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福    島    県

殉難者については、こちら
白河市  / 中通り

殺生石 (常在院)

 永和2/天授2(1376)年、源翁禅師が開基。
 殺生石の破片と言われる石が、本堂裏に祀られている。
 矢印板があり、すぐ分かる。
殺生石(常在院)  源翁和尚三十三回忌に制作の「紙本著色源翁和尚縁起三巻、源翁和尚行状記一巻」を所蔵とのこと。
 ▲(白河市表郷中寺字屋敷79 Tel. 0248-32-2595)

安子ヶ島城

安子ヶ島城

 戦国の武将/阿子嶋氏の居城。
 安子島城、阿子ヶ島城、阿子島城とも。
 築城年は不明だが、応永11(1404)年には安子ヶ島藤沢祐義の安子島館があった。
 天正17(1589)年、伊達政宗の会津侵攻で蘆名氏と対決した磨上原の戦いの露払いとして 4月に政宗軍に包囲され、5月4日に攻め落とされ、阿子嶋治部大輔祐高は脱出する。
 天正18(1590)年、蒲生氏郷の入府により、蒲生郷成が城主となる。
 平成4(1992)年5月の発掘調査で茶臼や茶碗などが出たとのこと。
 現在では、安子ヶ島駅の西、磐越西線北側の道路沿いに石碑があるだけ。
 ▲(郡山市熱海町安子島字南町)

長沼城跡

長沼城 長沼城 長沼城



 文応元(1260)年、長沼隆時が築城とされる。
 千代牛臥城、千世城、牛臥城とも。
 永禄9(1566)年、蘆名盛氏が二階堂盛義を破り会津藩の支配下に置かれ、新国貞道が城主となる。
 天正18(1590)年8月7日、奥州仕置で会津に向かう途中に宿営している。
 同年、蒲生氏郷が入府し、家臣/蒲生郷安が城主となる。
 慶長3(1598)年、上杉景勝が入府し、家臣/島津忠直が城主となる。
 慶長5(1600)年、徳川家康の会津攻めに対抗する前線基地となる。
 慶長6(1601)年、蒲生秀行が入府し、家臣/蒲生郷治、玉井数馬介が城主となる。
 元和元(1615)年、一国一城令により廃城。
 現在では本丸跡や東三の丸跡が公園となっており、石垣の一部が残っているだけ。
 ▲(須賀川市長沼  長沼小学校の北側)

須賀川城祉

須賀川城祉

 応永6(1399)年、二階堂行続 (治部大輔) が築城。
 伊達政宗の代は城主/石川昭光、上杉景勝では城主/栗田国時、蒲生氏郷では城主/田丸直昌蒲生秀行では城主/蒲生郷成と度々変わったが会津藩領であった。
 寛永4(1627)年頃、加藤嘉明の代に廃城。
 二階堂神社辺りが、須賀川城の本丸跡。
 ▲(須賀川市諏訪町)   

亜欧堂田善生誕之地 (胸像)

 遠藤香村の師 (油絵の調合法など) の1人。
 寛延元(1748)年〜文政5(1822)年5月7日 (75歳)
 本名:永田善吉。 号:亜欧堂田善。
 陸奥国須賀川の富豪 (農具商、染物屋とも)/永田惣四郎の次男。 白河藩主/松平定信に見出され、谷文晁の門下を経て、銅版画の先駆者/司馬江漢に師事し、洋風画家・銅版画家として名を成す。 「一翁如且居士」
 大正10(1921)年、埋葬地である長禄寺境内に顕彰碑が建立。
 ▲(須賀川市諏訪町)

大槻城

大槻城

 永仁3(1295)年、安積伊藤氏が築城とされる。
 戦国時代には、幾度となく戦場の最前線となった。
 永禄2(1559)年、蘆名盛氏が攻め落とし、会津藩の支配下に置かれる。
 本丸跡が大槻小学校となり、今では遺構は見られない。
 ▲(郡山市大槻)

碑「元帥畑俊六終焉之地」 (棚倉城趾)

「元帥畑俊六終焉之地」碑

 藩士/畑能賢の子。
 元帥陸軍大将。
 畑俊六については、こちら。

棚倉城趾  別名、亀ケ城。
 寛永2(1625)年、丹羽長重が築城。
 幕末時は棚倉藩の藩庁。

 ▲(棚倉町大字棚倉字城跡)

都都古和氣神社 (馬場都々古別神社)

都都古和氣神社

 つつこわけじんじゃ。
都都古和氣神社の西郷頼母の説明文  明治 8(1875)年、家老/西郷頼母 (保科近悳) が宮司に就任。
 明治10(1877)年、勃発した西南戦争に荷担した疑いで宮司を解任。
 ▲(棚倉町大字棚倉字馬場39 Tel. 0247-33-7219)

霊山神社

霊山神社

 明治22(1889)年、家老/西郷頼母が神社の神職に就く。
 宮司を務めながら、県の師範学校/嘱託として講義。
 養子/西郷四郎に、境内で柔術を教えている。 四郎は後に上京し、講道館の嘉納治五郎に見いだされ、柔道家として一世を風靡する。
 明治32(1899)年、古希を機に、神官と すべての公職を辞して、若松へ帰る。
 ▲(伊達市霊山町大石字古屋舘1 Tel. 024-587-1326)

伊達稙宗 (陽林寺)

伊達稙宗の墓

 正室/泰心院が、蘆名盛高の娘。
 次女/養徳院が、蘆名盛氏の正室。
 だて たねむね、伊達氏の第14代当主。
 長享2(1488)年〜永禄8(1565)年6月19日 (78歳)
 初名:高宗。 通称:次郎。 号:受天。
 父/伊達尚宗、母/積翠院 (上杉房実の娘)。
 17代/政宗の曽祖父。
 「智松院殿直山円入大居士」
 墓は、自ら開基した陽林寺 (分骨)。

伊達稙宗の墓  
▲(福島市小田字位作山13
   Tel. 024-546-0177)

伊達晴宗の墓 (宝積寺)

伊達晴宗の墓

 4女/彦姫が、蘆名盛興の正室。
 通称:次郎。
 永正16(1519)年〜天正5(1578)年12月5日 (74歳)
 父/伊達稙宗、母/泰心院 (蘆名盛高の娘)。
 陸奥の戦国大名・奥州探題、伊達氏15代当主。
 「乾徳院殿保山道祐大居士」


宝積寺 伊達晴宗の墓


 ▲(福島市舟場町3-16
    Tel. 024-523-0748)

相馬利胤の墓 (同慶寺)

相馬利胤の墓

 正室/江戸崎御前が、蘆名盛隆の娘。
 天正9(1581)年〜寛永2(1625)年9月10日 (45歳)
 初名:虎王丸、三胤、蜜胤、利胤。 通称:孫次郎。
 父/相馬義胤、母/おきた (長江紀伊守盛景の娘)。
 17代当主、相馬中村藩/初代藩主。
 父/義胤より先に死去。
 「二照院殿日[王+粲]杲公大居士」

同慶寺 相馬利胤の入口


 ▲(南相馬市小高区小高字上広畑246
    Tel. 0244-44-2335)

伊達輝宗の首塚 (慈徳寺)

 伊達政宗の父。
 天正13(1587)年10月8日、二本松城主/畠山義継の謀反によって拉致された輝宗は、阿武隈川畔/高田原において横死。  子/伊達政宗によって遺体は慈徳寺に運ばれ、導師/虎哉和尚 (資福寺) と奠茶師/昌室和尚 (寿徳寺) によって荼毘に付された。
慈徳寺  輝宗の首塚 (灰塚) と伝わる五輪塔(上部のみの二輪)が残る。
 「覚範寺殿性山受心大居士」
 遺骨は、資福寺に埋葬された。
 ▲(福島市佐原字寺前9 Tel. 024-593-1736)

飯坂宗康の墓 (天王寺)

飯坂宗康の墓

 娘/飯坂の局が、伊達政宗の側室。
 生年不詳〜天正17(1589)年9月2日
 通称:小太郎。
 父/飯坂宗定 (氏定とも)、母/桑折宗保の娘。
 戦国時代から安土桃山時代の武将、信夫郡/飯坂城主。
天王寺 飯坂宗康の墓
 ▲(福島市飯坂町字天王寺11 Tel. 024-542-2439)

松下重綱の墓 (州伝寺)

松下重綱の墓

 正室/星覚院が、加藤嘉明の娘。
 嫡男/長綱と娘を生す。
 天正7(1579)年〜寛永4(1627)年10月2日 (49歳)
 父/松下之綱、母/松下連昌の娘。
 久野藩/2代藩主、小張・烏山・二本松藩/初代藩主。
 「州伝院長厳長洋大居士」
 子/長綱、孫/豊綱3代の墓碑。

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