偉     人     伝

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天 海 大 僧 正 の 略 歴

 天海大僧正の生涯は、大きく3つの時代に分けられる。
 ◇ 雲水の学問僧の時代
  名刹/龍興寺で天台宗の教義に触れ、仏門に生涯を奉げることを決意する。
  粉河寺比叡山観学院(園城寺)興福寺足利学校善昌寺蓮馨寺
  さらに甲斐や越後など宗派を超えて仏法を修め続けた。
 ◇ 表舞台で活躍する時代
  家康との知遇・帰依を得て、飛躍が始まる。
  幕閣として江戸幕府の基礎を造り、江戸の都市計画などに参与する。
  戦国時代に荒廃した寺院を再興し、再び戦乱の世に戻さない策に尽力する。
 ◇ 仏法による国家安寧に邁進する時代
  徳川秀忠・家光の帰依を受け、東照宮の建立を手段として、武闘派の時代から
  残りの生涯をかけ、保科正之公とともに文治政治への移行を推進する。
  宗家/蘆名氏の滅亡などを体験し、国家安寧こそが民の幸せとの行動だった。

天文5(1536)年/丙申   1歳

 高田町 (会津美里町) にて、父/舟木兵部少輔景光と母/蘆名盛常の末娘との長男として誕生。
 幼名/兵太郎、またの名を亀王丸と名付けられた。
 舩木、船木とも 。
 出自が「東叡山開山慈眼大師縁起」に記載されている。
  「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ 〜
     蘆名修理太夫平盛高の一族 〜

護法石  天海の誕生を記念して両親が建立したと伝わる「護法石」が、近くの公民館敷地にある。
 [逸話]

 両親の墓も、龍興寺に現存している。

龍興寺

天文15(1546)年/丙丑    11歳

 家督を弟に譲り、得度する。
 随風と号して、龍興寺の名僧/弁誉舜幸法印に師事する。

天文16(1547)年/丁未    12歳

 ある日、霊夢を見た。
 お告げの通りに村境にあった字浮目 (浮身) の水田を探すと、土仏の観音像が出現してきた。
 日夜、一心に念持していたと云う。

天文18(1549)年/己酉    14歳

 仏教の他にも儒学、史学(歴史)、易(占い)などの諸学問を修得するため、故郷/会津を出て各地へ修業の旅に出る。

 12月
 下野国宇都宮/粉河寺の皇舜権僧正に師事して、天台宗を学ぶ。
 当時の粉河寺は、関東の天台宗の源として隆盛を誇り、全国から徳を慕って来た門下生にあふれており、ここで全国的な人脈を得る。
 1年を過ぎるころ、皇舜権僧正が驚くほどに成長し、「名器」と言わしめるほどになっていた。
 明治に入り粉河寺は、龍興寺と同じく慈覚大師 (円仁) が開基した宝蔵寺に合併され廃寺になった。

天文20(1551)年/辛亥    16歳

  2月
 粉河寺を出て、雲水の僧となる。

天文22(1553)年/癸丑    18歳

  1月
 近江国/比叡山延暦寺の実全 (神蔵寺) に師事する。
 最澄が開山した比叡山は、天海が出家した龍興寺を開基した円仁や、円珍、良源、源信、良忍、法然、親鸞、一遍、栄西、道元、日蓮など各宗教の祖を輩出していてる。
 心身を挙げて修学に励んだ。
 実全も大器と見抜き、「摩訶止観」「金剛○」「十不二門」の諸書を授けた。
 実全が突然「三千三諦とは何か」と問うと、即座に、
 「一念無性、空性万有、仮空融絶、これを三諦という。三諦三千、当念本具、本具を了達すれば、彼此宛然たり
と答え、実全が手を打って感歎したと云う。

弘治元(1555)年/乙卯    20歳

勧学院

 檀那流の印可を得て円頓菩薩の大戒を受けたので、比叡山を下山。
 大津の三井寺 (別称=園城寺) の勧学院/尊実権僧正に師事し、倶舎の性相や華厳・楞厳の諸法大乗を学んだ。


弘治2(1556)年/丙辰    21歳

 秋
 南都の林和成重に、日本書紀を学ぶ。
 成重の祖先は中国人だったので、漢史の書物についても知ることができた。

弘治3(1557)年/丁巳    22歳

興福寺

 大和国奈良/興福寺に仮住まいし、空実僧都から法相宗・三論を学ぶ。
 ここで「心所心王、以識為主」を悟ったという。


永禄元(1558)年/戊午    23歳

  5月
 実母が重病との知らせを受け、会津に戻る。

  7月23日
 天海の膝に抱かれながら、実母が死去した。
 涅槃経を口誦しつつ、最後の孝行を尽くそうと人手を掛けず、自らが葬儀の全てを行ったという。
 しばらく喪に服す。

永禄2(1559)年/己未    24歳

浮身観音(八葉堂)

 14歳で遊学に出立した際、母に預けていた土仏/浮身観音を模した木造の観音像製作を仏師/浄林に依頼。
 観音堂を建立し、木製観音像の胎内の中に土仏を納めた。
 現在、龍興寺境内に移され、会津三十三観音番外札所浮身観音として、今なお親しまれている。

永禄3(1560)年/庚申    25歳

足利学校

 喪が明け、下野国/足利学校に遊学し、儒学・漢学・易学・天文学・国学・医学・兵学などを学ぶ。 当時、学ぶ者/3千人といわれ、関東での最高学府であった。
 2年ほどで抜きん出た頭角を現し、約4年で諸子百家をほぼ究めた。 ここで生涯の友/亮ェと出会っている。
 時折、近くにある鑁阿寺で真言密教も学んだ。

永禄7(1564)年/甲子    29歳

  2月
 諸子百家を ほぼ究めたので、親友/亮ェとともに足利学校を退いた。
 上野国新川/善昌寺に兼学の禅客/道器がいると聞き、親友/亮ェとともに遊学する。
 大仏頂経の講演に接し涙を流して感動したと云う。
 朝に首楞厳経、夕に易経を聞き、寝食を忘れるほど学問を吸収する。

永禄9(1566)年/丙寅    31歳

善昌寺

 老いのため前年に隠していた先住の尊盛上人から懇願され、善昌寺の住職 (塔頭の1寺、長楽寺の末寺とも) となる。
 初めての寺持ちであり、出家して20年の歳月が流れていた。
 「慈眼大師の住したまう寺なり、
  関東にて寺を持ちたまうは当寺なり
」(新編上野国誌)

永禄13(1570)年→元亀元年/庚午  35歳

蓮馨寺

 四明ヶ岳 (比叡山の山々、天台宗の聖地) への想いに抗しがたく、修業に出る事を決意し雲水の僧となる。
 当時は周囲が戦乱の地になっており、しばらく入山する手段・経路を見出せず、時が至るのを待つしかなかった。
 この年、武蔵国川越/蓮馨寺に立ち寄り、一途な住職/存応源誉と広学な随風 (天海) とが、お互い語り論じている。

元亀2(1571)年/辛未    36歳

武田神社

 明智光秀の口添えで甲斐国/武田信玄からの招聘を受け、亮ェとともに甲府に長らく逗留する。 織田信長が9月14日に比叡山を焼き打ちしたため、移住を決める。
 皆が尻込みする講師になるクジを当て天台論議を開くと、その博学に信玄を含め聴衆を圧し心を取り込み、精義が終わるまで誰も日が没したことに気付かなかったという。
 随風 (天海) の名声は知らぬ者はいなくなり、信玄も帰依する。 比叡山から逃れて甲斐にいた正覚院豪盛法印の評価も高く、慧心流の印信を授けられた。

元亀4→天正元(1573)年/癸酉  38歳

 名声は、故郷/会津まで知れ渡った。
 領主/蘆名盛氏公は、父母やの冥福を弔い宗族の守護のため故郷に戻ることを、近臣を派遣して切に願い出た。
 盛氏は、随風 (天海) の外祖父/修理大夫盛高の次男/遠江守盛舜の息子であり、親族で再従弟にあたる。

稲荷神社

  2月
 招聘を受けることを決意、信玄に帰国することを伝えた。
 黒川城(鶴ヶ城)の稲荷堂の別当 (僧侶と神職を兼務) となり、約10数年間にわたり会津にて教義を広めた。
<参考>
  7月、織田信長が15代将軍義昭を京都から追放し室町幕府が滅亡する。

天寧寺

天正4(1576)年/丙子    41歳

 天寧寺/禅師から葉上流の禅を聞く。

長楽寺

天正5(1577)年/丁丑    42歳

 上野国世良田/長楽寺に出向き、宣海春豪から天台密教葉上流を修め、灌頂の大阿闍梨位を受ける。

天正10(1582)年/壬午    47歳

 天寧寺の善恕仁庵から、禅の教え (中国の仏教書碧巌録) を学ぶ。

<参考>
 6月21日、本能寺の変。

天正17(1589)年/己丑    54歳

  6月10日
 6月5日の摺上原の戦いで蘆名軍が敗れたため、甲冑に身を包み蘆名義広公を護るため黒川/稲荷堂から出て、常陸国 (義広公の実家) へ向かう。
 蘆名氏が滅ぼされてから、会津の地に戻ることはなかった。

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