戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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善 龍 寺 (ネットで墓参)

▲(会津若松市北青木13-33 Tel. 0242-26-3022)
善龍寺については、こちら。

「なよ竹の碑、西郷一族の墓」 は、こちら。

「西郷邸跡」 は、こちら。


池上貞之助の墓 池上氏之墓

池上貞之助 .

 伝蔵の伜。
 別撰組/佐川隊。
 慶応4(1868)年1月5日、淀で戦死。 21歳。
 池上氏之墓の前にある墓石3基の外側。
 墓碑には、「伏見戦死」とある。
 「忠倫院義孝○○居士」
 埋骨地は梧真寺、黒谷に慰霊碑がある。


井上恒之助の墓

井上恒之助

井上恒之助の墓(新)

 誠志隊/半隊頭。
 戊辰(1868)年9月15日、一ノ堰で負傷。
 その後、面川(出井中野村とも)で死去。 42歳。
 「秋月院忠道盡喜居士」
 新しい墓もあった。


井深数馬、石山虎之助遥拝碑

井深数馬、石山虎之助遥拝碑

≪井深数馬≫
   軍事方添役。  46歳。
   慶応4(1868)年8月23日、甲賀町口で戦死。
≪石山虎之助≫
   白虎士中二番隊/日向隊。 16歳。
   墓は、飯盛山にある。
   慶応4(1868)年8月23日、飯盛山で自刃。

 小山田家の墓域から10メートルほど上った左脇沿い。


小日山覚次郎、善次郎、友四郎の墓

小日山友四郎、覚次郎、善次郎 .

≪小日山友四郎 (友次郎とも)≫ 善左衛門の次男。
   朱雀足軽四番隊/横山隊。 18歳。
   慶応4(1868)年9月3日、関山で戦死。
≪小日山覚次郎≫
   戦死とのことだが、詳細不明。
≪小日山善次郎≫ 善左衛門の伜。
   進撃隊/小室隊。 25歳。
   慶応4(1868)年8月29日、長命寺で戦死。
 「儀相忠勇居士 忠覺真儀居士 儀覺善忠居士」


下平庸三郎の墓

下平庸三郎

 英吉の叔父。
 幌役。
 戊辰(1868)年9月15日、一ノ堰で戦死。
 墓碑には、「九月十日」とある。
 44歳。
 「全忠院雄嶽道英居士」


辰野平太の墓

辰野源之進、辰野平太 .

≪辰野平太≫   源左衛門の弟。
  萱野右兵衛隊。
  慶応4(1868)年5月13日、越後/朝日山で戦死。 35歳。
≪辰野源之進≫  源左衛門の従弟。
  朱雀士中一番隊/小森隊。
  5月1日、磐城/白河小丸山で戦死。 25歳。
※ 合祀とのことであるが戒名は1つ。 2人の名は読める。 


辰野小十郎の墓

辰野小十郎

 朱雀寄合一番隊/武井隊。
 戊辰(1868)年9月13日、三ノ丸で負傷、同20日に死去。
 34歳。

中村重成・中村重一の墓

中村重成、中村重一 .

≪中村重成≫ 通称:帯刀。 白虎士中一番隊小隊頭。
 滝沢本陣から帰城する松平容保を、甲賀町郭門で出迎る。
 そのまま守備に就き、多勢のと激戦を繰り広げ、左腰に被弾してしまうが、平然と自力で三ノ丸から入城する。
 帰城の際、土屋一庵邸で自刃しようとする家老/田中土佐神保内蔵助から、負傷しているのなら一緒にと勧められるが、最後まで戦って死ぬのが本望と断ったとの逸話もある。
 隊士を連れて不明門を経て、三ノ丸から入城に成功する。
 戊辰(1868)年9月14日、手当てを受けている中、被弾死。 39歳。
≪中村重一≫ 通称:謙治。
 中村の弟。 大砲林隊。
 慶応4(1868)年1月5日、淀で戦死。 34歳。
 御香宮神社に記載。


宮下清之丞の墓

宮下清之丞守真

 孫助の祖父。
 大賄役。
 慶応3(1867)年8月28日、若松で戦死。
 殉難者名鑑には、「8月23日」 とある。
 81歳。


>両角大蔵の墓

両角大蔵 .

 名:相知。 大三とも。
 伝八の3男。
 正奇隊/小隊頭。
 慶応4(1868)年8月24日、小田で戦死。
 墓碑には「八月二十三日戦死」とある。
 33歳。
 城安寺にあったが、廃寺により昭和2(1927)年に移る。


信忠院盡勝勇義居士の墓

井口信太郎 .

 隼人の伜。 朱雀士中二番隊/田中隊。
 慶応4(1868)年8月29日、長命寺で戦死。
 18歳。 「信忠院盡勝勇義居士」。
  〜〜
  後為朱雀士中隊従軍出  下野明治元年戊辰八月
  廿九日戦長命寺死之○  十八○死者甚多其屍○
  〜〜


の墓

大熊内蔵 .

 善蔵とも。
 三武弥の弟。
 朱雀士中一番小森隊。
 慶応4(1868)年5月1日、磐城/白河熊倉口で戦死。
 37歳。
 「〜供養塚」とある。


鈴木新次郎の墓

鈴木新次郎

 戊辰(1868)年9月9日、戦死。
 詳細不明。


伴百悦の墓

伴百悦 .

 平成11(1999)年10月1日、分家の子孫が建立。
 本墓は、大安寺の慶雲庵跡にある。
 新津の大安寺から、百悦の侠骨を分けてもらったとのこと。
 「修功院殿百法勇悦居士」。
 没後130年の平成13(2001)年には、鎮魂法要も営まれた。

 取り調べもせず処刑するなど住民たちを苦しめ、悪業非道の限りを尽くした民政局監察兼断獄の極悪人/久保村文四郎を束松で待ち伏せし天誅を下す。
 関係者に類が及ばぬよう、旧会津藩領の飛地であった新潟/大安寺村/慶雲庵に逃れた。
 明治3(1870)年6月22日、村松藩兵に包囲され、踏込んだ吉田倉之助を板戸越しに刺し貫き、ひるんだ隙に割腹して果てた。
 享年44歳。


  赤羽四郎
 16歳未満のため隊士ではなかったが、籠城戦の時に 「白虎士中合同隊」 へ入隊する。
 明治5(1872)年、アメリカのエール大学に留学し、外務権少録書記生としてドイツへ、ロシア、アメリカへ転勤。
 明治25(1892)年にはドイツ公使館一等書記官、オランダを経て、明治33(1900)年からスペイン公使となる。
 明治43(1910)年12月28日、死去。 55歳。
赤羽四郎の墓

  高木盛之輔
 戊辰の役の時は16歳で、藩主護衛隊として参加。
 滝沢本陣と戸ノ口原との伝令を務める。
 戦後は猪苗代を経て東京で謹慎
 明治10(1877)年、西南の役に従軍し、人吉城、鹿児島城を攻略。
  「嗚呼足れり 深き恨みも はるゝよの 月影清し 苅萱の関
 その後は根室・甲府・山形等の地方裁判所検事正を歴任、余生を福島市で過ごし、大正8(1919)年2月19日に死去。 66歳。
高木盛之輔の墓

  加賀山翼 .
 文化8(1811)年、藩医/児島雲淋の次男として誕生。
 後に加賀山太沖の養子に入り、江戸で伊東玄朴や織田研斎に師事し蘭学を学び、安政6(1959)年に江戸藩邸内へ医学寮蘭学科を創設し、初の洋学師範に就く。
 戊辰の役では、日新館の軍事病院医師として負傷者の治療に当たる。 「農兵を率いて各地に転戦」 ともあるが、詳細不詳。
 明治4(1871)年4月29日、死去。 61歳。
加賀山翼の墓

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