文  石段を登った正面、白亜の建物は源翁禅師の遺物が納められています。
   座禅石 (殺生石) →
 当寺、開山の源翁禅師は那須で殺生石に九尾の狐をあやめた有名な伝説があります。・・・・禅師は、この石に座して水に写る自分の顔をスケッチし、自像を刻んだと云われ、その木像は開山堂に安置されてあり、毎年五月六・七日の開山忌に本堂に移して盛大に供養が行われます。

熱塩温泉組合    .

座禅石

座禅石

 右手に小さな池を携えた庭園がある。
 蓮の花が咲く。
 池の端の桜木の下の丸い石が「座禅石」である。
 源翁禅師の木像は、水面に映る自らの姿を彫ったもの。


キリシタン地蔵 ?

キリシタン地蔵 ?  地蔵菩薩群の中に、右手に持つ錫杖らしくものに、はっきりとした十字が刻まれた石仏 (ゐ?月院大姉菩提) がおり、石畳の墓域に向かい合って石仏が並び、正面にある石塔は一般的な五輪塔とは明らかに異なる形をしている。
キリシタン地蔵 ?  並び方は、あたかも修道院などで行われる礼拝 (ミサ) の様子に見える。

 キリシタン大名/蒲生時代に大事にされた寺が3寺 (興徳寺・川桁/観音寺) あり、その1つが示現寺。

正安の碑 正安の碑の現地板

正安の碑 .

 開山堂への石段の途中、左手にある。

 この碑は一般に「正安の碑」又は「孝子の碑」と呼ばれており、石製塔婆の一つで「板碑」という。 板碑は鎌倉時代より 追善・供養・墓碑などの目的で 関東地方に於いて発生したものとされる。
 「新編会津風土記」によれば「△古墳客殿の南にあり何人の墓なること詳ならず・・・・」とあり、東北型といわれる自然石の一面の扁平な四方に縁をとり、その中に蓮華座の上に梵字三つ、最上部は<アン>で無量寿如来 (阿弥陀仏) 下二つ右は<サ>で観音菩薩、左は<サク>で勢至菩薩を表わし、、「阿弥陀三尊」を意味している。 梵字の下中央に「正安三年 (一三〇一) 七月廿三日、孝子敬白。」 右側に「諸行无常・是正滅法、」 左側に「生滅々己」・寂滅為末」の字が陰刻されている。
 この碑は真言宗時代の本村唯一の板碑で、当時の信仰を知る貴重な歴史資料である。
平成十一年六月一日指定 第七号    .
熱塩加納村教育委員会    .

開山堂

開山堂

 死を悟り、自らを彫り込んだ木像を安置。
 境内の石に腰を掛け、池に映る自分の顔を刻んだという。
 源翁禅師に由来する遺物も納められている。
 5月6〜7日、木像が本堂に奉安され、開山忌が催される。

源翁禅師の墓

源翁禅師の墓 .

 本堂の脇の斜面にある。
源翁禅師の墓  真新しい柵で囲まれていた。
 源翁禅師の墓については、こちら。

 殺生伝説では、あまりにも有名。
  

瓜生岩子の墓

瓜生岩子 (うりゅういわこ) . の墓

 数多くの社会福祉事業に貢献し、明治のナイチンゲールといわれている。 仏教思想に基づく、育児事業の先駆者でもある。
 現在の社会福祉組織の基礎を作った岩子の精神は、今なお受け継がれいる。
 源翁禅師の墓より、本堂寄りの上の墓域にある。
 瓜生家の墓地の中央にある墓石。
 書は、渋沢栄一男爵による。
 8月19日には、墓前祭が執り行われている。

 文政12(1829)年、北方の油商・若狭屋に生まれたが、9歳の時に父が病死し店も焼失したため、母の実家である熱塩村瓜生家に移り住んだ。
 14歳に、会津藩医の手伝いを始める。
 会津藩主から城中に招かれ、お誉めの言葉と金一封を授与された。
 明治元(1868)年の戊辰戦争の際には、敵味方の区別なく看護した。
 明治4(1871)年に上京し、東京深川の教育養護施設にて学ぶ。
 その後は、社会福祉活動に一生を捧げる。
 野口英世の母が、産婆の資格を取得する際にも協力している。
 藍綬褒章を、女性としては初めて受賞している。
 明治30(1897)年の皇后の見舞いに対して詠んだ和歌。
  「老いの身の ながからざりし 命をも たすけたまへる 慈悲のふかさよ
 この2日後に、死去した。

 瓜生岩子の略歴については、こちら。

 「天地人の中心で愛を叫ぶウォーク」は、開山堂の裏へと向かっており、さらに背後の五峰山の頂上まで約20分程度の山道が続いている。 途中の道端には三十三観音の石仏があるのだが、今では枯草に包まれてお休みになっている。
 これより険しい山道となります。
 登山における事故については、一切責任を負えません。
 自己責任においてお登り下さい。
 今回はウォーキングでないので、石段を下り本堂の方に戻る。

瓜生岩子の銅像

 昭和7(1932)年に建立 (雨宮次郎/作) されたが、戦争で供出。
 昭和30(1955)年、再建。
示現寺の現地板 示現寺の現地板  佐藤恒三/作。

<「瓜生岩子の銅像」と併記>  .

 偉業を称えた銅像は、東京/浅草寺、福島/愛育園などにもあり、遺志は阿佐谷保育園などで、今なお引き継がれている。
 蔵の里には資料が展示されており、誕生の地には碑が建立されている。
 銅像については、こちら。

加波山事件殉難志士顕彰墓

《横山信六君之墓 . 》 《三浦文次君之墓 . 》  《原利八君之墓 .




加波山事件殉難志士顕彰墓の現地板
 明治17(1884)年、栃木県令に転出した極悪人/三島通庸らへの暗殺未遂事件のこと。
 爆殺するための爆薬が、製造中に誤爆したため計画が発覚し、茨城県の加波山山頂付近に立てこもった。 自由民権運動の拡大を恐れた政府は、300人に及ぶ逮捕者を強盗などの冤罪で裁き、7人に死刑を宣告した。

 名誉が回復したのは明治43(1910)年で、26年を要した。
加波山事件殉難志士顕彰墓の現地板 加波山事件殉難志士顕彰墓の現地板  横山信六三浦文治の墓は、東京/谷中霊園にある。
 明治15(1882)年に、県令の極悪人/三島通庸の横暴さに耐えかねた農民千数百人が喜多方警察署に押し寄せた喜多方事件(弾正ヶ原事件)が起きている。


示現寺足湯

示現寺足湯

 駐車場へもどる。
 門前は温泉街であるが、向かいに足湯がある。


引水

 ゆとりがあれば、温泉神社の大杉を見に行こう。
 温泉街から神社へ入る道の角に、パイプで引かれた水が、鼓動を打っているように流れ出ている。


温泉神社

温泉神社

 子供の頃は「小峯神社」だったと記憶しているが、別の神社だったのか?

温泉神社の大杉

温泉神社の大杉

温泉神社の大杉の現地板  温泉神社拝殿前にそびえるこの大杉は自然生の杉で、目通り周囲六.五メートル・樹高約二十五メートル位あり樹齢一千年とも言われているが定かでない。
 元は、この杉の根本に草創の年代は不明ではあるが、山の神である大山祗神を祀る山神社の小石宮がありその御神木といわれ、旅人の崇敬を受けてきた由緒あるものである。
 この杉は永年の風雪に耐え生きつづけてきたが大正九年 (一九二〇) 四月十七日の温泉大火による飛び火によって外皮の一部が焼損しているが、樹勢はまだまだ旺盛である。
 この御神木は、本村樹木の中において最も古くから最大であり信仰とまた植物生態学からも貴重な存在である。
 現在、杉は本村の象徴の一つであり「村の木」に指定されている。
   平成五十八年三月十九日 指定第一号
熱塩加納村教育委員会    .
 駐車場に戻る。
 疲れた足を、足湯で癒すも良し。


耳の神様

耳の神様

 温泉街を抜ける辺りにある。
耳の神様の現地板
 ここに祀られてある神さまは「耳の神様」で 通称「ツンボの神様」と呼ばれていました。 三本の大木の根元が空洞になっており 人間の耳の穴を連想して、ここに昔の人は神様をお祀りしたのです。 現在 大木は栃の木 一本だけです。
 昔は カエデ (目薬の木)、センの木の大木もありましたが、通行に被害をおよぼす恐れがありましたので 二本は切られてしまいました。
 この神について物語が村人たちに語り継がれています。 つんぼは方言で耳の聞こえない人のことです。 神は大きな栃の木の根穴を祠にして、祀られています。 昔 洞窟のようなところを耳の悪い乙女が毎日 手を合わせて行き来していると、いつしか乙女の耳が聞こえるようになりました。 その後 耳の神として 方言でツンボの神様といわれたのでしょう。
 また、根穴の中に沢山のお椀が飾ってあります。 横から見たお椀が耳の形に似ていることから、お椀の底に穴を開け耳の通りや耳の病気が良くなるように奉納されたものです。
 このような昔ながらの民間信仰が医学の発達した現在もあります。

以上の緑色の文は、現地の「説明板」から
画像クリックで現地の説明板の写真表示も一部あり
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