会  津  の  著  名  人

[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]    [50音メニュー]

《 り 》 幕 末 よ り 前

 輪叟祐玉  りんそう ゆうぎょく
 俗名:永島観悦
 名君/蘆名盛氏公坊主衆茶道14人の末席として仕える。
 天正8(1580)年、盛氏公が死去。
 宝寿院の住職/宥繁が、盛氏公の恩顧から僧/憐堯に彫らせた座像を、観悦は参拝を欠かさなかったという。
 宝寿院とは蘆名盛信公の菩提寺で、当時の八角神社/別当。
 天正17(1589)年、蘆名義広公が摺上原の戦いに敗れ、伊達政宗公が焼き払いつつ黒川城 (鶴ヶ城) に迫るとの報を受け、宝寿院から盛氏公の座像を持ち出し、位牌とともに宗沢の一渓庵に身を潜める。
伊達政宗乱入ノ折柄盛氏ノ寵坊長島観悦格別君愛ヲ蒙リシ御恩忘レ難クシテ宝寿院ニ駆ケ入リ盛氏ノ形像ヲ抱キ上ゲ元慶寺ニ走リ身ヲ潜ム
 座像と位牌を安置して、盛氏公の諱から一渓庵を瑞雲庵と改称し、観悦も出家して輪叟祐玉と改め瑞雲庵の食客となる。
 天正18(1590)年、養子の義広公が実家に逃げ落ち、秀吉から江戸崎藩4万8千石を与えられ安堵されたと知るや、座像を背負い向かう。
 慶長7(1602)年、関ヶ原の戦いで西軍に内通した疑いをかけられて、徳川家康から減移封された義重 (義広公の改名) に従い、角館で瑞雲庵 (後の天寧寺) を草創し供養所とする。
 慶長17(1612)年、祐玉は会津が安定したことを知り、盛氏公の像とともに主君の眠る会津に戻る。
 蒲生秀行公に願い出て城東に新たな瑞雲庵を結ぶや、旧/蘆名氏家臣たちが御堂を大改築したため、瑞雲院 (場所は不詳) と号する。
 元和元(1615)年、政宗侵攻時に難を逃れた宗沢の瑞雲庵を現在地に移し、盛信公の位牌を安置して、法名から元慶寺に改称する。
 やがて、盛氏公への恩義供養に一生を捧げた祐玉も死を迎える。
 瑞雲院し荒廃するも、後に再興されて宗英寺となり、盛氏公の座像も現存している。
[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]    [50音メニュー]