会 津 若 松 市 の 見 ど こ ろ

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名 刹 と 神 社 (東山温泉周辺)

監修 : 梅津咸一 氏     .

愛宕神社 (あたごじんじゃ)

辰・巳 愛宕神社 普賢菩薩

 天応元(781)年、大蛇を鎮めた三河国の修験者/玉泉が里谷地沼に愛宕山権現を勧請。
 至徳元/元中元(1384)年、蘆名直盛公愛宕町に遷座。
 天正18(1590)年、蒲生氏郷公が現在地に遷座。
 今の社殿は、享保15(1730)年に建立したもの。
 200段の不揃いな石段は、築城の残石で造った。
 勢至菩薩像を本尊とする金蔵院が別当を勤めたことから、辰巳・午年の守り神として信仰が厚かった。
 明治政府が施行した大罪/神仏分離令 (廃仏毀釈) により、金蔵院は消滅。
 土方歳三も訪れており、隣りの天寧寺近藤勇の墓がある。
 [逸話]
稲荷大明神
 境内に、北向きとして有名な正一稲荷大明神がある。
 同じ北向きの鶴ヶ城内の稲荷と、宝積寺の稲荷の3ヶ所にお参りすると、合格の願いが叶うと信じられている。
 受験シーズンには、大勢の参拝客で賑わう。

 本殿手前の石段脇に、松平容保の胸像が建っている。
 会津十二支守り本尊の 辰・巳 (普賢菩薩)
 お日市 7月23日
 殉難者墓あり

 ▲(会津若松市慶山2-43 Tel. 0242-26-3395 <旧/天寧村〜慶山村水尾>)
   ・例祭 毎月23〜24日 (特に正月は参詣者が多い)

厳島神社 (飯盛山) は、こちら。

松栄寺

 真言宗豊山派。

 町廻り三十三観音の第2番

 ▲(会津若松市東山町石山字慶山731-1)


正法寺           幽霊の墓

正法寺

 慶長3(1598)年、越後/天倫寺の僧が開山。
 会津拝領となった上杉景勝公を慕って移った“お供寺。
 曹洞宗、松巌山。 本尊は阿弥陀如来。
 慶長5(1600)年、景勝公が米沢へ再移封されると、僧も従ったため無住になり廃寺となる。
 慶長7(1602)年、僧/善導が中興し、正法寺と改称した。
 元禄年間(1688年〜1704)、小寺宗安の援助で大いに栄える。
 戊辰の役で西軍に堂宇すべてが焼き払われたが、山門だけが残った (現在は撤去)。
 寺宝は略奪されたが、木像/阿弥陀如来像は住職が身を挺して裏庭の泉水に秘匿したため難を逃れるも、その際の傷が今に残る。
 根本精器の句碑や、「幽霊の墓」、漢詩「白虎隊」の作詩者/佐原盛純の墓がある。
 殉難者墓あり

 ▲(会津若松市東山町大字石山字天寧196 Tel. 0242-28-0661 <旧/天寧村>)  [旧写真]

宗英寺 (そうえいじ)

宗英寺

 蘆名盛政公が、蘆名家の御影堂として創建 (伝)。
 瑞雲山、曹洞宗。 本尊は観世音菩薩。
 天文年間(1532〜1554)、火災で全焼したが、盛氏公が再建。
 天正17(1589)年、会津侵攻の伊達軍が堂宇を焼き払った。
 慶長7(1602)年、再建。
 慶長17(1612)年、輪叟祐玉が盛氏公の座像を安置し、供養所として瑞雲院 (場所は不詳) と号する。
 大正9(1920)年、厨子入木造/蘆名盛氏坐像は、国宝 (現/国指定重要文化財) に指定。
 高田/小俣の龍門寺の僧/翁吉が、角館から盛氏公の像を持ち帰ったとの伝もある。
 輪叟祐玉が死去すると、瑞雲院は荒廃する。
 元和6(1620)年、黙岑(崙とも)昌ァ和尚が荒廃していた寺を現在地に移し、宗英寺と改め、盛氏公、盛興公盛隆公3代の菩提寺として再興した (宝積寺/尊芸、龍門寺/月翁など諸説あり)。
 戊辰の役で、再度すべての堂宇が焼失。
 昭和35(1960)年、本堂が再建された。
 加藤嘉明公が朝鮮から持ってきた“さるすべり゛の株分けした樹木が現存している。

鮎川千の墓  本堂裏の墓域の左側中ほどに、「せん」の墓がある。
 「梅相容寒信女」、側面に「鮎川千女」。
 許嫁の鮎川市左衛門が、事件に連座して切腹となった。
   幼名:金弥、名:義光、通称:ト心。
   行年25歳、「本安宗心信士」
 まだ夫婦ではないのに、「貞女は二夫にまみえず」と後を追った。 妻であったが再婚の奨めがあるも節操を守り自害とも。
 一昔前までは貞女の鑑といわれ、香華が絶えなかった。
 荒井真庵
 ▲(会津若松市天寧寺町1-1 Tel. 0242-27-5745 <旧/天寧村>)  [寺宝]

大龍寺  ネットで参詣  小笠原長時の墓  山本家之墓

大龍寺

 会津拝領の保科正之公に従って移った"お供寺"の一つ。
 寛永20(1643)年、最上/大龍寺から、従って移った機外紹鑑和尚が、この地/慶山寺 (廃寺) の跡地で開山した。
 宝雲山、臨済宗妙心寺派。
 本尊は、聖観世音菩薩。
 京都/妙心寺の末寺。

 元禄9(1696)年に目黒浄定作の遠州流寺庭が造園された際、京都/嵐山から移植した“かえで”など数本が現存している。
 若松で紅葉が最も美しい寺とされる。
 明治政府が施行した大罪/神仏分離令で成就院 (寺沢村) が吾妻山神社と改まり、消滅の危機に瀕した仏像の多くを、17世/太宗玄義和尚が引き取るなど、慈悲深い寺でもある。
 本堂には、幽霊の足跡と伝えられるものもある。 現在は 非公開かも?
 会津七福神の布袋尊
 会津十二支守り本尊の酉 (不動明王)
 殉難者墓あり。  安藤有益  斎藤常三郎  長井定宗  沼澤重通

 ▲(会津若松市慶山2-7-23 Tel. 0242-27-9376)  [寺宝]

天寧寺はこちら。

羽黒山神社 (羽黒山湯上神社、旧/羽黒山東光寺)

羽黒山神社

 神亀6〜天平元(729)年、行基菩薩が東山温泉を発見した際、妙見菩薩・聖観音菩薩・軍茶利明王の3尊が現れた山頂に湯上神社を勧請し、別当寺院として東光寺を草創。
 祭神は、倉稲魂神(うかのみたまのかみ)
 羽黒山への1,225段の石段を上った頂上にある。
 その後、修験道場の院宇300余が連なっていたと云う。
 今も残る「院内」の地名は、寺院の内だったことに由来する。
 応安5/文中元(1372)年、日什大正師蘆名直盛公の招聘で帰郷し住職に就いている。
 明治政府の大罪/神仏分離令 (廃仏毀釈) で寺が廃され、羽黒山湯上神社のみが残った。
 推古・白鳳仏の特徴を持つ銅造聖観音菩薩立像を所蔵。
羽黒山神社の案内板  大晦日の年越しそばを食べてからの初参りは「東山羽黒山元朝まいり」と呼ばれており、大勢の善男善女で賑わう。
 自然景観指定緑地の1つ (第20号)。

 ▲(会津若松市東山町湯本羽黒山 Tel. 0242-27-2306 <旧/湯本村>)
   ・往復 1時間

夜泣き地蔵尊

第九番 夜泣き地蔵尊

 会津二十一地蔵尊の第九番
 昔々、温泉芸者が子育てをしながら働いていた。
 幼子の夜泣きが止まず悩みぬいて地蔵尊にすがったところ、瞬く間に夜泣きが止まった。
 子供を連れて参拝すると夜泣きが止むと、今でも信じられている。

 ▲(会津若松市東山温泉)

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