天正18(1590)年、蒲生氏郷公が父/蒲生賢秀の菩提を弔うため創建し、曹月存禅師 (下総国/安穏寺) が開山。
金剛山、曹洞宗。
本尊の聖観世音菩薩立像は、前方に両手を差し伸べ人々を救済する前傾姿勢で、全国でも珍しい形とのこと。
木造蒲生賢秀坐像などを所蔵。
封内の僧録司 (領内での曹洞宗/総本山)であった。
慶長17(1612)年、鶴ヶ城/西の米代から現在の地に移築。
戊辰の役で、に寺宝は略奪され、堂宇すべてが焼き払われた。
本堂や山門など、今なお再建され続けている。
東海散士 (柴四郎) など柴家の墓がある。
殉難者墓あり。
蒲生賢秀 天文3(1534)年〜天正12(1584)年4月17日 (51歳) 「恵倫寺殿天英輪公大禅定門」 戦国時代の武将。 近江日野城主。 本能寺の変で逃れてきた織田信長の妻子一族を迎え入れるなど、信長の恩を忘れなかった人物としても知られる。 |
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お日市 8月8日。
金剛寺が管轄。
▲(会津若松市新横町4-26)
寛永20(1643)年、高遠藩主/保科家の菩提寺である高遠/建福寺を、鉄舟禅師 (第5世) が山形から供奉し、無住であった長福寺の南町河原新丁に移し創建。
養祖父/保科正直、養父/正光の位牌が安置され、その法号から「大宝」、正直の法号から「建福」がとられた。
大宝山、臨済宗妙心寺派。
保科正之公が会津拝領となり、従って移った"お供寺"の一つ。
大龍寺、善龍寺、大法寺なども、お供をした。
延宝8(1680)年、北青木村に寺地を賜り、現在地の鞍見山正行寺跡地に移り、堂塔伽藍が建立される。
貞享2(1685)年、正容公が、江戸芝/東禅寺から黙水和尚を迎える。
以来、士族の寺として、隆盛を極める。
田畑からの収益で維持管理できるほどの、1万坪を超える広大な所領が与えられていた。
幕末まで最も多い寺社領 200石の5寺 (興徳寺、圓蔵寺、融通寺、延壽寺) の1つ。
戊辰の役で、に寺宝は略奪され、堂宇すべてが焼き払われた。
明治3(1870)年、鶴ヶ城御殿の建物に使用されていた木材を使って、再建される。
藩主の手植えと伝えられている2本のシダレ桜は、20数年前まではあったが、現在は1本が残るのみ。
会津七福神の福禄壽。
道教での幸福、俸禄、長寿の三徳を具現化しものであるため、"禄"が士族の"禄高"に通じ、財運、開運、健康に恵まれる御利益があるとのこと。
殉難者墓あり。
他の魂魄。
[閑話]
▲(会津若松市建福寺前7-3 Tel. 0242-28-3892)
文保2(1318)年、他阿上人と真教和尚が開山。
康暦元(1379)年、蘆名直盛公に従って会津に来た時宗の鎌倉光徳寺/住職が、「大照山光徳寺」として中興。
慶長3(1598)年、上杉景勝公に従って会津に来た越後/弘長寺の僧/信随が「弘長寺」と改称。
陸照山・六照山・当麻山、時宗。
本尊は、阿弥陀如来。
入口に、猪苗代兼載が東明寺で詠んだ歌碑がある。
「花もみぢ 夏こそ盛 庭の松」
会津二十一地蔵尊の第三番。
町廻り三十三観音の第二十一番 河原町。
殉難者墓あり。
昭和37(1962)年、本堂建立の際、赤井町の西光寺・
日新町の常念寺(長念寺とも)
・大町名古屋町の東明寺を合体した東明寺が同地に移ってきた。
▲(会津若松市川原町5-20 Tel. 0242-27-3637)
安養山、浄土真宗本願寺派。
明応4(1495)年、蘆名盛高公の4男/万千代麿 (浄顕) が得度したため、一宇が創建された。
永禄6(1563)年、盛高公の遺命で現在地に1万坪と永銭壱百貫が与えられ、本堂が建てられて移転。
今の外観は幼稚園・保育園で、寺は事務棟の2階で執り行っている。
▲(会津若松市宝町2-16 Tel. 0242-27-3942)
戊辰の役の慶応4(1868)8月26日、極楽寺の僧の内通により西軍が小田山に砲台を築き、1.6キロほどの鶴ヶ城に連日、砲火を浴びせた。
戦後、この裏切りを知った藩士/武田宗三郎は、謹慎所から脱走し、越後の三条に逃亡していた僧を見つけ出し、家族もろとも一刀両断にした。
蘆名氏の末裔の1人/浄顕の血は、ここに絶えた。
しばらく、裏切りの寺といわれていた。
永正2(1505)年、蘆名盛高公・盛滋公/父子同士の合戦で、家臣/富田志摩守秀長が戦死した。
天文6(1537)年、子/右馬允時長が霊を弔うために、「水月庵」という草庵を創建。
龍雲山、曹洞宗。 本尊は釈迦如来。
新潟/滝谷山慈光寺の末寺。
慶長10(1605)年、猪苗代/隣松院が焼失したため、伝廓禅師が水月庵に仮住まいした。
藩主/蒲生秀行公の許しを得た猪苗代城主/町野左近が、水月庵に寺地を追加して一宇を建立、父/備前守秀長の法号「龍雲院殿花陽秀長大居士」と、ちょうど1百年に当たる「富田志摩守秀長」の縁に通ずるとして秀長寺と改めた。
会津の文献では、これを開祖としている。
町廻り三十三観音の第十四番 材木町。
殉難者墓あり。 笹原与五右衛門。
▲(会津若松市材木町1-10-33 Tel. 0242-27-4935)
元和9(1623)年、伊予の栄玄が開山。
柏原山、真宗大谷派。 本尊は阿弥陀如来。
その後に、西蒲原郡月潟村/満徳寺から円成が入山し中興、この地の開墾に力を注ぐ。
山門の両脇に教えが刻まれている。訪れた時のお楽しみ。
境内にある樹齢300年の大銀杏は見事。
▲(会津若松市花春町7-1 Tel. 0242-27-4607)
慶長4(1599)年、佐渡/常慶寺の慶巌が開山。 上杉景勝公が会津拝領となり、従って移ってきた"お供寺"の一つ。
医徳山、曹洞宗。 本尊は釈迦如来。
創建時に北町にあった白山大権現の稲荷神社を境内に移したが、今も残っている。
戊辰の役で、に什宝は略奪され、すべての伽藍や過去帳までも焼き払われた。
▲(会津若松市錦町2-22 Tel. 0242-27-0229)
寛永20(1643)年、保科正之公が会津拝領となり、従って城南に移った"お供寺"の一つ。
建福寺、大龍寺、善龍寺、大法寺なども、お供をした。
法紹山、日蓮宗。 本尊は十界曼荼羅。
正之公の母/於静の法名「淨光院殿法紹日慧 尊霊」から名付けられ、寺領は奥羽一で松島/瑞巌寺を凌いでいたという。
慶安3(1650)年、身延山久遠寺の篤信廟に遺骨を納めた。
その際、位牌寺として高遠/長遠寺(今は廃寺)の/日遵上人が開山とも。
寛文5(1665)年、花畑から現在地に移転、興徳寺や融通寺と並ぶ規模だったという。
戊辰の役でに寺宝は略奪され、堂宇も焼き払われたが、釈迦堂は類焼を免れている。
大正12(1923)年、房総/釈迦寺から日暎上人が入山し、中興した。
昭和の中頃(1962〜1968)、本堂や庫裏などが再建された。
会津二十一地蔵尊の第十一番。
殉難者墓あり。
今泉岫雲
今泉六郎
海老名季昌
海老名リン
神尾家。
於静の方、お富貴の方、於伊知の方の位牌を安置。
▲(会津若松市宝町4-25 Tel. 0242-27-5181)
至徳元/元中元(1384)年、蘆名直盛公が勧請。
大阪/住吉大社のご神体を迎え、材木町の河原に奉祀。
勧請時は大町の入口で、後に現在地に移るとの伝も。
祭神は、四神。
・住吉三神の底筒男命
・海の神/航海の神の息長帯姫命
お日市 7月31日。
境内に小さな標柱「会津藩戦勝地跡」があり、大勝利だった材木町の戦いが偲ばれる。
隣接の秀長寺には、「秀長寺古戦場の碑」などが建立されている。
▲(会津若松市材木町1-10-13 Tel. 0242-28-3537)
中川原大日如来の名で親しまれている。
2歳児の守護仏。
会津十二支守り本尊の未・申。
お日市 8月5日。
▲(会津若松市湯川町)
保科正之公が山形から転封になった際の御供寺の一つ。
建福寺、大龍寺、善龍寺なども、お供をした。
寛永20(1643)年、最上より従った日如が草創。
妙了山、日蓮宗。 総本山は、身延山久遠寺。
戊辰の役で焼失し、明治14(1881)年から再建が始まる。
現在の庫裡は昭和4(1929)年、本堂は平成10(1998)年に再建されたもの。
殉難者墓あり。
秋山清八
今村伝十郎
戊辰の役時の住職/日清は、籠城戦で砲弾が飛び交う中、鶴ヶ城天守閣の最上階に祭壇を設け、日蓮真筆の曼荼羅を掲げて連日「武運長久怨敵退散」の祈祷を続けたことで知られ、砲弾の硝煙を浴びつつも朗々として絶える事がない読経の声は、藩士たちを大いに鼓舞し続けた。
1ヶ月にも及んだが、時刻を知らせる鐘撞堂では狙撃による犠牲者が続出したにもかかわらず、仏のご加護なのか、かすり傷ひとつ負わなかった。
≪日清≫
天保3(1832)年、藩士/坂井惣八の5男として片柳町で誕生。 名:坂井義清。
8歳の時、大法寺の弟子に入り、後に住職に就く。
開城後は、潜伏して復興に奔走する。
明治4(1871)年7月10日、見つかり追跡され、川原町の路上で斬殺される。
「守義院悌順日清聖人」
東京にて死去とも。
▲(会津若松市御旗町1-9 Tel. 0242-27-9114)
塚原山、浄土真宗本願寺派。
本尊は、阿弥陀如来。
創建には、2説がある。
永禄元(1558)年、比丘/円西が田島に「福専寺」を開山。
三世/法西が大沼郡玉路村穂谷沢に移し、境内から泉が湧き出たので「福泉寺」と改める。
寛永年間(1624〜1644)、五世/法善が現在地へ移転する。
慶長4(1599)年、上杉景勝公が会津拝領となり、従って移った"お供寺"の一つとの説もある。
戊辰の役でによる略奪・焼打ちにあい山門に至るまで全ての堂宇は焼失したが、直前に本尊と過去帳をもって逃れたので、今に残る。
▲(会津若松市錦町2-74 Tel. 0242-27-0992)
“藤の大樹”があったからとか、“藤の森”があったからといわれているが、古くは伏見稲荷のことを藤森稲荷と称していた。
江戸時代には、一般名称として使われている。
藤森稲荷の名称から、境内に藤が植栽され、やがて神社の名物になったと伝え聞く。
後に秋葉神社と合祀。
お日市 7月5日。
▲(会津若松市新横町)
文和3(1354)年、蘆名盛員公の継室/笹谷御前が観音堂を建立。 盛員公と嫡男/高盛は、建武2(1335)年に戦死している。
康暦元/天授5(1379)年、家督を継いだ子/蘆名直盛公が笹谷御前を開基 (通覚) として創建した。
寺名は笹谷御前の法名「宝積院殿金峯尊公大姉/大禅定尼」から。 高盛の正室との説も。
如意輪山、曹洞宗。 会津美里町/尾岐龍門寺の末寺。
本尊の如意輪観音は、安産の守り神として信仰されている。
幾多の変遷を経て、蒲生秀行公の正室/振姫(徳川家康の娘)が中興に尽力した。
戊辰の役で、堂宇や仏像、過去帳など全てが焼失した。
寺奥の東側に、乳清水 (観音清水) の名残りがある。
その傍らに、金峯尊公大姉の塚があり、周りで白虎隊など新式銃の射撃訓練場に使われたという。
橋爪助次郎
明治25(1892)年、本堂が再建。
町廻り三十三観音の第六番 小田。
入口にある地蔵は、錫杖(しゃくじよう)に十字が彫られており、切支丹地蔵といわれている。
境内に、北向きとして有名な正一稲荷大明神がある。
同じ北向きの鶴ヶ城内の稲荷と、愛宕神社の稲荷の3ヶ所にお参りすると、合格の願いが叶うと信じられている。
受験シーズンには、大勢の参拝客で賑わう。
▲(会津若松市花見ケ丘3-5-30 Tel. 0242-26-0209)
元久元(1204)年、茅津村に開基 (伝)。
永和4/天授4(1378)、蘆名直盛公が現在地に移して再興、観音堂を創建し佐原義連公の守仏/十一面観音を安置する。
石塚山、真言宗。 本尊は、十一面観音。
後に、蒲生忠郷公の母/振姫(徳川家康3女) が堂宇を再建。
慶長年間(1596〜1615)、金剛寺の末寺となる。
江戸時代は隆盛を誇ったが、戊辰の役でにより寺宝が略奪され堂宇は焼き払われた。
会津三十三観音の第十九番札所。
お日市 7月16日。
▲(会津若松市川原町5-50) 管轄/金剛寺