会  津  の  著  名  人

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《 と 》 幕 末 よ り 前

 徳一については、こちら

 徳川 振姫  とくがわ ふりひめ、
 天正8(1580)年〜元和3(1617)年8月29日 (享年38歳)
 徳川家康と側室/於竹 (穴山氏) との3女。
 文禄4(1595)年、豊臣秀吉の命で蒲生秀行公と婚約。
 同年に秀行公は父/蒲生氏郷公の急死により13歳で家督を継ぐ。
 慶長元(1596)年、秀行公へ嫁ぐ (17歳)。
 慶長3(1598)年、御家騒動 (蒲生騒動) が発覚し、夫/秀行公が宇都宮藩/12万石へ減移封となる。
 慶長6(1601)年、秀吉に減移封された遺恨もあって、夫/秀行公は関ヶ原の戦いで迷わず東軍に与し、その功績により会津藩主に返り咲く。
 復権には振姫の存在が大きく寄与したといわれる。
 慶長7(1602)年、嫡男/亀千代(忠郷公)、長女/依姫(崇法院) を出産。
 慶長9(1604)年、次男/鶴松丸 (忠知) を出産。
 慶長17(1612)年、会津地震の対処の最中、夫/秀行公が急死。
 嫡男/忠郷公が、わずか10歳で家督を継ぐも、藩政をめぐって重臣/岡重政たちが激しく対立、やむなく父/家康に訴える。
 慶長18(1613)年、重臣/重政が家康から駿府に召喚され切腹となる。
 一応、騒動が収まり、安穏とした生活を過ごす。
 慶長19(1614)年、長女/依姫 (崇法院) が前年に伯父/徳川秀忠の養女になった上で、肥後熊本藩主/加藤忠広に嫁ぐ。
 元和元(1615)年、娘の行く末を心配した家康から、和歌山城主/浅野長晟への再嫁を命じられる。
 元和2(1616)年、2男1女を会津に残したまま浅野長晟へ嫁ぐ。
 元和3(1617)年、長晟の次男/光晟を出産したが、産後の肥立ちが悪く、16日後に死去。 「正清院殿泰誉貞安大信女」。
 和歌山/吹上寺で火葬され、京都黒谷/の金戒光明寺に埋葬。
 後に、広島/正清寺に改葬とのこと。
 弟/徳川頼宣が建立した供養墓は和歌山市/光恩寺。
 富田氏  とみたし、
 安積臣直継 〜 富田漏祐 → 範祐 → 暢祐 → 祐義 → 宗祐 → 祺祐 → 氏祐(蘆名氏からの養子) → 頼祐 → 盛美 → 実持 → 滋実 → 氏実 → 隆実 〜
 祖は安積郡富田に移り住んだ安積臣の後胤とされるが諸説ある。
 その後、土着豪族/国人領主から慧日寺の寺侍となり、土着豪族/国人領主として勢力を確立した。
 源頼朝によって平家は滅ぼされ、会津四郡は佐原義連公が拝領し、平家側に与した慧日寺は徐々に衰退する。
 貞応元(1222)年、蘆名光盛公が弟/盛時とともに慧日寺に花見に出かけた時、慧日寺の有司/富田漏祐と出会い、仕えるようすすめたが漏祐は固辞し、代わりに子/千松を仕えさせた。
 元服を迎えた千松は、烏帽子親の蘆名重臣/平田益範から「範」を賜り範祐と改名し、蘆名氏の家臣となる。
 正応3(1290)蘆名泰盛公の命で暢祐が国政に参加。
 文保元(1317)年、蘆名盛宗公の命により祐義が鎌倉に赴き、執権/北条高時に謁見。
 正中元(1324)年、再び祐義が鎌倉に赴く。
 元徳元(1329)年、大沼郡の西側/12ヶ村を賜り、下荒井に館を移す。
 正慶2/元弘3(1333)年に鎌倉幕府が滅亡し世は南北朝の内乱時代に入り、蘆名氏の信任を得たといっても、しょせん土着勢力、蘆名氏家臣団からは軽んじられ、軋轢は残っていた。
 建武2(1335)年、命により中先代の乱に出陣、祐義の子/宗祐が戦死。
 建武4/延元2(1337)年、命で領袖/吉良貞家と戦い犠牲を強いられる。
 これ以降、蘆名氏の家中は、重臣たちによる反乱が続発する。
 明応元(1492)年、従兄弟である永井野の松岸館主/松本藤右衛門が謀叛を起すと、頼祐は呼応して蘆名盛高公を攻めたが鎮圧され、次男/祐道とともに頼祐は戦死する。
 しばらく関係は悪化したが、やがて修復される。
 天文10(1541)年、猪苗代盛頼の叛乱では滋実が蘆名軍を率いて討伐の任に就く。 滋実の「滋」は蘆名盛滋公から1字を賜ったもの。
 この頃から蘆名家臣団の中でも一目置かれるようになり、滋実の子/氏実の時代には松本平田・佐瀬とともに「四天の宿老」となる。
 永禄9(1566)年、蘆名盛興公伊達輝宗の妹とが婚約の際の起請文に署名するほどになっていた。
 天正6(1578)年、大槻政通・山内重勝らの乱を氏実が鎮圧。 氏実の「氏」は蘆名盛氏公から1字を賜ったものとされる。
 天正11(1583)年、蘆名氏を頼って会津に身を寄せていた戦国大名/小笠原長時が、側近に暗殺された場所は氏実の館であった。
 名君/盛氏公の次の領主、盛興公が早世、盛隆公が暗殺、隆氏公が夭折しと次々に死去し、蘆名氏は急速に衰退していく。
 天正17(1589)年、伊達政宗公の侵攻に対して、隆実の率いる先鋒軍は猪苗代盛國の軍を撃破し、続いて片倉景綱の軍も破り伊達群を押し戻していたが、蘆名一族の裏切りにより総崩れとなる。
 敗れた蘆名義広公は、義広公の実家/常陸佐竹氏へ向かったため後を追ったが、後に義広公とも決別した。
 友松 氏興  ともまつ うじおき、
 元和8(1622)年3月3日〜貞享4(1687)年2月29日 (66歳)
 通称:勘十郎。 本姓:佐藤。 号:南翁。  <家老>
 荘右衛門氏盛の子として土佐/高智村 (高知) にて誕生。
 13歳の時、信州高遠城主/保科正之公に仕え、後に家老となる。
 山崎闇斎に儒学・朱子学・神道学を、吉川惟足に神道を、正親町公通に垂加神道・歌道を学ぶ。
 寛文6(1666)年、正之公が会津入りすると、命により領内を巡見し、地形や村落の情勢、寺社に止まらず古文書や伝説までも精査した「会津風土記」を完成させた。
 寛文8(1668)年の「家訓十五箇条」制定を進言した人物ともされる。
 全国にも、逸材として名が轟いていた。
 ◇ 山崎闇斎「諸国の士人で為すある者、土佐の野中兼山と会津の友松氏興に及ぶもの無し
 ◇ 老中/酒井忠勝「勘十郎は言行二なく古今の名臣
 ◇ 淀城主/稲葉正通「会津の友松は悍馬のごとし これを御し得る者は正之公のみ
 寛文12(1672)年、正之公が死去、遺命に従って見禰山に埋葬された。
 見禰山/寿蔵に正之公を祀る土津神社の造営の任に就く。
土田堰  土津神社の建設に着手すると同時に、神社を永代守っていくには神領が必要と考え、桧原川 (長瀬川) から12q余り引水して荒れ地を開田し、その年貢をもって祭礼料に当てる決意をして灌漑工事も着手する。
 人夫35万人・金1千両を費やして水路が完成、「土津神社の水田」から「土田(はにた)新田」と名付けられた。
 夜に提灯を使っての水路の落差を測量するなど難工事だった。
 4百年を経た現在でも、土田堰(はにたせき)は豊かな水量を与え続けている。

 墓は大窪山
  生前に自ら建立。
  (現地図に記載あり)

 土津神社には、
  御末社「忠彦霊社
として祀られている。

 開墾した水路の終点/土田地区にも、氏興を祀る忠彦(まめひこ)神社がある。
 両脇に「開村三百二十年記念碑」「竣功記念碑」。
 ▲(猪苗代町大字磐根字土田3311)
竣功記念碑 忠彦 (まめひこ) 神社 開村三百二十年記念碑

《 と 》 江  戸  幕  末

 十倉 綱紀  とくら つなのり、
 嘉永3(1850)年〜昭和7(1932)年1月29日 (享年83歳)
 通称:新八。 藩士/十倉新助義方と母/春子 (佐藤氏) の長男として出来新町 (御旗町) にて誕生。
 十倉家は、初代/重成が山形藩主/保科正之公に召し抱えられ、会津移封に従って会津入り。
 読書と習字を好み、南学館で頭角を現す。
 元治元(1864)年、南学館からは異例の日新館講釈所試験に合格。
 慶応元(1865)年、推されて宅教授に就き、さらに検地方見習に任じられ、秋になると検地頭に随行し農村を巡回。
 鳥羽伏見の戦いが勃発し、江戸藩邸を警護する任を命じられ急きょ上京するも、江戸総引き揚げで帰国する。
 祖父が病気で隠居したため、すでに父は亡くなっており家督を継ぐこととなり、除隊させられ文官/検地方に復職。
 戦況が風雲急を告げると、新発田藩の動向を探索の上田伝治に随行。
 帰国後、朱雀寄合隊として赤谷口への救援に向かい、猟師隊や高崎藩・水戸藩の脱藩者たちと共に参戦。
 津川、舟渡、熊倉、一ノ堰、大内宿など城外の各地で奮戦。
 開城後は、塩川を経て高田/浄興寺に幽閉(謹慎)。
 護送される際に「会津国替名残歌」を著す。
 妻/邦子は、実家/佐藤家の嫡男/佐藤勝之助たちがに虐殺されてしまい、家を継ぐため離縁して実家に戻る。
 斗南藩/七戸三本木に移住するも極限生活を過ごす。
 後に函館に渡り、まもなく生活のため少羅卒に就く。
 明治 7(1874)年、函館支庁民事課に就く。
 明治10(1877)年、函館支庁会計課用度係に就く。
 明治19(1886)年、判任官 (官吏) となる。
 明治20(1887)年、瀬棚郡の書記第一課長に就く。
 明治24(1891)年、奏任により郡長に就任。
 明治27(1894)年、大中山村 (七飯町) 総代に選任され、発展に尽力。
 墓は、大中山共同墓地。 「慈徳院誠顕日義居士」

 平成に入り、『ある会津藩士の「戦後」十倉綱紀自伝「八十寿の夢」を読む/三角美冬著』が刊行された。
 外島 機兵衛  としま きへえ、
 文政9(1826)年6月1日〜慶応4(1868)年3月7日 (享年43歳)
 名:義直。 幼名:機四郎。
 藩士/堀藤左衛門の次男。 後に外島家の養子となる。
 勘定奉行助、学校奉行助、目付、江戸留守居役などを歴任。
 文久元(1861)年、桜田門外の変の後、幕府と水戸藩の融和をはかるため秋月悌次郎とともにに水戸藩の事情を探索。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任の前に田中土佐野村左兵衛たちと先発して上洛し、事情を探索。
 文久3(1863)年、公用人に就任し、諸藩周旋方 (外交官) に尽力。
 姉小路公知暗殺 (朔平門外の変) の下手人/田中新兵衛(薩摩)を説得し納得の上で連行し、町奉行に引き渡している。
 慶応3(1867)年、兼任として勘定奉行に就任。
 慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦いでは、将軍/慶喜と従った容保の敵前逃亡により大混乱の藩兵撤収に尽力。
 江戸に引き上げ後は、容保に恭順を強く説得し、西軍 (総督府) へ陳情すべく江戸残留するが、交渉の最中に急死してしまう。
 存命ならば恭順派が主導したとされるが、死去で抗戦派が台頭する。
 墓は青山霊園

遠山為善  徳四郎  徳力金吾  外島良蔵  鳥居熊之助

《 と 》 幕 末 よ り 後

 東海 散士

 とうかい さんし、
 嘉永5(1853)年12月2日〜大正11(1922)年9月25日 (満69歳)
 本名:柴四朗。
 藩士/柴佐多蔵の4男として父が江戸湾防備の任に就いていた上総国 (会津藩領、千葉県富津) の会津陣屋 (八坂神社) にて誕生。
 陸軍大将の柴五郎は実弟。
 少年期には会津に戻り、藩校/日新館で学ぶ。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い父が上洛したため、遅れて父のもとへ上洛。
 慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦いでは出陣を体験した。
 同年8月23日、 鶴ヶ城下に迫ると、自邸にて祖母・母・姉妹・兄/太一郎の妻などは自刃する。
 四朗は白虎隊に編入されていたが、熱病のため城内で床に臥せっており、戦闘に参加せず生き残った。
 開城後は、東京で幽閉 (謹慎)。
 斗南藩へ父と兄弟は移住するが、四朗は東京に残り勉学に励む。
 困窮の中、勉学の進む道を求め、旧藩士/廣澤安任が経営する洋式牧場での通訳を務めるなど各地を点々と放浪する。
 明治10(1877)年、西南戦争が勃発すると臨時将校として参戦。
 明治(1879)年、渡米してペンシルベニア大学、パシフィック・ビジネス・カレッジにて経済学を学ぶ。
 明治18(1885)年、パシフィック・ビジネス・カレッジを卒業して帰国、東海散士の筆名で「佳人之奇遇」初編 (巻1・巻2) を著す。
 明治21(1888)年までに、秘書官に就きながら執筆活動を続け、「佳人之奇遇」 (巻3〜巻8) を著す。
 同年、「大阪毎日新聞」の初代主筆に就く。
 明治24(1891)年までに、「佳人之奇遇」 (巻9・巻10) を著す。
 明治25(1892)年、第2回衆議院議員総選挙 (福島4区) で初当選。
 立憲革新党を結成、第3〜7回・第9〜10回・第12回の衆議院議員を務め、農商務次官、外務省参政官などを歴任。
柴四朗墓  明治30(1897)年までに、「佳人之奇遇」 (巻11〜巻16) を著し完結。 「政治小説」と分類されるが、亡国の悲哀やスペイン女性との はかない恋などから、当時の若者に愛読された。
 他に著書「東洋之佳人」「埃及近世史」など。
 大正 4(1915)年、政界を引退。
 大正11(1922)年、熱海の山荘で死去。
 墓は恵倫寺、分骨墓は海蔵寺
 「智性院東海居士」。
 鶴ヶ城近くに柴邸宅跡 (碑と説明版のみ)。
 東條 昭平  とうじょう しょうへい、昭和14(1939)年12月5日〜
 本名:東条庄兵。
 喜多方市にて誕生。
 日本大学藝術学部映画学科を卒業し、テアトルプロに入社。
 その後、円谷プロダクションへ移籍し、特撮へ携わる。
 昭和43(1968)年、円谷プロ「戦え!マイティジャック/第7話“来るなら来てみろ!”(フジテレビ)」においてテレビ映画監督デビュー。
 昭和46(1971)年、円谷プロ「帰ってきたウルトラマン/第33話“怪獣使いと少年”」がリアルで露骨すぎるとしてTBSからクレームを受け、ウルトラシリーズから外される。
 昭和49(1974)年、円谷プロ「ジャンボーグA&ジャイアント」において映画監督デビュー。
 昭和56(1981)年、「ウルトラマン80」終了で、東映作品へ移る。
 一切の妥協を許さない鬼監督として、恐れられたり慕われるたりしながら、東映の戦隊シリーズの演出215本を手掛ける。
 平成 9(1997)年、東映「ビーファイターカブト/48話 "BF基地 (ビートルベース) 大爆破?!」で監督業を引退。
代表的な映画
 ◇ 昭和46(1971)年、「帰ってきたウルトラマン 1971/東宝 」
 ◇ 昭和46(1971)年、「喜劇 おめでたい奴/東宝」
 ◇ 昭和49(1974)年、「ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団/富士映画」
 ◇ 昭和54(1979)年、「ウルトラマン 1979/富士映画」
 ◇ 昭和56(1981)年、「太陽戦隊・サンバルカン/東映」
 ◇ 昭和57(1982)年、「大戦隊ゴーグルファイブ/東映」
 ◇ 昭和58(1983)年、「科学戦隊ダイナマン/東映」
 ◇ 平成 5(1993)年、「五星戦隊ダイレンジャー/東映」
 ◇ 平成 6(1994)年、「忍者戦隊カクレンジャー/東映」
 常盤 盛衛  ときわ もりえ、
 明治14(1881)年12月8日〜昭和46(1971)年年8月8日 (89歳)
 藩士/常盤盛敦の子。
 明治32(1899)年、会津中学校 (県立会津高等学校) を卒業し、海軍兵学校に進学 (30期)。
 明治35(1902)年、席次187名中5番と優秀な成績で卒業。
 横須賀海軍工廠艤装員、「音羽」乗組を経て海軍中尉に進級。
 明治37(1904)年、日露戦争に「初瀬」乗組として出征。
 旅順口攻撃の時、本艦「初瀬」は触雷し沈没したが、艦載水雷艇を指揮し哨戒に出ていたため生き残る。
 明治38(1905)年、日本海海戦に第十四艇隊「千鳥」乗組として参戦。
 「厳島」乗組、「朝日」分隊長、「浪速」分隊長心得などを歴任。
 明治40(1907)年、海軍大尉に昇進、「浪速」航海長に就く。
 海大乙種学生、次いで海大専修学生として航海術を学び、首席で卒業し、航海科専攻の士官に就任。
 明治42(1909)年、第一艦隊参謀に就く。
 明治44(1911)年、旅順鎮守府参謀兼副官に就く。
 大正元(1912)年、海軍少佐に昇進、「浅間」航海長に就く。
 大正 2(1913)年、海兵学校教官兼監事に就く。
 大正 6(1917)年、軍令部参謀 (二班) に就き、海軍中佐に昇進。
 大正 7(1918)年、「吾妻」副長に就く。
 大正 8(1919)年、佐世保鎮守府参謀に就く。
 大正10(1921)年、「淀」艦長に就き、海軍大佐に昇進。
 軍令部出仕、馬公要港部参謀長、海軍省軍需局第一課長を歴任。
 昭和元(1926)年、海軍少将に昇進。
 昭和 2(1927)年、予備役編入となる。
 昭和19(1944)年、退役。
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