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ご   縁   の   あ   る   地

栃    木    県

殉難者については、こちら。
旧領地  / 日光市

≪ 天海大僧正との ご縁 ≫

日光東照宮

日光東照宮の入口

 保科正之の祖父/徳川家康 (東照大権現) を神として祀る神社。
 会津出身天海大僧正が基本的構想を立案し、造営を指揮・指導した。
 元和3(1617)年3月、竣工。
 同年4月16日、家康の霊柩が安置され、天海の「山王一実神道」で法会が営まれた。
 行列は1,300人にも及び、現在の日光「千人武者行列」はこの時を模したもの。
 現在の社殿は、家光が家康21年神忌に荘厳な社殿へ大規模改築した建物。
 ▲(日光市山内2301 Tel. 0288-54-0560)

天海大僧正之像

天海大僧正之像の説明文

 輪王寺の聖域に至る神橋の手前に日光山中興の祖・恩人と崇められている天海大僧正の銅像がある。

磐裂霊水
 傍らに「磐裂霊水(いわさくれいすい)」が湧いている。
 記念に、飲むのも良し。

輪王寺 (本堂/三仏堂、旧/光明院)

輪王寺本堂/三仏堂の黒門

 仁治元(1240)年、弁覚が光明院を創設して日光山を統括する本院とする。
 小田原征伐の時に北条氏側に付いたため、豊臣秀吉から寺領を没収され衰退した。
 慶長18(1613)年、天海大僧正が第53世貫主に就き、日光山を完全に再興させた。

 光明院は旧跡を留めるだけほどに荒廃しており、宿坊を坐禅院にしている。
 寛永18(1641)年、光明院を復興。
 承応3(1654)年、天海が現在の本堂/三仏堂の場所に移転。
 明治2(1869)年、光明院を輪王寺と改称し、寺院群の総称となる。
 平成30(2018)年まで三仏堂の大修理が行われているが、見学はできる。

光明院稲荷社

光明院稲荷社

光明院稲荷社の説明文

 光明院の守護神とした光明院稲荷が、近くの大護摩堂の傍らに残っている。

相輪塔

相輪塔

 寛永20(1643)年5月、天下太平を願った家光の依頼により、天海大僧正が奥院に建立。 高さ13.2メートルの青銅製の塔で1千部の経典が納められている。
 相輪とは、仏塔などの一番上にある金属製の部分。

相輪塔の説明文  慶安3(1650)年、旧/三仏堂近くに移築。
 明治8(1875)年、現/本堂(三仏堂)の近くに移された。 世界遺産・重要文化財。
 ▲輪王寺(日光市山内2300 Tel. 0288-54-0531)

禅智院

禅智院
 源淵法印が開基。
 天海大僧正の上足/普海が9代住持。
 天海が、客殿、厨、惣石垣、表門、裏門を造立。
 ▲(日光市山内2354 Tel. 0288-54-1371)

藤本院
 元和7(1621)年、天海大僧正の寺領となる。
 寛永2(1625)年、大破した中禅寺の神社仏閣を天海が修復し本房の兼帯とする。

教城坊
 昌禅講師が住居とした場所。
 後に天海大僧正から、住持は「天」の字を相続することを許された。

慈眼堂 (輪王寺天海墓)


  現在、
  参詣は
  できない。
 天海大僧正の霊廟。 天海の諡号が慈眼大師。
 寛永20(1643)年10月2日、天寿を全うし、寛永寺/本覚院にて死去。
 遺言により、家康の眠る日光山に葬られた。
 大猷院を見下ろす高台にあり、拝殿、墓所、天海蔵(文庫)、阿弥陀堂、鐘楼で構成されており、墓の五輪塔は国の重要文化財。
 六部天「梵天、帝釈天、広目天、増長天、持長天、多聞天」に囲まれている。  大猷院の受付所で「慈眼堂」と告げ、延命坂の先に向かう。
 命日の10月2日には大がかりな法要が営まれ、好物だった納豆汁 (御斎食) が供せられるとのこと。
 東京/毛髪塔、埼玉/喜多院、滋賀/慈眼堂、会津/両親の墓などがある。

大猷院霊廟 (輪王寺大猷院 たいゆういん)

大猷院霊廟

 保科正之の兄/徳川家光の霊廟。
 大猷院は、家光の法名。
 東照宮より控え目との遺言のため、白と金が基調の東照宮に対して、黒と金を基本としている。
 承応元(1652)年2月16日、起工。
 承応2(1653)年4月4日、竣工。

釈迦堂 (妙道院)

 寛永5(1628)年、天海大僧正が日光釈迦堂跡に妙道院として開創。 元和7(1621)年とも。
 寛永18(1641)年、現在地に移築。
 慶応4(1868)年、戊辰の役で釈迦堂を残し、妙道院のすべてが焼失。
 7月15日には施餓鬼会の法要が営まれている。

釈迦堂の説明文  本尊/釈迦如来坐像とともに天海の像も祀ってあるとのこと。
 日光田母沢御用邸記念公園の道路の向かい側にある。

釈迦堂の殉死墓  釈迦堂脇の境内には、殉死の墓 (5基) と譜代家臣の墓 (19基) がある。
釈迦堂の殉死墓の説明文  殉死は優秀な人材を失うことでもあり、4代将軍/家綱の時代に、後見人である保科正之の指示で禁止となる
 ▲(日光市本町)

栗山東照宮

栗山東照宮

 慶応4(1868)年、日光に布陣した会津軍は、戦火で焼失するのを恐れ、御神像の徳川家康/座像 (54cm) と日光三社権現の3体 (男体、女峰、太郎) を鶴ヶ城へ避難させることにした。
 途中で鶴ヶ城下に敵が乱入との報を受け、日光御神領/野門村の小栗久右衛門(現在の民宿/一乃屋の5代前)に、松平容保のお墨付と象牙の白笏を授けて守護職を命じ預託した。
栗山東照宮  昭和45(1970)年10月、村おこしとして栗山東照宮を建立し「家康の里」とした。10月第4水曜日にご開帳される。
 湯西川温泉など栃木県北部や、会津の南会津町・檜枝岐村などの一帯は、平家の落人伝説のある地域。
 ▲(日光市野門199  一乃屋  Tel. 0288-97-1204
           観光協会 Tel. 0288-97-1126)

粉河寺 (現/宝蔵寺)

粉河寺(現/宝蔵寺)

 龍興寺と同じ慈覚大師 (円仁) が開基。
 天文18(1549)年、14歳の随風 (天海大僧正) が、住職/皇舜に師事して天台宗を学ぶ。
 当時の粉河寺は、関東の天台宗の源として隆盛を誇り、全国から徳を慕って来た門下生にあふれており、ここで全国的な人脈を得る。
の説明文  慶応4(1868)年、戊辰の役で大半を焼失し、明治24(1891)年の
大火で全ての伽藍が焼失したため宝蔵寺に合併して廃寺となる。
 粉河寺跡地 (旧/小川島町) は、栃木県総合文化センターや栃
木県庁となっている。
 ▲宝蔵寺 (宇都宮市大通り4-2-12 Tel. 028-622-4130)

足利学校

 随風 (天海大僧正) が、儒学・漢学・易学・天文学・国学・医学・兵学などを学んだ学校。 当時は学ぶ者/3千人といわれ、関東での最高学府だった。
 天海は2年ほどで抜きん出た頭角を現し、約4年で諸子百家をほぼ究めた。
 ここで生涯の友/亮ェと出会っている。
 平安初期か鎌倉時代に創設されたと伝えられ、戦国時代には中世で最も大きい高等教育機関として広く知れわたっていた。
 儒学が中心であったが、易学にも優れ、兵学や医学も教えていた。
 僧籍に入ることは求められたが、学費が無料であった。
 明治5(1872)年、廃校。
 天海大僧正については、こちら。
 ▲(足利市昌平町2338 Tel. 0284-41-2655)

足利氏館 (鑁阿寺 ばんなじ)

足利氏館(鑁阿寺)

 鶴ヶ城と同じく日本100名城 (15番) の1つ。
 文治年間(1185〜1189)、足利義兼が築城。
 当時の面影は、土塁と堀が残っているのみ。
 義兼の7代孫/尊氏が征夷大将軍となり、室町幕府を開き一族が京都や鎌倉に移ったため、足利一門の氏寺/鑁阿寺となる。
 建久7(1196)年、義兼(戒名が鑁阿)が持仏堂を創建し、理真が開山した。
 金剛山、真言宗大日派。 本尊は大日如来。
 平成25(2013)年、本堂が国宝に指定された。
 永禄3(1560)年から4年ほど近くの足利学校に学んだ随風 (天海大僧正) が、時折、宗派を超えて訪れて真言密教の講義を受けた。
 ▲(足利市家富町2220 Tel. 0284-41-2627)

宗光寺

宗光寺

 嘉祥元(848)年、慈覚大師 (円仁) が草創。
 天台宗別格本山。
 弘安9(1286)年、菩提寺とすべく城主/長沼宗光が建立し、比叡山より盛海法印を迎え宗光寺として中興。
 天正19(1591)年、下妻城主/多賀谷重経が堂塔伽藍すべてを破壊し寺領を没収してしまったため、隣地/久下田に移し新宗光寺として法脈をつなぐ。
 慶長8(1603)年、復興を願う亮弁僧正らから懇請され、天海大僧正が新宗光寺に入る。
 慶長9(1604)年、天海大僧正が新宗光寺の第20世の法統を継ぎ、新宗光寺を全永寺と改め、宗光寺を旧地の長沼に移す。
 灌室を興し檀林を開き再興に着手し、再興後には末門308ヶ寺を有するまでになり、関東二僧正寺の1つ、天台宗十檀林の1つとして大いに栄える。
 ▲(真岡市長沼698 Tel. 0285-74-0196)

薬王寺

薬王寺

 元和3(1617)年3月29〜4月3日、天海大僧正が導いて保科正之の祖父/家康の遺骸を日光に遷座の際に4泊した寺。
 寛永20(1643)年、天海大僧正の遺骸を日光へ葬送の際、止宿となった。
 慶安4(1651)年、家光の遺骸葬送の際も止宿となった。

薬王寺

 弘長年間 (1261〜1264)、創建。
 真言宗智山派。 本尊は伝教大師作/薬師如来。
 江戸時代には、朱印地10石、門末の塔頭寺院26ヶ寺を管轄。
 ▲(鹿沼市石橋町1534 Tel. 0289-65-5315)

惣宗寺

惣宗寺

 元和3(1617)年3月28日、天海大僧正が導いて保科正之の祖父/家康の遺骸を日光に遷座の際に1泊した寺。
 徳川家光も参拝に訪れている。
 天慶7(944)年、藤原秀郷が創建し、宥尊が開山。
惣宗寺  春日岡山 転法輪院 惣宗官寺。
 天台宗。
 慶長7(1602)年、現在地に移転。
 佐野厄除け大師で知られる。

惣宗寺の東照宮

東照宮
 日光遷座の途中で1泊した仏縁にちなみ、これ以降、幕府の庇護を受けることとなる。
 文政11(1828)年、幕府が境内に工期5年をかけ造営。
 諸大名が競って寄進しており、当時は本地堂や水屋なども建立され絢爛豪華だったという。
 ▲(佐野市金井上町2233 Tel. 0283-22-5229)

猪苗代兼載の墓 (満福寺)

猪苗代兼載の墓

 享徳元(1452)年、会津/猪苗代城主の家に誕生。
 永正6(1509)年、古河公方家侍医/田代三喜の治療を受け古河に滞在。
 永正7(1510)年6月6日、古河城下で死去。 59歳。
 渡良瀬川を挟んだ栃木県/満福寺に葬られ、遺言により墓の印として桜の木が植えられたと云う。
 「満福寺に連歌師兼載の墳 桜一株あり 匂桜と云う (古河誌)」
猪苗代兼載墓の説明文  文化6(1809)年、三百回忌に供養塔が建立される。
 連歌を指導した古河公方/足利政氏の墓の隣り。
満福寺  すでに連歌の最盛期は過ぎていたが、江戸時代初期に松尾芭蕉も墓参りに来ている。
 昭和30年代に入って、兼載が好んだ桜が山門前に植栽され、今では名所になっている。
 ▲(野木町大字野渡706 Tel. 0280-56-0133)

泉渓寺

泉渓寺

 延文5/正平15(1360)年、福原城主/那須資世の招聘を受け、源翁禅師が開山。
 曹洞宗。 本尊は三尊仏。
 永正11(1514)年、下境から中央一丁目に移転。
 延宝3(1675)年、現在の地に再移転。
 自作と伝えられる「源翁和尚坐像」を所有。

泉渓寺の説明文  源翁禅師(源翁和尚・玄翁和尚)については、こちら。
 殺生石については、こちら。
 ▲(那須烏山市金井1-12-5 Tel. 0287-82-2876)

長沼宗政の墓

長沼宗政の墓

 豪族/小山政光の次男 (養嗣がいるので3男とも)。
 源平合戦での功績で、会津郡の南山も所領。
 長男/朝政は小山氏を継いだが、宗政は長沼氏を名乗り、3男/朝光は結城氏を名乗った。
 仁治元(1240)年11月19日、長沼荘で死去。
 79歳。
 「長沼城主 長沼淡路守宗政之墓」。
 観応3(1352)年、後に子孫の秀直(秀行の子)は会津田島に移住し、豊臣秀吉の奥州仕置まで会津郡/南山を治めた。
 寿永3/元暦元(1184)年に宗政が築城した長沼城 (錦着城とも) は住宅化され面影すら残っていないが、墓だけは城の南側に ひっそりと佇んでいる。
 [逸話]
 ▲(真岡市長沼  旧/二宮町)

宇都宮持綱の墓 (地蔵院)

宇都宮持綱の墓 宇都宮持綱の墓 (地蔵院)

 娘/大慈院が、蘆名盛詮の正室。
 「大慈院殿祥安玄瑞大禅定尼」
 応永3(1396)年〜応永30(1423)年8月9日
 室町時代中期の武将。
 下野国/宇都宮氏本家の養子となり。第13代当主を継承するが、後に一族の塩谷教綱によって殺害される。

地蔵院  ▲(益子町大字上大羽945-1
    Tel. 0285-72-0813)


伝/宇都宮持綱の墓 (幸岡原)

宇都宮持綱の墓  塩谷氏の居城/川崎城跡の近くの殺された場所/幸岡原に、宇都宮持綱の墓と伝わる碑石がある。
 「上らん塔の碑  伝宇都宮持綱之墓」。
宇都宮持綱の墓
宇都宮持綱の墓


 ▲(矢板市幸岡
    川崎城跡の西方)

喜連川縄氏の墓 (龍光寺)

 喜連川縄氏は、松平喜徳の兄。
 天保15(1844)年4月7日〜明治7(1874)年3月2日 (31歳)
 幼名:余一麿。 初名:松平昭縄。 通称:足利縄氏。
 父/徳川斉昭、養父/喜連川宜氏。
龍光寺  下野喜連川藩/11代藩主。
 「瑞光院殿艮山仁公大禅大門」


 ▲(栃木県さくら市喜連川4317 Tel. 028-686-7017)

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