戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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日    光    市

柿沢勇記 (観音寺)

 慶応4(1868)年4月23日、下野の壬生で負傷、27日に日光で死去。
 墓碑には、「4月25日 宇都宮城外戦死」と刻まれている。
 会津藩士であるが、大鳥圭介軍 (伝習第二大隊) の参謀であった。
 名は重任、別称は森三之丞。
柿沢勇記の墓(観音寺)  森長蔵近好の5男、柿沢勇八の養子。
 享年36歳。

 日光市役所の裏手にある。

観音寺  墓は真龍寺にもあり、墓碑には両方の法名が刻まれている。
  ◇ 泰岳院久安道顯居士  日光観音寺ニ葬
  ◇ 厚源院釋清佑居士    会津真龍寺ニ葬
 戊辰之役戦死墓 (六道口) にも記載がある。
 ▲(日光市上鉢石町1003 Tel. 0288-54-0339)

小花和重太郎 (浄光寺)

小花和重太郎

 慶応4(1868)年4月24日、宇都宮付近の戦いで戦死。
 4月22日に安塚の戦で腹部を負傷、翌日に宇都宮で死去とも。
 幕臣で、幕府歩兵第七連隊の指図役頭取。
 享年29歳。
小花和重太郎  小花和 (オバナワ)。

 本堂の正面にある。

 和田倉門内の会津藩屋敷に居住し、後も行動を共にしており、実質的な会津藩士。
 小花和には弟/米田斧次郎がおり、通称トミーと呼ばれていた。
 慶応3(1868)年12月16日、将軍/慶喜は、英国・米国・フランスなど6カ国の公使を大阪城へ招いて、日本の内政に不干渉するよう申し入れた。
 その際に、通訳したのがトミーであった。
 重責を終え、歩兵の隊服のまま、兄弟でビールを酌み交わす写真が残っている。
 ▲(日光市匠町7-17 Tel. 0288-54-1589)

殉難碑 (鬼怒川戊辰公園)

 幕府軍3名、会津藩7名、長賊ら26名が刻まれている。
 慶応4(1868)年6月26日、進軍してきた長賊らを逆襲し、撃退した。
 大敗した長賊らは、しばらく攻撃を繰り返すが、この街道からの侵略を断念し、白河口に向かった。
 昭和56(1981)年6月26日の命日、激戦地/小原沢に殉難碑が建立された。 以降、毎年 慰霊祭が行われているとのこと。
 公園の背後の山が、東軍が構築した塹壕跡である。

   幕府軍 村上求馬 (幕府御使番・草風隊長)
       伝習隊士 二名
 会津藩 浮洲源四郎  (朱雀二番士隊)
     黒河内直衛  (同 上)
     黒河内重次郎 (同 上)
     井上佐久馬  (朱雀足軽隊)
       夫卒 三名
 宇都宮藩9名 佐賀藩17名
 その他 東西両軍無名戦死者一同
殉難碑の説明文 鬼怒川戊辰公園
 幕府軍の1名は、草風隊/須藤久三郎。

弾除けの松 弾除けの松

 殉難碑から会津方向へ100メートルほどの道路右側にある。
 この道が、昔の会津西街道 (日光街道) である。
弾除けの松の説明文  この松に身を隠していた会津藩士が、長賊らの放ったアームストロング砲弾から難を逃れたという。
 樹齢400年だった松の木は、平成8(1996)年7月の突風で倒壊、2代目の松が植えられた。
 ▲(日光市藤原 旧/小原沢 鬼怒川公園に隣接)

(情報提供) 新堀通子 氏    .

阿久津安之助 (明静寺)

阿久津安之助の墓

 瀬尾村の村人。
 徴用兵。
 明治元(1868)年10月5日、会津で戦死。
 今市の毘沙門山麓の雑木林に、頭髪と小刀の遺品を埋めて建墓。
 「忠運全恵清信士」。
阿久津安之助の墓の説明文
 平成3(1991)年、この墓域に改葬。

明静寺  かつて、無数に枝分かれしている「千本杉」が墓域にあり、その近くに旧幕軍戦死者を埋葬したと云う。
 今は切り株のみが残り、埋葬した場所は不明とのこと。

 ▲(日光市瀬尾791 Tel. 0288-21-2847)

戊辰役戦死者供養塔 (如来寺)

戊辰役戦死者供養塔(如来寺)

 長賊らは如来寺境内へ埋葬されたが、東軍の首級は今市宿下木戸に晒された。 遺骸は埋葬を許されず、野ざらしにされた。
 大正6(1917)年、戊辰の役50周年に今市町の有志により建碑。 東軍や長賊ら、住民を問わず諸霊の冥福を祈るためとされたが、会津藩士の慰霊のためであった。
 この時代になっても境内への建立は許されず、やむなく山門の前に「無縁塔」として建立された。
 会津藩士の遺族などの士族300余名が出席している。

如来寺  山川大蔵が本堂の屋根に飛び乗ったり飛び降りたりして奮戦し、多数の長賊ら兵士を斃した伝説が、今なお残っている。

 ▲(日光市今市710 Tel. 0288-21-0105)

無名戦士の墓 (和尚塚)

無名戦士の墓 (和尚塚) 和尚塚

 野晒しにされた会津藩士などの遺骸25余名を、見かねた地元民が埋葬した。 下木戸に晒された27の首級 (16とも) を埋葬とも伝えられる。
 今市の攻防戦では100名を超える会幕兵が戦死しており、浮州七郎などの他の地元や昭和村の徴募兵も含まれていると伝え聞く。
無名戦士の墓(和尚塚)
 以前に行き倒れた僧侶を祀ったところから、「和尚塚」と言われていた。
 日光市役所近くの国道118号沿いで、小林歯科の向かい側にあるが、生垣に隠れて判りづらい。

 ▲(日光市今市58付近)

砲弾打ち込み杉 (杉並木)

砲弾打ち込み杉(杉並木)

 車止めから300メートルほど先にある。
 慶応4(168)年4月29日の戦闘で、長賊らが撃った砲弾。
 今なお、痕跡が杉の幹に残っている。
 この付近で日光街道が緩やかに屈曲するため、迎撃するには絶好の場所だったようだ。 戦いは、数日にわたって続いた。
砲弾打ち込み杉(杉並木)  「瀬川十文字」「野口十文字」と呼ばれ、日光や会津と江戸をつなぐ要衝であった。
砲弾打ち込み杉の説明文


 ▲(今市市瀬川 杉並木内)

斎藤嘉平 (来迎寺)

斎藤嘉平の墓

 斎藤嘉兵衛とも。
 森友村の名主。
 慶応4(1868)年7月26日、幕府軍に兵糧を提供したとして、長賊ら (佐賀藩兵) に斬首された。
 7月12日に佐賀藩の部隊長が襲撃され斬殺された。 佐賀藩は犯人を探したが見つからず、名主と若者の2名を見せしめに処刑したとも。

来迎寺
斎藤嘉平の説明文

 ▲(日光市森友1116 Tel. 0288-22-4817)

観音山慰霊之碑 (大室)

会津藩3名墓(大室)

 この付近で戦死した会津藩士3名の合葬墓とのこと。
 被葬者は不明。
 管理している神主と連絡・確認できていない。
会津藩3名墓(大室)
 道なき雑木林の中にある。
 草木の生い茂る季節は、案内なしで見つけるのが難しい。

 ▲(日光市大室周辺)

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