戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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宮    城    県

遠藤嘉竜二 (充国寺)

遠藤嘉竜二の墓

 本堂の真裏、兄/遠藤敬止の墓の前にある。
 白虎寄合一番隊/原隊。
 戊辰(1868)年9月11日、熊倉で負傷し、10月7日に死去。
 15歳。
 「遠藤清臣牙骨墳」。
 墓は、飯盛山にもある。


遠藤敬止
 敬止は籠城戦に参加し、後に仙台の七十七銀行頭取になった。
 明治23(1890)年、鶴ヶ城競売の報を聞くや、私財を投じ落札して、旧藩主に献上した。
 昭和2(1927)年、市に譲渡される。
 昭和46(1971)年、敬止の徳を讃え、北出丸に遠藤敬止翁顕彰碑が建立された。
 鶴ヶ城跡が姿を留めているのは、敬止の功績によるといえる。
 今では、市民のシンボルの城である。
充国寺

 浄土宗。 本尊は阿弥陀如来。
 ▲(仙台市青葉区新坂町17-1 Tel. 022-234-1271)

小池繁次郎・小池勝吉 (北山霊園)

 戸ノ口原で戦死した藩士/小池繁次郎と、鳥羽伏見の戦いで戦死した藩士/小池勝吉の名前が、墓誌に刻まれている。
 「に」の区画。

 ▲(仙台市青葉区北山2丁目10-1)

飯沼貞雄 (輪王寺)

飯沼貞雄の墓

 飯盛山で自刃した白虎隊士の中で、ただ一人だけ蘇生した。
 戦後は名を「貞吉」から「貞雄」に変え、逓信省通信技師として北海道から九州にいたる全国の電信電話の発展に貢献する。
 明治43(1910)年、仙台逓信管理局工務部長となり、大正2(1913)年に退官後も仙台に住み続け、昭和6(1931)年2月12日に享年78歳で死去するまで、決して会津には戻ろうとはしなかった。
 ただ一人だけ生き残ったことを恥じていたというが、生き残ったからこそ白虎隊士自刃の顛末が、歴史の貴重な証言として後世に残せたのだ。
 貞吉も殉難者の1人だったのに間違いはあるまい。
飯沼貞雄の墓 飯沼貞雄墓の説明文  遺言通り、墓は一番高い場所に会津を向いて建立された。
 もう1つの遺言で渡された「頭髪と抜けた歯」は、仲間が眠る飯盛山に建立された墓へ納められた。
 墓所への案内の矢印があるので間違うことはない。

輪王寺にある母/ふみの句碑
 平成25(2013)年、貞吉の出陣に際して、歌人でもある母/“ふみ”が詠んだ句碑が建立。
 「貞吉の出陣するときに よみてつかはしける
   あずさゆみ むかう矢先は しげくとも
    ひきなかへしそ 武士の道   玉章
 (母/ふみ の雅号)」

輪王寺
 金剛宝山。 曹洞宗。
 嘉吉元(1441)年、創建。 慶長7(1602)年、現在地へ移る。
 ▲(仙台市青葉区北山1-14-1 Tel. 022-234-5327)


蘇生白虎隊士 飯沼貞吉終焉之地

「蘇生白虎隊士飯沼貞吉終焉之地」碑

 錦町の光禅寺通りにある自邸の地に佇んでいる。
 平成3(1991)年まで子孫が飯沼幼稚園を営んでいたとのことだが、今は跡地にアパートが建っている。
「蘇生白虎隊士飯沼貞吉終焉之地」碑  平成22(2010)年、アパートの裏側にあった碑を、貞雄が札幌から持って来た柏の木と、会津特産の身不知柿の木の傍らに移したという。
「蘇生白虎隊士飯沼貞吉終焉之地」碑の説明文
 「光禅寺通幼稚園跡地 一九五一〜一九九一
  飯沼貞吉、一八六八年戊辰の役に 出陣、會津飯盛山にて自刃、
  唯一蘇生、後名を貞雄と改め 一九三一年この地に没す
  一九九一年十二月建之

「蘇生白虎隊士飯沼貞吉終焉之地」碑の案内板
 住宅街の中にあり、案内板を見つけることが先決。

 ▲(仙台市青葉区錦町1丁目辺り)

白石城

 鎌倉時代後期に白石氏が居館を築く。
 天正19(1591)年、蒲生氏郷の家臣/蒲生源左衛門郷成が本格的な支城として築く (会津藩領)。
 別名:益岡城、枡岡城。
 慶長3(1598)年、上杉景勝の家臣/甘糟景継が実戦的な城として修築 (会津藩領)。
 慶応4(1868)年、東北諸藩が参集し白石列藩会議を開催し、奥羽越列藩同盟の結成となり、輪王寺宮が滞城。
 明治8(1875)年、廃城。
 会津とは、深いご縁がある。
 ▲(白石市益岡町1-16)  [奥羽越列藩同盟結成文] [同盟旗]


二ノ丸大手二ノ門(当信寺)

二ノ丸大手二ノ門 (当信寺)

二ノ丸大手二ノ門(当信寺)  白石城の東口門 (二ノ丸大手二ノ門) が当信寺に現存している。

 ▲(白石市本町62)


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