太政大臣/藤原仲麻呂 (恵美押勝) の11男 (9男とも) として誕生する。
父 藤原不比等の孫
母 大伴犬養の娘
兄弟 藤原刷雄(6男)
異母兄弟
真従(長男)、真先(次男)、久須麻呂(3男)、朝狩(4男)、小湯麻呂(5男)、
薩雄(7男)、辛加知(8男)、執棹(9男)、真文(10男)、
児従(長女)、東子(次女)、額(3女)
天応元(781)年誕生の説も。
父/恵美押勝 (藤原仲麻呂から改名) が反乱を企てるも、鎮圧・斬首される。
一族はことごとく処刑されたが、6男/刷雄は隠岐国への流罪、徳一は東大寺に預けられ出家する。
東大寺から興福寺へ移り、修因 (修円) に師事し法相宗を学び神野山で修行に励む。
弟子/今与もできる。
中国/唐へ留学したとの説も (実兄/藤原刷雄が唐に留学とも)。
「今ハ昔、陸奥国ニ恵日寺ト云フ寺有リ 此レハ興福寺ノ前ノ入唐ノ僧、得一菩薩ト云フ人ノ建タル寺也」
学ぶにつれ、権力と結びつき堕落した都の仏教に疑問を持つようになり、平城京を離れ東国へ向かい、弊衣粗食に甘んじる雲水の僧となる。
筑波山/大御堂を開山する。
磐梯山が噴火し、2千メートル以上あった円錐型の山が4峰 (大磐梯、小磐梯、赤埴山、櫛ヶ峰) と姿を変える。
山麓に清水寺 (翌年に慧日寺) を草創。
如法寺を草創。
五薬師を安置した五薬師堂を草創する。
◇ 中央薬師として薬師堂 (勝常寺)
◇ 東方薬師として薬師堂 (慧日寺)
◇ 西方薬師として上宇内薬師如来堂 (日光寺 → 調合寺)
◇ 北方薬師として北山薬師如来堂
◇ 南方薬師として野寺薬師堂 (火玉堂寺 → 慈光寺)。
福満虚空蔵尊 (圓蔵寺) を開創する。
圓蔵寺の奥之院として奥之院弁天堂を開創する。
鳥追観音を草創する。
慧日寺の塔頭として藤倉/延命寺を開山する。
正光寺/中の沢観音を草創する。
石岡/西光院を開山する。
前年に焼失した法用寺 (会津美里町) を、現在地に再建する。
4月1日 (5日とも)
空海は天台宗の開祖/最澄が東国へ布教に赴いたのを知り、弟子/康守らを遣わして、真言宗布教の協力を請う。
その書簡には、2回も「徳一菩薩」と記載されており、礼を尽している。
依頼に対して、翌年に真言宗への疑問11ヶ条を述べた「真言宗未決文」を著す。
空海は理ありと判断したようで、密教経典の書写を依頼する。
最も重要な第11条目の「鉄塔の疑」に対しては、天長元(824)年に「秘密曼茶羅教付法伝」で答えている。
「仏性抄」を著述し最澄を論難、三一権実論争が始まる。
最澄が「照権実鏡」を著し反論する。
「中辺義鏡」「慧日羽足」を著述し、最澄を論難する。
最澄が「守護国界章」を著し反論する。
「遮異見章」を著す。
最澄が「通六九証破比量文」「決権実論」を著す。
最澄が「法華秀句」を著す。
徳一菩薩は、その他として「法華肝心」「法華権文」「義鏡要略」「通破四教章」も著している。
最澄が比叡山/中道院で没、享年56歳/満54歳。
三一権実論争が終焉する。
7月27日
会津にて入滅。 享年76歳。
慧日寺跡と薬師堂との間の奥に徳一廟がある。
承和9(842)10月10〜16日に興福寺の維摩会講師を務むとの記述から<
承和9(842)年入滅の説も。 この説では、天応元(781)年の誕生で、天長元(824)年11月9日に入滅、享年62歳。
3体の地蔵尊
時は流れ天正年間(1578〜1580)のとある日、蘆名盛氏公が
「泥深い葦の中に埋まっている地蔵様を探し出すべし」
と霊夢によるお告げを受けた。
早速、家臣らに黒川城 (鶴ヶ城) 内の沼の中を探させてたところ、お告げの通り徳一大師作/地蔵尊が3体出現した。
盛氏公は、西光寺に地蔵堂を建立し安置した。
現在、会津二十一地蔵尊の第四番/日限延命地蔵尊として崇められている。
特に3・5・7の付く日に御利益があるという。
残り2体は、東京/松秀寺と兵庫/法音寺に祀られている。
道の駅/ばんだい「徳一の里 きらり」が開所。