会  津  の  著  名  人

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《 ひ 》 幕 末 よ り 前

 左 一山  ひだり いちざん、文化元(1804(年〜安政4(1857)年
 姓は斉藤。 左手彫であることから左一山と名乗る。 <彫刻家>
 越後/長岡のの出身。
 嘉永年間 (1848〜1854)、会津で祐筆の書家/荘田胆斎に学ぶ。
 後に江戸に出て、彫刻の鍛錬を重ねる。
 数年後に会津へ戻り、藩に召し抱えられる。
 根付や印籠を得意とし、特に銘木や胡桃の彫刻に評判の作品が多い。
 一柳 直陽  ひとつやなぎ なおはる、宝暦3(1753)年〜天保5(1834)年
 初名:直羽(なおのぶ)。 別称:直任盛之丞、新三郎。
 藩士/一柳四朗直雄の次男。
 目付、奏者番、新番頭などを歴任。
 特に、松平容衆公の藩政で、用人として重きをなした。
 藩命により「新編会津風土記」の編纂に携わり、「諸士系譜」では責任者を務める。
 著書「見ぬ世の栞」など。
 日向 梅山  ひなた ばいざん、元文2(1737)年〜文政元(1818)年 (82歳)
 名:(ただす)。 字:子信。 通称:衛士。  <藩士、画家>
 藩士/日向三郎右衛門次方の4男。
 小姓、奥番、小納戸役、儒者、大目付などを歴任。
 松平容頌公の信任が厚く、大司成 (後の学校奉行) まで務める。
 和漢の学を修め、書は文徴明の作品に傾倒し、画は狩野派を学び、命により雪舟の絵屏風を模写している。
 雅楽にも精通し、笙の指導もしていた。
 平尾 松亭  まつお しょうてい、生年不詳(179?)〜慶応2(1866)年
 名:忠吉。 字:善導。 通称:悌五郎。 号:松亭。 <能書家>
平尾松亭(nisi-中)  文化13(1816)年、家督を継ぐ。
 詩や書を能くするだけでなく、他藩のみならず海外事情にも通じていた。
 松平容敬公の耳目となって、50年もの長きにわたって大目付 (大監察) を務める。
 能書家・書家/大沼蓮斎を育てた師でもある。
 本三ノ丁の私邸には、貴重な蔵書が数多くあったが、戊辰の役で価値の知らないによって破棄・焼失してしまった。
 墓は、大窪山。 「松亭先生之墓
 平田氏  ひらたし、  蘆名四天宿老の1つ (富田氏・佐瀬氏・松本氏)。
 建武2(1335)年、中先代の乱で蘆名盛宗公蘆名盛員公親子が戦死した時、最後まで護り馬前で忠死した功績により、子孫が蘆名氏家臣として重用され、忠死した先祖の名/平太から平田氏を名乗ったとされる。
 至徳元/元中元(1384)年、蘆名直盛公が居を会津の東黒川館 (鶴ヶ城) へ移った際、従った大隅守光範が会津の祖となる。
 源太屋敷に鏡ヶ城を築き、代々、居城とする。
 永享4(1432)年、直盛公が滅ぼした一族/新宮氏の所領を拝領する。
 天文9(1540)年、左衛門尉輔範が弟/石見守盛範と長男/左京亮舜範と共に、2年前の東黒川館の火災で類焼した諏訪社の再興に尽力。
 蘆名氏全盛の蘆名盛氏公の時代には、家臣団の中で冨田・松本・佐瀬と共に「四天の宿老」と称された平田実範が活躍している。
 永禄11(1568)年、平田尾張守常範が上杉家との友好に尽力。
 天正6(1578)年、上杉謙信急死で養子の上杉景勝公と上杉景虎とが家督を争った内乱に、舜範が兵を出陣させる。
 蘆名氏当主の急死・暗殺・夭折と相継ぐ死で家督争いに発展、平田氏は四天の宿老とともに伊達政宗公の弟/小次郎を強く推すも、蘆名一族/金上盛備らが勝り常陸国/佐竹義重の次男/義広公が養子に入る。
 天正17(1589)年、蘆名義広公は摺上原の戦いに敗れて実家の常陸国へ逃れたため、平田左京入道・平田周防守は政宗公の軍門に下る。
 天正18(1590)年、豊臣秀吉の奥州仕置で会津藩領を没収され米沢へ移封されると、平田常範は越後/上杉景勝公に仕える。
 慶長3(1598)年、景勝公の会津藩への加増移封に従い会津入りする。
 慶長6(1601)年、景勝公が米沢藩へ減封されると、鮮範の長男/内匠は武士を捨て帰農、次男/範吉が景勝公に従い米沢入りする。

《 ひ 》 江  戸  幕  末

 土方 歳三

 ひじかた としぞう、
 天保6(1835)年5月5日〜明治2(1869)年5月11日 (享年35歳)
 名:義豊。 号:豊玉。 渾名:鬼の副長。 偽名:内藤隼人。
 豪農/土方隼人と母/恵津の末っ子として武蔵国多摩郡石田村 (東京都日野市石田) にて誕生。 父/隼人は歳三の生まれる3ヶ月前に死去、母/恵津も6歳の時に死去し、次兄/喜六・妻/なかに養育される。
 〜 〜 〜
 文久3(1863)年、将軍/徳川家茂を警護する浪士組の募集に応じ、小石川伝通院に3百人近くのい浪士が集まった。
 後に中心メンバーとなる近藤勇・土方歳三・井上源三郎・沖田総司たちや、芹沢鴨を中心とした水戸派の浪士たちのの姿があった。
 選ばれた240名余りは京都へ向かうが、上洛して間もなく率いていた清河八郎は、募集の趣旨と異なる目的を主張する。
 歳三たち近藤勇の一門と芹沢鴨の一派は、将軍警護の目的を貫こうと京都守護職/松平容保宛に残留の嘆願書を提出する。
 容保は、跳梁跋扈する世の中、会津藩の士道に通じる「忠義」に触れ即決、翌々日には幕府の許諾を得て、残留浪士組17名が正式に会津藩預りになり、新選組の前身である「壬生浪士組」が誕生した。
 その翌日には、京都守護職邸で容保に拝謁している。
 元治元(1864)年、長賊らのクーデタークーデター「禁門の変」で活躍し、会津藩より「新選組」と命名され、京都市中警護を命じられた。
 池田屋事件で新選組は、一躍有名となる。
 慶応3(1867)年、幕臣に取り立てられる。
 慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、秋月登之助率いる先鋒軍/参謀として下館、下妻などを転戦し、宇都宮城の戦い足を負傷し、会津へ搬送される。
 清水屋旅館で約3ヶ月間の療養生活を送る。
 近藤勇が斬首された時の状況を聞き取った加藤寛六郎の報を受け、天寧寺に近藤勇の墓を建立する際に、法名を松平容保から賜った。
 湯治 (不動滝/現・新滝別館) を兼ねて、毎日欠かさず墓参りをしていたという。
 傷の癒えると、白虎士中一番隊・二番隊と共に藩主/松平喜徳公を護衛し、福良本陣に半月ほど滞在している。
 白河城が陥落したため、防衛のため布陣していた母成峠が破られるや、激戦中の会津藩に忠誠を尽くすべきと残留を訴える斎藤一たちと袂を分かち、仙台へ向かう。
 〜 〜 〜
 明治2(1869)年5月11日、一本木関門の戦いの最中、腹部に被弾、蝦夷共和国の閣僚8人の中で唯一の戦死であった。
 会津藩の士道「忠義」を武士(もののふ)の理想として貫き通し、史上最強にして最高の剣客集団「新選組」が終焉を迎えた。
 諸説ある中で戦死した場所は一本木関門説が最有力とされるが、埋葬地については、五稜郭内説・大円寺説・極楽寺説・願乗寺説・碧血碑説など諸説があり今なお不明である。
(辞世の句)
 たとひ身は 蝦夷地の島根に朽ちるとも 魂は(あずま)の 君やまもらん
 よしや身は 蝦夷が島辺に朽ちぬとも  魂は(あずま)の 君やまもらむ
 「歳進院殿誠山義豊大居士」、「有統院殿鉄心日現居士 (称名寺)」
 墓は、石田寺天寧寺(慰霊碑)称名寺(慰霊碑)寿徳寺境外墓地円通寺(死節之墓)碧血碑など。
石田寺 天寧寺  愛刀は、和泉守兼定


一本木関門
 日向 内記  ひなた ないき、
 文政9(1828)年〜明治18(1885)年11月14日 (4日とも、享年60歳)
 諱:次法。 通称:内記。
 藩士/日向三郎右衛門の長男として本一之丁諏方通り宅にて誕生。
 禁門の変では、二番隊山内隊/組頭として参戦し戦功をあげる。
 慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦いでは御家老附組頭として奮戦。
 江戸総引き揚げ後の軍制改革にて、朱雀士中二番隊中隊頭に就くが、まもなく山川大蔵の後任/砲兵一番隊/隊頭として日光口の出陣する。
 前任者の名将/山川と比較され、配下隊士の信頼を得られず更迭され、白虎士中二番隊/中隊頭として藩主/松平喜徳公の護衛に就く。
 運命の8月22日、十六橋突破されるの報を受け、緊急出陣が白虎士中二番隊にも発せられ、少年たちを率いて戸ノ口原にて布陣する。
 あろうことか、初陣で戦闘経験のない少年たちに野営を命じ、最前線に残したまま布陣から離脱してしまう。
日向内記の墓  敵前逃亡とは考え難いが、離脱した理由の真偽が不明といっても、暗闇の中、食べる物もなく空腹をこらえた初陣の少年隊士たち置き去りにし、飯盛山の悲劇へと追いやった隊長としての責任は免れるものではない。
 開城後、謹慎生活を経て斗南藩/五戸へ移住。
 明治6(1873)年、会津へ戻り知人を頼って喜多方に移り、卑怯者のそしりを受けつつ正業にも就けず、人目をはばかって晩年を過ごしたという。
 墓は万福寺 (合祀と推測)。
 日向 ユキ  ひなた ゆき、
 嘉永4(1851)年5月15日〜昭和19(1944)年11月9日 (享年94歳)
 御旗奉行・町奉行/日向左衛門と母/“ちか”との次女として米代三ノ丁にて誕生。 3歳で実母を亡くし、後妻の継母/秀 (有賀豊之助の妹)に育てられる。 ご近所の山本八重高木時尾とは幼なじみであり、ユキと八重は高木家の祖母 (盲人) から裁縫を学んでいる。
 慶応4(1868)年8月23日、 鶴ヶ城下に来襲するや、祖母・継母・弟2人・妹6人とで城下外に逃れて、御山荘 (面川) の百姓/栗城伝吉の家に避難する。
 父/左衛門は大町口郭門で奮戦するも重傷を負い近くにあった母の実家/加須屋家敷内で自刃、兄/新太郎は遊撃二番隊/半隊頭として各地で奮戦するも飯寺で重傷を負い自刃した。
 翌年、ようやく戦死者の埋葬が黙認されると、父と兄の遺骸を探し回る。 加須屋家敷地内の竹薮で父の遺骨と紋付きを発見したが、兄の遺骸はなかなか見つからず、ようやく河原で首を見つけ出し、菩提寺/浄光寺に埋葬した。
 陸路20日をかけて斗南藩/野辺地に移住し針仕事で生計を立てるも極貧の生活を経て、継母/の奉公先/青森に移る。
 明治5(1872)年、病気がちな旧知の雑賀重村の妻/浅から頼まれて、奉公人として函館に移る。
 まもなく北海道開拓使/役人の旧薩摩藩士/内藤兼備に見初められ求婚されるも、仇敵からの求愛など受けるはずもなかった。
 諦めずに求愛し続ける熱意に打たれ結婚を受諾し札幌に移るが、初めて仇敵と結婚したことで2度と会津の地は踏まなかった。
 明治20(1887)年、夫/新島襄と避暑で訪れた新島(山本)八重と再会、約20年ぶりの再会であった。
 波乱万丈の生涯を記した手記「萬年青 (おもと)」を残す。
 墓は札幌/里塚霊園。

 陸軍大将/柴五郎は父方の従弟、白虎隊/飯沼貞吉は母方の従弟。
 昭和26(1951)年にスイス/ダボスのスピードスケート世界選手権で日本人として初めて優勝した内藤晋は孫。
 手記「萬年青」は、子孫から宮崎十三八に託され、昭和52(1977)年に「歴史春秋・第9号/会津史学会」で発表された。
 平井 浪江  ひらい なみえ、天保10(1839)年〜明治44(1911)年 (72歳)
 華岡青洲の麻酔学を修めた藩御側医師。
 江戸大砲隊付き医師として南部瑞眞と共に上洛。
 鳥羽伏見の戦いを経て、転戦に従軍しながら帰国。
 日新館軍事病院医師に就き、籠城戦では城内の傷病者治療に尽力。
 開城後は、斗南藩へ移住するも、上京し東京大学東校に就く。
 明治5(1872)年、医師/吉村栄衛と共に、開拓使医官として札幌病院余市郡出張所へ派遣される。
 その後も、北海道の辺地公立病院で診療に従事し、開拓民の心の支えになり続けた。
 平田 小蝶  ひらた こちょう、嘉永3(1850)年〜明治18(1885)年10月6日 (36歳)
 蝶子とも。
 江戸詰/平田門十郎の次女として江戸上屋敷にて誕生。
 藩士/赤岡大助忠良からのたっての願いで養女となり、薙刀や習字を修める。 中野竹子も大助の養女となっており義妹でもある。
平田蝶子の墓  慶応4(1868)年、江戸総引き揚げで復縁し、家族と共に会津に移る。
 鶴ヶ城下にへ来襲するが入城に間に合わず、神指村高久に退く。
 義姉/竹子と出会い、入城すべく婦女隊に加わり城に向かうも、途中の柳橋辺りで敵と遭遇し戦闘となり、竹子は敵弾に倒れる。
 戦闘後に入城を果たし、籠城戦を戦い抜く。
 開城後、藩士/戸田衛門と結婚し、山形から東京へと移り住む。  墓は長明寺

 平松武兵衛については、こちら

 広沢 安任
 (廣澤 安任)
 ひろさわ やすとう、
 天保元(1860)年2月2日〜明治24(1891)年2月5日 (享年62歳、満60歳)
 通称:富次郎。 字:李重。
 号:牧老人、淡煙得岳六十九種艸堂主人、士遠。
 藩士/廣澤庄助安孝の次男として鶴ヶ城下にて誕生。
 藩校/日新館に学び、宗川茂に師事し、抜群の成績を残す。
 安政4(1857)年、昌平坂学問所(昌平黌)に進学、5年後 舎長となる。
 文久 2(1862)年、ロシアとの国境問題で、幕府から函館奉行/糟谷筑後守の補佐を頼まれ蝦夷地へ赴き、交渉を取り仕切る。
 帰京後も外国人と活発に親交を結んで、世界情勢に精通する。
 松平容保の京都守護職就任により先発して江戸を発ち上洛し、彦根藩などの動向を探る。
 親交のあった佐久間象山と共に、孝明天皇の江戸遷座を計画するが、象山の暗殺で頓挫。
 容保が上洛すると公用方に就き、朝廷・皇族や諸藩との交友を深め、特に二條右大臣家の信任は厚かった。
 慶応元(1865)年、朝廷により十万石以上の藩の重臣が招集され、神戸開港の意見を求められると開国を論じ、鎖国を主張する諸藩の重臣たちを論破している。
 洋式軍制の導入、銃砲の整備、藩士の海外や長崎遊学などに尽力。
 戊辰の役では、江戸に残留し、藩公の無実などを訴え交渉に当ったが、捕えられて投獄される。
 明治 2(1869)年、斬首されると聞き及んだ英国外交官/アーネスト・サトウの助命運動により釈放、安任の博識は外国にも知れ渡っていた。
 明治 3(1870)年、斗南藩に移住し、小参事に就き藩財政に尽力。
 明治 4(1871)年、廃藩置県による斗南藩の消滅後も残留し、合県運動に邁進して現在の青森県の基礎を作る。
 明治 5(1872)年、旧藩士のため牧畜経営を決意し、谷地頭 (三沢市) に酪農を中心とした洋式牧場「開牧社」を開設。
 30余年の間に2千町を超える開墾 (2,383町) を成し遂げ、経営の成功のみならず、驚くべき偉業を成した「牛馬王」と称されるほど日本の畜産界に多大な貢献をした。
からの再三再四の任官要請を断り続け、明治9(1876)年に元薩摩藩/大久保利通から直々の要請あるも、裏切った薩奸の言葉など信じられないとし、
 「野にあって国家に尽くす
と拒否している。
 明治10(1877)年、経営は軌道に乗り、広沢牧場出張所を東京府豊島郡淀橋村角筈 (新宿区三井ビル辺り) に開所。
 明治19(1886)年、前年に駒場農学校獣医科を次席で卒業した養子/弁二に経営を譲り、上京。
 明治11(1878)年、「開牧五年紀事」を著す。
 序文として福澤諭吉が寄稿している。
 墓は、元/広沢牧場の地と、故郷の弥勒寺 (合祀)。

 昭和60(1985)年、役目を終えた「広沢牧場」が閉鎖。
 平成 7(1995)年、斗南藩記念観光村として一般開放される。

樋口常作  樋口又右衛門  日向勝見  日向左衛門・新太郎  平向重房(熊吉)  廣澤庄助  廣田勝武

《 ひ 》 幕 末 よ り 後

 樋口 喜吉  ひぐち きよし、  <陸軍少将、発明家>
 慶応元(1865)年4月15日〜昭和9(1934)年7月12日 (満69歳)
 鶴ヶ城の郭内にて誕生。
 私立日新館助教に就任。
 陸軍教導団を経て、陸軍士官学校に入校。
 明治22(1889)年、同校を卒業 (旧11期) し、陸軍歩兵少尉として歩兵第十六連隊付に就く。
 明治27(1894)年、日清戦争に出征。
 帰国後、陸軍大尉に昇進し歩兵第三十連隊付となる。
 明治32(1899)年、陸軍大学校に入校。
 明治35(1902)年、同校を卒業 (16期) し、歩兵第5連隊付となる。
 明治37(1904)年、日露戦争に出征し、 り日露戦争開戦を迎え、歩兵第五連隊第三大隊長として出征。
 歩兵第二十三連隊長、第十一師団参謀長を歴任。
 大正 4(1915)年、陸軍少将に昇進。
 予備役編入後は、光学の研究に没頭し、特許や実用新案を取得。
 ◇ 大正 5(1916)年、測距望遠鏡 (特許)、
           顕微鏡微動装置 (実用新案)
 ◇ 大正 7(1918)年、顕微鏡簡保持器 (実用新案)、集光鏡 (特許)
 ◇ 大正 9(1920)年、顕微鏡同軸式微動装置 (特許)、
           プリズム眼鏡 (特許)
 ◇ 大正11(1922)年、顕微鏡輝照装置 (実用新案)、
           縦横四線式微動装置 (特許)
 ◇ 昭和 2(1927)年、船舶推進装置 (特許)
 一柳 平太郎  ひとつやなぎ へいたろう、嘉永3(1850)年〜大正4(1915)年 (66歳)
 一柳又蔵の長男。
 18歳の時、戊辰の役に遭遇。
 斗南藩に移住後、余市入植第一陣として蝦夷地 (北海道) へ渡る。
 その後、開拓使に就き、上村村長など道内各地の郡長を歴任。
 明治23(1890)年、最後となる岩内郡長に就任。
 岩内郡長を退官し、岩内汽船(株)/取締役に招聘されて実業界入り。
 明治34(1901)年、道議会議員 (岩内支庁) にも当選し政界入りする。
 明治41(1908)年、第6代/副議長 (会派:松月組) を務める。
 会津武士らしい重厚誠実な性格で、官界・実業界でも清廉潔白を貫き通し名を残した。
 平石 弁蔵  ひらいし べんぞう、明治6(1853)年〜昭和17(1942)年
 藩士/平石甚五郎の長男。
 会津中学校 (県立会津高等学校) の1回生として入学。
 明治26(1893)年、同校を中退し、陸軍教導団歩兵科生徒隊に入る。
 明治27(1894)年、仙台連隊/歩兵第十七連隊附二等軍曹に就く。
 明治27(1894)年、日清戦争に出征し、橋頭集、楊家屯、羊亭集などを歴戦し、一等軍曹へ昇進。
 帰国後は、山形連隊/歩兵第三十二連隊附となる。
 曹長に昇進し陸軍士官学校を経て、陸軍経理学校軍吏学生となる。
 明治37(1904)年、日露戦争に出征し、少佐に昇進。
 会津中学校の軍事教官に就任、8年間勤務する。
 在任中、生存の旧藩士などからの聞き取り調査や、資料の収集などに没頭し、の捻じ曲げた作り話の戯言を1つ1つ覆していった。
 大正 6(1917)年、「会津戊辰戦争」を著す。
 その後も調査研究を続け、改訂版を著し、真実を伝える会津戊辰戦争史の定本の1つとなっている。
 信頼できる会津戦争の史家として認知され、皇室が会津を訪れるたびに御前講義を担当した。
 平田 昭吾  ひらた しょうご、昭和14(1939)年〜
 満州 (中国/瀋陽市) にて誕生し、会津若松市で育つ。
 <アニメ絵本文化の先駆者、絵本作家>
 昭和31(1956)年、会津工業高校在籍中、笹川ひろしたちと「会津漫画研究会」を設立。
 昭和33(1958)年、高校を卒業し上京、手塚治虫の専属アシスタント第2号となり、貸本漫画にてデビュー。
 昭和35(1960)年、平田ポンの名で「こだまブック」付録に作品掲載。
 手塚治虫の紹介で、アニメ作家/政岡憲三の門下に入る。
 昭和37(1962)年、日活撮影所研究室に入り、特撮技術の開発に就く。
 舛田利雄監督の「零戦黒雲一家」などに携わる。
 昭和38(1963)年、市川崑監督の「太平洋ひとりぼっち」に携わる。
 昭和39(1964)年、井上智と智プロを設立し、漫画「魔神バンダー」などの原作を手がける。
 昭和40(1965)年、漫画「マグマ大使」の一部に携わる (智プロ)。
 昭和43(1968)年、日活撮影所を退職し、智プロスタッフ全員と共に手塚プロダクションに入社。
 昭和44(1969)年、手塚治虫のマネージャーに就く。
 昭和46(1971)年、自身の作品「アニメ絵本アンデルセンどうわ/(ポプラ社」を出版し独立。
 その後、「アニメ絵本にほんむかしばなし/ポプラ社」など国内外の童話や昔話・民話を中心にアニメ風絵本の出版に傾倒 (“アニメ絵本”は平田の造語)。
 昭和47(1972)年、特撮テレビ番組「サンダーマスク」を企画。
 平成20(2008)年、不法残留の中国人女性スタッフを日本人の男と偽装結婚させた容疑で逮捕される。
 広沢 弁二
 (廣澤 辨二)
 ひろさわ べんじ、
 文久2(1862)年6月19日〜昭和3(1928)年8月8日 (満66歳)
 <牧場主、農商務官僚、衆議院議員、東京獣医学校校長>
 藩士/廣澤安連の次男として鶴ヶ城下にて誕生。
 叔父の公用方/廣澤安任の養嗣子となるる
 養父から漢籍を学び、牧場従業員のイギリス人から英語も学ぶ。
 上京し、駒場農学校獣医科に入学。
 明治18(1885)年、駒場農学校獣医科を次席で卒業。
 明治19(1886)年、三沢の牧場に戻り、養父から経営を引き継ぐ。
 明治21(1888)年、渡米して本場の牧場を視察、馬生産の技術など学び、種牡馬・種牡牛・種牡豚を購入して帰国、
 明治29(1896)年、馬匹調査会の発足で委員に就任。
 明治31(1898)年、馬匹調査会の牧馬監督官に就任し、農商務官僚/高等官を経て農務局/牧馬課長に就任。
 明治45(1912)年、第11回衆議院議員総選挙 (郡部四区) で初当選。
 大正2(1913)年、議員在任中、東京獣医学校校長に就任。
 大正4(1915)年、馬政事務嘱託として官職に復帰。
 馬政局技師 (高等官三等) などを歴任。
 大正10(1921)年、退官するも勅任官待遇となる。
 帝国競馬協会評議員などを歴任。
 養父/安任が創立した廣澤牧場を規模拡大させるも昭和末期に解散したが、跡地には「斗南藩記念観光村」が設立されている。
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