会  津  の  著  名  人

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《 え 》 幕 末 よ り 前

 遠藤 香村  えんどう こうそん、天明4(1787)年〜元治元(1864)年 (78歳)
 通称:平次郎、名:痩梅。 如圭、水石、幽竹窓などとも。
 大戸村香塩にて誕生。
 絵師を志し狩野派/黒河内会山に師事、西洋画を学ぶべく江戸/谷文晁に師事し画塾/写山楼に入門する。
 同門に佐竹永海もいたが江戸を活動の拠点として帰国はしなかった。
 その後に上洛し円山四条派の写生技法を学び、長崎を巡って帰国し、会津に初めて油絵を伝えた。
遠藤香村り墓  藩の御絵師補となる。
 「加藤遠沢以後 之に亜ぐものは独り香村のみ」と言わしめている。
 会津漆器本郷焼絵ろうそくの図案改良にも尽力しており、俳句に通じる詩人でもあった。
 「月の出て 夜とはなりけり 雪の原
 文政元(1818)年、須賀川の亜欧堂田善から油絵の調合法や洋風表現を学ぶなど、生涯を通じ現状に満足することがなかった。
 墓は本覚寺 (合祀とのこと)。

《 え 》 江  戸  幕  末

 エドワルド
  ・スネル
 Edward Schnell、1844年〜没年不詳
 オランダ出身 (賠償支払い時) とされる。
 (ジョン・)ヘンリー・スネルは兄。
 慶応元(1865)年頃、スイス公使館/書記官として赴任。
 元治元(1864)年、横浜でフランソワ・ペルゴとスイス時計の輸入商社「シュネル&ペルゴ」を設立するが、武器販売をめぐって対立し解散。
 慶応3(1867)年、書記官を辞め、新潟で武器輸入の「エドワルド・スネル商会」を設立し、主に奥羽諸藩と貿易を開始する。
 家老/梶原平馬がライフル銃780挺と2万ドル相当の弾薬を購入した縁で、書記官を辞めた兄/ヘンリーが会津藩の軍事顧問に就任している。
 慶応4(1868)年7月、会津藩に引渡す武器弾薬を満載した商船が、 に略奪され、その後の戦いに影響を及ぼした。
 戊辰の役が終ると、東京に移り商社を再開した。
 明治4(1871)年、略奪された損害賠償の訴訟を何度も起こし、4万両を勝ち取っている。
 明治15(1882)年までは横浜など本国内に滞在していたが、その後の消息は分かっていない。
 海老名 季昌  えびな すえまさ、天保14(1843)年〜大正3(1914)年8月23日 (72歳)
 幼名:秀次郎、通称:郡治。 郡次、陽亭とも。
 家老/海老名季久 (衛門) の長男として天寧寺町にて誕生。
 妻/リンは、会津女学校・若松幼稚園を設立した教育の功労者。
 2歳で天然痘にかかり生死の境を彷徨うなどの虚弱児であった。
 江戸湾警備防備や蝦夷地警備で軍事奉行として活躍した父/季久は、常に行動を共にさせ身体を鍛えたという。
 ぺりー来航の時は会津領/房総半島に居住しており、父からもらった陣羽織に身を包み、開戦に備えていたという。
 品川砲台防備に就いていた時、松平容保視察の前で大砲を操作し、1発で的を打ち抜いた逸話がある。
 文久 3(1863)年、父の隠居により家禄を継ぐ。
 元治元(1864)年、勤番として上洛し、同年7月の蛤御門の戦いで戦功をあげ使番となる。
 慶応2(1866)年、常詰の大砲組/組頭となるが、パリ万国博覧会の使節団/徳川昭武の随行員に任命され、翌慶応3(1867)年1月11日に横浜を出航し、フランス・イギリス・プロイセン・ロシア・イタリア・オランダなどを視察して、同年11月3日に帰国した。
 もう1人の随行員/横山常守は白河口で戦死、父/季久も戦死した。
 慶応 4(1868)年1月3日、鳥羽伏見で奮戦するも右足に銃創を負う。
 その後、各地で転戦するが母成敗れるの報で取り急ぎ帰城し、北出丸守備の責任者・家老として籠城戦を戦い抜く。
 開城後は、東京で幽閉(謹慎) となる。
 明治 5(1872)年、斗南藩の三戸支庁に出仕したが4ヶ月で辞職する。
 明治 8(1875)年、警視庁に入る。
 明治25(1892)年、退職し若松に帰る。
 町長として市制施行に尽力、その貢献により市長に推されたが辞退。
 墓は浄光寺。
 遠藤 敬止  えんどう けいし、嘉永4(1851)〜明治37(1904)年 (55歳)
 藩士/遠藤嘉内清直の長男として江戸/会津藩邸にて誕生。
 幕府/開成所に入学して英語を学ぶ。
 戊辰の役では、鳥羽伏見の戦いから籠城戦まで戦い抜く。
 実弟/嘉竜二は、白虎寄合一番隊として戦い負傷がもとで後に死去
 開城後は、東京/増上寺で幽閉(謹慎)される。
 斗南藩へ移住したが、すぐに東京へ戻っている。
 明治2(1869)年、生活のため英語教師として早稲田北門舎や久留米中学に務めるも独力で勉学し、欧米的な経済学が必要と痛感すると、慶応義塾に入学して簿記や経済学を学ぶ。
 明治 6(1873)年、慶応義塾を卒業し、創立された大蔵省銀行事務講習所の、簿記の講師に就任。 在任中に翻訳本「銀行実験論」を著す。
 明治11(1878)年、第七十七銀行の頭取に就任。
 明治12(1879)年、仙台商業会議所の設立に伴い、会頭に就任。
 明治23(1890)年、鶴ヶ城跡全体が競売に付されるとの知らせに、私財を投げ打って内堀の内8万5千坪を「金二千五百円」で買い取り、松平家に寄贈した。
 「会津はわがふるさとである。城跡は特に戊辰の逆境にあったとき、弾煙、硝雨の間に幾千の魂魄を留めた古戦場である。これを保存して千古に伝うべし
 城の建物は明治7(1874)年に売却され天守閣も含め消滅していた。
 昭和46(1971)年、現存の恩人として頌徳碑が北出丸に建立され、慰霊祭が毎年 執り行われている。

江川銀平  榎田[某]  遠藤嘉竜二  遠藤鉄之助

《 え 》 幕 末 よ り 後

 海老名 リン  えびな りん、嘉永2(1849)年〜明治42(1909)年4月20日 (61歳)
 藩士/日向新助と母/まつの2女として小田垣に誕生。
 慶応元(1865)年11月、17歳で海老名季昌と結婚。
 慶応4(1868)年8月23日、負傷で入院の父を見舞っていたため鶴ヶ城に入れず、高田へ避難するが敵来襲の報で家族ともども自刃を決意。
 必死の説得と敵が別方向に向ったため思い止まり、終戦を迎える。
 夫/季昌は斗南藩が成立後も拘留が解けず、家族だけで斗南藩/南三戸に移住、辛酸を舐めつつ夫の赦免を待ち続けた。
 明治5(1872)年、やっと解かれた夫が青森県授産係に就くが、4ヶ月で辞職し単身上京してしまう。
 その後、三戸支所詰十等出仕に就くが再び辞職して上京する夫に従い、警察官や地方官の任地を転々として居を移す。
 明治21(1888)年3月3日、リンは東京霊南坂教会でキリスト教の洗礼を受ける。 夫は入信に大反対であり、夫婦対立が起こり最大の危機であったという。 なお40年にもわたり不満を漏らすことなく仕えてくれた心に魅かれたのか、夫も明治36(1903)年に入信した。
 明治25(1892)年、警視庁を退職していた夫とともに会津に帰る。
 明治26(1893)年4月4日、「私立若松幼稚園 (甲賀町口石垣北)」を園児8人で開園する。
 翌年に「第1分園」、翌々年に「第2分園」を開園するが経営は厳しく、若松町長になっていた夫の協力もあって徐々に軌道に乗った。
 同年の明治26(1893)年7月12日、「私立若松女学校」を若松幼稚園の敷地内に開校している。 女子教育が必要との信念で、わずか4名での開校だったが、翌年には北村モトの創立「会津女子職業学校」を受け継ぎ「私立会津女学校 と改称する。
 明治38(1905)年、市に移管され「若松市立女子技芸学校」となる。
 明治42(1909)年4月20日、福島県で最初に保母の資格を取得し、幼児教育と女子教育に尽力した人生を閉じた。
 葬儀はキリスト教式で執り行われ浄光寺に埋葬された。
 翌月の5月1日、「若松市立女子技芸学校」は、念願であった「県立会津高等女学校 (県立葵高等学校)」となり、現在に続く。
海老名リンの墓 海老名リンの像  昭和7(1932)年、幼稚園の卒園生たちによって、リンが眠る浄光寺の境内に、歌碑・像が建立された。
海老名リンの像
 遠藤 十次郎  えんどう じゅうじろう、
 元治元(1864)年1月10日〜昭和9(1934)年12月6日
 通称:現夢。 醸造業/瀧口太右衛門の12男として新横町にて誕生。
 後に、醸造業大和屋/遠藤家の婿養子となる。
 物心がついた頃には会津藩は消滅していたが、旧藩士たちに剣術を習って一刀流の奥義を極め、庭内を剣道場として普及に努めた。
 分家して日新館跡辺りで味噌や醤油の醸造業を営み、新道開発が始まると運送業などを手掛ける。
 鶴ヶ城の公園管理に任ぜられると堀で鯉の養殖なども手がけ、明治41(1908)年から友人らと共に約1千本のソメイヨシノを植樹し、桜の名所となる端緒となる。
 次いで裏磐梯の観光開発に着手し、温泉開発、道路を敷設・改修など多額の私財を投げ打った。 当時は明治21(1888)年の磐梯山噴火で火山灰や岩石に覆われた不毛の地であった。
 苦労の末、赤松の植林にに成功し、現在の森林風景の基盤を築いた。
 裏磐梯国立公園の開祖といわれ、磐梯高原緑化の父、裏磐梯緑化の父と呼ばれている。
 十次郎が生前に立てた墓と磐梯山噴火の犠牲者461名の慰霊碑が、五色沼/散策コースから350メートル山中に入った柳沼のほとりにある。
 噴火の時に落下した巨石の下で、妻/イクと共に眠りに就いている。
 「なかきよに みしかきいのち五十年 ふんかおもへば夢の世の中
 「天遊院仙翁豊徳居士  玉容院正室妙光大姉」。
 昭和36(1961)年、息子/遠藤義之助が父の偉業を後世に伝えるべく、墓の傍に石碑を建立。
 「とこしえに 来りつたへよ 時鳥(ほととぎす) 知る人ぞ知る 父の功を
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