会  津  の  著  名  人

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《 な 》 幕 末 よ り 前

 内藤家  内藤介右衛門家。
《内藤昌月 (昌秀とも)》
 ないとう まさあき、天文19(1550)年〜天正16(1588)年5月25日
 保科正俊の3男。
 甲斐武田氏の家臣/内藤昌秀 (昌豊) の養子となる。
 天正3(1575)年5月、義父/昌秀が長篠の戦いで戦死したため家督を継ぎ箕輪城主 (居城は保渡田城) となり、大和守を称する。
 天正10(1582)年、甲斐武田氏が滅亡し、流浪の身となる。
 天正16(1588)年、病死。

《初代・内藤源助自卓(よりたか)》
 初名:源助。一時:保科源助。
 万治3(1660)年、内藤昌月の孫/自卓が保科正俊の子孫 (養父/正光の傍系) と知った保科正之公に食客として召し抱えられる。
 流浪25年を経ての仕官であった。
 姓を「武川」に改名。
 寛文7(1667)年3月24日、死去 (68歳)。
 自然石の墓は、泰雲寺.
 自卓は熱心なキリシタンとの伝承があり、墓の石燈籠2基の裏面 (墓石側) に十字架を形どったとされる窓枠がある。
 内藤家は貞享4(1687)年までは転切支丹類族であった。
 この年に「絵踏御免」となり転切支丹類族から外され、年1回の絵踏を踏まなくてもよくなった。

 以降、幕末まで通し名「源助、介右衛門」を名乗り、3代/信清から家老九家として、歴代家老7名が務めている。
 邸宅跡は白露庭と称し、ほんの一部が現存。
《2代・武川源助自洪
《3代・武川源助信清》 (家老家としての初代)
《4代・武川源助自恒》
《5代・内藤源助信周
    当主の姓のみ「内藤」に復し、次男以下は「武川」を継続。
《6代・内藤量太郎信思》
《7代・内藤介右衛門信全
《8代・内藤介右衛門信順》
《9代・内藤介右衛門信節
 直江 兼続
[肖像]
[直江状]
 なおえ かねつぐ、
 永禄3(1560)年〜元和5(1620)年12月19日 (60歳)
 名:樋口與六 → 樋口兼続 → 直江兼続 → 直江重光。
 上杉家臣/樋口兼豊と豪族/泉重歳の娘 (上杉家重臣/直江景綱の妹とも) の長男として坂戸城下 (新潟県南魚沼市) にて誕生。
 南魚沼郡湯沢町にて誕生との説も。
 天正9(1581)年、上杉景勝公側近/直江信綱が殺害されたため命により婿養子に入り、嫡男のいない直江家を継いで越後/与板城主となる。
 慶長3(1598)年、秀吉の命で景勝公が会津藩120万石に加増移封されると、兼続には出羽米沢6万石 (隷属で30万石) が与えられた。
 しかし、秀吉が死去すると徳川家康の台頭が始まる。
 慶長5(1600)年、新たな城郭を中心とする大きな町づくりのために神指城の築城を開始する。
 前に城普請を許可したはずの家康から上杉家を詰問の書状が届く。
 返書(直江状)を読んで激怒した家康が諸大名に会津出兵を命じたとの報を受け、戦に備える方針に変わり、12万人を動員し築城を急ぐ。
 鶴ヶ城下に居住し、自ら陣頭指揮している。
 さらに、白河や横川、福島に家臣を派遣し城の修理と補強を指示。
 後顧の憂いを取り除くために機先を制し、東軍に与した山形/最上藩へ精鋭3万人を率いて侵攻するが、関ヶ原の戦いが予想もしなかった1日で敗戦の報により、長谷堂城攻略を中止し全軍撤退を開始する。
 勢いに乗った最上軍と援軍として派遣の伊達軍に追撃され激戦となるが、見事な撤退戦の末、帰城する。
 さらに、最上軍により庄内地方を奪回され、伊達軍の福島侵攻を許してしまい、家康に降伏することになる。
 慶長6(1601)年、出羽米沢30万石へ減移封となった景勝公に従い、新たな米沢藩の立藩に尽力する。
 慶長13(1608)年、徳川家に忠誠を誓う証として、名を重光と改める。
 元和5(1619)年、江戸鱗屋敷 (東京都千代田区霞が関) で死去。
 徳昌寺に埋葬されたが争いで米沢を去ったため東源寺に改葬、後に直江家が断絶したため林泉寺に再び改葬された。
 分骨墓は高野山清浄心院。
 「達三全智居士」、100回忌に「英貔院殿達三全智居士」となる。
 逃れた徳昌寺の位牌には「直江院殿達三全智大居士」。
 兜の前立にあしらわれた「愛」は、は愛宕権現や愛染明王のこと。
 昭和13(1938)年、米沢市制施行50周年にちなみ、松岬神社に配祀。
 長井 定宗  ながい さだむね、寛文8(1668)年〜元禄16(1703)年5月19日 (36歳)
 通称:九八郎。 「本朝通紀/55巻」の著者として知られている。
 頼山陽が「日本外史」を著す際に「本朝通紀」を参考にしている。
 夏目貞親と母/長井氏との次男として誕生。
 元禄9(1696)年、29歳で松平正容公に儒者として召し抱えられる。
 後に勘定奉行にまで昇進し、財政を担当する。
 当時の藩財政は借金15万両に達するほど悪化しており、財政再建の方策の1つとして6万6千両の藩札発行を断行した。
 しかし、すぐに効果はあらわれず、逆に物価が急騰してしまう。
長井定宗の墓  元禄16(1703)年、藩札の通用は停止され、藩に不利益を与えた罪で切腹を命じられる。
 「7年を区切りとした計画なのだが、いま反論すれば藩主の誤りを指摘することになる」として従容に死に就いた。 加担した神道家/有賀満辰らも、家禄没収されている。
 墓は、大龍寺
 「義獄宗忠居士  定宗墓
  元禄十六癸未歳 五月十九日
 長沼 盛秀  ながぬま もりひで、天文13(1544)年〜天正18(1590)年
 通称:弥七郎。 兵庫。
 鴫山城主/長沼実国の嫡男。
 永禄4(1561)年、父/実国の代に蘆名盛氏公の軍門に下るが、一定の自立性をもった領主扱いであった。
 永禄12(1569)年、父/実国の隠居に伴い家督を継ぎ、さらに蘆名氏との関係を強化し、南会津最大の勢力となる。
 盛氏公の代で会津を統一し奥州最大の戦国大名となった蘆名氏であったが、家督を継いだ嫡子/盛興公が早世、盛氏公も死去、養子の盛隆公も家臣に殺害され、その子/亀若丸も夭折してしまう。
 相継ぐ領主の死に蘆名氏の家中は混乱し、伊達政宗公の弟/竺丸を推す派と、佐竹義重の次男/義広公の派に分裂し相続争いが起こる。
 盛秀は竺丸を推すが、義広公を迎えることとなる。
 天正17(1589)年、この家中分裂に乗じた政宗公の会津侵攻「摺上原の戦い」には兵を出さなかった。
 政宗公が黒川城 (鶴ヶ城) に入ると、迷うことなく政宗公の傘下に入り、徹底抗戦を続ける山内氏河原田氏を攻める先鋒を務める。
長沼盛秀墓群  天正18(1590)年、河原田盛次攻めに従軍し、河原田盛次の家臣/河原田盛勝と戦って負傷し、これがもとで死去した。
長沼盛秀墓群  墓は徳昌寺
 「右志者為花翁正禅定門遺滅塔波也」

 息子/長沼盛重は、会津に乗り込んだ豊臣秀吉の「奥羽仕置」で、会津から排除された政宗公に従って、会津を去った。
 約420年続いた長沼氏は、終焉した。

≪長沼氏 (ながぬまし)≫  [史料]
 鎌倉時代初期から天正18年まで約420年間、「会津四家」の1つとして続いた鴫山城 (長沼城) を居城とした領主。
  ◇ 蘆名氏   最大の勢力で会津4郡を所領
  ◇ 山内氏   大沼郡金山谷・南会津郡伊北只見川流域を所領
  ◇ 河原田氏  南会津郡伊南を所領
  ◇ 長沼氏   南会津の東部を所領
 本姓が藤原氏、家系は藤原北家の末裔/鎮守府将軍藤原秀郷の血筋で小山氏の支族であり、関東八屋形の1つ。
 奥州征伐の功により全国十数ヶ所の守護地頭職を授与され、その中に陸奥国南山 (長江荘) が含まれていた。
 観応3(1352)年、下野の本領長沼庄の維持が困難となった当主/秀直 (義秀とも) は、長沼庄を庶子家に委ね、会津南山長江庄に移住した。
 中野 義都
[肖像]
 なかの よしくに、享保13(1728)年〜寛政10(1798)年5月6日 (71歳)
 幼名:半三郎。 通称:理八郎、作左衛門。 号:惜我。
 藩士/中野瀬左衛門義陪 (義信とも) の次男。
 元々は蘆名氏一族 (盛国/猪苗代) の末裔で、最上に住した時に保科正之公に召し抱えられ、会津に先祖返りした。
 若くして藤樹学を修め、佐瀬常職・吉川従門に師事し神道を学ぶ。
 後に、藤樹学を継承の「藤樹学/後の三子 (中野義都・井上安貞矢部湖岸)」の1人と称されている。
 文武兼備の士であり、兵法・刀術・居合術・射術にも精通。
 父/義信が才能を惜しみ、家督を兄/唯八に代えて継がせようとしたため、熊倉村に逃れ、後に上高額村に草庵 (荻薄堂) を設け医号をしながら院生、その地の藤樹学徒と交流し奥義を論究している。
 兄も弟に継がせようと家出をしている。
中野義都(naka-下)  「いふもうし 言はぬもつらし 武士(もののふ)
    かぶと着る身の 髪の乱れを

 天明3(1783)年、その才を知った藩の命により、弓術師範に就任。
 天明4(1784)年、卜部神道の教授に就任。
 天明8(1788)年、松平容頌公の侍講に就く。
 寛文3(1791)年、見祢山の社司に就く。
 墓は大窪山 (図に記載あり)。「隠孝霊社」
 著書「藤門像賛」「会津干城伝」「本朝名臣伝」「北郷鄙土産憐民政要」など80余書。
 中林 尚堅  なかばやし なおかた、
 万治2(1659)年〜享保16(1731)年2月21日 (74歳)
 通称:弥一右衛門。 彦太夫、弥三左ヱ門、尚房とも称する。
 三右衛門尚房の次男。
 福島で医業を営む伯父の養子となるが、剣を目指し、若松に戻る。
 望月安勝に師事し剣術/太子伝安光流を習得し、小荒田吉兵衛時定に剣術/心清流を学ぶ。
 元禄2(1689)年、太子伝安光流の薙刀術を究めて太子流中林派を編み出し確立させ、剣術指南役に就任する。
 その後、42年間の長きにわたり、多くの子弟を育成する。
 墓は建福寺。 「吹毛智劍信士」

 没後、尚堅の弟子/浦野直勝が分派し浦野派を立ち上げたため、本流は中村派と呼ばれた。
 文化8(1811)年、丸山胤征が2派を併せて1つの流派に戻し、会津五流 (溝口派一刀流・真天流・安光流・神道精武流・太子流) の剣術流派の1つとして藩校/日新館でも取り入れられ、下級藩士を中心に最多の門弟を誇った。
 初代/長道  ながみち、寛永10(1633)年〜貞享2(1685)年11月17日 (53歳)
 道長だったが後に長道を名乗る。 通称:三好藤四郎。
 刀工/三好政長の子として会津にて誕生。
 祖父/長国は、加藤嘉明公が会津への入封に従い会津入り。
 父/政長に作刀を学ぶが、父が16歳の時に死去したため、父の門人であった叔父/長俊に師事する。
 万治元(1658)年、任官時の手続き時に三好道長から誤記載された三善長道を名乗る (26歳)。
 その後、江戸に赴き、試刀家/山野勘十郎久英に斬れ味の技術を学ぶ。
 後に、二つ胴・三ツ胴が実証され、「会津正宗」「会津虎徹」と呼ばれ、兼定とともに会津の2大刀匠と称される。 墓は法華寺
 明治まで10代続く。
 永峰 晴水  ながみね せいすい
 名:養廣 (養広)。 永峰家は、御側医師。
 藩命により狩野栄川の門弟となった永峰栄水は、習得後も請われて内弟子として残る。
 その子孫/伊水などの中で、最も優れているとされるのが狩野晴川院養信の門人/晴水とされる。
 子に絵師/秀湖がいる。
 東京での菩提寺/正源寺に葬られたが、今は不詳。
 [鹿寿老人] [寿老人]  [栄水/孔明]
 楢林 主殿  ならばやし とのも  名:虎備。
 初めは、立花飛騨守宗茂に仕える。
 天正15(1587)年、岩酌の城攻めで敵をねじ伏せるなど、数度にわたり軍功をあげ、悪魔下道左衛門と名乗る。
 慶長5(1600)年、大津城の戦いで猿のような軽業で軍功をあげ、猿渡紀伊守と名乗る。
 その後、故あって浪人となり、江戸へ出る。
 寛永20(1643)年、保科正之公に召し抱えられ、楢林主殿に改名し会津入りする。 ※ 寛永20(1656)年に召し抱えとも。
 正之公の上京のお供に外れたことから恨み落ち込んでいたが、「藩のことが心配なので信頼できる者を留守中役として残したのだ」といわれ喜色満面、家の大きな榎の上に櫓を設け、毎日、望遠鏡で市中を監視していたという。
 後に、旗奉行に就任。

 万治3(1660)年8月24日、死去。
 墓は、専福寺
 (寺の移転に伴い赤井町から改葬)。
 南英 謙宗  なんえい けんそう、
 嘉慶元/元中4(1387)年〜長禄4(1460)年5月19日 (74歳)
 源為家の子として京都にて誕生。
 京都/相国寺の大岳周崇により出家 (7歳)。
 後に、梅山聞本石屋真梁に師事を経て、越後/耕雲寺傑堂能勝に師事し (29歳)、後に法灯を継ぐ。
 その後、備前/牛頭山で修行中に耕雲寺が荒されたと聞き、すぐさま戻り再興する。
 永享7(1435)年、明へ渡り天童山に挂錫し九廊院を建立、宣徳帝の尊崇を受け、大瞞行果禅師の号を賜る。
 永享12(1440)年2月18日、明国を発し帰朝する。
 文安元(1444)年、越後/耕雲寺に移春庵を造営。
 文安3(1446)年、越後/種月寺を開山。
 文安4(1447)年、蘆名盛信公に招聘され天寧寺に入り、師/傑堂の跡を継ぎ3世住職 (実質2世) に就く。
 その後は天寧寺・耕雲寺・種月寺を行き帰り、弟子育成に努める。
 文安5(1448)年、備中/英常寺を開山。
 康正元(1455)年、出羽/玉泉寺を再興し、玉川寺に改称。
 長禄4(1460)年、越後/種月寺で死去。
 著作「五位秘訣」「碧巌事考」など。

成瀬主計重次

《 な 》 江  戸  幕  末

 内藤 貫道  ないとう かんどう、天保3(1832)年〜明治14(1881)年7月13日(50歳)
 初名:善道。
内藤貫道の墓  真龍寺の住職/河井善教の次男。
 慶応4(1868)年、戊辰の役の勃発すると還俗して、絶家の内藤家を再興し内藤貫道を名乗り、城下の各地で奮戦とのこと。
 開城後は、塩川で拘束 (謹慎) 中に脱走。
 斗南藩に移住するが、まもなく若松に戻り巡査となる。
 明治10(1877)年、西南戦争に出征し負傷、身体の中に弾が生涯 残っていたという。
 墓は真龍寺 (合祀とのこと)。
 内藤 信節  ないとう のぶこと、
 天保10(1839)年〜明治32(1899)年6月16日 (61歳)
 幼名:近之助。 通称:介右衛門。
 家老/内藤介右衛門信順 (号:可隠) の長男。
 梶原平馬武川信臣は実弟 (家を継ぐ者だけが内藤姓を名乗る)。
 嘉永2(1849)年、11歳で9代目/介右衛門の家督を継ぐ。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い上洛し、京都勤番に就く (23歳)。
 元治元(1864)年、若年寄に昇進 (26歳)するが、禁門の変で長賊を撃退後に守備を薩摩藩に任せて退いたことから罷免される。
 慶応2(1866)年、復職し、実弟/梶原平馬とともに家老に昇進する。
 慶応3(1867)年、大政奉還により守護職屋敷を土佐藩に引渡し下阪。
 慶応3(1867)年、鳥羽伏見の戦いには参戦しなかったが、戦場の巡見に出掛けていたため、慶喜らの敵前逃亡を知らなかった。
 戊辰の役では、惨敗した西郷頼母の後任として白河口総督に就任。
内藤介右衛門信節の墓  その後、陣将として勢至堂口に布陣していたところ、 鶴ヶ城下に侵入との報を受け、全軍を率いて背炙峠を越え帰城する。
 内藤一族は、菩提寺/泰雲寺で自刃している。
 籠城戦では、三ノ丸の守備に就き、戦い抜く。
 開城後は、東京で幽閉 (謹慎)。
 赦免されると斗南藩/五戸村へ移住するも、辛酸をなめる生活が待っていた。
 藩消滅後も現地に留まり再婚、地元の子弟教育 (漢学) で生計を立てながら開拓に尽力した。
 最初に移り住んだ上市川村で開墾した田は、今でも「内藤田」と呼ばれ残っている。
 会津にも、屋敷の僅かな名残り (白露庭) が残っている。
 墓は、高雲寺。   [資料]
 長尾 和俊  ながお かずとし、
 文政7(1824)年〜明治23(1890)年7月 (67歳)
 号:春濤。
 藩御用商人/斎藤和応の3男。
 麹業/長尾義俊の養子となり、麹業の他に塩、豆油、酒造、茶など取扱品を広げて大いに栄える。
 戊辰の役では、会津藩の食糧確保に尽力し、松平容保公照姫から感謝の和歌が贈られている。
 開城後、道理に合わない私怨で長賊は故なき会津藩の消滅を謀った。
 それを知りに没収された土津神社とその神域、御薬園を買い戻そうと、会津一円に募金を呼びかけ買い戻し、松平家に献上した。
長尾和俊の墓  鶴ヶ城消滅の謀を知った遠藤敬止の第二師団と交渉し私財を投じて落札した功績は揺らぐことないのだが、この時の募金活動に実際に立ち上げたのは長尾和俊たち松平家の出入り豪商たちである。
 特に、藩祖/保科正之公の墓域である神域/土津神社の解体を条件とした競売に猛反発し、最後の手段として長尾和俊は飯豊山神社の恐怖伝説を持ち出し、苦労の末ようやく手に入れる。
 意外と知られていないが、遠藤敬止と並ぶ功労者であることを忘れてはならない。
 明治23(1890)年7月、義を貫いた人生を終えた。
 永岡 久茂  ながおか ひさしげ、
 天保11(1840)年〜明治10(1877)年1月12日 (38歳)
 通称:敬次郎。 字:子明。 号:磐湖、当肉楼主人。
 永岡冶左衛門の子として鶴ヶ城下にて誕生。
 房州沿岸警備の父/冶左衛門に従い房州で育つ。
 幼き頃から逸材の誉れ高く、17歳で会津に戻り日新館に入学すると翌年には大学に進み、さらに昌平坂学問所 (昌平黌) へ留学。
 松平容保の京都守護職就任に従い上洛し、都の治安維持に尽力。
 鳥羽伏見の戦いでは八幡口にて参戦し、各地の北越戦で奮戦、長岡藩/河井継之助を北越連合に導き、梶原平馬に従い奥羽列藩同盟締結に列席、幕軍/衝鋒隊の古屋佐久左衛門から一隊を任されている。
 鶴ヶ城下に侵入すると、夜を徹して仙台湾に停泊中の榎本武揚に向かい、艦隊の新潟湾派遣を要請するが叶わなかった。
 開城後は東京に幽閉 (謹慎)、その後に母と妻と共に斗南藩へ移住し少参事に就任。
 明治7(1874)年、藩の消滅後、青森県大属を経て田名部支庁長に就任したが、を弾劾すべきと職を辞して上京。
 「薩長人 名を王政復古に名をかりて徳川幕府を倒し 反て政権を竊み 私利を貪り 苛斂誅求蒼生を塗炭に陥れ 天下の怨府と為れり 而して外国の侮慢を受ける日一日より甚だし 有栖川親王の建言中に曰く 維新の鴻基一朝にして土崩瓦解の勢ありと 島津久光公の献言にも亦曰 、皇国は終に西洋各国の奴隷と為ること昭ゝたりと 実に危急存亡の秋たる以て知る可し 且や我が藩忠節の士邦国の為に戦死したる者千数百人 而して今日の状斯の如し 実に徒死と謂ふべし
永岡久茂の墓  明治8(1875)年、次々に「評論新聞」「中外評論」「江湖評論」を発刊し強烈に弾劾し続ける。
 再三にわたる仕官の招聘を、断固として拒絶。
 明治9(1876)年、思案橋事件に連座し投獄され、翌年初めに獄死 (拷問による嬲り殺し)。
 遺骸は今戸/称福寺に葬られ、区画整理により源慶寺に改葬されたが、関東大震災や空襲のため墓石は行方不明とのこと。
 現在残っている墓は大窪山
 中條 辰頼  なかじょう たつとし
 嘉永6(1853)年1月4日〜明治17(1884)年10月19日
 初名:広記。
 白虎寄合二番太田隊として越後口に出陣し、越後各地で奮戦。
 鶴ヶ城下へ敵兵侵入の報を受け、帰城を目指す。
 9月5日、住吉川原を渡り、材木町口から入城を果たす。
 入城後は、三ノ丸の守備に就く。
 開城となり、猪苗代を経て東京で幽閉 (謹慎)
 明治9(1876)年10月、旧士族を対象とした巡査募集に応募し、上京して警視局に就く。
 明治10(1877)年、西南戦争が起こるや、志願して出征し 積年の恨みを晴らす。
 帰郷すると、教育の必要性を説き、初代市長/秋山清六諏訪伊助飯河小膳たちと学校設立に尽力。
 明治15(1882)年8月、旧藩/割場跡に私立日新館 (会津高校へと繋がる) を設立し、自ら館長に就任し教育に尽力。
 明治17(1884)年10月13日、第1回白虎隊飯盛山墓前祭を主催し、大盛況となる。
 見届けたかのように、その6日後に急逝。
 32歳。
 金剛寺の末寺/円満寺に葬られたが、戊辰の役で寺宝が略奪され焼き払われたため廃寺になってしまい、金剛寺に改葬された
 中根 米七  なかね よねしち、
 文政3(1820)年〜明治11(1878)年8月23日 (59歳)
 名:兼高。
 藩士/中根源吾右衛門忠愛の5男。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い上洛し、二条家の護衛などの任に就く (43歳)。
 日新館で学び、壮年にて太子流剣術を極め (師範)、柔術も長けた。
 鳥羽・伏見の戦いを経て、帰国後は青龍隊として鶴ヶ城外で奮戦。
 開城後は、越後/高田藩にて幽閉 (謹慎/本誓寺) の身となる。
 斗南藩へ移住するが、後に会津 (塩川村) に戻る。
 全国の士族たちが長賊らの専横政治に不満を増大させる中、明治7(1874)年から高津仲三郎と共に佐賀で中西七三らと、鹿児島で桐野利秋・篠原国幹らと協議する。
、東京に戻って永岡久茂たちとと策を練るが、言論での弾劾では限界があり武装蜂起しかないと決心する。
 明治9(1876)年10月29日、永岡久茂を長とした井口慎次郎・中原成業・竹村俊秀たち14名で千葉県庁を襲撃する計画が発覚、集結地の思案橋で警官と乱闘になった (思案橋事件)。 ほとんどの者が捕まったが、中根は逃れて京都の実弟/又八に匿われ、さらに九州へ逃れる。
 明治10(1877)年、西南戦争では西郷軍に与するも、敗北が決定的となり、城山陥落を悟った桐野利秋の願いで脱出する。
 明治11(1878)年、福島で逮捕されるが脱獄し、塩川村に潜伏する。
 やがて官憲の手が及ぶと、皮肉にも捕吏が旧友の飯河小膳と野村唯三郎であった。 特に唯三郎は高田藩で幽閉の時 (当時16歳) に同室であり、年が大きく離れた中根を尊敬し父のように慕っていたという。
 後の遺稿集「断雲血涙録」に苦渋の様子が記されている。
中根米七の墓  同年8月23日、関柴村の親戚を訪れ惜別の盃をあげ、累が及ばぬようにと、“杉の下墓地”で自刃、壮烈な最後を遂げた。
 入り口近くにゴザを敷き、共に戦って戦死した佐藤銀十郎の墓石に菅笠を置き、もろ肌になって割腹してから咽喉を突き、短刀の刃先が2寸も突き出る見事な最期だった。
 墓は杉ノ下墓地、「義士」と刻まれている。
 辞世「身をくだき 骨を野山に晒すとも 日本(やまと)心の色かはらめや」。
 中野 竹子
[肖像]
 なかの たけこ、
 嘉永3(1850)年3月〜 慶応4(1868)年8月25日 (19歳)
 弘化4(1847)年に誕生とも (→ 22歳)。
 幼名:たけ、おたけ。 養女:赤岡竹子。 雅号:小竹。
 江戸常詰勘定役/中野平内と母/孝子 (こうこ) の長女として江戸和田倉門内の藩邸にて誕生。
 幼少の頃に小倉百人一首を暗誦する秀でており、妹/優子とともに評判の美人姉妹であった。
 経書や史書を修め、藩士/黒河内兼規に薙刀術と短刀術を学び (免許皆伝)、佐瀬得所に書を学び、備中庭瀬藩の藩主夫人の祐筆も務めた。
 藩士/赤岡大助忠良からのたっての願いで養女となり、養父/大助の大坂/御蔵奉行就任に同行している。
 大助の甥との縁談が持ち上がるや、藩が危急存亡の時に縁組どころでないと、実父に頼んで養子縁組を破談にし実家に復縁する。
 慶応4(1868)年、江戸総引き揚げで、家族と共に会津に移る。
 江戸常詰だったため会津には家がなく、米代二之丁の田母神兵庫の書院を借りて住む。
 同年8月23日、鶴ヶ城下にが来襲する混乱の最中、母/孝子の「自害するより照姫をお守りする」との言葉で妹/優子の3人は髪を切り、白鉢巻に白襷をかけ薙刀で武装し城を向かったが、すでに城下に敵兵が侵入しており、途中で依田まき子・菊子の姉妹、岡村すま子と出会い、照姫が坂下へ立ち退いたとの噂を聞き、直ちに坂下に向う。
 到着すると誤報と分かり、やむなく法界寺で一泊する。
 翌朝、母/孝子たちと20人ほどの婦女隊を結成し、近くに布陣の陣将/萱野権兵衛を訪ね従軍を願い出るが、会津藩には婦女子を戦わせる習わしはなく認められるはずもなく「鉄砲に薙刀では戦争にならない」と聞き入れられない。 諦めず陳情を繰り返し「願いが叶わねば自刃する」との熱意に負け、入城を果たすまでとの条件で旧幕臣/古屋佐久左衛門の衝鋒隊への同行が許される。
 翌25日、城へ向かう途中、柳橋付近でと激突し、敵味方とも目を見張るほど薙刀で奮戦、女と侮った敵兵を次々に斬り倒す。
中野竹子の墓  恐れをなした敵兵の一斉射撃で頭 (胸とも) に被弾し戦死した。
 薙刀には短冊が結び付けられていた。
 「ものゝふの (たけ)き こころに くらぶれば
   (かず)にも入らぬ わが身ながらも

 墓は法界寺
 「美性院芳烈筆鏡小竹大姉」
 この戦いの後、母/孝子や妹/優子たちは入城し山本八重たちとともに籠城戦を戦い抜く。
 [史料]
 昭和13(1938)年、終焉の地に殉節の碑と像が建立。
中野竹子殉節の碑


中野竹子殉節の碑
 中野 優子  なかの ゆうこ、嘉永7(1853)年〜昭和6(1931)年4月28日 (79歳)
 江戸常詰勘定役/中野平内と母/孝子の次女として江戸和田倉門内の藩邸にて誕生。
 姉/竹子の姉妹とも美人の誉れ高く、特に優子は絶世の美女だった。
 慶応4(1868)年8月23日、 鶴ヶ城下に迫ると、恥辱されるよりはと自刃を決意するが、依田菊子の取り成しで死を免れる。
 ≪柳橋付近での戦いまでは「中野竹子」を参照≫   [回想]
 柳橋付近でに遭遇、敵味方とも目を見張るほど薙刀で奮戦し敵兵を次々に斬り斃すも、一斉射撃を受け姉/竹子が被弾死する。
 首級を奪われてはならじと介錯し、首を白羽二重に包んで回収する。
 死を覚悟しての従軍に先立ち手持ちの金銭を与えていたからか、恩義を感じた農民たちは銃弾飛び交う中、物ともせず手伝ったという。
 残る婦女隊一行は、衝鋒隊たちと共に高瀬村まで退却する。
 見舞いに来た萱野権兵衛から慰労の言葉と共に再び「今の戦いは大筒小筒の争い」と諭され事実上、婦女隊は解散となる。
 数日後に護衛されて入城し、負傷兵の看護や食糧の炊出しなど籠城戦の後方支援に尽力した。
 開城後は、斗南藩へ移住。
 明治 4(1871)年、藩士/山浦鉄四郎 (戊辰後に蒲生誠一郎に改名) と結婚し、小中野村 (八戸市小中野) で海産商や駄菓子屋を営む。
 明治10(1877)年、函館へ移り住む。
 明治12(1879)年、夫/鉄四郎と死別。
 昭和 6(1931)年4月28日 (14日とも)、函館にて死去。
 墓は御前(みさき)神社/神葬祭墓地
 南摩 綱紀
[肖像]
 なんま つなのり、
 文政6(1823)年11月25日〜明治42(1909)年4月13日 (87歳)
 幼名:三郎。 通称:八之丞。 字:士張。 号:羽峯。
 藩士/舎人助綱雅の3男として鶴ヶ城下にて誕生。
 文政13(1830)年、8歳で考経四書を読む。
 天保3(1832)年、藩校/日新館に入学 (10歳)。
 天保15(1844)年、弓術・馬術・剣術・槍術を会得 (22歳)。
 嘉永元(1848)年、藩校/日新館で成績優秀により昌平坂学問所(昌平黌)に進学し。古賀精里に師事し儒学・百家などを学ぶ (26歳)。
 嘉永4(1851)年、藩命により洋学を学ぶべく、蘭学者/杉田成卿や洋学者/石井密太郎に師事。
 安政2〜4(1855〜1887)年、藩命により西国・九州の諸藩を歴遊し、見聞した各地の風俗や藩政の状況などを「負笈管見」に著す。
 帰国後、日新館の教授に就任し洋学を教える (35歳)。
 文久2(1862)年、北方防備の任に就き、6年間、標津代官を勤め、就任中も現地の子弟にわかり易く教育し大変感謝されている。
 蝦夷地防衛に関して貴重な文献「環碧楼遺稿」も残している。 [史料]
 慶応3(1867)年、上洛し、松平容保の京都守護職就任に伴ない開校した京都日新館で洋学を教える。
 慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦い後も数人の藩士と大坂に潜伏し、しばらく情報収集をしてから帰藩。
 その後、藩命を携えて近隣の藩と協議にあたり奥羽越列藩同盟結成に尽力しつつ、各地の動向を探る密偵を兼務する。
 開城時は庄内藩にいたが、越後高田に幽閉 (謹慎) される。
 幽閉中にも、近在の儒者や向学の士が連日 訪れてきたという。
 明治3(1870)年、赦免されるや学徳を慕う有志から招聘され、高田に設立された郷学校「正心学舎」の塾長に就く。 幽囚の会津藩士を最後まで武士として扱ってくれた高田藩に対する恩返しだった。
 明治5(1872)年、京都府職員に就き京都中学校にて教鞭をとる。
 在任中に、会津藩が作成した京都守護職時代の「会津藩庁記録」を発見し元藩主/松平家に献納している。
 明治7(1879)年、太政官権大主記に就任。
 明治10(1882)年、文部省編輯局普通学務局に移り教科書編纂に従事。
 明治16(1883)年、東京大学文学部教授に就任。
 高等師範学校、女子高等師範学校の教授を歴任。
 明治36(1903)年1月 6日、勅命により宮中の御講書始で中庸を進講。
南摩綱紀の墓  明治37(1904)年1月18日、勅命により宮中で論語を進講。
 明治42(1909)年、三大漢学者と称された1人が、東京麹町の自宅にて死去した。
 墓は谷中霊園
 その他の著書「追遠日録」「内国史略」「改正内国史略」「内地誌略」「環碧楼詩鈔」「環碧楼文鈔」など。
 撰文を頼まれると心良く引き受けていたので、全国各地に数え切れないほどある。

 祖先は藤原鎌足とのこと。
 〜 〜 7世が田原藤太秀郷。
 〜 〜 秀郷から18世/綱郷が下野国/南摩城主になり南摩を名乗る。
 〜 〜 綱郷から13世/後綱が保科正之公に召し抱えられる。
 〜 〜 後綱から6世/次郎太夫忠知  → 舎人助恵本
 →舎人助綱郷 .  → 数馬綱領  → 舎人助綱稚  → 綱紀

《殉難者》 内藤可隠・モト・フサ・英馬・ヒデ・トク・ツグ・ジュウ・セイ
永井左京・ツル・スミ・フヂ・英記・某・ヤエ 長尾周吉
長尾八郎 中澤常左衛門 中沢鉄之助 中條茂平
永瀬雄次 中土井弥右衛門 中野克江 中野半三郎
中丸俊成 中村新八 中村新六 中村成房
中村帯刀(重成) 成田悌次郎 楠藤之進重光 南摩弥三右衛門
南摩勝子・節・寿・辛

《 な 》 幕 末 よ り 後

 永岡 慶之助  ながおか けいのすけ、大正11(1922)年7月30日〜
 会津坂下町にて誕生。
 東洋大学文学部を卒業後、公友社、河出書房の雑誌編集者を経て、作家活動に入る。
 昭和35(1960)年、河原勝治を題材とした「斗南藩子弟記」を著し、作家デビューする。
 昭和36(1961)年、「斗南藩子弟記」で第45回直木三十五賞候補。
 昭和44(1969)年、「紅葉山 富岡製糸場始末」で第62回直木賞候補。
 史実に基づいた歴史ノンフィクションを中心に、史伝的な歴史小説や通常の時代小説も手掛ける。
 長沢 節
[肖像]
 ながさわ せつ、
 大正6(1917)年5月12日〜平成11(1999)年6月23日 (82歳)
 本名:昇。 <日本のファッション・イラストレーターの草分け>
 会津若松市にて誕生。
 小学校時代に、画家の小学校教師/渡辺菊二と出会う。
 会津中学校(会津高校)を卒業し(中41回)、文化学院美術科に進学。
 軍事教練不合格になったため、官立校の東京美術学校 (東京芸大) 進学を断念し、文化学院へ進んだとのこと。
 卒業すると、女性誌「新女苑」の挿絵でデビューし、「それいゆ」や「ひまわり」などに挿絵や水彩画、エッセイを掲載。
 春日部たすくとも親交を深めている。
 昭和12(1937)年、第24回日本水彩画展で初入選。
 昭和14(1939)年、日本水彩画会会員。
 昭和18(1943)年、水彩連盟会員、戦時下、新制作派協会展に出品し、新作家賞を受賞。
 戦時中は、敗退的な画風から軍部の執筆停止処分を受ける。
 昭和21(1946)年、スカートをはいて銀座を歩くスナップ写真が掲載。
 戦後は、スラリとした刺激的なスタイル画を描き一世を風靡、日本女性に新たな希望と夢を与えつつ、ファッションイラストレーターの第一人者として活躍する。 エッセイや取材などファッション雑誌の執筆も数多く手掛け、映画評論家としても活躍する。
 昭和29(1954)年、ファッションイラスト教室「節スタイル画教室 (後のセツ・モードセミナー)」をサロン・ド・シャポー内の一室で開始、デザイナーやイラストレータ、絵本作家など様々な分野から多くの優れた人材を輩出。
 昭和35(1960)年、パリコレ研究のためにフランスに渡る (1年間)。
 昭和39(1964)年、銀座ワシントン靴店の協賛で日本初のファッションショー「モノセックスショー」を開催。
 昭和40(1965)年、セツ・モードセミナーを新宿に移す。
 昭和45(1970)年、「ホモ・ジュッピーズ」を開催。
 平成7(1995)年、国立近代美術館、日米水彩展招待出品、  平成10(1998)年、第16回毎日ファッション大賞鯨岡阿美子賞を受賞。
  (その他の受賞は全て辞退)。
 平成11(1999)年、自転車で走行中に転倒し、脳挫傷にて死去。
 「あの人は弱いから綺麗、あの人は弱いから好き、あの人は弱いからセクシー」、生涯独身。
 著書「デッサン・ド・モード」「「長沢節デッサン集  第1輯」」「わたしの水彩」「大人の女が美しい」「セツの100本立映画館」、「弱いから、好き。」、画文集「長沢節と風景たち」など多数。
 服飾雑誌「装苑」では27年間も連載。
 [格子柄] [水玉] [着物] [着物3] [着物2] [着物で座] [橙] [白毛] [俯き] [裸婦] [裸婦] [つなぎ] [生足] [二人] [口絵] [ファンキー] [パリコレ] [パリコレH] [長服] [白青2人] [花井] [ドレス] [ズボン] [黒3人] [縞柄] [座女] [教会通り] [ホテル] [部屋]
 中田 喜直
[肖像]
 なかだ よしなお、大正12(1923)年8月1日〜平成12(2000)年5月3日
 <“童謡の父”と称される作曲家>
 父/中田章と母/こうの3男として東京府豊多摩郡(渋谷区)で誕生。
 祖父/中田平吉は会津藩士で、祖母/タツも会津藩士の娘。
 音楽については、結核を患い病床に伏していた父でなく、後に同じ作曲家となった兄/一次から教えられたという。
 昭和5(1930)年、父の教え子/畑玉吉から正式にピアノを習い始める。
 昭和6(1931)年、畑玉吉がいる区立番町小学校に転校。
 同年、父/章が死去。
 昭和8(1933)年、三木露風の詩「静かな日」に、初めて歌曲を書く (10歳)。
 昭和10(1935)年、映画「別れの曲」を観てショパンに憧れ、ピアニストを志すようになる。
 昭和11(1936)年、青山学院中等部へ入学、同時に上野児童音楽学園にも入学し、金子登からピアノを習う。
 昭和15(1940)年、青山学院中学部を卒業すると、東京音楽学校 (東京芸術大学) 予科に入学し、田中規矩士や豊増昇からピアノを、橋本國彦から作曲を学ぶ。
 昭和18(1943)年9月、太平洋戦争のため繰り上げ卒業となり、第1期特別操縦見習士官として宇都宮陸軍飛行学校に入校。
 訓練を終えると、四式戦闘機「疾風」を装備する陸軍少尉としてフィリピンやインドネシア戦線に投入されるが、本土決戦の特攻隊要員のため帰国後に終戦を迎える。
 昭和21(1946)年、作曲家グループ「新声会」に入会。
 昭和22(1947)年、「六つの子供の歌」を発表。
 昭和24(1949)年、NHKの依頼で作られた「夏の思い出」が、ラジオ番組「ラジオ歌謡」で放送されるや大評判となり、尾瀬の人気も急上昇。
 昭和26(1951)年、「めだかの学校 (作詞:茶木滋)」が、NHKラジオ番組「幼児の時間」で公開。
 同年、「かわいいかくれんぼ (作詞:サトウハチロー)」を発表。
 同年、「雪の降るまちを (作詞:内村直也)」が、NHKラジオ連続放送劇「えり子とともに」の挿入歌として発表され、翌年にリリースされると大ヒットする。
 昭和28(1953)年、フェリス女学院短期大学音楽科講師に就く。
 翌年に助教授、昭和39(1964)年には教授に就任し、40年にも亘り同校の教壇に立ち、教え子/幸子とも出会って結婚している。
 昭和29(1954)年、「おかあさん (作詞:田中ナナ)」を発表。
 昭和30(1955)年、「ちいさい秋みつけた (作詞/サトウハチロー)」が NHK特番「秋の祭典」の楽曲として作曲。
 同年、作曲家5名と「子供たちのために、いい詩と、いい音楽を」をモットーに「ろばの会」を結成。
 昭和31(1956)年、「蜂の会」にも参加。
 昭和35(1960)年、文部科学省芸術祭奨励賞を受賞。
 同賞は、その後も10回受賞している。
 昭和37(1962)年、「ちいさい秋みつけた」レコード大賞童謡賞受賞。
 同年、社団法人日本作曲家協会理事に就任。
 昭和46(1971)年、日本童謡功労賞を受賞。
 昭和54(1979)年、社団法人日本童謡協会会長に就任。
 昭和58(1983)年、日本作曲家協議会理事に就任。
 昭和61(1986)年、紫綬褒章を受章。
 昭和63(1988)年、神戸山手女子短期大学でも教鞭をとる。
 平成2(1990)年、フェリス女学院大学教授に就任。
 平成7(1995)年、NHK放送文化賞を受賞。
 平成11(1999)年 日本音楽著作権協会60周年特別賞を受賞。
 平成12(2000)年、フェリス女学院大学を定年、名誉教授に就任。
 同年、急性肺炎にて慶応病院で死去。
 同年、第42回日本レコード大賞日本作曲家協会の功労賞を受賞。
 校歌・社歌・自治体から以来の曲を含めると作品は3千曲にも及ぶとされ、晩年には昔からの名曲普及にも尽力した。
 著書「実用和声学」「メロディーの作り方」「だれでも弾けるやさしい伴奏」「音楽と人生」など。
 中野 友禮  なかの とものり、
 明治20(1887)年2月1日〜昭和40(1965)年12月10日 (行年79歳)
 旧藩士/神尾彦之進の次男として川西村西方 (三島町) にて誕生。
 幼児の時に中野家の養子となる。
 会津中学校 (会津高校) を卒業 (中12回) し、第一高等学校臨時中等教員養成所に進む。
 明治41(1908)年、京都帝国大学理学部化学教室の助手に就く。
 同年、短編集「名倉山 (春陽堂)」を刊行。
 就任中に中野式食塩電解法 (電解ソーダ法) を開発し特許を得る。
 大正9(1920)年、日本曹達を設立、苛性ソーダ・晒粉の製造を開始。
 満州事変を契機に、徐々に軍需品も手掛けるようになる。
 昭和15(1940)年、傘下企業42社となり日曹コンツェルンと称されるまでに成長したが、陸軍から軍需品の増産を要求され、設備投資の銀行融資と引き換えに、社長を辞任。
中野友禮の墓  この年、故郷に校舎・校庭を寄贈している。
 昭和20(1945)年、GHQが指定する15財閥に日曹コンツェルンが含まれ、財閥解体された。
 昭和17(1942)年、政府から招聘されるも固辞、代わりの人材を紹介。
 昭和40(1965)年、脳溢血により死去。
 墓は多磨霊園
 「種徳院殿鳳心友道大居士」
 著作「これからの事業これからの経営」。
 家族。
 中野 寅吉  なかの とらきち、明治12(189)年4月〜昭和37(1962)年7月5日
 赤沢村 (会津美里町雀林) の小林家にて誕生。
 明治34(1901)年、東京専門学校法律科 (早稲田大学法律科) を苦学して卒業し、北海道に渡る。
 明治40(1907)年、創刊に参画した「小樽日報」の事務長に就任。
 石川啄木は小樽駅/駅長の義兄/山本千三郎を頼っての渡道し、同駅の助役となっていたが、記者として「小樽日報」に入社。
 しばらくすると、社の内紛から2人は対立し、啄木は退職する。
 去る日、家族と共に啄木を見送る。
 停車場には吹雪が舞い、別離の悲しみに憎悪は消え去った。
 「敵として 憎みし友とやや長く 手をば握りき わかれといふに
 この後、寅吉は政治へ、啄木は文学で功をなしていく。
 北海道庁、台湾総督府、朝鮮総督府、警視庁の警部を歴任。
 大正 9(1920)年、第14回衆議院議員総選挙 (福島7区) で当選。
 大正13(1924)年、第15回衆議院議員総選挙 (福島7区) で当選。
 昭和 7(1932)年、第18回衆議院議員総選挙 (福島2区) で当選。
 昭和12(1937)年 第20回衆議院議員総選挙 (福島2区) で当選。
 昭和21(1946)年 第22回衆議院議員総選挙 (福島全県) で当選。
 昭和22(1947)年、第23回衆議院議員総選挙 (福島2区) で当選。
 代議士として活躍し、「蛮寅(ばんとら)」と称される。
 晩年、故郷の法用寺の住職に就く。

 昭和60(1985)年、啄木生誕100年に因み、法用寺境内に2人を記念する2つの歌碑が建立。
 長嶺 ヤス子  ながみね やすこ、昭和11(1936)年2月13日〜
 会津若松市にて誕生。
 昭和30(1955)年、河上鈴子に師事し、スペイン舞踊を習い始める。
 昭和35(1960)年、青山学院大学中退、スペイン/マドリッドに渡る。
 マドリッドでダンスを学び、フラメンコに没頭する。
 昭和50(1975)年、「イグナシオ・サンチェス・メヒーアスへの哀歌」で文化庁芸術祭優秀賞、舞踏評論家協会賞を受賞。
 昭和52(1977)年、公演「サロメ」でゴールデン・アロー賞を受賞。
 愛の破局から帰国する。
 古来からの日本音楽/長唄・三味線などに心を奪われ傾倒していく。
 昭和55(1980)年、「道成寺」を上演、文化庁芸術祭大賞を受賞。
 昭和57(1982)年、「道成寺」を米国/ニューヨークで公演、ダンサーとして高い評価を得る。
 しかし、この後から深い虚無感に取り付かれる。
 昭和55(1980)年、車で猫を轢いてしまったことから、捨て猫・犬を育てるようになり、マスコミから批判を受けるも人生の契機となる。 猫160匹、犬20匹ほどにもなったという。
 昭和58(1983)年、空海入寂1150周年にあわせて、僧侶の協力を得て読経による舞踊舞台「曼荼羅」を上演。
 昭和59(1984)年、僧侶50名を伴って「曼荼羅」をニューヨークで公演、絶賛を浴びる。
 その後、日本の古典に基づいた「鷺娘」「鬼婆」「安達ヶ原」「浮世風呂」などを上演。
 昭和63(1988)年、創作フラメンコを再開し「ある恋の物語」を上演。
 「鐡輪」「オイディプスを愛して」「うきふね」「ローレライ」「羅生門」「メドゥーサ」「雨月物語」「くろいわらべ唄」「卒塔婆小町」「宇受女」「三国妖狐伝」「炎のように火のように」など。
 平成 7(1995)年、油彩にも興味を持ち、毎年 個展を開催。
 公式サイトは、こちら
 現在は、近所から苦情が出たため、東京から故郷近くの猪苗代町へ移り、猫160匹・犬20匹ほどに囲まれて生活している。
 永峯 良  ながみね りょう、昭和33(1958)年10月24日
 本名:良二。
 会津若松市で誕生し、宮城県塩竈市で育つ。
 タレント、CMモデル、DJ、司会者・MC、リポーターなど幅広く活躍し、宮城県では高視聴率を稼いでいる超著名なローカルタレント。
 「宮城の三田村邦彦」とも称されている。
 中村蘭台
  (蘭臺、
   初代)
 なかむら らんたい、安政3(1856)年〜大正4(1915)年11月18日 (60歳)
 通称:稲吉、藤吉。 諱:蘇香。 字:伯表。
 号:蘭台、香草居主人。  <近代日本の篆刻家>
 藩士/須藤某の3男として鶴ヶ城下にて誕生。
 父は勤王思想を貫き、藩主/容保を諫めたところ怒りに触れ、切腹させられてしまう。
 残された母と男の子3人は故郷を追われ、上京する。
 浅草の船問屋/中村家へ養子に出され、鍛冶屋で丁稚奉公する。
 後に高田緑雲に師事し、文三橋や何雪漁の刻法を学び、秦漢の印まで修める。 37歳の頃、徐三庚の繊細流麗な作品に衝撃を受け、その作風に傾倒し、刻風が一変する。
 さらに、秦漢の古銅印や浙派、完白、趙之謙らの刀法をも修め、独自の刻風を生み出す。
 鈕 (印章のつまみ) の印材に木材を用い、木額・衝立・香筒・盆など木を素材とする工芸的作品も進んで制作し、新たな分野を開いた。
 明治40(1907)年、河井荃廬浜村蔵六岡本椿所らと丁未印社を創立し、更なる篆刻の発展に尽力・邁進した。
 横山大観や川合玉堂らの印を刻している。
 印譜「酔漢堂印存」「蘭台印集」「三集」など。
 次男/秋作が、中村蘭台の名跡 (2代目) を継いだ。

中田章 中野二郎 中野知美 中野平内 中村俊輔 南部精一郎

ツールチップあり .
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