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上     杉     家

 蒲生秀行公が、御家騒動の責により宇都宮藩へと移封されたため、秀吉から会津領が与えられた。
 奥州の大名たちへの監視と牽制が目的だった。
 領地は、会津に加え、白河郡、田村郡、安達郡、信夫郡、伊達郡、越後国東蒲原郡、佐渡、出羽国田川郡、飽海郡、置賜郡、刈田郡で、会津藩最大の120万石となる。

  ・統治  3年間 = 慶長3(1598)年〜慶長6(1601)
  ・石高  120万1千2百余石

上杉 景勝 (うえすぎ かげかつ)公

   ☆ 在任 慶長3(1598)年1月10日〜慶長5(1601)年8月16日

 上田長尾家当主/長尾政景の次男として生まれる。
 永禄7(1564)年、父/政景の死去により、叔父/上杉謙信の養子となる。
 天正3(1575)年1月11日に元服し、景勝に改名する。

 会津への加増移封は、家老の直江兼続を米沢城に配置するなど、伊達政宗公最上義光など奥州の大名たちへ監視と牽制する目的があった。
 越後上田衆である甘糟景継に白石城、本庄繁長に福島城、信濃国の武将の須田長義に梁川城、臣志駄氏当主の志駄義秀に東禅寺城と、景勝公の家臣たちを配置している。
 会津へ赴任する3年前の慶長2(1597)年6月には、豊臣政権の5大老の1人となった。
 同年の慶長3(1598)年8月に秀吉が死去すると、家老の直江兼続が石田三成と手を組み、徳川家康としばしば対立する。
 新しい神指城の建築を直江兼続に命じ、領内の諸城にも補強を命じている。
 逆にこのことが、家康の会津征伐を引き起こす。
 直江兼続の挑発的な「直江状」も一因であった。
 家康が大軍を率いて出発したとの知らせに、神指城の築城は突貫工事で進められた。
 関ヶ原の戦いが勃発したため、家康軍との戦いには至らなかったが、石田三成たちの西軍が敗れたため、米沢藩30万石に減移封された。

 移封後は、初代米沢藩主として藩政確立に尽力する。
 寛文4(1664)年、3代藩主/綱勝が世継ぎを決めないまま急死した。
 取り潰しとなるはずだったが、保科正之公の口添えで末期養子が認められ、米沢藩は存続できた。
 以降、会津藩との関係は極めて良好で、戊辰の役では会津藩に味方している。

  ・弘治元(1555)年11月27日〜元和9(1623)年3月20日
  ・別称 卯松 (幼名)、喜平次、長尾顕景、越後中納言、会津中納言、御中城様、
      宗心
  ・主君 上杉謙信→豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→徳川秀忠
  ・父  長尾政景
  ・母  仙桃院 (長尾為景の娘、上杉謙信の実姉)
  ・養父 上杉謙信
  ・正室 菊姫 (武田信玄の5女)
  ・側室 桂岩院 (四辻公遠の娘)
  ・子  定勝
  ・養子 義真 (畠山氏)
  ・兄弟 長尾義景、姉/清円院 (上杉景虎へ嫁ぐ)、妹 (畠山義春へ嫁ぐ)
  ・義兄弟 畠山義春、上杉景虎、山浦景国
  ・墓地 上杉家廟所/覚上院殿 (遺灰と衣冠、米沢市)、松岬神社(米沢市)、
      高野山清浄心院 (遺骨、和歌山県高野町)など
  ・戒名 覚上院殿法印権大僧都宗心

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