会  津  の  著  名  人

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《 ぬ 》 幕 末 よ り 前

 沼沢氏  ぬまざわし、通し名:出雲。
 伊北・金山谷 (三島町) を領した山内氏の一族。
 応永10(1403)年、管領/足利満貞に従って奥州入りした山内通俊が、大沼郡を拝領したとされる。
丸山城  享禄4(1531)年、山内権大輔俊安と彦次郎俊興の父子が、沼沢村に城を築き丸山城と称する。
 それ以降、沼沢氏を称したとされる。
 天文年間(1532〜)の早い時期、山内氏は蘆名盛舜公の勢力下に入り、惣領の本拠を横田/中丸城に置き、本領を一族「山内七騎党 (沼沢・野尻・川尻・布沢・滝谷・桧原・西方)」に支配させる。
 沼沢氏は、やがて惣領の横田と肩を並べるほどになり、領地が会津盆地に近いこともあり、惣領よりも蘆名氏に従うようになる。
 天文14(1545)年、沼沢輔安の孫/山内氏信が西方に鴫城を築く。
 永禄元(1558)年、横田の山内俊政・俊範の兄弟が、蘆名盛氏公の滝谷村/岩谷城を奪い取る事件が起こる。
 激怒した盛氏公が討伐するのを、黒川城 (鶴ヶ城) に居合わせた沼沢政清が取り成すも、これ以降、山内一族は蘆名氏の支配下に入る。
 元亀元(1570)年、盛氏公が畠山氏と二本松で戦った際、蘆名氏の家臣として戦った沼沢左近が戦死している。
 天正3(1575)年、沼沢実通は、伊達家に内通の関柴備中を討ち取る。
 天正17(1589)年、実通は、蘆名義広公摺上原の戦いで伊達政宗公に敗れると、実兄/佐竹義宣の常陸国へ落ち延びる義広公に従う。
 関ヶ原の戦いで、義広公・佐竹氏が西軍に与したため秋田への転封には従わず、磐城鳥居家に仕えるも、浪々の身となる。
 寛永13(1636)年、沼沢実通が天海大僧正 (出生が蘆名氏) の推挙により、山形藩主/保科正之公に召し抱えられる。
 寛永20(1643)年、正之公の会津藩への加増移封に実通の子/沼沢重道が従い、50余年ぶりに沼沢氏が会津へ戻る
 正保4(1647)年4月8日、沼沢出雲忠通が死去。
 正保4(1647)年5月5日、沼沢出雲重通が死去(73歳)。
 猪苗代城代なども務めるなど、幕末まで仕える。
 戊辰の役では、実通を新たな初代とすると10代目/沼沢九郎兵衛の妻/道子が姑と娘2人とともに自邸で自刃した。
 子/六郎 (11代/沼澤明通) は、松平容保の京都守護職就任に従い上洛し禁門の変で負傷し後に死去、京都黒谷/会津藩墓地に墓がある。
 「沼澤明通之墓 元治元甲子年 九月六日」

《 ぬ 》 江  戸  幕  末

 沼沢 七郎  ぬまざわ しちろう、嘉永6(1853)年〜大正4(1915)年12月22日(63歳)
 幼名:小八郎。 名:思通。 通し名:出雲。
 家老/沼沢九郎兵衛弘通と母/道子との次男。
 兄/沼沢明通が禁門の変戦死したため、家督を相続。
 戊辰の役では、母/道子が旧領/沼沢村から一族を呼集・編成した隊を率いて、弱冠15歳の隊長として越後口六十里越え関門に布陣。
 その後も、一族を率い「遊撃隊」と称し大内峠の戦いなどで奮戦。
 母/道子は、鶴ヶ城下に来襲するや、祖母と姉2人とともに自邸で自刃した。
 開城後、上京し大学南校で洋学教育を学ぶ。
 伊達郡長など各地で郡長を歴任。
 次いで、岩手県・秋田県・香川県などの参事官を歴任。
 秋田県事務官を最後に退官。
 会津中学校(県立会津高等学校)創立に尽力。
 後継ぎに恵まれなかったため、斎藤一時尾との3男/竜雄 (龍雄) を養子とした。
 母/道子と時尾の母/克子とは姉妹。
 墓は大龍寺
 沼沢 道子  ぬまざわ みちこ、文化14(1817)年〜慶応4(1868)年
 藩士/木本蔵登と母/とき (山内氏) との次女。
 重臣/有泉与一郎に嫁ぎ娘/えいを出産するが、夫/与一郎が早世。
 藩士/沼沢九郎兵衛と再婚する。
 夫/九郎兵衛に先立たれ、松平容保の京都守護職就任に従い上洛した嫡男/明通も禁門の変での負傷がもとで死去したため、次男/小八郎 (七郎) に家督を継がせる。
 慶応4(168)年、戊辰の役で風雲急を告げると、かつての旧領/沼沢村から一族を呼集・編成して「遊撃隊」と称し、弱冠15歳の倅/小八郎を隊長として越後口六十里越え関門の守備に出陣させる。
 鶴ヶ城下に来襲するや、城に入るべく歩くこともできない老病の姑/貞子 (86歳) を轎に乗せて自邸を出るが、すぐに轎夫は弾に当り斃れる。
 家臣/鈴木勝之丞が背負って先を進もうとするが数歩で銃撃され、助けようとした家臣/内川源吾も斃れる。
 裏口からし本二之丁を経て城に入ろうしたが、すでに戦場と化しており、進むことは不可能だった。
 万策が尽きると自邸に戻り、微塵も取り乱すことなく支族/沼澤辰の子/栄之進 (12歳) に倅/小八郎宛の伝言を命じ出立させ。
 「汝は幼なりといえども すでに十歳を過ぎたれば 小八郎が陣営に至りて今日の事を告げよ しかれば思い残す所なし
 見送った後、恥辱を避けるため、家に火を放ち、姑/貞子を介錯し、娘2人 (1人は養女) と共に自刃した
 墓は大龍寺

《殉難者》 沼沢道子・貞子・ゆや子・すが子    
     
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