会  津  の  著  名  人

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《 て 》 幕 末 よ り 前

 手代木
  幸右衛門
 てしろぎ こうえもん、寛政7(1795)〜安政2(1855)年3月2日 (61歳)
 手代木良左衛門の長男として本郷村 (会津美里町) で誕生。
 本郷焼閑山窯の祖。
 名工と称せられ、藩の御用品を上納、新製瀬戸職人に任じられる。
 磁祖/佐藤伊兵衛の門弟となり、白磁焼成に着手し研究を重ねる。
 文化13(1816)年、白色の素地に鮮明な呉須 (コバルト化合物)の色を表現する白磁「攻め炊き」の手法を完成させる。
 文政年間(1818〜1830年)とも。
 以後、優れた白磁/本郷青華の一大産地として、江戸や関東・越後などへ大量に出荷されるようになり隆盛を誇る。
 戊辰の役で一時 壊滅するも、復活している。
 墓は本郷墓地とのこと。
常勝寺の陶祖廟
 明治13(1880)年、遺徳を偲んだ陶業者有志によって陶祖廟が建立され、陶祖3体の1体 (水野源左衛門佐藤伊兵衛)として陶像が納められている。
 陶祖廟のある常勝寺では、毎年 陶祖祭が開催され、功績を讃えている。

 天海大僧正については、こちら


《 て 》 江  戸  幕  末

 手代木 勝任
[肖像]
 てしろぎ かつとう、
 文政9(1826)年3月9日〜明治36(1903)年6月3日 (78歳)
 幼名:源太郎。 元服名:斎宮、後に直右衛門。
 藩士/佐々木源八の長男。 後に伯父/手代木勝富の養子となる。
 京都見廻組組頭/佐々木只三郎、佐々木源四郎の実兄。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任により上洛し、公用方として朝廷や幕府、諸藩との周旋方 (外交官) を担当し、新選組や京都所司代、町奉行をも掌握して京の治安維持に尽力。
 将軍/徳川慶喜から治安回復の賞賜として金・服地を賜っている。
 戊辰の役では、籠城戦での若年寄として奮戦しつつ、奥羽越列藩同盟の会議にも列席している。
 開城の際には、秋月悌次郎と共に米沢藩へ降伏の使者を務める。
 開城後は、猪苗代での謹慎後、鳥取藩、高須藩、尾張藩に幽閉。
 妻/喜与は老母と娘3人とともに斗南藩に移住し、後に夫/勝任が解放されるまでの心情を綴った手記「松の落葉」を著す。
 明治 5(1872)年、長き 幽閉 から解放され左院少議生に就く。
 明治 6(1873)年、香川県の権参事 (副知事) を経て、高知県へ赴任。
 明治 7(1874)年、高知県の権参事 (副知事) に就任。
 明治 9(1876)年、当時の権令 (知事) が罷免されたため、次の権令着任するまでの10日間の知事代理を務める。
 明治11(1878)年、岡山県吏として赴任。
 明治16(1883)年、岡山区長に就任。
 明治30(1897)年、孫の初 (初子) が新島八重の養女になる。 次女/中枝が米沢藩士/甘粕鷲郎に嫁ぎ2女を出産、その長女が初。
 明治36(1903)年、岡山にて死去。
 墓は、東山墓地
  照 姫
 てるひめ、
 天保3(1833)年12月13日〜明治17(1884)年2月28日 (52歳)
 正式名は「煕姫 (ひろひめ)」だが、自らも「照」と記している。
 飯野藩主/保科正丕と側室/民(静広院) の3女として江戸で誕生。
 天保13(1842)年、松平容敬公の養女となる (10歳)。
 当初、容敬公の全ての子が夭折のため、照姫の婿を迎えて次の藩主にする予定だったが、翌年に実子/敏姫が誕生した。
 弘化3(1846)年、美濃高須松平家より容保を養子に迎えて敏姫を許嫁としたため義姉となる。 年齢も近く養子同士でもあったからか大変仲睦まく青春を過ごし、人生の中で最も幸せな時期だったという。
 嘉永3(1850)年、豊前中津藩主/奥平大膳大夫昌服に嫁ぐ (18歳)。
 安政元(1854)年、子ができないことと病弱であったため離縁し、江戸藩邸に戻る (23歳)。
 文久3(1863)年、戦雲立ち込める江戸から退避し、初めて会津入りするが、まもなく江戸に戻る。
 慶応4(1868)年2月、江戸総引揚げで再び会津入りし籠城、容保の正室/敏姫は夭折していたため家中で最も身分の高い女の地位にあり、容保の傍らで城中の婦女子を指揮し、傷病者の看護や炊事に当たった。
 負傷者の急増で包帯が不足すると自らの衣帯を解いて使用し、感激した藩士たちの士気が上がったという逸話も残っている。
 開城後は、容保たちと共に妙国寺で謹慎。
 明治2(1869)年2月、紀州藩御預りとなり3月10日に東京青山/紀州藩邸へ入るが、実家/飯野藩の画策により同年12月3日に飯野藩/保科家に預け替えとなる。
 明治2(1869)年、紀州藩御預りとなり東京青山/紀州藩邸に入る。
 同年末には、実家/飯野藩の画策により、飯野藩へ預け替えとなる。
 明治13(1880)年、ようやく会津を再訪して東山温泉/向滝に長逗留し、名所旧跡を訪ねたり歌を詠んだりして日々を過ごす。
 明治16(1883)年、東京へ戻る。
松平家之墓
 明治17(1884)年、牛込の山川家で死去 (公式は小石川/保科邸)。
 遺体は正受院に埋葬。
 「照桂院殿心誉香月清遠大姉」。
 大正6(1917)年、同所に埋葬の容保が院内御廟へ改葬の際、同じく院内へ改葬された。 墓碑に名は刻まれていない。

 寺田徳祐については、こちら


《 て 》 幕 末 よ り 後

 出羽 重遠
[肖像]
 でわ しげとお、
 安政2(1856)年12月17日〜昭和5(1930)年1月27日 (76歳)
 幼名:房吉。 <明治期において薩摩出身以外で唯一の海軍大将>
 藩士/出羽佐太郎重信の子として鶴ヶ城下にて誕生。
 戊辰の役では、護衛隊に付き従って籠城したとのこと。
 開城後は、松平家御用掛として上京した父/重信に同行する。
 父は挙藩流刑の斗南藩赴くが、広沢安住の紹介で元藩士の林三郎を頼って静岡の林塾に預けられる (15歳)。
 その後、秋月胤永たちから漢学・英語・オランダ語を学教育を受け、余りにも優秀であったため、が跋扈する中、海軍兵学寮 (海軍兵学校) への入学を果たす。
 明治 5(1872)年、海軍兵学寮に入学。
 明治 7(1874)年、「高雄丸」乗組。
 明治 9(1876)年、「筑波」乗組。
 明治11(1878)年、海軍兵学寮を卒業 (5期) し海軍少尉補に任官、「扶桑」乗組。
 明治12(1879)年、「鳳翔」乗組。
 明治13(1880)年、海軍少尉に昇進、「龍驤」乗組。
 明治16(1883)年、海軍中尉に昇進、「天城」乗組。
 明治17(1884)年、「浅間」乗組。
 明治18(1885)年、イギリスに発注した本格的鉄鋼軍艦「浪速艦」の航海長/兼回航取扱委員として英国出張。
 明治19(1886)年、海軍大尉に昇進し帰国、「高千穂」分隊長。
 明治20(1887)年、常備小艦隊司令官参謀に就任。
 明治22(1889)年、「高雄」副長。
 明治23(1890)年、海軍少佐に昇進。
 明治24(1891)年、海軍省第一局第1課長に就任。
 明治26(1893)年、海軍省大臣官房人事課長に就任、「赤城」艦長。
 明治27(1894)年、「龍田」回航委員長から艦長、海軍大佐に昇進。
 日清戦争では西海艦隊参謀長として旗艦「松島」に乗艦し参戦、常備艦隊参謀長/兼連合艦隊参謀長に就任。
 明治28(1895)年、海軍省軍務局第一課長に就任。
 明治29(1896)年、海軍省軍務局第一課長/兼臨時建築部部員に就任。
 明治30(1897)年、海軍省軍務局軍事課長に就任。
 明治31(1898)年、英国出張、「常磐」回航委員長から艦長に就任。
 明治32(1899)年、帰国。
 明治33(1900)年、海軍少将に昇進し常備艦隊司令官に就任。
 明治34(1901)年、横須賀鎮守府艦政部長  明治35(1902)年、海軍省軍務局長/兼軍令部次長/兼海軍将官会議議員に就任。
 明治36(1903)年、常備艦隊司令官を経て、第一艦隊司令官に就任。
 明治37(1904)年、海軍中将に昇進。
 日露戦争では第一艦隊第三戦隊司令官として参戦。
 対馬沖の日本海海戦の際、危険を承知で第三戦隊をバルチック艦隊の懐深くに突入させ、驚愕した敵艦隊から先に砲撃をさせてることに成功し、有利な形態で戦端を開かせている。
 明治38(1905)年、第四艦隊司令長官を経て、第二艦隊司令長官就任。
 明治39(1906年、海軍教育本部長/兼将官会議議員に就任。
 明治40(1907)年、練習艦隊特命検閲使に就任。 男爵を授受。
 明治41(1908)年、第2艦隊司令長官に就任。
 明治42(1909)年、佐世保鎮守府司令長官に就任。
 明治44(1911)年、第一艦隊司令長官に就任。
出羽重遠の墓  明治45(1912)年、海軍大将に昇進。独占していた薩摩閥以外からの就任は初めてであった。
 大正 2(1913)年、軍事参議官に就任。
 大正 3(1914)年、シーメンス事件の査問委員長に就任。
 大正 4(1915)年、パナマ運河開通式、パナマ太平洋万国博覧会開会式に政府代表者として参列。
  同年会津中学校で講話。
 大正 5(1916)年、特命検閲使に就任。
 大正14(1925)年、退役。
 墓は青山霊園
 [史料]
 天童 よしみ  てんどうよしみ、昭和29(1954)年9月26日〜
 本名:吉田 芳美。
 女性の演歌歌手。
 母方 (筆子) の祖母/ユクが、坂田村 (只見町) の出身。
 以降の活躍ぶりは、ご周知のとおり。

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