会  津  の  著  名  人

[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]    [50音メニュー]

《 よ 》 幕 末 よ り 前

 横田 俊益  よこた とします、元和6(1620)年〜元禄15(1702)年 (83歳)
 幼名:三平。 通称:三友、養拙、何求斎。
 <儒学者、藩教学の祖>
 山内氏の末裔である豪商/倉田俊次の3男として鶴ヶ城下 (大町角) にて誕生。
 父/俊次から旧姓の横田を名乗り、勉学に励むよう命じられる。
 幼き頃から秀でており、9歳で観音経・般若心経、11歳で連歌・茶道・謡曲、13歳で四書・詩経・論語を学び、諸学・諸芸に長ける。
 寛永13(1636)年、17歳で儒学者・儒医/堀杏庵に師事。
 寛永15(1638)年、朱子学派儒学者/林羅山に師事。
 帰郷し、加藤明成公に仕える。
 寛永20(1643)年の明成公改易では、従えず会津に残留。
 後に江戸に上り、幕府の朱子学派儒学者/林復斎 (林大学頭) から高い評価を受けるが、家を継ぐため帰郷。
 明暦2(1656)年、保科正之公の侍講に就く。
 寛文2(1662)年、侍講を辞任。
 寛文4(1664)年、日本初の郷学とされる学問所「稽古堂」を創設し、堂主/無為庵如黙を支えて士民の教育に尽力、藩教育の礎を築き、後の藩校/日新館へとつながる。
 著書「土津神霊言行禄」など。
 墓は大窪山墓地。
 横山 常尹 横山常尹の墓  よこやま つねただ、
 元禄15(1702)年〜明和3(1766)年3月8日
 通称:主税。
 松平正容公の継室/祐姫の甥。
 寛保元(1741)年、奉行に就任。
 宝暦 4(1754)年、若年寄に就任。
 明和 3(1766)年、若年寄在任中に死去。
 墓は大窪山 (現地図に記載あり)。
 横山 常徳  よこやま つねのり、
 寛政10(1798)年〜元治元(1864)年8月7日 (数え67歳)
 通称:主税。  <江戸詰家老>
 横山伝兵衛常明の次男。
 兄/五八郎常元の養子となり、家督を継ぐ。
 安政2(1855)年、江戸常詰の若年寄に就任。
横山常徳之墓  安政3(1856)年、家老に就任。
 「江戸・三家老」と称された名家老の一人。
  (水戸藩/武田耕雲斎、宇都宮藩/間瀬和三郎)
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任の内命では強硬に固辞すべきと進言したが、容保の決定に従い公用局を設けて体制作りに尽力。
 元治元(1864)年、病のため帰国。
 禁門の変の報を病床で聞き、藩の将来を憂いつつ死去。 「智徳院殿勇建日照居士」。
 墓は大窪山

 2人の実子 (常晴・常義) が早世したため、長男/常晴の許嫁/日向次華 (利衛とも) の娘と結婚した山川源八常道の子/主税常守を養子とするも、戊辰の役にて白河口で戦死してしまう。
 吉村 寛泰  よしむら ひろやす、明和6(1769)年〜嘉永6(1853)年  <儒学者>
 幼名:八十之助。 通称:嘉右衛門、新兵衛。 号:千年。
 藩士/吉村貞右衛門の長男として鶴ヶ城下にて誕生。
 天明 4(1784)年、軍事方平役に就く (16歳)。
 寛政 3(1791)年、江戸詰になり、松平容頌公の侍講に就きつつ、儒学者/古屋昔陽に師事して古学を学ぶ。
 寛政 9(1797)年、江戸屋敷内学館の助教に就任。嘉右衛門に改名。
 寛政10(1798)年、医学館都講に就任。
 文化11(1814)年、「日新館志」の撰述を拝命し起稿。
 文化13(1816)年、上京して資料収集に励むと同時に、儒学者/林述斎や古賀精理らに序文執筆を依頼。
(naka-下)  文政 6(1823)年、「日新館志/30巻」が完成し、松平容敬公に献上された。
 藩校/日新館の構造・学制を中心に、会津の学術・技芸・神道・歌道・天文算術・雅楽謡曲・書学や、伝記・伝説、文武百般などを網羅している力作で、今でも資料として高い評価を得ている。
 完成に至るまでは、家屋敷や家財などを売却し資金を捻出するなど苦労の年月だったという。
 墓は大窪山 (現地図に記載あり)。
 「青雲院遂成日光居士

《 よ 》 江  戸  幕  末

 横山 常守  よこやま つねもり、
 弘化4(1847)年12月8日〜慶応4(1868)年5月1日 (享年22歳)
 通称:主税。 諱:常忠。
 山川源八常道と日向次華(利衛)の娘との長男として父の死後に誕生。
 父/常道が横山家の養嗣子になる予定だったため常忠が養子となる。
 元治元(1864)年、松平容保の京都守護職就任に従い上洛していた養父/常徳が病のため帰国後に死去したため、家督を継ぎ上洛し、御書簡勤に就く (18歳)。
 慶応3(1867)年、将軍の名代/徳川昭武の随行員に任命され、パリ万国博覧会に列席のため渡欧し、ナポレオン3世や英国女王にも謁見。
 常忠と海老名季昌は昭武から遊学の許可を得て、来日したことのあるフランス人/カシヨン宅に同居し、必死で勉強に努め、軍制・行政・司法・教育などの諸制度を半年で驚異的に習得、ロシアを含む欧州各国のなどの視察をして、帰国した。
 帰国して間もなく戊辰の役が勃発。
 江戸総引き揚げ後は、遊撃隊を編成し指揮下に置き、青龍隊中隊頭として三代口に布陣する。
 間もなく若年寄に就任し、白河城への出陣を命じられ、総督/西郷頼母の副総督として白河城に入る。
 5月1日、優勢な兵力を保持していたにもかかわらず、総督/頼母の愚策により味方は各地で苦戦を強いられ、崩壊寸前の部隊を懸命に叱咤し先頭にたって奮戦する、磐城/白河稲荷山で敵弾を受け戦死する。
 激戦のため遺体収容の余裕すらなく、やっと首だけを従者/板倉和泉 (山室鉄四郎とも) が持ち帰ったという。
 「副総督横山主税自ら采配を振って衆を励し 稲荷山に登るや忽ち弾丸に中りて斃る 戦ひ猛烈にして遺骸を収むるに遑あらず 従者板倉和泉 纔に首を馘して退く
 前途を嘱望され、才能と見聞を踏まえた新たな良き時代を導いたであろう若き逸材が、また一人、開花させる機会もなく消え去った。
 「常忠霊神」。
 墓は大窪山墓地 (首塚)。
 米澤 昌平  よねざわ しょうへい、
 天保11(1840)年〜慶応4(1868)年4月22日(23日とも) (享年29歳)
 藩士/米沢淳八の子。
 幼い頃から才智の誉れ高く、藩校/日新館で頭角を現す。
 文久元(1861)年、藩命により昌平坂学問所(昌平黌)で学ぶ。
 品行方正な気質で、清廉潔白を信条としていた。
 慶応3(1867)年、江戸大砲隊に加わり、上洛。
 鳥羽伏見の戦いに参戦、思いもよらぬ元将軍/慶喜の敵前逃亡により、やむなく撤退し江戸に戻る。
 充分に勝機ありと建言するが、非戦論の勝海舟に妨害される。
 勝海舟の暗殺を企てるが、広沢安任に諭され取り止める。
 江戸総引き揚げの際には、江戸に残留
 脱藩して旧会津藩上屋敷「和田倉内七連隊屯所」に参加した7名の1人。 大鳥圭介率いる旧幕府軍/伝習第一大隊参謀に招聘され、幕僚/参謀に就く。
 野州各地で奮戦するも、下野/安塚 (鹿沼市) で狙撃され戦死。

横田普通  横地源四郎  横山三郎  横山新太郎  横山新平  横山定五郎  吉川寅松  好川龍之助  好川龍三郎  善蔵  吉田善七  吉田義助  吉田長治  吉田鶴太郎忠知  善治

《 よ 》 幕 末 よ り 後

 横光 利一  よこみつ りいち、
 明治31(1898)年3月17日〜昭和22(1947)年12月30日 (満49歳)
 本名:横光利一 (としかず)。  <小説家、俳人、評論家>
 父/梅次郎と母/小菊の長男として東山温泉の旅館「新瀧」で誕生。
 鉄道の設計技師の父/横光梅次郎は、岩越鉄道 (磐越西線) の開通工事に従事し、東山温泉に宿泊していた。
 本籍地は、父の大分県宇佐郡長峰村。
 幼少期は、父の仕事の関係で、千葉県・東京府・山梨県・三重県・広島県・滋賀県など各地を転々とする。
 大正 5(1916)年、早稲田大学高等予科文科に入学。
 大正 6(1917)年、早稲田大学高等予科文科を休学。
 大正 9(1920)年、友人/佐藤一英から菊池寛を紹介され、師事する。
 大正11(1922)年、「南北」を著し、作家の道を踏み出す。
 大正12(1923)年、代表作の1つ/卑弥呼を題材の「日輪」を著す。
 同年、菊池寛が創刊した雑誌「文藝春秋」の同人となる。
 大正13(1924)年、代表作の1つ「頭ならびに腹」を著す。
 同年、川端康成らと「文芸時代」を創刊する。
 昭和 3(1928)年、「新選 横光利一集」が改造社から刊行。
 昭和 5(1930)年、代表作の1つ「機械」を著す。
横光利一の墓  昭和 6(1931)年、 〃「上海」を著す。
 昭和10(1935)年、 〃「純粋小説論」を著す。
 同年、文芸懇話会賞を受賞。
 昭和12(1937)年、代表作の1つ「旅愁」の新聞連載を開始。
 昭和22(1947)年、東京都世田谷区北沢でにて死去、長年にわたる大作「旅愁」が未完となる。
 墓は多摩霊園
 墓石正面の「横光利一之墓」は川端康成の書。
[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]    [50音メニュー]